彫刻技術においての 優劣の見分け方

 

Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 )   Cello,  Brescia   the 1600s

私は ”オールド・ヴァイオリン” や、”オールド・チェロ” などの弦楽器で高度な彫刻技術を目にするたびに 本当に感動します。

そこで、そこにある豊かな世界を分かち合うために『 彫刻技術という視点から優劣を見分けることで その弦楽器を評価できます。』というお話しをしようと思いました。

なお‥ 彫刻の歴史は数千年におよびますので、ここでは ヴァイオリンとの関連性を考慮して、ヘレニズム時代の彫刻作品をならべました。まず初めに、このように 大理石から彫り起こして製作された彫像の削る技術についての お話しさせていただきたいと思います。

『 サモトラケの ニケ 』製作年  :  紀元前200年~紀元前190年頃   /   パロス島産の大理石   H 244 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ミロのヴィーナス 』製作年 : 紀元前130年~紀元前100年頃  /  大理石 H 203 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ラオコーン群像 』製作年  :  紀元前42年から紀元前20年頃とする説など 複数の説があり不明  /  大理石  H 242 cm   /  ピオ・クレメンティーノ美術館 ( バチカン美術館 )

ヘレニズム時代とは、おおよそ アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年から、プトレマイオス王朝エジプトが ローマに併合された紀元前30年までの 300年程の期間を意味します。

盛期ルネサンスに影響を与えた ヘレニズム時代の彫像について

ところで『 ミロのヴィーナス 』や『 サモトラケの ニケ 』は、エーゲ海にある キクラデス諸島の パロス島で切り出された大理石を削って製作されたとされています。

大理石は石灰岩の一種で、モース硬度は3~4 程だそうです。

なお モース硬度の「 硬さ 」は、割れにくい硬さ(靭性)ではなく「 引っかいた時の傷の付きにくさ 」を示すものなので、例えば 地球上にある天然物の中で最も硬いとされる 硬度10の ダイヤモンドでもハンマーで叩くと砕けます。大理石も同じように砕くことは可能ですが、そこは「 岩石 」である訳ですから 削るのは容易ではありません。

この大理石を削る技術の源流はヘレニズム時代より更に 2700年程遡った『 キュクラデス文明 』の大理石偶像に 見ることができます。

これは、紀元前3000年~前2300年ごろ、キクラデス諸島で栄えた文明の総称です。この文明は キクラデス諸島の島々で出土した多数の大理石偶像の存在が特徴付けています。

スペドス型のスペドスとは ナクソス島にあるお墓に因んだ名称です。この像はお墓に因んだ名前をそのまま貰いスペドス型と言われているくらいですから、多くがお墓の中から出土しています。

Marble was worked mainly with stone tools. Although no direct evidence is available for the toolkit of the Cycladic craftsman, modern research in combination with experimental archaeology has shown that most tools were probably made of emery. A piece of this heavy and dense stone – which abounds in Naxos – can be easily turned into a mallet (for shaping the figure) simply by making its edge pointed or sharp. Emery was also probably used as a drill (to carve and pierce specific anatomical details such as the eye, ear, navel, and loin cavities, or repair holes), as an engraving tool (for incised details) or as a surface polisher. Emery powder was very effective as an abrasive for the initial working of the marble.

Obsidian – widely available on Melos – and flint may have also been employed in marble carving. When shaped into blades, those materials can be used as engraving tools or even for erasing the traces of smoothing on the surface of the marble; in the form of small pointy flakes they become particularly effective drills. Finally, Theran pumice soaked in water is an excellent material for the final polishing of the surface, and the same is true for sand mixed with water. Bronze chisels could have been used for greater precision and speed in making the cut-outs on more complex figurines, such as the harpists, although their poor durability (due to the high copper-content) as well as the high value of metals in that period, probably made metal stone-working tools less common.

As we can deduce from the few unfinished figurines that have been discovered so far, the first step in the process was to roughly shape the raw piece of marble into a figure by the impact of a mallet. Emery powder was then used to abrade the surface until it obtained the desired shape and size. Once the desired shape was achieved, the surface was smoothed carefully before the fine work of carving the details started. At the end, the figurine was polished to a high degree that is still amazing. Traces of horizontal, vertical or diagonal smoothing are very often visible on the surface of marble figurines. Sometimes, we can see the marks left by the tool used to level the contours of the leg cleft on “canonical” figurines. Traces of repairs are also discernible in some examples.

The creation of a Cycladic figurine was based on strict rules and a detailed system of proportions, which required precise measurements and considerable skill in application. Therefore, it was most likely the work of specialized craftsmen, who probably passed on their knowledge to younger artisans only after the latter had spent a long period of time working as apprentices. Some scholars have attempted to identify individual “artists” or workshops by distinguishing groups of figurines with similar characteristics. Those “artists” (or workshops) have been conventionally named after the museum or the city which hosts characteristic works by them, after the excavator who brought them to light, or after the collector who possesses them (e.g. the Berlin Master, the Doumas Master, the Goulandris Master, etc.). Other scholars, however, reject these attributions as anachronistic and believe that the similarities reflect chronological or geographical proximity. One should bear in mind that the available evidence for the techniques employed in Cycladic marble-carving is very fragmentary and our knowledge stems almost exclusively from careful observations of the figurines themselves. So far, no workshop has been discovered in a Cycladic settlement and the organization of the production remains entirely unknown.

Direct evidence for the working of bronze in the Cyclades is limited but instructive. Remains of hearths and crucibles of the Early Cycladic III period have been found at Kastri on Syros, together with slags and stone moulds which show that metal smiths knew how to cast bronze and produced both cast and hammered objects. The spread of metallurgy in the Aegean during the third millennium BC gave impetus to crafts such as building, shipbuilding, carpentry, and the minor arts; at the same time, it promoted trade and contributed to the development of social stratification. Mainly, however, it brought important changes in the techniques of warfare. Bronze weapons become relatively common in the Cyclades in the later stages of the Early Cycladic II period and this seems to be related to the disturbances and upheavals that are observed in the Aegean during the transition to the Early Cycladic III period. According to one theory, this turmoil was due to conflicts between local populations for the control of sources of raw materials, such as copper, or access to networks trafficking metals that were more difficult to obtain, such as tin.

大理石は主に石器で作られました。キクラデスの職人のツールキットに直接的な証拠はありませんが、実験考古学と組み合わせた現代の研究は、ほとんどのツールがおそらくエメリーで作られていることを示しています。ナクソスに豊富にあるこの重くて密な石の一部は、端を尖らせたり鋭くしたりするだけで、簡単にマレットに変えることができます(図を形作るため)。エメリーは、おそらく、ドリル(目、耳、へそ、lo窩、修復穴などの特定の解剖学的詳細を彫って穴を開けるため)、彫刻ツール(切開された詳細用)、または表面研磨機としても使用されました。エメリーパウダーは、大理石の初期加工の研磨剤として非常に効果的でした。

黒曜石-メロスで広く入手可能-およびフリントは大理石彫刻でも使用された可能性があります。ブレードに成形すると、これらの材料は彫刻ツールとして、または大理石の表面の滑らかな痕跡を消すためにも使用できます。小さな尖ったフレークの形で、それらは特に効果的なドリルになります。最後に、水に浸したセラン軽石は、表面の最終研磨のための優れた材料であり、水と混合した砂にも同じことが当てはまります。青銅製のノミは、ハープ奏者などのより複雑な置物の切り抜きの精度と速度を向上させるために使用できましたが、耐久性が低く(銅含有量が高いため)、その中の金属の価値が高いおそらく、金属製の石工ツールはあまり一般的ではなかったでしょう。

これまでに発見された数個の未完成の置物から推測できるように、プロセスの最初のステップは、大理石の生の部分を木pieceの衝撃によっておおまかに形にすることでした。次に、エメリーパウダーを使用して、目的の形状とサイズが得られるまで表面を研磨しました。希望の形状が得られたら、細部を彫刻する細かい作業を開始する前に、表面を慎重に滑らかにしました。最後に、この置物は高度に磨かれましたが、それはまだ驚くべきことです。大理石の置物の表面には、水平、垂直、または斜めの平滑化の痕跡が非常に多く見られます。時には、「標準的な」人形の脚の裂け目の輪郭を水平にするために使用されるツールによって残されたマークを見ることができます。修理の痕跡もいくつかの例で識別できます。

キクラデスの置物の作成は、厳密なルールとプロポーションの詳細なシステムに基づいており、正確な測定と応用のかなりのスキルが必要でした。したがって、おそらく若い職人が見習いとして長い時間を費やした後で初めて若い職人に知識を伝えた専門職人の仕事である可能性が高いです。一部の学者は、同様の特性を持つ人形のグループを区別することにより、個々の「アーティスト」またはワークショップを特定しようとしました。それらの「アーティスト」(またはワークショップ)は、それらの特徴的な作品をホストする博物館または都市、それらを光らせた掘削機、またはそれらを所有するコレクター(ベルリンマスター、ドゥーマスマスター)にちなんで慣習的に名付けられました。 、Goulandrisマスターなど)。しかし、他の学者はこれらの属性を時代錯誤として拒否し、類似性は年代的または地理的近接性を反映していると信じています。キクラデス様式の大理石の彫刻で使用されている技術の利用可能な証拠は非常に断片的であり、私たちの知識はほとんど人形そのものの注意深い観察に由来することに留意する必要があります。これまでのところ、キクラデスの集落でワークショップは発見されておらず、生産の組織は完全に不明のままです。

キクラデス諸島での青銅の働きの直接的な証拠は限られていますが、有益です。シロスのカストリで、初期のキクラデス3世時代の炉床とるつぼの残骸が、金属スミスが青銅を鋳造する方法を知っており、鋳造品とハンマー加工品の両方を生産したことを示すスラグと石型とともに発見されました。紀元前3千年紀にエーゲ海に冶金学が広まったことにより、建築、造船、大工仕事、小美術などの工芸に弾みがつきました。同時に、貿易を促進し、社会階層化の発展に貢献しました。しかし、主に、戦争の技術に重要な変化をもたらしました。青銅の武器は、キクラデスII期前期の後半のキクラデス諸島で比較的一般的になり、これは、キクラデス紀前期III期への移行中にエーゲ海で観察される撹乱と激変に関連しているようです。ある理論によると、この混乱は、銅などの原材料の供給源を管理するための地元住民の間の衝突、またはスズなどの入手がより困難な金属を売買するネットワークへのアクセスによるものでした。

ヘレニズム文化の特徴を 彫刻作品で考察すると『 ラオコーン群像 』のように、それまで 死に対しての礼節として抑えられていた表現が ある意味では”劇場化”されたと見えるほど大胆に開放され 、ディテールにおいても それまでより “動的”な表現を巧みに取り入れられていることが判ります。

そして この要素を その後の彫刻群から検証すると、ミケランジェロ ( 1475-1564 ) が 教皇ユリウス2世 ( 1443-1513 ) の墓廟のために製作した彫像『 瀕死の奴隷 』  にたどり着くのではないでしょうか。

ここで『 瀕死の奴隷 』に関連した事柄をすこしまとめてみます。

美術史では、イタリアのルネサンス芸術の最盛期を指して『 盛期ルネサンス 』といいます。それを二つに分けると、前期は ヴェネチア派などの諸派も在りましたが、何と言っても主流はメディチ家が支配するフィレンツェにおいてのフィレンツェ派と呼ばれる芸術家達の活躍によるもので、後期はローマ教皇ユリウス2世が芸術家達を庇護したことによって成立したものでした。

この時代に 青年ミケランジェロはフィレンツェ共和国で ロレンツォ・デ・メディチ ( Lorenzo de’ Medici 1449-1492 ) の保護を受けて創作活動を開始しました。それは 1489年、彼が14歳のときでした。

しかし、1492年に その ロレンツォ・デ・メディチが 43歳で死去し、1494年にはその混乱に乗じたフランス国王シャルル8世のフィレンツェ侵攻があり、ついにメディチ家は追放されてしまいます。

このために ミケランジェロは、 Veneziaと Bolognaを経て ローマを本拠地とするようになりました。

『  聖プロキュラス ( St. Proculus ) 』製作年 :  1494年  /  大理石 H 58.5cm   /   San Domenico, Bologna

そして、ローマで活動していた 1498年に、ミケランジェロは『 ピエタ ( Pietà ) 』の製作を依頼されました。完成したのは おそらく 1500年頃、彼は 25歳となっていました。この彫像の 中央部に刻まれた署名は 若者の強い意志を象徴するものとなっています。

Marble Caves of Carrara, Viale Xx Settembre, 54033, Carrara Italy

さて、ミケランジェロ ( 1475-1564 ) が ローマに滞在している間に フィレンツェでは政治構造が劇的変化を遂げたこともあり、彼は1502年にフィレンツェに戻って彫像『 ダビデ ( David ) 』を製作しました。そして 彼は、これにより「 古典的な様式を完成させた。」という最高の評価を受けるようになります。

その後 ふたたび ローマにもどった ミケランジェロは、1505年に教皇ユリウス2世 ( Julius II 1443-1513 ) から、自らの墓廟制作を依頼されました。

そこで 彼は 当初、全幅がおよそ9m、奥行き6mの規模で 『 モーゼ ( Moses )  』像 を中心として40体の彫像を配置するプランを考え製作を開始しました。この時、モーゼ像の両側に置く奴隷像は 6体が着手されたようです。

しかし、1508年頃には 教皇ユリウス2世の関心が サン・ピエトロ大聖堂の再建の方に移ってしまい、ミケランジェロは 新たにシスティーナ礼拝堂の天井画制作までをも 命じられました。

“Storie della Genesi”  /   La Volta della Cappella Sistina
L 40.9m  /  W 13.4m  /  H ( t ) 20.7m

そして その下命に従い、 ミケランジェロ ( 1475-1564 ) は システィーナ礼拝堂の壮麗な 天井画を 1512年に完成させることになりました。ところが、それから僅か6ヶ月後の 1513年2月21日に教皇ユリウス2世は死去してしまいました。

この状況下でも ミケランジェロは 墓廟の完成に 執念を燃やしたようですが 、結局‥ サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会に当初の構想より小規模な墓廟を作る形に計画は変更されてしました。

1517年   マルティン・ルター ( Martin Luther 1483-1546 ) の「 95か条の論題 」などにより宗教改革がはじまりました。

ルーブル美術館にある『 抵抗する奴隷 』と『 瀕死の奴隷 』( 製作年 : 1513年~1516年頃 ) は 結果として不要となった 2体で、ミケランジェロは 1546年頃にこれらをリヨンにいるフィレンツェ人亡命者 ロベルト・ストロッツィに送り、彼が フランス国王である フランソワ1世に献上したことで、最終的には ルーブル美術館で 保存されることになりました。

 

それから、彫刻芸術の検証をもうすこし広げてみると、フィレンツェや ローマで ミケランジェロ ( 1475-1564 ) が活躍していたルネサンス期に、ドイツでは ティルマン・リーメンシュナイダー( ca.1460-1531 ) が すばらしい彫刻作品を生み出していました。

彼のような芸術家たちの活躍を 美術史では、イタリアの北端にあるアルプスの北側‥ 事実上 イタリア以外を指して『 北方ルネサンス 』と呼んでいます。

『 Seated Bishop 』製作年  :  1495年頃  /  菩提樹、濃灰色のステイン )  /  Tilman Riemenschneider ( ca.1460-1531 )

『 悲しみのマリア ( Trauernde Maria ) 』製作年  :  1505年頃  /  Tilman Riemenschneider ( ca.1460-1531 )

『 Hl. Sebastian ( 聖セバスチャン ) 』 製作年 : 1515年頃  /  菩提樹 ( Tilia miqueliana ) シナノキ科
Tilman Riemenschneider ( ca.1460-1531 )

T

 

《クーロス像》(前520年頃)は、アルカイック時代の男性裸体立像。両手を腿につけて直立し、片足を前に踏み出すポーズを取る。一方、《コレー像》(前530年頃)はアルカイック時代の女性着衣立像。キトンと呼ばれる衣の上に薄いマントをまとう。両像とも、特徴的な「アルカイック・スマイル」を浮かべる。

 

『 The  Release from Deception 』 製作年  :  1754年頃  /  Francesco Queirolo ( 1704–1762 )

これは ナポリの サン・ドメニコ・マッジョーレ広場の近くにあるサン・セヴェーロ礼拝堂( Cappella Sansevero )にある、イタリア人彫刻家 フランチェスコ・クイローロ ( 1704–1762 ) が 1752年から1759年頃までに製作製作したとされる大理石像です。

網も人も一塊の石から彫られておりトロンプ・ルイユ的彫刻の最高傑作とされています。

それから、サン・セヴェーロ礼拝堂( Cappella Sansevero )の大理石像では アントニオ・コッラディーニ ( 1688-1752 ) の作品も有名です。

『 Pudicizia 』製作年  :  1752年  /  Antonio Corradini  ( 1688-1752 )

また、おなじ礼拝堂で保存されているのが、依頼された アントニオ・コラディーニ ( 1688-1752 ) が死去したため、構想を引き継いだ ジュゼッペ・サンマルティーノ ( 1720-1793 ) によって製作された “ヴェールに包まれたキリスト像 ( The Veiled Christ ) ” です。

『 The Veiled Christ 』  製作年  :  1753年  /  Giuseppe Sanmartino  ( 1720-1793 )

これも 大理石彫刻の最高傑作の一つとされています。

T

Livio Scarpella  ( Ghedi  Brescia  1969 –  )    /    Marble sculpture

Livio Scarpella  ( Ghedi  Brescia  1969 –  )    /    Marble sculpture

まず参考のため2台のヴァイオリン裏板画像をごらんください。

この ヴァイオリンは 1620年頃 ブレシア( Brescia )で マッジーニ( Giovanni Paolo Maggini  1580 – c.1633 )  が   製作したものとされています。

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – c1633 ) Brescia 1620年頃 - A MONO

それから、もう一台は   Antonio Stradivari ( c.1644 – 1737 )が  1703年に製作されたとされているヴァイオリンで ” Alsager “と呼ばれているものです。

Antonio Stradivari violin 1703年 Alsager - B L
私は これらを観察するときに大切なのは 着目点としてなにを観察するかだと思います。

たとえば ヴァイオリンの演奏技術の優劣を判断したければ 音楽の特性から考えて一つの響きを『 音の始まり( 音の入 ) 』と『 音の終わり( 音の出 )』とに 意識的に聞き分ければ、十分に 優劣の判断ができると思います。

私は 上質な演奏は『 音の入 』を完全にコントロールできると達成できる可能性が高いと思っています。しかし、真の意味での音楽的に完成された演奏を達成するためには 『 音の出 』のコントロールが必要になって来ると考えています。

つまり演奏技術においては 演奏者が 『 音の入 』をコントロールするより、『 音の出 』( ” 音の始末”とも言います。)をコントロールするほうが はるかに難しいということを念頭において聴けば演奏技術としての優劣判断はほとんどの皆さんが 判断できると私は信じています。

ただし、これは『音楽的であるか』や、それが『ゆたかな音楽であるか』という観点ではありませんのでご理解のほどをお願いいたします。

 

さてヴァイオリンや チェロなどの木製品の場合です。
重要なのは 彫刻技術の能力は『くぼみを彫る技術 』に現われるということです。

この観点で上のヴァイオリン裏板画像をながめてみてください。
ヴァイオリンなどの観察のはじめは、『 どこが、どのように窪んでいるか ?』という点に着目し観察することが 見極める基本だと私は思います。

残念ながら ヴァイオリンなどの弦楽器において扁平にみえるものは未熟な人が製作した可能性が高いと 私は思っています。 木彫で使用する道具は考えないでもちいると‥ 出っ張ったところが削れます。これが単純化をまねき全体としてでこぼこが少ない扁平な印象の弦楽器の出現につながります。

5 Antonio Stradivari Schreiber - da Vinci 1712 ( c 1644-1737 )

そもそも弦楽器は あの響きがするように工夫されています。
たとえばこのストラディヴァリウスを用いた共鳴モードで裏板部の動きを観察してみてください。

409hz star0409hz 680hz star0680hz817hz star0817hz1690hz star1690hz

私は 多様な音色をもつヴァイオリンは その構成要素となる『 音の数 』を確保するために、複雑なゆれをするように作られていると考えています。

そのために”オールド・ヴァイオリン”などでは 薄板状に加工しても 立体的形状 によって剛性を高める技術として凹凸が『 木伏技術 』として用いられていると私は推測しています。

剛性 立体的形状 - 1 MONO L
この剛性を高める技術は めだちませんが たとえば 現代でも このコーヒー缶のように 用いられています。

さて、私たちは大量生産に適した 単純化されたフォルムをもつ工業製品にかこまれて生活していますので、ともすると 上に参考例としてあげさせていただいたヴァイオリンの裏板を見て 削りそこねた結果と思う方も多いと思います。

果たして それは事実でしょうか?

私は  ”オールド・ヴァイオリン”などを見る際は ”合目的性”ということを念頭に置き『 どこが、どのように窪んでいるか ?』という視線でそれを観察すると 本当に豊かな世界が見えて来ると信じています。

 

以上、ありがとうございました。

2016-7-21    Joseph Naomi Yokota