アンサンブル・クラスの ご案内

初めて楽器を持ってから3年くらい。

音の鳴らし方も知らなかった頃と比べると教則本も2巻、3巻と進みレパートリーも増えてきた。ポジション移動、ビブラートといった技巧も一通りやってみた。ちょっと自信もついてくるけれど、まだまだピンとこない部分も沢山ある。でも、そろそろ憧れだったアンサンブルも参加していいのかな?と市民アンサンブルを調べてみたりして。

気にはなるけれど、合奏初心者の自分が入って上手くやっていけるかしら?と一歩踏み出す勇気が持てずにいる、そんな方。

趣味と思って習いはじめて、もう20年以上になる。

学生オケに参加して以来すっかりオーケストラの魅力の虜となり、今もアマオケで年2回の演奏会に向けて毎週稽古場に通う日々。たまにオケ仲間とカルテットを組むのも楽しいもの。

室内楽にはオーケストラとはまた違った喜びがあるけれど、誤魔化しの効かない難しさもあるなぁ。レッスンも受けてみたい気もするけれど、全員の日程を合わせて先生に打診をしてとなると意外と面倒かも...と思っているベテランさんも。

プロの演奏家と一緒に演奏する
アンサンブル教室

QSEミュージックアカデミーは音楽が好き、人生で1度はアンサンブルを組みたいと思っている、そんな大人向けのアンサンブル教室です。
一番の特徴は講師と一緒に演奏できること。講師が後ろでチェックしていてコメントを出す形式ではなく、全パートにメンバーとして配属されます。楽譜に書いてあることを忠実に実行するだけではなく、お互いの聴きあいと生徒さんの意見を大切にして〈それらを音楽として纏めるにはどうしたらよいのか〉を目の前で講師陣がやって見せることが肝心だと思っています。
プロの演奏の音を間近で聴きながら充実した経験を重ね、対等な立場で意見を交換して皆で一緒に成長しましょう!
メインである弦楽合奏の他に、希望される生徒さんには講師を交えた四重奏等のレッスンにも対応しており、現役の演奏家による生きたノウハウを学ぶことが可能です。
QSEミュージックアカデミーはアンサンブルの楽しさを一人一人が実感できる場所を目指しています!

 

【募集要項】

•オーディション等はありません、まずは無料体験にお越しください。見学も可能です。
•楽器を習い始め、合奏にチャレンジしてみたい方、楽器経験がありブランクがある方もお気軽にご参加ください。
•練習日時は、毎月1回、日曜日10時〜13時で行います。
•練習では、プロ講師が必ず一緒に演奏するので、安心して演奏に参加することができます。

参加資格

•弦楽アンサンブルで演奏してみたい方
•楽器を持っている方
(楽器の相談も承ります)
•楽器経験がある方※初心者は要相談

応募パート

•バイオリン
•ビオラ
•チェロ
•ピアノ

練習場所

•巣鴨のレンタルスタジオ
(スタジオフォー)アクセスはこちら

練習日程

•毎月1回、日曜日10時〜13時

参加費

•初回 入会費(年会費)5,000円、継続年会費1,000円
•練習毎5,000円(スタジオ代、楽譜代込み)
•コンサート代目安15,000円 ※参加自由

その他

•コンサートは年2回、夏、冬で1回ずつ実施する予定
(参加自由)

楽しいのは勿論、音楽で一番大事にしなければならない音作り、
基礎の技術や正しい音楽性、様々な点で上達できる事間違いなし!
まずは無料体験に是非お越しください。

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エーゲ海 キクラデス諸島の”偶然”について

 

ヘレニズム時代( 紀元前323年頃~紀元前30年 )の大理石彫像のなかでも有名な『 ミロのヴィーナス 』や『 サモトラケの ニケ 』は、エーゲ海にある キクラデス諸島の パロス島で切り出された大理石を削って製作されたそうです。

キクラデス諸島は、ギリシャ神話のアポロンとアルテミスの生地と伝えられ「神聖な島」とされたデロス島と、その周りに島々が並んでいることから 「キクラデス ( 囲んでいる )」と呼ばれています。

このキクラデス諸島で 大理石材が彫像に用いられるようになったのは”偶然”とは言えないのかもしれません。それは、この地域の複雑な地質構造によってもたらされた結果‥ という捉えかたが出来るからです。

エーゲ海や その周辺の 複雑な地質構造をイメージするには、 ペロポネソス半島のコリントス地峡に開削された運河の掘削崖を見ることが 最も簡単な方法ではないでしょうか。

この コリントス運河では、上図のように 急傾斜した正断層が狭い間隔で何本もならんでいる状況を知ることができます。

そして、キクラデス諸島には このコリントス運河の掘削崖より 複雑な地質構造をした島がいくつもあります。

キクラデス諸島の地質図

このことにより、 キクラデス諸島には 大理石を採掘できるパロス島をはじめ、ナクソス島には コランダムエメリー鉱山があり、ミロス島では 古くから黒曜石が採掘され、そして仕上げ研磨材としての軽石が採れるテラ島 ( サントリーニ島 ) まであるのです。

Emery was also probably used as a drill, as an engraving tool or as a surface polisher. Emery powder was very effective as an abrasive for the initial working of the marble.

Theran pumice soaked in water is an excellent material for the final polishing of the surface, and the same is true for sand mixed with water.

Modern marble quarry on Naxos

Marble from the Isle of Paros in Ancient Greece

   Marathi,  Ancient Marble Quarry

さて、ここで 重要なことを確認させていただくと‥ パロス島や ナクソス島で採掘される大理石は 変成岩 ( 火成岩や堆積岩などの地層が地殻変動による熱や圧力を受けて再結晶化し、変化したもの。) に分類され、モース硬度は3~4であるとされています。

モース硬度とは 1822年に、ドイツの鉱物学者 フリードリッヒ・モースが「 二種類の石をこすり合わせて、どちらに傷がつくかで硬さを判断する」とした硬さの基準で、もっとも硬い石を 硬度10 とし、もっとも柔らかいものを 硬度 1という数値であらわします。

現在、地球上でもっとも硬い鉱物は モース硬度10 であるダイヤモンドで、最もやわらかい鉱物は 硬度1 の滑石であるとされており、参考までにあげれば 人間の爪の場合は 2.5ほどの硬度になるそうです。

なお モース硬度の「 硬さ 」は、割れにくい硬さ(靭性)ではなく「 引っかいた時の傷の付きにくさ 」を示すものなので、例えば 地球上にある天然物の中で最も硬いとされる ダイヤモンドでもハンマーで叩くと砕けます。大理石も同じように砕くことは可能ですが、そこは「 岩石 」である訳ですから 削るのは容易ではありません。

そこで、モース硬度が3~4の大理石にキズをつけたり削ったりするのに用いられたのが、旧石器時代から よく知られていた モース硬度5の 黒曜石 ( オブシディアン  /  Obsidian ) です。

ミノア文明の都市である クレタ島のイラクリオンで発見された、ミロス島から 紀元前3000〜2300頃に輸入され 使用された黒曜石製石器

そして‥ モース硬度に着目すると、パロス島と 狭い海峡をはさんで 8kmほどの距離で隣り合っているナクソス島に コランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery ) の鉱山があることが 驚きをもたらすと思います。

これらの鉱石は、大理石彫刻において”最高の働き手” として重要なのですが、それらも含めて必要なものが 同じ地域で入手できるというすばらしい “偶然”が キクラデス諸島には あったからです。

Emery Mine   /  Naxos island Emery Mine   /  Naxos island

因みに‥  近年ですが、ギリシャ地質学会は ナクソス島で採掘されたとされているコランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery )のなかに、サモス島で採掘された “Samian Emery” が 一定量 含まれている可能性があるとして、その検証を提言しています。

Emery deposit of Samos (  “Samian emery”  /  Geological Society of Greece )

しかし、同じエーゲ海で、ナクソス島から北東方向 100km 程に位置する サモス島も 古代の交易圏でしたので、キクラデス文明に寄与したという点での違いは ほとんど無いと思われます。

コランダム は比重が 4.0 で、酸化アルミニウム の結晶からなる鉱物です。そして 純粋な結晶は無色透明ですが、結晶に組みこまれる不純物イオンにより色がわかれるために 天然コランダム鉱石は 宝石として加工され、ほとんど同じ鉱物ですが ルビー、サファイアなどと呼び分けられています。

このように色彩的に多くのバリエーションを持つコランダム鉱石ですが、特記すべきは モース硬度が ” 9 “であることです。

つまり、この鉱石は ダイヤモンドについで高い硬度のため「 他のほとんどの鉱物 」を削り取ることが出来るのです。

また、エメリー鉱石は 比重が 3.75 ~ 4.31 の 鉄に近い質感の鉱石で、 コランダムに 磁鉄鉱、赤鉄鉱、スピネルなどの不純物が含まれたものです。このため エメリー鉱石も 極めて硬く ( モース硬度が 7~9 ) 、石器として使用されただけでなく 砂状や粉末状にして研磨材としても 重用されました。

Emery of Samos ( Geological Society of Greece )

なお、日本では エメリーや、柘榴石 ( ガーネット  /  モース硬度 6.5~7.5 ) を粉末にした研磨材をどちらも「金剛砂」と呼んで使用していました。

ともあれ、キクラデス諸島では『 ミロのヴィーナス 』や、『 サモトラケの ニケ 』が製作されたヘレニズム時代( 紀元前323年頃~紀元前30年 )より、更に 2800年程遡った時期に 黒曜石や コランダム鉱石、エメリーなどを用いて大理石を削って彫像を製作する技術は確立していました。

これらは総称して『 キクラデス文明 』( 紀元前3200年~紀元前2300年頃 ) と呼ばれています。

“Cycladic Idol”  from Amorgos,  ca.2700B.C.~2300 B.C.
Marble, High150cm ( Largest known example of cycladic sculpture ).  National Archaeological MuseumAthens .

そして、この文明では キクラデス諸島の島々で出土した数多くの『 キクラデス偶像 ( Cycladic Idol ) 』が その象徴としての役割を果たしています。

In 14 December 2010,  a marble female figure dated to circa 2400 B.C. and attributed to “The Schuster Master” was sold in New York ( Christie’s ) for $16,882,500 (  ¥1,410,701,700  ) , a world record for a Cycladic figure at auction.   High 29.2cm.

たとえば、高さが 30cm程である このキクラデス偶像は、2010年に開催されたクリスティーズのオークションにおいて、日本円換算で 14億1千万円で落札されており‥  私は、それを 本当に意味深いことであると思っています。

大理石偶像 ( Cycladic Idol ) の製作実験

ところで‥ このようなキクラデス偶像ですが、 肝心な事柄である『 なぜ製作されたのか?』が判明していません。このため現在でも、その出土状況なども含めて研究が続けられています。

なお、発掘された場所に関してですが、たとえば キクラデス偶像を分類するための名称のひとつが ナクソス島の埋葬遺跡である “Spedos” に因んだ “スペドス型” であるように、おもに墓地の遺跡から出土しているようですが、現在も発掘が行われているテラ島 ( サントリーニ島 ) のアクロティリ遺跡のように、火山灰などに埋まってしまった街区から 発掘されたという事例もあります。

The ancient buried city of Akrotiri, Thira ( Santorini ).

アクロティリ遺跡は 紀元前1628年頃の大噴火 ( ミノア噴火 ) によって埋もれてしまった街です。

このアクロティリ遺跡の発掘現場で、近年のことですが‥ 火山灰に埋まっていたキクラデス偶像が掘り出された時の様子をご覧ください。

現在の “Akrotiri Museum ( アクロティリ遺跡 )” は屋根が設けられ、遺跡の間にある通路を移動しながら見学できるようになっています。

この時の調査対象は、中央部にある箱状遺物の内部で、調査のはじめに箱のフタ部分が取り除かれました。

この箱状遺物の中には、火山灰に埋もれるように また箱が入っていました。

そして、慎重に内箱の中の火山灰を吹き飛ばしていくと、土砂の中から キクラデス偶像の頭部が見えてきました。

その後の発掘作業によって、埋まっていたキクラデス偶像の全容が確認できるまでになりました。

この箱状遺物の調査は ここまでで、今後の発掘方針が決まるまで 一旦 そのままで保存することが決定されました。

盗掘されるなど 様々な事情により、キクラデス偶像は出土状況が不明な場合が多い‥ という中で、この アクロティリ遺跡での出土事例は、『 キクラデス文明 』を解明するための重要な記録となったそうです。

因みに 下写真は 上記調査の後ですが、アクロティリ遺跡の近くのエリアで、同じように二重になった箱状遺物のなかから 別のタイプのキクラデス偶像が発掘された時のものです。

このように 箱状遺物からの出土事例が 複数あるという状況を、 私も興味深く感じています。

“Box situation”   :   The statuette was found in a clay box placed Russian-doll-style within another, It is the second statuette of its kind revealed boxed up at the site. Aegean city of Akrotiri.

現在までの研究で判明しているのは、キクラデス偶像は かなりの数量が出土していて、そのタイプは 紀元前2700年頃を境として 前の500年間後の400年間に 分けることが出来るということです。

それが、グロッタペロス ( 初期キクラデスⅠ   紀元前3200年~2700年頃 ) とケロスシロス ( 初期キクラデスⅡ  紀元前2700年~2300年頃 )です。

これらの分類名も、偶像が出土した重要な埋葬地から付けられています。なお、残念なことに、キクラデス初期の居住地は 地震や火山の噴火のために ほとんど発見されていないそうです。また、キクラデス偶像のほとんどは これらの期間だけで製作されたようです。

キクラデス偶像は おもに女性をモチーフとしており、表現手法としては 石の単純な加工により偶像としてのイメージを付与したものから、人体をリアルに表現したものまでありバリエーションは豊富でした。

また 科学的分析によると、大理石の表面は鉱物ベースの顔料( 青の場合はアズライト、赤の場合は辰砂 )で着色されていたようです。

キクラデス偶像においての比率と、コンパスについて

このように 様々な知見を与えてくれる キクラデス偶像ですが、最も重要なことは、コンパスの使用が推測される‥ 比率 が用いられていることではないでしょうか。

言うまでもなく コンパスは文明の利器ですから、その使用は後世の歴史にとっても 深い意味をもちます。

しかし、問題はそれを用いたことを証明するほどの痕跡が残らないということです。

そこで コンパスの使用された状況証拠をもとめて 世界の文明史をさかのぼってみると‥

現在、最古の文明と考えられており 今も発掘作業がおこなわれている メソポタミア北部の ギョベクリ・テペの遺跡は 紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃にかけて建設され、そこから南東方向120km程にある テル・ハラフには ハラフ文化 ( 紀元前6000年~紀元前5300年頃 ) があったことが分かっています。

ハラフ式彩文土器 ( Halafian ware )

それらは、都市文明のはじまりとされる ウルク文化( 紀元前4000年~ 紀元前3100年 )や、同じころその南に建設されたウル ( Ur ) を都とした シュメール文明に影響を与えた可能性が 十分に考えられます。

“Tablet with pictographs”  Uruk period IV 3500 B.C.

“Tablet with pictographs”  Uruk,  ca. 3100 B.C.~2900 B.C.

ウルク文化期の紀元前 3700年頃には シュメール人によって楔形文字である ウルク古拙文字が発明され、それが次第に改良されて 紀元前2500年頃には シュメール文字として定着し、それらの文化は バビロニア ( ‎紀元前1830年頃~紀元前 1712年 ) に受け継がれ発展しました。

同じころ ( 紀元前3200年頃 ) エジプトでも ヒエログリフと呼ばれる文字体系が確立し、太陽暦が普及するとともに、メンフィスを都としてエジプト初期王朝時代 ( 紀元前3150年~紀元前2686年頃 ) が始まりました。そしてこの頃には 度量衡も 広範囲に伝わっていったようです。

‥‥  このように世界の文明史を追いながら コンパスの使用された状況証拠をもとめて検討した結果、私は 紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作されたと考えられている「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」が、コンパスを使用した 最古の状況証拠となるのでは‥ と考えるようになりました。

“Towie Ball” ( Celtic Carved Stone Ball,  ca.3200B.C.~2500 B.C. )
Found at Towie in Aberdeenshire, Scotland.  The ball has four knobs, three of them decorated with spirals or dots.

なお、石に装飾文様などが 巧みに彫り込んであるのは  紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃の ギョベクリ・テペ遺跡を最古として世界各地で発見されていて‥ 同時期であげれば フランス、モルビアン湾の ガヴリニ島にある 紀元前3500年頃の遺跡などのように、大規模で且つ 芸術的な遺跡や遺物も少なくはありません。

“Gavrinis passage tomb”,  Cairn Gavrinis.
Gavrinis is a small island in the Gulf of Morbihan in Brittany, France.
At the time of construction in 3500 B.C. , the island was still connected with the mainland.

しかし「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」のように、 造形的特徴をなす多数のポイント同士が さまざまな対称性や 一定の比率 などの 幾何学的条件を満たしているものは稀有です。

これこそが コンパス ( Compass ) 、または ディバイダー ( Divider ) を使用した状況証拠と言えるのではないでしょうか。

   

Geometric Stone Spheres of Scotland stone ball found at Skara Brae ( around 3200 B.C. ~ 2500 B.C. )   National Museums Scotland

たとえば、これらの石球のひとつである上写真のものは スコットランドの首都 エディンバラ  ( Edinburgh ) にある “National Museums Scotland” に展示されていますが、これは 新石器時代であった紀元前3200年~紀元前2500年頃の集落遺跡 スカラ・ブレイ ( Skara Brae ) で発掘されたものです。

大きさに関しては、一部の例外を除いたほとんどの石球が 直径7cm程で、この出土品も含めて 綺麗な多面体が多く、その中には 4種類の 正多面体も確認されており 楕円形のものはわずかしかないそうです。

また、上写真の石球には 67個の突起がありますが、表面に彫り起こされた突起は 3個〜160個まで 多くのバリエーションがあります。それから、装飾がないものや 複雑な彫刻が施されたものも出土しているようです。

“Carved stone ball” ( classed as Neolithic )
Room 51,  British Museum

この写真は「 大英博物館 」の 51番展示室において公開されている石球のものです。ここには 30個以上の “Carved stone balls” が収蔵されています。            これらの石球は スコットランドだけでなく、イングランドなど各地で、およそ387個程が発見されています。因みに、これらの内  アバディーンシャー ( Aberdeenshire ) では 群を抜いて最も高い密集度 ( 169個 )で発見されたそうです。

“Geometric Stone Spheres of Scotland”

Ball from Kincardineshire, Found 1890. ( AN1927-2727 )

 

Ball from Fyvie, Found 1885. (  AN1927-2731 )

Ball from Auchterless, Found 1885. (  AN1927-2729 )
The Ashmolean’s collections

ところで、このように紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作された 幾何学的な石球の製作に コンパスが使用されたとすると、コンパス自体の出土状況も気になるところです。

そこで 私も それに関してのリサーチを試み、共和制ローマ期 (  古代ローマでは 元老院と執政官が民会の決議により政治を行っていました。) である紀元前509年~紀元前27年頃に作られたコンパスや デバイダーまでは確認しました。

“Compass or divider” Roman, Bronze ( 191mm )

Ancient Roman Bronze Rare Architects Geometrical Compass, elegantly decorated and in fantastic condition still usable.

(  Reproduction  )

Compass excavated from “Pompeii”,  ca.89 B.C.~79 A.D.
Naples Museo Archeologico Nazionale 

それから 傍証になることを願い、コンパスより遙かに大きいために 出土事例が多い 古代ローマ時代の 刀剣であるグラディウスのなかに、金属製のコンパスが製作されたイメージを探してもみました。

グラディウス・ヒスパニエンシス型刀剣 ( Gladius hispaniensis ) は、ローマ軍が長期間にわたって使用した事から古代ローマ時代における剣の代名詞となっています。その名が示す通りイベリア系刀剣の製法や形状などを、ローマ軍でも導入したもので 短めの刀身と厚い刃が特徴とされています。

これがローマ軍に標準型刀剣として大量に導入されたのは “ハンニバル戦争”という別名がある第二次ポエニ戦争 ( 紀元前219年~紀元前201年 )の頃といわれています。そして、その性能が評価されたために 紀元前27年に古代ローマが 皇帝が治めるローマ帝国となっても 標準型刀剣として使い続けられました。

材質は、銑鉄と軟鉄が交ざった状態の合金鉄材が使用されており、鍛造により製造されたために 両方の優れた特性を得て、それ以前の同サイズの鉄剣と比べ破損し難く 切れ味も 格段に向上した刀剣であったと記されています。

因みに、古代ローマ帝国の グラディウスは刃渡 ( Blade length )が 40cm~68 cm 程で、柄まで含めた全長は 60cm~85 cm 、重量が 0.7kg~1.0kg 程だったそうです。

ヨーロッパにおいての青銅器時代のはじまりは、地中海地域では 紀元前3000年頃で、アルプス以北ではまず紀元前3000年~ 紀元前2000年頃にかけて銅器時代があり、移行期を含めた紀元前2300年~ 紀元前1800年頃にかけてが青銅器時代であったと言われています。

そして、紀元前2000年頃にヒッタイト ( 紀元前1680年頃~紀元前1190年頃 ) の都 ハットゥシャが在った アナトリア地方中部で誕生した冶金技術によって鉄器の使用が始まり、その担い手となったヒッタイト帝国が滅亡すると、多くの人々が移住せざるを得なかったため 結果として鋳鉄技術も他の地域に伝播することになりました。このため、紀元前1000年~紀元前800年頃には ヨーロッパ各地で 鉄器の製作が本格的におこなわれたとされています。

なお、イタリア半島では 紀元前700年~ 紀元前350年頃にかけて鉄器文化が栄えるようになったそうですが、その担い手は イベリア半島に移住し イベリア人と同化していたケルト系の技術者であったと考えられています。私見ですが‥ グラディウスを製造できる彼らにとって、コンパスを製作するのは 容易いことだったと考えられます。

Alfius Statius, “Funeral Monument”.

Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).

それから、コンパスは 建築や天文、船舶の航海術などにとって 重要な道具であったために、シンボルとして記念碑や、墓碑などにレリーフとして刻まれていることがあります。

その中でも、ローマ帝国の初代皇帝となった アウグストゥスに重用された 建築家の Alfius Statius の「 葬儀記念碑」は 彼がコンパスなどを使用していたことをはっきりと証ししています。

Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).

さて、そこまでは良かったのですが‥  残念ながら 現時点では キクラデス偶像が製作された 紀元前3200年~ 紀元前2300年頃に コンパスが存在し、また 使用されていたという明らかな証拠は見つけられませんでした。

 

しかし、同時期に製作されたと考えられる「 スコットランドの幾何学的な石の球 」の製作にも 正確な測定と応用のスキルが必要であるように、 コンパスの使用無くして多くのキクラデス偶像の造形的特徴となっている 一定の比率が反映した偶像製作は難しいと思われます。

帰謬法的な想像力が必要ですが、大理石などで製作されたキクラデス偶像が多数出土したのは およそ 900年間に渡って一定の比率で製作する文化が 受け継がれたからではないでしょうか。

ともあれ‥  ここから キクラデス偶像の多く、特にスペドスタイプなどに見られる比率構成についてのお話をさせて下さい。

  

先程ふれましたように、キクラデス偶像は 紀元前2700年頃を基準とした区別が可能で、それはこの図のように全長比で「 3分割タイプ 」が 「 4分割タイプ 」に移行するほどの 違いであることが 出土した偶像で確認されています。“Canonical” figurines

また この時期の前後では、全長に対する幅の割合基準とする基準点が変更され、全長比で「 1/6 胴幅 」であったのが「 1/4 肩幅 」とされるようになったという学説もあります。


“Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ),  circa 2600B.C.~ 2400 B.C.

  “Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ),  circa 2600B.C.~ 2400 B.C.
「 Bastis Master 」 Marble,  High 62.79cm
Metropolitan Museum of Art

 
Cycladic female figurine of the Plastiras variety.     /    Marble
Early CycladicⅠperiod ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )”Grotta-Pelos” group. From the cemetery of Glypha on Paros, grave 23.
National Archaeological Museum of Athens, inv. no. 4762.

因みに、「 3分割タイプ 」以前は初期に製作された”原型”の流れをくむ 「 2分割タイプ 」の “抽象形体型”が ありました。

  Cycladic female figurine,   Marble on Paros
Plastiras  “Violin shaped ”
Early Cycladic Ⅰ period ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )
National Archaeological Museum of Athens

その”抽象形体型”の最終期に製作されていたのが “ヴァイオリン”という通称で呼ばれる、このようなキクラデス偶像です。

私は このタイプが 「 首の付け根 」を 2分割のポイントとしていることを興味深いと思っています。 

“Cycladic type Idol”,  Excavated in Anatolia
「 Grotta pelos 」ca.3200 B.C. ~ 2800 B.C.

このように、キクラデス偶像は およそ900年間に渡って 多数製作されていますので、これらにおいて比率が重要であったことは 間違いないようです。 よって、アナトリア半島で出土した この”抽象形体型”であっても「 首の付け根 」が  2分割のポイントとなっているという推測が成り立つわけです。

『 プロポーション ( 比率、均衡 ) 』の選択実例

ここまでお話しさせていただいたように、キクラデス偶像からは 製作された時にそれぞれの部位間の比率が 強く意識されていたことが確認できます。

このように、旧石器時代の偶像にもみられる 頭の長さに対しての身長の割合などとして人体を捉えることを、古代ローマの頃からは「 人体プロポーション 」と呼ぶようになり、 その後も重要なものとして伝承されました。

それは この捉え方が、私たちに直感的なインスピレーションを与えてくれるからではないでしょうか。

“The illustration on The Pioneer plaque”,   NASA
The plaques show the nude figures of a human male and female along with several symbols that are designed to provide information about the origin of the spacecraft.

余談となりますが、人体プロポーションに関して、ある意味では 非常に象徴的な出来事が 48年程前にありました。

それは、人類史上はじめて太陽系外に 宇宙探査機を向かわせるおりに、探査機 パイオニア10号 ( 1972年 )、11号 ( 1973年 ) に「 人類からのメッセージ 」として この金属板 ( Pioneer plaque ) が取り付けられたのです。

つまり、この探査機は星間空間を漂う一種の”ボトルメール”の役割を持っていました。この計画は カール・セーガン ( Carl Edward Sagan 1934-1996 )、 フランク・ドレイク ( Frank Drake 1930 – )さん達の提案によったものだそうですが、私は この “Pioneer plaque” の表現を実に興味深いと思っています。

 
“Cycladic Idol” 、紀元前2600年~ 紀元前2400年頃
大理石材、高さ62.79cm
Metropolitan Museum of Art

それから、人体プロポーションについての意識は 日本の仏像彫刻などにも見つかります。たとえば、大仏師の運慶 ( 1150年頃 – 1224年没 )が制作の総指揮をした 奈良、東大寺南大門の金剛力士像は 上図のように 5頭身のプロポーションです。

おなじく、運慶が監修して1212年に制作された 国宝「 無著像 」は 5.8頭身であるといった具合で、天部の神である金剛力士と 4世紀のガンダーラに生きた高僧で菩薩となった無著との違いなど、表現対象の意味を踏まえたプロポーションが 選択されていると推測できます。

 

国宝 “無著菩薩”(  鎌倉時代、高さ 194.7cm )

古代の人々は、美の規範 ( カノン )を 数学的比例関係の問題として理解し、彫刻、絵画、建築などにおいて理想的比率を追求したといわれています。

Vitruvius, “De architectura”,  Marcus Vitruvius Pollio ( circa 80B.C.~15B.C. ), Roman Republic
【  British Library manuscript Harley 2767  】  
Date :  1st quarter of the 9th century, Germany
Language :  Latin

それは端的にいえば、キクラデス偶像が 人体プロポーションについての意識を証ししている事と、その概念が ウィトルウィウス ( Vitruvius )という古代ローマの建築家がまとめた書物『 “De architectura” ( 建築について ) 』に記されていたからです。

残念ながら 原本は すでに失われていますが、9世紀初頭に製作された写本によって 結果としてその内容が後代まで伝えられ、その思潮はヨーロッパ世界に大きな影響を与えました。

さらに、15世紀になるとこの写本 ( British Library manuscript Harley 2767 ) は、活版印刷 ( 1439年頃 )に成功していたヨハネス・グーテンベルク ( ca.1398~ 1468 )らによって復刻のための底本とされ、1450年頃からいくつかの復刻版が出されています。

これによって、建築家の ウィトルウィウス 紀元前30年~紀元前23年頃の時点で プロポーションの概念に相当する “Symmetria”と “Eurythmia” を、建築の6つの重要な起点のうちの 2つとしていた‥ ということや、彼が捉えたその法則性 などを確認できます。

 

その状況に呼応するように、15世紀後半からは『 “De architectura” ( 建築について ) 』に触発されたと考えられる人体の比例関係図や、それを検証したノートなどが多数残されています。

また、イタリア、コモで 1521年に出版された  チェザーレ・チェザリアーノ ( Cesare di Lorenzo Cesariano 1475-1543 ) 復刻版からは、銅版画によるイラストが添付されて人気を集め、ラテン語版から イアリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などにも翻訳されて出版されることとなり、 ヨーロッパ世界に普及したことが 残存書籍によりあきらかとなっています。

“De Architectura”,  Vitruvius.   by  Cesare di Lorenzo Cesariano ( 1475-1543 ),  printed in Como in 1521年刊
Vitruvius’ works were largely forgotten until 1414, when De architectura was “rediscovered” by the Florentine humanist Poggio Bracciolini in the library of Saint Gall Abbey.    Leon Battista Alberti published it in his seminal treatise on architecture, De re aedificatoria ( c. 1450 ).

この書物において、人体の数学的な比例関係を意味する “人体プロポーション” という概念が 説かれているために、後にこのような関係図は『 ウィトルウィウス的人体図 』と呼ばれるようになりました。

ウィトルウィウスの著作『 デ・アーキテクチュラ ( 建築について) 』( 第3巻 1章2節から3節 )

  1.     掌は指4本の幅と等しい
  2.     足の長さは掌の幅の4倍と等しい
  3.     肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい
  4.     2歩は肘から指先の長さの4倍と等しい
  5.     身長は肘から指先の長さの4倍と等しい( 掌の幅の24倍 )
  6.     腕を横に広げた長さは身長と等しい
  7.     髪の生え際から顎の先までの長さは身長の1/10と等しい
  8.     頭頂から顎の先までの長さは身長の1/8と等しい
  9.     首の付け根から髪の生え際までの長さは身長の1/6と等しい
  10.     肩幅は身長の1/4と等しい
  11.     胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4と等しい
  12.     肘から指先までの長さは身長の1/4と等しい
  13.     肘から脇までの長さは身長の1/8と等しい
  14.     手の長さは身長の1/8と等しい
  15.     顎から鼻までの長さは頭部の1/3と等しい
  16.     髪の生え際から眉までの長さは頭部の1/3と等しい
  17.     耳の長さは顔の1/3と等しい
  18.     足の長さは身長の1/6と等しい

この18個の項目に加えて『 人体の中心は宇宙の中心と同じである。人間が両手両脚を広げて仰向けに横たわり、へそを中心に円を描くと指先とつま先はその円に内接する。さらに円のみならず、この横たわった人体からは正方形を見いだすことも可能である。足裏から頭頂までの長さと、腕を真横に広げた長さは等しく、平面上に完璧な正方形を描くことが出来る。』という説明が添えられていました。

これが ウィトルウィウスが記したプロポーションの法則 ( “Canon of Proportions” ) です。

“Vitruvian Man”, illustration in the edition 
Cesare di Lorenzo Cesariano (1475-1543) , printed in Como in 1521.

この人体比率を、1521年の チェザーレ・チェザリアーノ版で底本に加えられたイラストではこのように表現していました。

『 ウィトルウィウス的人体図 』1485年~1490年頃 ( Leonardo da Vinci 1452-1519 )

そして、チェザーレ・チェザリアーノ版が出版される以前に レオナルド・ダ ・ヴィンチが 描いたこのドローイングですが、鏡文字で 『 ウィトルウィウスの著作に従って描いた男性人体図の習作である。彼が提唱した理論を表現した。』と書かれています。

よく見ると 縦線や横線で分割線がいれられており、レオナルド・ダ ・ヴィンチが人体比率に強い関心を持っていたことを端的に示しています。

その上に、彼は 「 ウィトルウィウスのプロポーションの法則 」に次のような変更を加えています。

  1.   顎から額、髪の生え際までの長さは身長の1/10
  2.   広げた手の手首から中指の先までも身長の1/10
  3.   首、肩から髪の生え際までの長さは身長の1/6
  4.   胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4
  5.   顔の長さは、顎先から小鼻までの長さ、小鼻から眉までの長さ、眉から髪の生え際までが いずれも顔の長さの1/3
  6.   足の長さは身長の1/6
  7.   肘から指先まで、胸幅は身長の1/4

ここに至っては‥ 現代人の感覚から言えば『 そこまで こだわります‥?』という感がありますが、少なくともこの事から彼が 人体の比率関係に関して明確な見識を持っていたことが判ります。

私は、レオナルド・ダ ・ヴィンチ ( Leonardo da Vinci 1452-1519 ) が『 ウィトルウィウス的人体図 』にこのようにこだわったのは、彼がこの頃には既に人体解剖に立ち会い、人体を素描で記録しはじめていたからではないか‥ と考えています。

彼が 最初に頭蓋骨などの素描をノートに記録したのは 1489年、37歳頃であることが確認されています。しかし、20歳の時にヴェロッキオを手伝って完成させた作品「キリストの洗礼」には、すでに解剖学に根ざした表現が見て取れるとも言われています。

このことから、ヴェロッキオとダヴィンチは、この頃解剖学についてある程度の素養を持っていたのではないかと推測されています。

また、ヴェロッキオの工房の近くには、彫刻家で画家のポッライオーロ兄弟の工房がありました。当時 この兄弟は 解剖を行なっていたため、ダヴィンチは彼らに解剖を教わったのではないか とする指摘もあります。

その レオナルド・ダ・ヴィンチ ( 1452-1519 ) は 当初は絵画の写実性を高めるために解剖をしていたと言われています。

しかし、その後 ミラノで解剖学者の Marcantonio della Torre と共に解剖を進めるうちに、人体そのものに興味を抱くようになり、芸術家としてではなく科学者として人体とその器官の素描を行うようになったようです。

彼は 1489年から このように‥ 解剖した人体の詳細な素描を描き始め、 それを 教皇レオ10世に禁止されるまで‥ およそ 20年間それをつづけ、30体近い死体を解剖して750枚ほどの素描を遺しました。

この時代に行われていた人体解剖の実施状況を調べてみると、他にも多くの実施例があったことがわかっていますが、知られているように 彼の緻密な解剖記録は 後代の人々にとっても重要な資料となりました。

比率と美的表現の関係

そして、これらの人体に関する比率などの研究成果は、最終的に レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交があったアルブレヒト ・デューラー ( Albrecht Dürer 1471-1528 ) による4冊の研究書に集約されることとなりました。

“Human Proportions ( Menschlicher Proportion )”
Albrecht Dürer 1471-1528, Nuremberg,  1528年

アルブレヒト ・デューラー ( Albrecht Dürer 1471-1528 ) は1471年に、金細工職人でハンガリーからの移住者⦅ 1455年 ⦆であった同名のデューラー( 1427-1502 )の息子として、ニュルンベルクに生まれています。

『 父親、 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) の肖像画  』
( Portrait of Dürer’s Father at 70 ) 、1497年

『 母親の肖像画 』( Barbara Dürer ca. 1451–1514 )、by Albrecht Dürer (1471-1528 )、1490年

因みに、画家アルブレヒト ・デューラーの洗礼時の代父アントン・コーベルガー ( 1440-1513 ) は、金細工職人から ドイツで最も成功した印刷家、出版家となった人物でした。

彼は1470年に 出版社を創業し、1493年にミヒャエル・ヴォルゲムート工房の版画挿絵で「 ニュルンベルク年代記 」を出版して、大成功をおさめました。この時期に彼は ニュルンベルクやヴェネツィアなどに印刷所を構え、24台の印刷機と100名ほどの労働者を雇って印刷物を製作するとともに、ミラノ、パリ、リヨン、ウィーン、ブダペストなどに書店と代理店からなる販売網を構築しました。

“13歳の自画像” ( 紙にメタルポイント )
Albrecht Dürer (1471-1528 ) 1484年

このように金細工職人や 印刷関連の人々、そして画家や版画家などが身近に住むニュルンベルクにおいて、少年デューラーは 13歳頃にはすでに早熟な才能の片鱗をあらわし、1485年からは画家ミヒャエル・ヴォルゲムート ( 1434-1519 ) の徒弟となり1489年まで彼の工房で働きました。

“Portrait of Michael Wolgemut”  ( 板、テンペラ、油彩 )
by Albrecht Dürer,   1516年

すでに大画家としての名声を得ていたデューラーは、修業時代に世話になった恩師ミヒャエル・ヴォルゲムートの肖像を描きました。この肖像画には「1516年、師ヴォルゲムートを前にしてこれを描いた。ヴォルゲムートは当時82歳で、1519年まで生きた」という趣旨の銘文があります。絵の完成から3年後の1519年、恩師の死を悼んでこの言葉を画中に書き記したものと考えられています。

“22歳の自画像”、 Albrecht Dürer (1471-1528 )  1493年
銘文は「我が身に起こることは、天の思し召し」と書かれています。   

“自画像”という概念がなかった中世までは、「自分の手で描かれた画家自身の絵」という表現がなされており、自画像という熟語はありませんでした。


「東方三博士の礼拝」に描き込まれたボッティチェリの自画像

たとえば初期ルネサンスを代表する画家 サンドロ・ボッティチェリ ( 1445-1510 ) の肖像として引用されるのは、新約聖書を主題とした「東方三博士の礼拝」( 1475年 ) の画面右端に立つ人物像です。 ラファエロやミケランジェロなども同様に、作品の登場人物に自身の顔を紛れ込ませて描いたことが知られています。

『 22歳の自画像 』はデューラーが最初に油彩で本格的に描いた自画像ですが、西洋美術史における初めての”自画像”でもあります。このことから、デューラーは “自画像”の創始者と呼ばれています。

自画像は、描き方の要素もそうですが さまざまな目的や背景が混在しやすいので読み解きは難しいですが、デューラーの 自画像においては「私とは誰か」という哲学的な問いかけが根底にあると私は思っています。


“My Agnes”,  drawing by Albrecht Dürer  1494年

デューラーは、1490年~1494年に北ヨーロッパ、1495年~1996年には パドヴァとマントヴァを経てヴェネツィアで研鑽をつみ、1494年にニュルンベルクに戻ると、Agnes ( 1475-1539 )と 結婚するとともに本格的な製作活動をはじめました。

“Agnès, in Dutch clothing”、Agnes Dürer ( 1475-1539 )
「 The wife of Albert Dürer  」1521年

 “Self Portrait ( 26歳 )”、 Albrecht Dürer (1471-1528 )    1498年

なお 特記すべきことは‥ デューラーはヴェネツィアで知り合った 画家ヤコポ・デ・バルバリ ( Jacopo de’ Barbari   ca.1460-1516 ) が 1500年にニュルンベルクを訪れたおりに、遠近法、解剖学、人体均衡論つまりプロポーション理論を、彼から学んだと述べていることです。

そして、彼は 28歳のこの年にも 自画像を製作しました。これが、彼の人生で最後の自画像となりました。

“Self Portrait ( 28歳 )” ( 菩提樹材 Tilia sp.、油彩 67.1 x 48.9 cm  ) Albrecht Dürer (1471-1528 )  1500年
Alte Pinakothek in München    銘文は「それゆえ私、ニュルンベルク生まれのアルブレヒト・デューラーは 28の年に消えることのない色彩でもって自分自身を描いた。」と書かれています。

この自画像は 彼の強い信仰心を表明したものである可能性があります。顔の表現は伝統的なキリストの描き方‥ 左右対称なポーズでまっすぐにこちらを見つめ、茶色い髪は中央で分けられて肩にかかるように‥描かれています。つまり、画家が自らをキリストに重ねて表現したように見てとることができるのです。

デューラーが生きた時代に ヨーロッパ世界は 度重なる戦乱や迫害、ペストなど様々な困難に直面していました。

死と終末を思う緊迫感の中で おおくの人々は 敬虔な生き方のなかに救いをもとめました。これらの信仰活動は「 デヴォツィオ・モデルナ “Devotio moderna”(新しき信仰)」と呼ばれました。

その精神がもっともよく表されたのが、デューラーが生れる少し前に刊行され “聖書に次いで 2番目に多く出版された本” という呼称も持っている『イミタツィオ・クリスティ ( De imitatione Christi ) 』すなわち「 キリストにならいて 」という信心書です。


“The Imitation of Christ”  ( It was written in 1469 at the Carthusian monaste. )

この信心書には 黙想と祈りを通して神にいたる道が説かれ、 デヴォーション ( Devotionとは 「誓願により身を捧げる」を意味するラテン語 Devotio が語源で「神への信仰、敬虔」を意味しています。)として、信仰的な生活を歩むことが勧められています。

デューラーの『 1500年の自画像 』は、当初から物議をかもしたそうです。しかし、デューラーの生涯を検証すれば、キリストの似姿としての自画像は傲慢からではなく「 神は自らに似せて人間を創造し(旧約聖書の記述)、芸術の才能は神から授かったものである。」という、神への敬意の表明であると理解できるのではないでしょうか。

“Praying Hands”,   pen-and-ink drawing    1508年頃

デューラーは 31歳であった1502年に父親 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) を看取りました。そして、それから暫らく経った1505年~1507年に テンペラ画などを制作するために、デューラーは 再びヴェネツィアに滞在しました。この時には ジョヴァンニ・ベッリーニ ( Giovanni Bellini 1430-1516 )と親交を結んだと言われています。

“Albrecht Dürer’s House” in Nuremberg
Nuremberg Fachwerkhaus that was the home of Albrecht Dürer from 1509 to his death in 1528.

そしてその後 ニュルンベルクに戻ったデューラーは、終の棲家となったこの家を拠点としてより一層充実した制作活動をおこないました。特に 1513年~1514年にかけては 銅版画の傑作である『騎士と死と悪魔』、『メランコリア Ⅰ( Melencolia I )』、『書斎の聖ヒエロニムス』など美術史で傑作とよばれる作品群を発表しています。

“Melencolia I”  1514年  Albrecht Dürer ( 1471-1528 ),  engraving 242mm×191mm      Albertina Museum in Vienna

また‥ 意味深いと感じられるのは、この1514年にデューラーは 母親の最後を看取っています。

“63歳の母 ( Barbara Dürer  ca. 1451–1514 )”、( 紙に木炭、42.1×30.3cm、ベルリン国立美術館 )

デューラーは自分の母親について、次のように書いている。
「母が発病した上記の日から一年余り経ったある火曜日、即ちキリスト降誕より数えて1514年5月17日の夜の二時間前に、わが信仰深き母バルバラ・デューラー夫人はすべての聖体を受け、教皇の力で一切の苦痛と罪障から解き放たれて、キリスト者として世を去った。

彼女は予め私にも祝福を与え、私が罪障から守られてあるよう、極めて美しい教えを以て私に神の平安のあるよう願った。彼女はまた前もって聖ヨハネの祝福酒を求めてそれを飲んだ。母は死神をひどく恐れていたが、神の御前に行くことは怖くないといった。彼女はたいそう苦しんで死んだ。そして私は彼女が何か恐ろしいものを見たのに気付いた。何故なら彼女は、それまで、長らく何も言わないでいたのに、急に聖水を求めたからである。こうして彼女の目が霞んだ。

私はまた死神が彼女の心臓に二突き大きな打撃を加え、彼女が口と両目を閉じ、苦痛を以てこと切れるのを見た。私は母の前で祈祷文を朗誦した。その時私は口には表し得ないような苦しみを覚えた。神よ、彼女に恩寵を垂れ給え」


( アルブレヒト デューラー 著、「 デューラーの手紙 」前川誠郎氏訳 )


“The Room”,  inside the Albrecht Dürer House

Martin Schongauer ( ca.1448-1491 )
Antonio Pollaiolo ( ca.1433-1498 )
Albrecht Dürer ( 1427-1502 )
Sandro Botticelli ( ca.1445-1510 )
Anton Koberger ( 1440-1513 )
Barbara Dürer ( ca.1451–1514 )
Giovanni Bellini ( ca.1430-1516 )
Michael Wolgemut ( 1434-1519 )
Leonardo da Vinci ( 1452-1519 )
Maximilian I  ( 1459-1519 )
Raffaello Sanzio da Urbino ( 1483-1520 )

Albrecht Dürer ( 1471-1528 ) 

 

オーストリア大公マキシミリアン1世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世とポルトガル王ドゥアルテ1世の娘エレオノーレの長子として1459年にウィーンで生まれた。彼は1493年にハプスブルク家の家長となり、次いで1508年に神聖ローマ帝国の皇帝に選出された。彼は教養ある君主であり、芸術への関心が高かった。

この肖像画の作者であるアルブレヒト・デューラーは1512年に皇帝マキシミリアン1世がニュルンベルクを訪れた際彼に初めて出会い、3つの作品の注文を受けた。大規模な木版画による『凱旋門』、『凱旋行列』、そして自信の祈祷書の欄外の装飾であった。これらの注文を完成させた功績によりデューラーは皇帝から1515年に年間100フロリンもの年俸を与えられた。

その後1518年6月28日にデューラーはマキシミリアン1世をアウグスブルクで開催された帝国議会の会期中にスケッチした。そのスケッチにデューラーは次のように書き込んでいる。「これは皇帝マキシミリアンである。彼をわたくしアルブレヒト・デューラーは、1518年の洗礼者ヨハネの祝日の後の月曜日にアウグスブルクの塔の中の小部屋で肖像に描いた」。このどちらかというと私的な雰囲気で描かれたスケッチでデューラーは59歳の君主の特徴をとらえている。

マキシミリアン1世はその翌年、1519年1月12日に世を去った。デューラーは1518年の素描をもとに木版肖像画、テンペラによる肖像画(ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館)、そしてこの油彩による肖像画を制作した。毛皮の表現などに入念さが見て取れるが、一方でスケッチに見られた人間性はいささか失われてしまっているように見える。

1520年7月から一年あまりの間、デューラーはネーデルラントを旅行しています。この旅の最大の目的は、1519年に亡くなった神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(図1)から交付されていた年額100グルデンの年金の継続を、皇位を継承するカール5世(図2)から認めて貰うことにありました。100グルデンは、当時宮廷に雇用された画家が一年間に支給された金額と同額でもあり、年金交付の有無はデューラーにとって決して無視できない事柄だったのです。

この旅行中にデューラーが書き綴った日記(註1)からみて、デューラーは事前にいろいろと関係諸方に手を打っていたようです。幸い、8月下旬にはカール5世の叔母であり、ネーデルラント総督でもあったマルガレーテ女公(通称、オーストリアのマルガレーテ、あるいはマルグリート・ドートリッシュ)(図3)から、カール5世に使者を送って、デューラーに年金交付が継続されるよう後押しをする旨の知らせがもたらされました(註2)。マルガレーテはマクシミリアン1世の娘で、兄フィリップ美公(図4)が早逝したこともあり、総督としてネーデルラントの政治を司る一方で、甥のカール5世の養育にも携わった女性でした。ですから彼女の後押しを得た以上は、年金交付の継続交渉はほぼ成功したも同然であったものと思われます。デューラーは感謝の印として、すぐさま携帯していた『銅版受難伝』(図5)(全16枚、1507-1513年)を使者に託したほか、後に手持ちの版画作品一式と羊皮紙上に描いた素描2点を贈っています。またデューラーは、マルガレーテ女公に仕える人々への気遣いも怠ることなく、マルガレーテの官僚や侍医、宮廷芸術家などと親しく交際しては、肖像を描いてやったり、版画を贈呈したりしています。こうした甲斐あって、11月4日付けでデューラーは新皇帝カール5世から、年金交付を認める確認状を与えられています(註3)。

ところで、デューラー自身も日記に、「女公は極めて友好的な態度を示された」と記してはいるのですが、マルガレーテのデューラーに対する態度は、なかなか複雑なものであったように思われます。というのも、後にデューラーが自らの絵画作品を献上したいという

希望を表明した折、彼女はこれを退けているのです。ネーデルラント滞在中デューラーは行く先々で、画家や彫刻家はもとより貴族や有力者から歓待され、その作品は大抵喜んで受け取られています。日記を読む限り、面と向かって作品の受け取りを拒否したのは、マルガレーテだけだったようです。デューラーの作品の受け取りを拒むとは、今日の我々にとっては、想像もつかない対応に思われます。それも、マルガレーテが芸術に無関心であったどころか、むしろ大変に造詣の深かった人物であっただけに、この拒否は、意外にも感じられます。一体なぜマルガレーテはデューラーからの寄贈の申し出を断ったのでしょうか? まず、当時にあっては抜きん出て優れた美術愛好家であった彼女の美術コレクションの概要に触れておきましょう。

2.オーストリアのマルガレーテ

ハプスブルク家は代々婚姻によって勢力の拡大を図ったことは広く知られていますが、マルガレーテもそれに翻弄された一人と言うことができるかもしれません(註4)。マクシミリアン1世とブルゴーニュ公女マリー(図6)との間の娘として1480年に生まれたマルガレーテは2歳で母を失った後、1483年にフランス王室の皇太子であった後のシャルル8世の婚約者としてロワール河畔のアンブローズ城で育ちますが、1493年にブリタニア王女アンとシャルルの結婚が整えられたために離縁され、祖父シャルル突進公(図7)が1477年に戦死して以来、祖母ヨークのマーガレット(図8)が居住していたメーヘレンに戻ります。1497年にはアラゴン=カスティーリヤ王国の王子ファンの許に嫁いだものの、僅か9ヶ月で夫と死別します。再びメーヘレンに戻った後、1501年にはさらにサヴォア公爵フィリベール2世(図9)と結婚しますが、1504年に夫君を狩猟中の事故により再び失うと、亡夫の菩提を弔うべくブール・ガン・ブレス近郊のブルーに修道院を建立し、隠棲を図りました。ところが、1506年にハプスブルク家の後継者たる兄フィリップ美公(1478-1506年)が亡くなってしまいます。途方に暮れた父帝マクシミリアン1世からネーデルラントの統治と、後のカール5世を含む亡き兄の子供たちの養育を任されたマルガレーテは、メーヘレンに戻りやがてネーデルラント総督に任命されて、当時の女性としては類稀な政治的手腕を発揮するとともに、甥や姪たちの帝王教育に専心する傍ら、アルプス以北にあっては稀な一大美術コレクションをメーヘレンのサヴォア宮殿内に築き上げました(註5)。マルガレーテには母親を介してブルゴーニュ公家の血が流れていたので、シャルル突進公の戦死によって絶えたブルゴーニュ公家の正統な末裔と言え、その文学的素養や芸術趣味も15世紀に文化的に隆盛を誇ったブルゴーニュ宮廷の伝統を引く高度なものだったのです。

 

。1520年~1521年にはネーデルラント アルブレヒト・デューラー ネーデルラント旅日記1520‐1521

エッチング(Etching)」

、14世紀頃から鎧や武具に装飾をほどこす方法として金属の腐触法が行われていました。鉄製の武具などの表面にワックスを塗り、針で掻き取り、そこに酸を擦り込み凹部をつくります。

この腐触法を版画に応用したものがエッチングです。1520年頃にネーデルランドのルーカス・ファン・ライデンが銅版でのエッチングを始め、銅版に適した描画用防触剤の開発や腐触液の研究がされ、銅版画に必要な基礎が確立しました。その後、ヘルクレス・セーヘルスは腐食法を駆使して様々な技法を試しています。

 

マルティン・ルター ( 1483-1546)は、1517年 ヴィッテンベルクの城内に95ヶ条の論題を打ちつけ、1521年ローマ教皇から破門されたために ザクセン選帝侯フリードリヒ3世により ヴァルトブルク城にかくまわれたました。ルターが 福音書をドイツ語に翻訳した場所としても知られています。

ヴァルトブルク城に残るルターの部屋 ( Wartburg Lutherstube )

“The Four Apostles” ( 板、油彩  Each picture 204 × 74   ) 、1523年~1526年、Albrecht Dürer ( 1471-1528 )

デューラーはルターの熱心な支持者でした。この絵の最下部には、ルターによる福音書のドイツ語訳から 使徒たちが人間の過ちと高慢を非難する内容の長い一節が引用されている。 聖書の引用と、「世の支配者たちよ。人間たちの言葉を神の御言葉と取り違えてはならぬ。」という趣旨の戒めの言葉が描かれています。

デューラーは奇妙な病気にかかっていた。間歇的に高熱に冒されるという病気で、以後デューラーはその後遺症のために、健康を著しく害した。結局この病気がデューラーにとって「死の病」となった。彼は1528年の4月6日に、57年の生涯を閉じたのである。

デューラーは、その生涯を通じてイタリア・ルネサンスの古典的な理想と、生まれ故郷であるドイツの自然主義を調和させることに尽力しました。

1528年人体均衡論四書」注解 アルブレヒト デューラー, Albrecht D¨urer北方ルネサンスの巨人が、人体表現において、美と数の理想的比例を発見し、それを体系化した画技と科学の集大成の書を世界で初めて全訳、翻刻。人体図版142図を収録し、美学、美術史学に加えて、人体プロポーションの観点から被服、デザイン、デッサン用の資料としても参照できる一冊。

「測定法教則」注解 Albrecht D¨urer , アルブレヒト デューラーアルブレヒト・デューラーの「測定法教則」(下村耕史 訳編、中央公論美術出版 2008年)です。

原本は、1525年にドイツで出版され、ピエロデッラフランチェスカの作品に基ずく遠近法や     表題は「線、平面、立体におけるコンパスと定規による測定法教則、理論を愛するすべての人の利用のために、アルブレヒト・デューラーの著した説明図付きの書。1525年印刷」となっていますが、長いので訳者が、「測定法教則」 にしたと思います。いえわゆる絵画・彫刻・建築を学ぶ人のための教科書で、その後ラテン語などに翻訳されヨーロッパ中に広まり大きな影響を与えました。

 

Albrecht. (1471-1528).
Underweysung der Messung,,,.
Nuemberg, 1525, First edition.
アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
計量法
ニュールンベルグ, 1525年, 初版.

絵画は数学にーとりわけ正確な形を決める為の幾何学、美しい形をととのえる為の比例理論に基かねばならないという確信を持ったことがあげられます。そのため、彼はイタリアへ行って学ぶことを決心し、1495年から1496年にかけてと、1505年から1507年にかけてとの2回、ヴェニスに滞在して勉強しました。二度目の滞在は、ダ・ヴィンチの友人で、会計学の始祖であり、芸術に於ける比例理論の研究者であったルカ・パチョーリの教えを受けるためであった事はほぼ確実です。彼はユークリッド幾何学(タキヌス版のユークッド「原論(1505年)」をこの頃買い求めています)、ウィトルウィウス「建築十書」やアルベルティの「建築十書」にあらわれる比例理論、ボエティウスやアウグスチヌスの音楽調和理論等を研究し、徐々に彼自身の、正確で美しい形態を構成する為の数学理論、人体比例論や透視図法、立体幾何学等を発展させて行きました。この頃の彼の研究ノートの断片がロンドン、ニュルンベルグやドレスデンに保存されています。
1521年、オランダを旅してマラリアにかかったデューラーは、それ以降の病気療養期に「比例理論」と題する本の執筆と出版に主として専念し、1523年に原稿の完成を見たのですが、執筆の過程で、この理論をより完全にする為には、もっと基礎的な数学的検討が必要だと考え、1524年から1525年にかけて、その研究を行い、完成すると直ちに、彼の工房でそれを印刷し、出版しました。これが本書です。この書物は4部から成り、第1部ではアルキメデスらせん、対数らせん、正弦らせん、コンコイド曲線やヘリックス等の各種平面曲線や円錐曲線等の作図法を述べ、第2部では、多角形の作図法とその建築装飾への応用、取り尽し法による円面積のウィトルウィウス的近似法、また円周率πを計算して、3.141 の値を与えています。第3部は四角錐、円筒、様々な種類の円柱等の立体を扱い、また日時計や天文観測用の機材の考察、文字のデザインと作図(レタリング)について述べ、第4部には、プラトン立体、アルキメデス立体、球、またそれ等を混合した立体、デリアン問題として知られる立方体の複製問題、さまざまの立体に光があたった時の影の作図法、透視図法の概要について記しています。
本書はデューラーの最初の出版であるばかりでなく、ドイツ人自身の手による最初の数学書の出版であり、内容の高度さと相まって、デューラーは画家としてばかりでなく数学者としての名声を獲得したのです。また、デューラーのこの仕事は、後の射影幾何学の発達の基礎をなしたのでした。

http://atelierlaporte.blogspot.com/2015/08/blog-post.html
1 遠近法の作図は立方体を例にして説明されています。左は、側面図と上面図、それを見る鑑賞者の目の位置と光源の位置が示されています。

2 それを使って描かれたパース図。

3 左は、鑑賞者と画面とパース図のと関係が示されています。鑑賞距離によるパース図内の奥行の変化がよく分かるイラストです。

4 最後に遠近法の器具を使って絵を描くイラストが載っています。左下の碁盤状の升目を使った方法は、アトリエラポルトでも採用しています。

デューラーの「測定法教則」は、今の私達から見ると絵の教則本とは言えない内容に思えますが、実は西洋の造形芸術の根底に「幾何学:Geometre」が存在することを示す貴重な文献です。
そして西洋の造形芸術に使われる「形」とは、幾何学的形がベースになっているのが理解できると思います。

例えば、セザンヌは「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という有名な言葉を残していますが、この本を読むと古くからある西洋絵画の「物の捉え方」の上に立っていたのが分かります。それは後のキュビズムやモンドリアンなどの抽象絵画にまで繋がる西洋の伝統的思考法とも言えるでしょう。

 

 

 

From Albrecht Dürer, Draughtsmen with Lute, in his Underweysung der Messung mit dem Zirkel und Richtscheyt. Nuremberg, 1525.

In the fifteenth century, Albrecht Durer invented this system for getting proportions right:

He set his eye to a point, so that his perception of the model did not change, and he set up a piece of class with a grid etched onto it that matched the grid on the paper.

 

人間の割合に関する4冊の本[編集]

人間の割合に関する4冊の本のイラスト
人間の比率に関するデューラーの研究は、1528年の人間の比率に関する4冊の本(VierBüchervon Menschlicher Proportion)と呼ばれています。[39]最初の本は主に1512/13で構成され、1523年までに完成しました。体のすべての部分が全高の分数で表された、男性と女性の両方のフィギュアの5つの異なる構造タイプを示しています。デューラーは、これらの構成を、ヴィトゥルヴィウスと「生きている人200〜300人」の経験的観察の両方に基づいて[27]、自分の言葉で述べた。 2番目の本にはさらに8つのタイプが含まれており、分数ではなくアルベルティアンシステムに分解されています。デューラーはおそらく1525年のフランチェスコディジョルジョの「デハーモニカムンディトティウス」から学んだでしょう。3番目の本では、デューラーは図の比率が凸面鏡と凹面鏡の数学的シミュレーションを含め、変更できます。ここでデューラーは人間の人相も扱います。 4冊目の本は、運動理論に関するものです。

しかし、最後の本に追加されているのは、デューラーが1512年から1528年の間に取り組んだ美学に関する自己完結型のエッセイであり、ここで「理想的な美」に関する彼の理論について学びます。デューラーはアルベルティの客観的な美の概念を拒否し、多様性に基づく美の相対主義的な概念を提案しました。それにも関わらず、デューラーは真実は自然の中に隠されていると信じ、そのようなコードの基準を定義するのは難しいとはいえ、美しさを命じるルールがあると信じていました。 1512/13年の彼の3つの基準は、機能( ‘Nutz’)、素朴な承認( ‘Wohlgefallen’)、そして幸せな媒体( ‘Mittelmass’)でした。しかし、アルベルティやレオナルドとは異なり、デューラーは美の抽象的な概念だけでなく、芸術家がどのように美しい画像を作成できるかについても理解するのが最も困難でした。 1512年から1528年の最終草案までの間に、デューラーの信念は、人間の創造性を自発的または「選択的内向き合成」の概念に触発されたものとして理解することから発展しました。[27]言い換えれば、芸術家は美しいものを想像するために豊富な視覚的経験に基づいているということです。一人の芸術家のインスピレーションに対する能力に対するデューラーの信念は、彼は「1人の男性が1日に半分の紙の上にペンで何かをスケッチするか、小さな鉄でそれを小さな木片に切るかもしれない、そしてそれは、その作者が一年中最大限の勤勉さをもって努力する他人の作品よりも優れて芸術的であることが判明した。

Four Books on Human Proportion[edit]

Illustration from the Four Books on Human Proportion
Dürer’s work on human proportions is called the Four Books on Human Proportion (Vier Bücher von Menschlicher Proportion) of 1528.[39] The first book was mainly composed by 1512/13 and completed by 1523, showing five differently constructed types of both male and female figures, all parts of the body expressed in fractions of the total height. Dürer based these constructions on both Vitruvius and empirical observations of “two to three hundred living persons”,[27] in his own words. The second book includes eight further types, broken down not into fractions but an Albertian system, which Dürer probably learned from Francesco di Giorgio’s ‘De harmonica mundi totius’ of 1525. In the third book, Dürer gives principles by which the proportions of the figures can be modified, including the mathematical simulation of convex and concave mirrors; here Dürer also deals with human physiognomy. The fourth book is devoted to the theory of movement.

Appended to the last book, however, is a self-contained essay on aesthetics, which Dürer worked on between 1512 and 1528, and it is here that we learn of his theories concerning ‘ideal beauty’. Dürer rejected Alberti’s concept of an objective beauty, proposing a relativist notion of beauty based on variety. Nonetheless, Dürer still believed that truth was hidden within nature, and that there were rules which ordered beauty, even though he found it difficult to define the criteria for such a code. In 1512/13 his three criteria were function (‘Nutz’), naïve approval (‘Wohlgefallen’) and the happy medium (‘Mittelmass’). However, unlike Alberti and Leonardo, Dürer was most troubled by understanding not just the abstract notions of beauty but also as to how an artist can create beautiful images. Between 1512 and the final draft in 1528, Dürer’s belief developed from an understanding of human creativity as spontaneous or inspired to a concept of ‘selective inward synthesis’.[27] In other words, that an artist builds on a wealth of visual experiences in order to imagine beautiful things. Dürer’s belief in the abilities of a single artist over inspiration prompted him to assert that “one man may sketch something with his pen on half a sheet of paper in one day, or may cut it into a tiny piece of wood with his little iron, and it turns out to be better and more artistic than another’s work at which its author labours with the utmost diligence for a whole year”.[40]

 

特に中世の美術では絵画は写実性ではなく象徴性が重んじられ

 

少し話はそれますが ‥ 念のために 申し添えれば、プロポーションの概念は ウィトルウィウスの”発明”ではなく 古来より美の問題や、神とのかかわりで論じられてた思潮から生じたと考えられます。

ですから この概念は、少なくとも ウィトルウィウス ( circa 80B.C.~15B.C. )より500年ほど前の、「 数を世界の構成原理と考える 」ピタゴラス学派 ( Pythagoras 紀元前582年~紀元前496年 ) の時代に着想が得られたのかもしれません。

 

 

ウィトルウィウスの著作『建築論』は、アルベルティをはじめルネサンス期の建築家に大きな影響を与えた。『建築論』第3巻には、神殿建築は人体と同様に調和したものであるべきという記述があり、レオナルドと交流のあったフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの建築書(手稿)の中にもウィトルウィウス的人体図が描かれている[5]。

レオナルド以外にもウィトルウィウスの記述をもとにした作品を残した画家はいるが、今日、レオナルドの作品が最もよく知られている。

ルネサンス期 ( Renaissance =「再生、復活」)のウィトルウィウス的人体図としては以下のものが知られている。
チェーザレ・チェザリアーノの「建築論」- 建築理論家、1521年にウィトルウィウスの「建築論」を出版
アルブレヒト・デューラー の「人体均衡論四書 (Vier Bücher von menschlicher Proportion)」(1528年)- 画家、版画家
ピエトロ・ディ・ジャコモ・カッタネオ (en:Pietro di Giacomo Cataneo) (1554年)- 建築家

 

 

 

 

 

 

must be an inspiration of the gods.神々のインスピレーションでなければなりません。
Geometry in Our Environment “Sacred geometry,” or “spiritual geometry,” is the belief that numbers and patterns such as the divine ratio have sacred significance. Many mystical and spiritual practices begin with a fundamental belief in sacred geometry.
私たちの環境における幾何学 「神聖幾何学」または「霊的幾何学」は、神比などの数やパターンには神聖な意味があるという信念です。 多くの神秘的で精神的な実践は、神聖な幾何学に対する根本的な信念から始まります。

 

The creation of a Cycladic figurine was based on strict rules and a detailed system of proportions, which required precise measurements and considerable skill in application.

Many of these figures, especially those of the Spedos type, display a remarkable consistency in form and proportion that suggests they were planned with a compass.

黄金分割比に代表される建築や彫刻上の規範的比率も、人体プロポーションから導き出されたと考えられています。

 

ピタゴラス( Pythagoras 紀元前582年 – 紀元前496年

ヘラクレイトスの唱えた主な概念 ロゴス、流転

ヘラクレイトス( Ἡράκλειτος, Hērakleitos  紀元前540年頃 – 紀元前480年頃 )は、ギリシア人の哲学者

 

チャタル・ヒュユク
Çatalhöyük Neolithic Site of Çatalhöyük 新石器時代(6500年~5700)紀元前 焼成粘土や石  Çatalhöyük Research Project