アンサンブル・クラスの ご案内

初めて楽器を持ってから3年くらい。

音の鳴らし方も知らなかった頃と比べると教則本も2巻、3巻と進みレパートリーも増えてきた。ポジション移動、ビブラートといった技巧も一通りやってみた。ちょっと自信もついてくるけれど、まだまだピンとこない部分も沢山ある。でも、そろそろ憧れだったアンサンブルも参加していいのかな?と市民アンサンブルを調べてみたりして。

気にはなるけれど、合奏初心者の自分が入って上手くやっていけるかしら?と一歩踏み出す勇気が持てずにいる、そんな方。

趣味と思って習いはじめて、もう20年以上になる。

学生オケに参加して以来すっかりオーケストラの魅力の虜となり、今もアマオケで年2回の演奏会に向けて毎週稽古場に通う日々。たまにオケ仲間とカルテットを組むのも楽しいもの。

室内楽にはオーケストラとはまた違った喜びがあるけれど、誤魔化しの効かない難しさもあるなぁ。レッスンも受けてみたい気もするけれど、全員の日程を合わせて先生に打診をしてとなると意外と面倒かも...と思っているベテランさんも。

プロの演奏家と一緒に演奏する
アンサンブル教室

QSEミュージックアカデミーは音楽が好き、人生で1度はアンサンブルを組みたいと思っている、そんな大人向けのアンサンブル教室です。
一番の特徴は講師と一緒に演奏できること。講師が後ろでチェックしていてコメントを出す形式ではなく、全パートにメンバーとして配属されます。楽譜に書いてあることを忠実に実行するだけではなく、お互いの聴きあいと生徒さんの意見を大切にして〈それらを音楽として纏めるにはどうしたらよいのか〉を目の前で講師陣がやって見せることが肝心だと思っています。
プロの演奏の音を間近で聴きながら充実した経験を重ね、対等な立場で意見を交換して皆で一緒に成長しましょう!
メインである弦楽合奏の他に、希望される生徒さんには講師を交えた四重奏等のレッスンにも対応しており、現役の演奏家による生きたノウハウを学ぶことが可能です。
QSEミュージックアカデミーはアンサンブルの楽しさを一人一人が実感できる場所を目指しています!

 

【募集要項】

•オーディション等はありません、まずは無料体験にお越しください。見学も可能です。
•楽器を習い始め、合奏にチャレンジしてみたい方、楽器経験がありブランクがある方もお気軽にご参加ください。
•練習日時は、毎月1回、日曜日10時〜13時で行います。
•練習では、プロ講師が必ず一緒に演奏するので、安心して演奏に参加することができます。

参加資格

•弦楽アンサンブルで演奏してみたい方
•楽器を持っている方
(楽器の相談も承ります)
•楽器経験がある方※初心者は要相談

応募パート

•バイオリン
•ビオラ
•チェロ
•ピアノ

練習場所

•巣鴨のレンタルスタジオ
(スタジオフォー)アクセスはこちら

練習日程

•毎月1回、日曜日10時〜13時

参加費

•初回 入会費(年会費)5,000円、継続年会費1,000円
•練習毎5,000円(スタジオ代、楽譜代込み)
•コンサート代目安15,000円 ※参加自由

その他

•コンサートは年2回、夏、冬で1回ずつ実施する予定
(参加自由)

楽しいのは勿論、音楽で一番大事にしなければならない音作り、
基礎の技術や正しい音楽性、様々な点で上達できる事間違いなし!
まずは無料体験に是非お越しください。

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エーゲ海 キクラデス諸島の”偶然”について

● 『 大理石 』を用いて表現されたもの

ヘレニズム時代( 紀元前323年頃~紀元前30年 )の大理石彫像のなかでも有名な『 ミロのヴィーナス 』や『 サモトラケの ニケ 』は、エーゲ海にある キクラデス諸島の パロス島で切り出された大理石を削って製作されたそうです。

キクラデス諸島は、ギリシャ神話のアポロンとアルテミスの生地と伝えられ「神聖な島」とされたデロス島と、その周りに島々が並んでいることから 「キクラデス ( 囲んでいる )」と呼ばれています。

このキクラデス諸島で 大理石材が彫像に用いられるようになったのは”偶然”とは言えないのかもしれません。それは、この地域の複雑な地質構造によってもたらされた結果‥ という捉えかたが出来るからです。

エーゲ海や その周辺の 複雑な地質構造をイメージするには、 ペロポネソス半島のコリントス地峡に開削された運河の掘削崖を見ることが 最も簡単な方法です。

この コリントス運河では、上図のように 急傾斜した正断層が狭い間隔で何本もならんでいる状況を知ることができます。

そして、キクラデス諸島には このコリントス運河の掘削崖より 複雑な地質構造をした島がいくつもあります。

キクラデス諸島の地質図

このことにより、 キクラデス諸島には 大理石を採掘できるパロス島をはじめ、ナクソス島には コランダムエメリー鉱山があり、ミロス島では 古くから黒曜石が採掘され、そして仕上げ研磨材としての軽石が採れるテラ島 ( サントリーニ島 ) まであるのです。

Emery was also probably used as a drill, as an engraving tool or as a surface polisher. Emery powder was very effective as an abrasive for the initial working of the marble.

Theran pumice soaked in water is an excellent material for the final polishing of the surface, and the same is true for sand mixed with water.

Modern marble quarry on Naxos

Marble from the Isle of Paros in Ancient Greece

   Marathi,  Ancient Marble Quarry

さて、ここで 重要なことを確認させていただくと‥ パロス島や ナクソス島で採掘される大理石は 変成岩 ( 火成岩や堆積岩などの地層が地殻変動による熱や圧力を受けて再結晶化し、変化したもの。) に分類され、モース硬度は3~4であるとされています。

モース硬度とは 1822年に、ドイツの鉱物学者 フリードリッヒ・モースが「 二種類の石をこすり合わせて、どちらに傷がつくかで硬さを判断する」とした硬さの基準で、もっとも硬い石を 硬度10 とし、もっとも柔らかいものを 硬度 1という数値であらわします。

現在、地球上でもっとも硬い鉱物は モース硬度10 であるダイヤモンドで、最もやわらかい鉱物は 硬度1 の滑石であるとされており、参考までにあげれば 人間の爪の場合は 2.5ほどの硬度になるそうです。

なお モース硬度の「 硬さ 」は、割れにくい硬さ(靭性)ではなく「 引っかいた時の傷の付きにくさ 」を示すものなので、例えば 地球上にある天然物の中で最も硬いとされる ダイヤモンドでもハンマーで叩くと砕けます。大理石も同じように砕くことは可能ですが、そこは「 岩石 」である訳ですから 削るのは容易ではありません。

そこで、モース硬度が3~4の大理石にキズをつけたり削ったりするのに用いられたのが、旧石器時代から よく知られていた モース硬度5の 黒曜石 ( オブシディアン  /  Obsidian ) です。

ミノア文明の都市である クレタ島のイラクリオンで発見された、ミロス島から 紀元前3000〜2300頃に輸入され 使用された黒曜石製石器

そして‥ モース硬度に着目すると、パロス島と 狭い海峡をはさんで 8kmほどの距離で隣り合っているナクソス島に コランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery ) の鉱山があることが 驚きをもたらすと思います。

これらの鉱石は、大理石彫刻において”最高の働き手” として重要なのですが、それらも含めて必要なものが 同じ地域で入手できるというすばらしい “偶然”が キクラデス諸島には あったからです。

Emery Mine   /  Naxos island Emery Mine   /  Naxos island

因みに‥  近年ですが、ギリシャ地質学会は ナクソス島で採掘されたとされているコランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery )のなかに、サモス島で採掘された “Samian Emery” が 一定量 含まれている可能性があるとして、その検証を提言しています。

Emery deposit of Samos (  “Samian emery”  /  Geological Society of Greece )

しかし、同じエーゲ海で、ナクソス島から北東方向 100km 程に位置する サモス島も 古代の交易圏でしたので、キクラデス文明に寄与したという点での違いは ほとんど無いと思われます。

コランダム は比重が 4.0 で、酸化アルミニウム の結晶からなる鉱物です。そして 純粋な結晶は無色透明ですが、結晶に組みこまれる不純物イオンにより色がわかれるために 天然コランダム鉱石は 宝石として加工され、ほとんど同じ鉱物ですが ルビー、サファイアなどと呼び分けられています。

このように色彩的に多くのバリエーションを持つコランダム鉱石ですが、特記すべきは モース硬度が ” 9 “であることです。

つまり、この鉱石は ダイヤモンドについで高い硬度のため「 他のほとんどの鉱物 」を削り取ることが出来るのです。

また、エメリー鉱石は 比重が 3.75 ~ 4.31 の 鉄に近い質感の鉱石で、 コランダムに 磁鉄鉱、赤鉄鉱、スピネルなどの不純物が含まれたものです。このため エメリー鉱石も 極めて硬く ( モース硬度が 7~9 ) 、石器として使用されただけでなく 砂状や粉末状にして研磨材としても 重用されました。

Emery of Samos ( Geological Society of Greece )

なお、日本では エメリーや、柘榴石 ( ガーネット  /  モース硬度 6.5~7.5 ) を粉末にした研磨材をどちらも「金剛砂」と呼んで使用していました。

ともあれ、キクラデス諸島では『 ミロのヴィーナス 』や、『 サモトラケの ニケ 』が製作されたヘレニズム時代( 紀元前323年頃~紀元前30年 )より、更に 2800年程遡った時期に 黒曜石や コランダム鉱石、エメリーなどを用いて大理石を削って彫像を製作する技術が確立していました。

これらは総称して『 キクラデス文明 』( 紀元前3200年~紀元前2300年頃 ) と呼ばれています。

“Cycladic Idol”  from Amorgos,  ca.2700B.C.~2300 B.C.
Marble, High150cm ( Largest known example of cycladic sculpture ).  National Archaeological MuseumAthens .

そして、この文明では キクラデス諸島の島々で出土した数多くの『 キクラデス偶像 ( Cycladic Idol ) 』が その象徴としての役割を果たしています。

In 14 December 2010,  a marble female figure dated to circa 2400 B.C. and attributed to “The Schuster Master” was sold in New York ( Christie’s ) for $16,882,500 (  ¥1,410,701,700  ) , a world record for a Cycladic figure at auction.   High 29.2cm.

たとえば、高さが 30cm程である このキクラデス偶像は、2010年に開催されたクリスティーズのオークションにおいて、日本円換算で 14億1千万円で落札されており‥  私は、それを 本当に意味深いことであると思っています。

大理石偶像 ( Cycladic Idol ) の製作実験

ところで‥ このようなキクラデス偶像ですが、 肝心な事柄である『 なぜ製作されたのか?』が判明していません。このため現在でも、その出土状況なども含めて研究が続けられています。

なお、発掘された場所に関してですが、たとえば キクラデス偶像を分類するための名称のひとつが ナクソス島の埋葬遺跡である “Spedos” に因んだ “スペドス型” であるように、おもに墓地の遺跡から出土しているようですが、現在も発掘が行われているテラ島 ( サントリーニ島 ) のアクロティリ遺跡のように、火山灰などに埋まってしまった街区から 発掘されたという事例もあります。

The ancient buried city of Akrotiri, Thira ( Santorini ).

アクロティリ遺跡は 紀元前1628年頃の大噴火 ( ミノア噴火 ) によって埋もれてしまった街です。

このアクロティリ遺跡の発掘現場で、近年のことですが‥ 火山灰に埋まっていたキクラデス偶像が掘り出された時の様子をご覧ください。

現在の “Akrotiri Museum ( アクロティリ遺跡 )” は屋根が設けられ、遺跡の間にある通路を移動しながら見学できるようになっています。

この時の調査対象は、中央部にある箱状遺物の内部で、調査のはじめに箱のフタ部分が取り除かれました。

この箱状遺物の中には、火山灰に埋もれるように また箱が入っていました。

そして、慎重に内箱の中の火山灰を吹き飛ばしていくと、土砂の中から キクラデス偶像の頭部が見えてきました。

その後の発掘作業によって、埋まっていたキクラデス偶像の全容が確認できるまでになりました。

この箱状遺物の調査は ここまでで、今後の発掘方針が決まるまで 一旦 そのままで保存することが決定されました。

盗掘されるなど 様々な事情により、キクラデス偶像は出土状況が不明な場合が多い‥ という中で、この アクロティリ遺跡での出土事例は、『 キクラデス文明 』を解明するための重要な記録となったそうです。

因みに 下写真は 上記調査の後ですが、アクロティリ遺跡の近くのエリアで、同じように二重になった箱状遺物のなかから 別のタイプのキクラデス偶像が発掘された時のものです。

このように 箱状遺物からの出土事例が 複数あるという状況を、 私も興味深く感じています。

“Box situation”   :   The statuette was found in a clay box placed Russian-doll-style within another, It is the second statuette of its kind revealed boxed up at the site. Aegean city of Akrotiri.

現在までの研究で判明しているのは、キクラデス偶像は かなりの数量が出土していて、そのタイプは 紀元前2700年頃を境として 前の500年間後の400年間に 分けることが出来るということです。

それが、グロッタペロス ( 初期キクラデスⅠ   紀元前3200年~2700年頃 ) とケロスシロス ( 初期キクラデスⅡ  紀元前2700年~2300年頃 )です。

これらの分類名も、偶像が出土した重要な埋葬地から付けられています。なお、残念なことに、キクラデス初期の居住地は 地震や火山の噴火のために ほとんど発見されていないそうです。また、キクラデス偶像のほとんどは これらの期間だけで製作されたようです。

キクラデス偶像は おもに女性をモチーフとしており、表現手法としては 石の単純な加工により偶像としてのイメージを付与したものから、人体をリアルに表現したものまでありバリエーションは豊富でした。

また 科学的分析によると、大理石の表面は鉱物ベースの顔料( 青の場合はアズライト、赤の場合は辰砂 )で着色されていたようです。

● キクラデス偶像においての比率と、コンパスについて

このように 様々な知見を与えてくれる キクラデス偶像ですが、最も重要なことは、コンパスの使用が推測される‥ 比率 が用いられていることではないでしょうか。

言うまでもなく コンパスは文明の利器ですから、その使用は後世の歴史にとっても 深い意味をもちます。

しかし、問題はそれを用いたことを証明するほどの痕跡が残らないということです。

そこで コンパスの使用された状況証拠をもとめて 世界の文明史をさかのぼってみると‥

現在、最古の文明と考えられており 今も発掘作業がおこなわれている メソポタミア北部の ギョベクリ・テペの遺跡は 紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃にかけて建設され、そこから南東方向120km程にある テル・ハラフには ハラフ文化 ( 紀元前6000年~紀元前5300年頃 ) があったことが分かっています。

ハラフ式彩文土器 ( Halafian ware )

それらは、都市文明のはじまりとされる ウルク文化( 紀元前4000年~ 紀元前3100年 )や、同じころその南に建設されたウル ( Ur ) を都とした シュメール文明に影響を与えた可能性が 十分に考えられます。

“Tablet with pictographs”  Uruk period IV 3500 B.C.

“Tablet with pictographs”  Uruk,  ca. 3100 B.C.~2900 B.C.

ウルク文化期の紀元前 3700年頃には シュメール人によって楔形文字である ウルク古拙文字が発明され、それが次第に改良されて 紀元前2500年頃には シュメール文字として定着し、それらの文化は バビロニア ( ‎紀元前1830年頃~紀元前 1712年 ) に受け継がれ発展しました。

同じころ ( 紀元前3200年頃 ) エジプトでも ヒエログリフと呼ばれる文字体系が確立し、太陽暦が普及するとともに、メンフィスを都としてエジプト初期王朝時代 ( 紀元前3150年~紀元前2686年頃 ) が始まりました。そしてこの頃には 度量衡も 広範囲に伝わっていったようです。

‥‥  このように世界の文明史を追いながら コンパスの使用された状況証拠をもとめて検討した結果、私は 紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作されたと考えられている「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」が、コンパスを使用した 最古の状況証拠となるのでは‥ と考えるようになりました。

“Towie Ball” ( Celtic Carved Stone Ball,  ca.3200B.C.~2500 B.C. )
Found at Towie in Aberdeenshire, Scotland.  The ball has four knobs, three of them decorated with spirals or dots.

なお、石に装飾文様などが 巧みに彫り込んであるのは  紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃の ギョベクリ・テペ遺跡を最古として世界各地で発見されていて‥ 同時期であげれば フランス、モルビアン湾の ガヴリニ島にある 紀元前3500年頃の遺跡などのように、大規模で且つ 芸術的な遺跡や遺物も少なくはありません。

“Gavrinis passage tomb”,  Cairn Gavrinis.
Gavrinis is a small island in the Gulf of Morbihan in Brittany, France.
At the time of construction in 3500 B.C. , the island was still connected with the mainland.

しかし「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」のように、 造形的特徴をなす多数のポイント同士が さまざまな対称性や 一定の比率 などの 幾何学的条件を満たしているものは稀有です。

これこそが コンパス ( Compass ) 、または ディバイダー ( Divider ) を使用した状況証拠と言えるのではないでしょうか。

   

Geometric Stone Spheres of Scotland stone ball found at Skara Brae ( around 3200 B.C. ~ 2500 B.C. )   National Museums Scotland

たとえば、これらの石球のひとつである上写真のものは スコットランドの首都 エディンバラ  ( Edinburgh ) にある “National Museums Scotland” に展示されていますが、これは 新石器時代であった紀元前3200年~紀元前2500年頃の集落遺跡 スカラ・ブレイ ( Skara Brae ) で発掘されたものです。

大きさに関しては、一部の例外を除いたほとんどの石球が 直径7cm程で、この出土品も含めて 綺麗な多面体が多く、その中には 4種類の 正多面体も確認されており 楕円形のものはわずかしかないそうです。

また、上写真の石球には 67個の突起がありますが、表面に彫り起こされた突起は 3個〜160個まで 多くのバリエーションがあります。それから、装飾がないものや 複雑な彫刻が施されたものも出土しているようです。

“Carved stone ball” ( classed as Neolithic )
Room 51,  British Museum

この写真は「 大英博物館 」の 51番展示室において公開されている石球のものです。ここには 30個以上の “Carved stone balls” が収蔵されています。            これらの石球は スコットランドだけでなく、イングランドなど各地で、およそ387個程が発見されています。因みに、これらの内  アバディーンシャー ( Aberdeenshire ) では 群を抜いて最も高い密集度 ( 169個 )で発見されたそうです。

“Geometric Stone Spheres of Scotland”

Ball from Kincardineshire, Found 1890. ( AN1927-2727 )

 

Ball from Fyvie, Found 1885. (  AN1927-2731 )

Ball from Auchterless, Found 1885. (  AN1927-2729 )
The Ashmolean’s collections

ところで、このように紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作された 幾何学的な石球の製作に コンパスが使用されたとすると、コンパス自体の出土状況も気になるところです。

そこで 私も それに関してのリサーチを試み、共和制ローマ期 (  古代ローマでは 元老院と執政官が民会の決議により政治を行っていました。) である紀元前509年~紀元前27年頃に作られたコンパスや デバイダーまでは確認しました。

“Compass or divider” Roman, Bronze ( 191mm )

Ancient Roman Bronze Rare Architects Geometrical Compass, elegantly decorated and in fantastic condition still usable.

(  Reproduction  )

Compass excavated from “Pompeii”,  ca.89 B.C.~79 A.D.
Naples Museo Archeologico Nazionale 

それから 傍証になることを願い、コンパスより遙かに大きいために 出土事例が多い 古代ローマ時代の 刀剣であるグラディウスのなかに、金属製のコンパスが製作されたイメージを探してもみました。

グラディウス・ヒスパニエンシス型刀剣 ( Gladius hispaniensis ) は、ローマ軍が長期間にわたって使用した事から古代ローマ時代における剣の代名詞となっています。その名が示す通りイベリア系刀剣の製法や形状などを、ローマ軍でも導入したもので 短めの刀身と厚い刃が特徴とされています。

これがローマ軍に標準型刀剣として大量に導入されたのは “ハンニバル戦争”という別名がある第二次ポエニ戦争 ( 紀元前219年~紀元前201年 )の頃といわれています。そして、その性能が評価されたために 紀元前27年に古代ローマが 皇帝が治めるローマ帝国となっても 標準型刀剣として使い続けられました。

材質は、銑鉄と軟鉄が交ざった状態の合金鉄材が使用されており、鍛造により製造されたために 両方の優れた特性を得て、それ以前の同サイズの鉄剣と比べ破損し難く 切れ味も 格段に向上した刀剣であったと記されています。

因みに、古代ローマ帝国の グラディウスは刃渡 ( Blade length )が 40cm~68 cm 程で、柄まで含めた全長は 60cm~85 cm 、重量が 0.7kg~1.0kg 程だったそうです。

ヨーロッパにおいての青銅器時代のはじまりは、地中海地域では 紀元前3000年頃で、アルプス以北ではまず紀元前3000年~ 紀元前2000年頃にかけて銅器時代があり、移行期を含めた紀元前2300年~ 紀元前1800年頃にかけてが青銅器時代であったと言われています。

そして、紀元前2000年頃にヒッタイト ( 紀元前1680年頃~紀元前1190年頃 ) の都 ハットゥシャが在った アナトリア地方中部で誕生した冶金技術によって鉄器の使用が始まり、その担い手となったヒッタイト帝国が滅亡すると、多くの人々が移住せざるを得なかったため 結果として鋳鉄技術も他の地域に伝播することになりました。このため、紀元前1000年~紀元前800年頃には ヨーロッパ各地で 鉄器の製作が本格的におこなわれたとされています。

なお、イタリア半島では 紀元前700年~ 紀元前350年頃にかけて鉄器文化が栄えるようになったそうですが、その担い手は イベリア半島に移住し イベリア人と同化していたケルト系の技術者であったと考えられています。私見ですが‥ グラディウスを製造できる彼らにとって、コンパスを製作するのは 容易いことだったのではないでしょうか。

Alfius Statius, “Funeral Monument”.

Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).

それから、コンパスは 建築や天文、船舶の航海術などにとって 重要な道具であったために、シンボルとして記念碑や、墓碑などにレリーフとして刻まれていることがあります。

その中でも、ローマ帝国の初代皇帝となった アウグストゥスに重用された 建築家の Alfius Statius の「 葬儀記念碑」は 彼がコンパスなどを使用していたことをはっきりと証ししています。

Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).

さて、そこまでは良かったのですが‥  残念ながら 現時点では キクラデス偶像が製作された 紀元前3200年~ 紀元前2300年頃に コンパスが存在し、また 使用されていたという明らかな証拠は見つけられませんでした。

 

しかし、同時期に製作されたと考えられる「 スコットランドの幾何学的な石の球 」の製作にも 正確な測定と応用のスキルが必要であるように、 コンパスの使用無くして多くのキクラデス偶像の造形的特徴となっている 一定の比率が反映した偶像製作は難しいと思われます。

帰謬法的な想像力が必要ですが、大理石などで製作されたキクラデス偶像が多数出土したのは およそ 900年間に渡って一定の比率で製作する文化が 受け継がれたからではないでしょうか。

ともあれ‥  ここから キクラデス偶像の多く、特にスペドスタイプなどに見られる比率構成についてのお話をさせて下さい。

  

先程ふれましたように、キクラデス偶像は 紀元前2700年頃を基準とした区別が可能で、それはこの図のように全長比で「 3分割タイプ 」が 「 4分割タイプ 」に移行するほどの 違いであることが 出土した偶像で確認されています。“Canonical” figurines

また この時期の前後では、全長に対する幅の割合基準とする基準点が変更され、全長比で「 1/6 胴幅 」であったのが「 1/4 肩幅 」とされるようになったという学説もあります。


“Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ),  circa 2600B.C.~ 2400 B.C.

  “Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ),  circa 2600B.C.~ 2400 B.C.
「 Bastis Master 」 Marble,  High 62.79cm
Metropolitan Museum of Art

 
Cycladic female figurine of the Plastiras variety.     /    Marble
Early CycladicⅠperiod ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )”Grotta-Pelos” group. From the cemetery of Glypha on Paros, grave 23.
National Archaeological Museum of Athens, inv. no. 4762.

因みに、「 3分割タイプ 」以前は初期に製作された”原型”の流れをくむ 「 2分割タイプ 」の “抽象形体型”が ありました。

  Cycladic female figurine,   Marble on Paros
Plastiras  “Violin shaped ”
Early Cycladic Ⅰ period ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )
National Archaeological Museum of Athens

その”抽象形体型”の最終期に製作されていたのが “ヴァイオリン”という通称で呼ばれる、このようなキクラデス偶像です。

私は このタイプが 「 首の付け根 」を 2分割のポイントとしていることを興味深いと思っています。 

“Cycladic type Idol”,  Excavated in Anatolia
「 Grotta pelos 」ca.3200 B.C. ~ 2800 B.C.

このように、キクラデス偶像は およそ900年間に渡って 多数製作されていますので、これらにおいて比率が重要であったことは 間違いないようです。 よって、アナトリア半島で出土した この”抽象形体型”であっても「 首の付け根 」が  2分割のポイントとなっているという推測が成り立つわけです。

● 『 プロポーション ( 比率、均衡 ) 』の 実際例

ここまでお話しさせていただいたように、キクラデス偶像からは 製作された時にそれぞれの部位間の比率が 強く意識されていたことが確認できます。

このように、頭の長さに対しての身長の割合などとして人体を捉えることを、古代ローマの頃から「 人体プロポーション 」と呼ぶようになり、 その後も重要なものとして伝承されました。

それは この捉え方が、私たちに直感的なインスピレーションを与えてくれるからではないでしょうか。

“The illustration on The Pioneer plaque”,   NASA
The plaques show the nude figures of a human male and female along with several symbols that are designed to provide information about the origin of the spacecraft.

余談となりますが、人体プロポーションに関して、ある意味では 非常に象徴的な出来事が 48年程前にありました。

それは、人類史上はじめて太陽系外に 宇宙探査機を向かわせるおりに、探査機 パイオニア10号 ( 1972年 )、11号 ( 1973年 ) に「 人類からのメッセージ 」として この金属板 ( Pioneer plaque ) が取り付けられたのです。

つまり、この探査機は星間空間を漂う一種の”ボトルメール”の役割を持っていました。この計画は カール・セーガン ( Carl Edward Sagan 1934-1996 )、 フランク・ドレイク ( Frank Drake 1930 – )さん達の提案によったものだそうですが、私は この “Pioneer plaque” の表現を実に興味深いと思っています。

 
“Cycladic Idol” 、紀元前2600年~ 紀元前2400年頃
大理石材、高さ62.79cm
Metropolitan Museum of Art

このような人体プロポーションについての意識は、 日本の仏像彫刻などにも見つかります。たとえば、大仏師の運慶 ( 1150年頃 – 1224年没 )が制作の総指揮をした 奈良、東大寺南大門の金剛力士像は 上図のように 5頭身のプロポーションです。

おなじく、運慶が監修して1212年に制作された 国宝「 無著像 」は 5.8頭身で制作されており、天部の神である金剛力士と 4世紀のガンダーラに生きた高僧 ( 人間 )から菩薩となった無著との違いなど、表現対象の意味を踏まえたプロポーションが 選択されていると推測できます。

 

国宝 “無著菩薩”(  鎌倉時代、高さ 194.7cm )

そして、この少し後のイタリアで見ると‥ 建築家フィリッポ・ブルネレスキ ( Filippo Brunelleschi  1377-1446 ) とともに活躍したドナテルロ ( Donatello 1386-1466 )が、1440年頃に制作した “ダヴィデ像”は 5.9頭身と見てとれます。

“David” Donatello ( 1386-1466 ), Repubblica fiorentina、1440年頃

“David” Andrea del Verrocchio ( ca.1435-1488 )
Bronze 125cm 、1466年~1469年頃

また、ドナテルロのようにメディチ家の支援を受けながらフィレンツェで活躍し、レオナルド・ダ ・ヴィンチ ( 1452-1519 ) の師としても有名となった ヴェロッキオ ( ca.1435-1488 )が制作した “ダヴィデ像”は 6.4頭身になっています。

彼の工房では レオナルド・ダ ・ヴィンチのほかにも、ボッティチェリ、ペルジーノ、ギルランダイオ達も働きました。ちなみにペルジーノは ラファエロの師匠で、ギルランダイオはミケランジェロの師匠となりましたからイタリア・ルネサンスにヴェロッキオが大きく影響したことは間違いありません。

“Personification of a Virtue”  Antonio del Pollaiolo ( ca.1433-1498 ) テラコッタ,  1470年頃

そして、この当時 フィレンツェでヴェロッキオ工房と競合していたのが アントニオ・デル・ポッライオーロと 弟、ピエロ・デル・ポッライオーロの兄弟です。その兄弟工房で、兄であるアントニオ・デル・ポッライオーロが制作した「美徳の擬人化 」は 6.6頭身で製作されています。

“Giuditta” Antonio del Pollaiolo ( ca.1433-1498 ) Bronze,  1470年頃

また 同時期に彼が制作した、アッシリア王が派遣した将軍ホロフェルネスの首を刎ね ユダヤ人を危機から救った若く美しいユダヤ人女性「ユディト ( Giuditta )」のブロンズ像は 7.2頭身となっています。

“David”  Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni  ( 1475-1564 )
大理石、 高さ 5.17m、1504年

それから、その次の世代にあたる ミケランジェロの “ダビデ像”は 6.6頭身で製作されており、彼が選択したプロポーションは神による創造物を精細に再現した最も優れたものとの評価を受けたそうです。

こういった歴史研究により、古代から人々は 美の規範 ( カノン ) を 数学的比例関係の問題として理解し、彫刻、絵画、建築などにおいて理想的比率を追求したと説明されるようになりました。

これは端的にいえば、キクラデス偶像が 人体プロポーションについての意識を証ししている事と、その概念が 2000年以上前に ウィトルウィウス ( Vitruvius )という古代ローマの建築家がまとめた書物『 “De architectura” ( 建築について ) 』に説かれていたからです。

Vitruvius, “De architectura”,  Marcus Vitruvius Pollio ( circa 80B.C.~15B.C. ), Roman Republic
【  British Library manuscript Harley 2767  】  
Date :  1st quarter of the 9th century, Germany
Language :  Latin

残念ながら『 “De architectura” ( 建築について ) 』 の原本は すでに失われていますが、9世紀初頭に製作されたこの写本によって 結果としてその内容が後代まで伝えられ、その思潮はヨーロッパ世界に大きな影響をあたえました。

さらに、15世紀になるとこの写本 ( British Library manuscript Harley 2767 ) は、活版印刷 ( 1439年頃 )に成功していたヨハネス・グーテンベルク ( ca.1398~ 1468 )らによって復刻のための底本とされ、1450年頃からいくつかの復刻版が出されています。

これによって、建築家の ウィトルウィウス 紀元前30年~紀元前23年頃の時点で プロポーションの概念に相当する “Symmetria”と “Eurythmia” を、建築の6つの重要な起点のうちの 2つとしていた‥ ということや、彼が捉えたその法則性 などが確認できます。

 

その状況に呼応するように、15世紀後半からは『 “De architectura” ( 建築について ) 』に触発されたと考えられる人体の比例関係図や、それを検証したノートなども多数残されています。

また、イタリア、コモで 1521年に出版された  チェザーレ・チェザリアーノ ( Cesare di Lorenzo Cesariano 1475-1543 ) 復刻版からは、銅版画によるイラストが添付されて人気を集め、ラテン語版から イアリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などにも翻訳されて出版されることとなり、 ヨーロッパ世界に普及したことも 残存書籍によりあきらかとなっています。

“De Architectura”,  Vitruvius.   by  Cesare di Lorenzo Cesariano ( 1475-1543 ),  printed in Como in 1521年刊
Vitruvius’ works were largely forgotten until 1414, when De architectura was “rediscovered” by the Florentine humanist Poggio Bracciolini in the library of Saint Gall Abbey.    Leon Battista Alberti published it in his seminal treatise on architecture, De re aedificatoria ( c. 1450 ).

この書物において、人体の数学的な比例関係を意味する “人体プロポーション” という概念が 説かれているために、後にこのような関係図は『 ウィトルウィウス的人体図 』と呼ばれるようになりました。

ウィトルウィウスの著作『 デ・アーキテクチュラ ( 建築について) 』( 第3巻 1章2節から3節 )

  1.     掌は指4本の幅と等しい
  2.     足の長さは掌の幅の4倍と等しい
  3.     肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい
  4.     2歩は肘から指先の長さの4倍と等しい
  5.     身長は肘から指先の長さの4倍と等しい( 掌の幅の24倍 )
  6.     腕を横に広げた長さは身長と等しい
  7.     髪の生え際から顎の先までの長さは身長の1/10と等しい
  8.     頭頂から顎の先までの長さは身長の1/8と等しい
  9.     首の付け根から髪の生え際までの長さは身長の1/6と等しい
  10.     肩幅は身長の1/4と等しい
  11.     胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4と等しい
  12.     肘から指先までの長さは身長の1/4と等しい
  13.     肘から脇までの長さは身長の1/8と等しい
  14.     手の長さは身長の1/8と等しい
  15.     顎から鼻までの長さは頭部の1/3と等しい
  16.     髪の生え際から眉までの長さは頭部の1/3と等しい
  17.     耳の長さは顔の1/3と等しい
  18.     足の長さは身長の1/6と等しい

この18個の項目に加えて『 人体の中心は宇宙の中心と同じである。人間が両手両脚を広げて仰向けに横たわり、へそを中心に円を描くと指先とつま先はその円に内接する。さらに円のみならず、この横たわった人体からは正方形を見いだすことも可能である。足裏から頭頂までの長さと、腕を真横に広げた長さは等しく、平面上に完璧な正方形を描くことが出来る。』という説明が添えられていました。

これが ウィトルウィウスが記したプロポーションの法則 ( “Canon of Proportions” ) です。

“Vitruvian Man”, illustration in the edition 
Cesare di Lorenzo Cesariano (1475-1543) , printed in Como in 1521.

この人体比率を、1521年の チェザーレ・チェザリアーノ版で底本に加えられたイラストではこのように表現していました。

『 ウィトルウィウス的人体図 』1485年~1490年頃 ( Leonardo da Vinci 1452-1519 )

そして、このように多数ある『 ウィトルウィウス的人体図 』の中で、チェザーレ・チェザリアーノ版が出版される少し前に レオナルド・ダ ・ヴィンチが描いたこのドローイングが歴史上で最も有名なものとなりました。

なお、このドローイングには鏡文字で 『 ウィトルウィウスの著作に従って描いた男性人体図の習作である。彼が提唱した理論を表現した。』と書かれています。

この『 ウィトルウィウス的人体図 』は、よく見ると 縦線や横線で分割線がいれられ、8頭身のプロポーションの他にそれぞれの部位間の比率が規定されていることから レオナルド・ダ ・ヴィンチがそれらに強い関心を持っていたことが端的に示されています。

そのこだわりに凄味を増させるのが、彼が 「 ウィトルウィウスのプロポーションの法則 」に次のような変更を加えていることです。

  1.   顎から額、髪の生え際までの長さは身長の 1/10
  2.   広げた手の手首から中指の先までも身長の 1/10
  3.   首、肩から髪の生え際までの長さは身長の 1/6
  4.   胸の中心から頭頂までの長さは身長の 1/4
  5.   顔の長さは、顎先から小鼻までの長さ、小鼻から眉までの長さ、眉から髪の生え際までが いずれも顔の長さの 1/3
  6.   足の長さは身長の 1/6
  7.   肘から指先まで、胸幅は身長の 1/4

ここに至っては‥ 現代人の感覚から言えば『 そこまで こだわります‥?』という感がありますが、少なくともこの事から彼が 人体の比率関係に関して明確な見識を持っていたことが判ります。

私は、レオナルド・ダ ・ヴィンチ ( Leonardo da Vinci 1452-1519 ) が『 ウィトルウィウス的人体図 』にこのようにこだわったのは、彼がこの頃には既に人体解剖に立ち会い、人体を素描で記録する研究をはじめていたからではないか‥ と考えています。

彼が 最初に頭蓋骨などの素描をノートに記録したのは 1489年、37歳頃であることが確認されています。しかし、20歳の時にヴェロッキオを手伝って完成させた作品「キリストの洗礼」( 1472年~1475年 ) には、すでに解剖学に根ざした表現が見て取れるとも言われています。

このことから、ヴェロッキオとダヴィンチは、この頃解剖学についてある程度の素養を持っていたのではないかと推測されています。

また、ヴェロッキオの工房の近くには、彫刻家で画家のポッライオーロ兄弟の工房がありました。当時 この兄弟は 解剖を行なっていたため、ダヴィンチは彼らに解剖を教わったのではないか とする指摘もあります。

その レオナルド・ダ・ヴィンチ ( 1452-1519 ) は 当初は絵画の写実性を高めるために解剖をしていたと言われています。

しかし、その後 ミラノで解剖学者の Marcantonio della Torre と共に解剖を進めるうちに、人体そのものに興味を抱くようになり、芸術家としてではなく科学者として人体とその器官の素描を行うようになったようです。

彼は 1489年から このように‥ 解剖した人体の詳細な素描を描き始め、 それを 教皇レオ10世に禁止されるまで‥ およそ 20年間それをつづけ、30体近い死体を解剖して750枚ほどの素描を遺しました。

この時代に行われていた人体解剖の状況を調べてみると、他にも多くの実施例があったことがわかっていますが、知られているように 彼の緻密な解剖記録は “人体プロポーション” だけでなく医学的にも重要な研究資料となりました。

● アルブレヒト ・デューラーの登場

そして、これらの人体に関する比率などの研究成果は、最終的に レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交があったアルブレヒト ・デューラー ( Albrecht Dürer 1471-1528 ) が 1528年に出版した 4冊の研究書に集約され完成することとなりました。

“Human Proportions ( Menschlicher Proportion )”
Albrecht Dürer 1471-1528, Nuremberg,  1528年

アルブレヒト ・デューラー ( Albrecht Dürer 1471-1528 ) は1471年に、金細工職人でハンガリーからの移住者⦅ 1455年 ⦆であった同名のデューラー( 1427-1502 )の息子として、ニュルンベルクに生まれています。

『 父親、 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) の肖像画  』
( Portrait of Dürer’s Father at 70 ) 、1497年

『 母親の肖像画 』( Barbara Dürer ca. 1451–1514 )、by Albrecht Dürer (1471-1528 )、1490年

因みに、画家アルブレヒト ・デューラーの洗礼時の代父アントン・コーベルガー ( 1440-1513 ) は、金細工職人から ドイツで最も成功した印刷家、出版家となった人物でした。

彼は1470年に 出版社を創業し、1493年にミヒャエル・ヴォルゲムート工房の版画挿絵で「 ニュルンベルク年代記 」を出版して、大成功をおさめました。この時期に彼は ニュルンベルクやヴェネツィアなどに印刷所を構え、24台の印刷機と100名ほどの労働者を雇って印刷物を製作するとともに、ミラノ、パリ、リヨン、ウィーン、ブダペストなどに書店と代理店からなる販売網を構築しました。

“13歳の自画像” ( 紙にメタルポイント )
Albrecht Dürer (1471-1528 ) 1484年

このように金細工職人や 印刷関連の人々、そして画家や版画家などが身近に住むニュルンベルクにおいて、少年デューラーは 13歳頃にはすでに早熟な才能の片鱗をあらわし、1485年からは画家ミヒャエル・ヴォルゲムート ( 1434-1519 ) の徒弟となり1489年まで彼の工房で働きました。

“Portrait of Michael Wolgemut”  ( 板、テンペラ、油彩 )
by Albrecht Dürer,   1516年

すでに大画家としての名声を得ていたデューラーは、修業時代に世話になった恩師ミヒャエル・ヴォルゲムートの肖像を描きました。この肖像画には「1516年、師ヴォルゲムートを前にしてこれを描いた。ヴォルゲムートは当時82歳で、1519年まで生きた」という趣旨の銘文があります。絵の完成から3年後の1519年、恩師の死を悼んでこの言葉を画中に書き記したものと考えられています。

“22歳の自画像”、 Albrecht Dürer (1471-1528 )  1493年
銘文は「我が身に起こることは、天の思し召し」と書かれています。   

ところで‥ “自画像”という概念がなかった中世までは「自分の手で描かれた画家自身の絵」という表現がなされており、自画像という熟語はありませんでした。


「東方三博士の礼拝」に描き込まれたボッティチェリの自画像

たとえば初期ルネサンスを代表する画家 サンドロ・ボッティチェリ ( 1445-1510 ) の肖像として引用されるのは、新約聖書を主題とした「東方三博士の礼拝」( 1475年 ) の画面右端に立つ人物像です。 ラファエロやミケランジェロなども同様に、作品の登場人物に自身の顔を紛れ込ませて描いたことが知られています。

『 22歳の自画像 』はデューラーが最初に油彩で本格的に描いた自画像ですが、西洋美術史における初めての”自画像”でもあります。このことから、デューラーは “自画像”の創始者と呼ばれています。

自画像は、描き方の要素もそうですが さまざまな目的や背景が混在しやすいので読み解きは難しいですが、デューラーの 自画像においては「私とは誰か」という哲学的な問いかけが根底にあるのではないでしょうか。


“My Agnes”  ( Agnes Dürer née Frey  1475-1539 )
Drawing by Albrecht Dürer  1494年

Agnes Dürer was the daughter of the coppersmith Hans Frey and his wife Anna, a member of the patrician family Rummel.

デューラーは、1490年~1494年に まず北ヨーロッパで研鑽をつみ、1494年にニュルンベルクに戻ると、Agnes Frey ( 1475-1539 )と 結婚するとともに本格的な製作活動をはじめました。

そして、些かあわただしいですが 24歳のデューラーは 1495年~1996年には パドヴァとマントヴァを経てヴェネツィアに滞在しました。

“Agnès, in Dutch clothing”、Agnes Dürer née Frey ( 1475-1539 )
「 The wife of Albert Dürer  」1521年

 “Self Portrait ( 26歳 )”、 Albrecht Dürer (1471-1528 )    1498年

なお 特記すべきことは‥ デューラーはヴェネツィアで知り合った 画家ヤコポ・デ・バルバリ ( Jacopo de’ Barbari   ca.1460-1516 ) が 1500年にニュルンベルクを訪れたおりに、遠近法、解剖学、人体均衡論つまりプロポーション理論などを、彼から学んだと述べていることです。

デューラーは書簡などを多く残しており それらによって、彼が 芸術作品は 幾何学的な明確さを持ち、また 一定の比例理論に基づいていなければならないという確信を早い時期から持ったことが分かっています。そして、彼はこの頃から それらに関する研究をなお一層 積極的に行うようになりました。

● デューラーと 信仰について

ところで、彼は 28歳であったこの年にも 自画像を製作しました。これが、彼の人生で最後の自画像となりました。

“Self Portrait ( 28歳 )” ( 菩提樹材 Tilia sp.、油彩 67.1 x 48.9 cm  ) Albrecht Dürer (1471-1528 )  1500年
Alte Pinakothek in München    
銘文は「それゆえ私、ニュルンベルク生まれのアルブレヒト・デューラーは 28の年に消えることのない色彩でもって自分自身を描いた。」と書かれています。

この自画像は 彼の強い信仰心を表明したものである可能性があります。顔の表現は伝統的なキリストの描き方‥ 左右対称なポーズでまっすぐにこちらを見つめ、茶色い髪は中央で分けられて肩にかかるように‥描かれています。つまり、画家が自らをキリストに重ねて表現したと見てとることができるのです。

デューラーが生きた時代に ヨーロッパ世界は 度重なる戦乱や迫害、ペストなど様々な困難に直面していました。

死と終末を思う緊迫感の中で 多くの人々が 敬虔な生き方のなかに救いをもとめました。これらの信仰活動は「 デヴォツィオ・モデルナ “Devotio moderna”(新しき信仰)」と呼ばれました。

その精神がもっともよく表されたのが、デューラーが生れる少し前に刊行され “聖書に次いで 2番目に多く出版された本” という呼称も持っている『イミタツィオ・クリスティ ( De imitatione Christi ) 』すなわち「 キリストにならいて 」という信心書です。


“The Imitation of Christ”  ( It was written in 1469 at the Carthusian monaste. )

この信心書には 黙想と祈りを通して神にいたる道が説かれ、 デヴォーションとして、信仰的な生活を歩むことが勧められています。そして、この概念は 当時のカトリック信徒に広く受け入れられ 『 祈り 』の根幹として用いられました。

( Devotionとは 「誓願により身を捧げる」を意味するラテン語 Devotio が語源で「神への信仰、敬虔」を意味しています。)

デューラーの『 1500年の自画像 』は、当初から物議をかもしたそうです。しかし、デューラーの生涯を検証すれば、キリストの似姿としての自画像は傲慢からではなく「 神は自らに似せて人間を創造し(旧約聖書の記述)、芸術の才能は神から授かったものである。」というような 彼の立ち位置が理解できるのではないでしょうか。

私は、デューラーが制作した『 1500年の自画像 』は、デヴォーションとして、神への感謝などを表明した作品であると思っています。

“Praying Hands”,   pen-and-ink drawing    1508年頃

ともあれ‥ デューラーは 31歳であった1502年に父親 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) を看取り、それが一段落した 1505年~1507年には 再びイタリアに滞在しました。

この滞在時には、レオナルド・ダ・ヴィンチの友人で比例理論の研究者として 1498年に『神聖比例論』( 1509年出版 )をまとめたルカ・パチョーリ ( Fra Luca Bartolomeo de Pacioli 1445-1517 ) にも教えを受けたようです。

また、彼は この時期に アレクサンドリアのエウクレイデス ( 紀元前330年頃から紀元前275年頃 ) が記した『 原論 ( ユークリッド原論 ) 』1505年刊ザンベルティ版 を購入するとともに、ウィトルウィウスの『 “De architectura” ( 建築について ) 』も所有し、その他にも比例理論に関して 1485年に出版された アルベルティ著の『 建築論 』、ボエティウスやアウグスチヌスの音楽調和理論まで詳細に検証しています。

こうして、デューラーは 正確で美しい形態を構成するための数学理論、人体比率論や透視図法、立体幾何学等の理論を発展させたと考えられています。

“Albrecht Dürer’s House” in Nuremberg
Nuremberg Fachwerkhaus that was the home of Albrecht Dürer from 1509 to his death in 1528.

そしてこの後 ‥ おそらく1507年の秋には ニュルンベルクに戻って活動を続け、1509年には「 終の棲家 」となったこの家 ( Albrecht Dürer’s House ) を購入し、ここを拠点としてより一層充実した制作や研究をおこないました。

特に 1513年~1514年にかけては 銅版画の傑作である『騎士と死と悪魔』、『メランコリア Ⅰ( Melencolia I )』、『書斎の聖ヒエロニムス』など美術史で傑作とよばれる作品群を発表しています。

“Melencolia I”  1514年  Albrecht Dürer ( 1471-1528 ),  engraving 242mm×191mm      Albertina Museum in Vienna

また‥ 彼の信仰を考える上で意味深いと感じられるのは、デューラーは それらの活発な制作や研究活動をしていたこの時期に母親の最後を看取っていることです。

“63歳の母 ( Barbara Dürer  ca. 1451–1514 )”、( 紙に木炭、42.1×30.3cm、ベルリン国立美術館 )

デューラーは自分の母親について、次のように書いている。
「母が発病した上記の日から一年余り経ったある火曜日、即ちキリスト降誕より数えて‥の二時間前‥   “1514年5月17日の夜 “、わが信仰深き母バルバラ・デューラー夫人は “終油の秘跡”を受け、教皇の力で一切の苦痛と罪障から解き放たれて、キリスト者として世を去った。

彼女は予め私にも祝福を与え、私が罪障から守られてあるよう、極めて美しい教えを以て私に神の平安のあるよう願った。彼女はまた前もって聖ヨハネの祝福酒を求めてそれを飲んだ。母は死神をひどく恐れていたが、神の御前に行くことは怖くないといった。彼女はたいそう苦しんで死んだ。そして私は彼女が何か恐ろしいものを見たのに気付いた。何故なら彼女は、それまで、長らく何も言わないでいたのに、急に聖水を求めたからである。こうして彼女の目が霞んだ。

私はまた死神が彼女の心臓に二突き大きな打撃を加え、彼女が口と両目を閉じ、苦痛を以てこと切れるのを見た。私は母の前で祈祷文を朗誦した。その時私は口には表し得ないような苦しみを覚えた。神よ、彼女に恩寵を垂れ給え」

( アルブレヒト デューラー 著、「 デューラーの手紙 」前川誠郎氏訳 )

私は アルブレヒト・デューラーという人が記したことばを可能なかぎり検討してみましたが、その生きざまには ブレることのない敬虔な信仰心を感じました。


“Room for praying”,  inside the Albrecht Dürer House

● デューラーと “宗教改革”の関係

1496年4月、ザクセン選帝侯フリードリヒ三世 (1463-1525 )は、神聖ローマ帝国議会からの帰路 ニュルンベルクに数日滞在しました。”賢明公 ( der Weise )”と呼ばれた彼は、当時のドイツで 極めて高い教養と敬虔な信仰心を持つていることで知られていました。

また、熱心な美術愛好家でもあった公はこのニュルンベルク滞在時に 8歳年下の若き画家デューラーに肖像画を描かせました。この肖像画の制作が、フリードリヒ三世が亡くなった 1525年まで30年間続いたパトロン関係の端緒となりました。そして、次の依頼は ヴィッテンベルクにある選帝侯の居城内聖堂の祭壇画制作でした。

それから、デューラーのパトロンと言えば‥  オーストリア大公マキシミリアン1世もそうでした。彼は1493年にハプスブルク家の家長となり、次いで1508年に神聖ローマ帝国の皇帝に選出された教養があり 芸術への関心も高い君主でした。

アルブレヒト・デューラーは1512年に皇帝マキシミリアン1世がニュルンベルクを訪れた際に初めて謁見し、3つの作品の注文を受けました。そして、後にこれらの注文を完成させた功績により 1515年に 彼は皇帝から年間100フロリンもの年俸を与えられました。

それから、デューラーは 1518年6月28日にマキシミリアン1世をアウグスブルクで開催された帝国議会の会期中にスケッチしています。そして、そのスケッチに「これは皇帝マキシミリアンである。彼をわたくしアルブレヒト・デューラーは、1518年の洗礼者ヨハネの祝日の後の月曜日にアウグスブルクの塔の中の小部屋で肖像に描いた」と書き込んでいます。

 

マキシミリアン1世はその翌年である、1519年1月12日に世を去りました。デューラーは1518年の素描をもとに木版肖像画、テンペラによる肖像画(ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館)、そしてこの油彩による肖像画を制作しました。

すでに歴史に刻まれているように、この16世紀初頭にヨーロッパ社会では大分裂が起こりました。この変革は ザクセン選帝侯フリードリヒ3世 ( Friedrich III. oder Friedrich der Weise von Sachsen 1463-1525 ) がキーパーソンの一人であったために デューラーをも直撃することになりました。

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世( 1463-1525 )は 1500年頃には 宮廷をヴィッテンベルクに移し、その下命により 1502年にはヴィッテンベルク大学が設立されました。

そして、マルティン・ルターは 所属していたエアフルトのアウグスティヌス修道院の指示で、1508年にこの大学に着任し 1511年には完全に移籍しています。

ヴァルトブルク城

知られているように、マルティン・ルターは カトリック教会に対する抗議活動を理由に 1521年に ヴォルムスで異端を宣告されローマ教皇から 破門されました。そのために、彼は理解者であったザクセン選帝侯フリードリヒ3世により ヴァルトブルク城で 保護されることになりました。

ヴァルトブルク城に残るルターの部屋 ( Wartburg Lutherstube )

フリードリヒ3世の保護を受けた この期間に マルティン・ルター ( 1483-1546 ) は、この部屋で『新約聖書』をドイツ語に翻訳したと伝えられています。

 

“The Four Apostles” ( 板、油彩 Each picture 204 × 74 ) 、1523年~1526年、Albrecht Dürer ( 1471-1528 )

暗い背景から浮き出すように、ほぼ線対称に配置された人物は、左よりヨハネ、ペテロ、パウロ、マルコですが、まず目を引くのは、ヨハネとマルコが身にまとう清かな衣擦れの音さえ聞こえてきそうな衣装の、赤と白の鮮やかさです。キリスト教において、赤は慈愛を、白は無垢を表現します。

また、沈思するヨハネとペテロ、眼光がするどいパウロ、マルコの、それぞれの表情も印象的で、静謐さと力強さの対比を見せています。

キリスト者であった デューラーは、ルターの熱心な支持者でもありました。『四人の使徒』というタイトルが付けられたこの絵の最下部には、ルターによる福音書のドイツ語訳から 使徒たちが人間の過ちと高慢を非難する「世の支配者たちよ。人間たちの言葉を神の御言葉と取り違えてはならぬ。」という戒めの言葉が描かれています。

 

 

Donatello  ( Donato di Niccolò di Betto Bardi  1386-1466 )
Verrocchio  ( Andrea del Verrocchio  ca.1435-1488 )
Martin Schongauer ( ca.1448-1491 )
Antonio Pollaiolo ( ca.1433-1498 )
Albrecht Dürer ( 1427-1502 )
Sandro Botticelli ( ca.1445-1510 )
Anton Koberger ( 1440-1513 )
Barbara Dürer ( ca.1451–1514 )
Giovanni Bellini ( ca.1430-1516 )
Michael Wolgemut ( 1434-1519 )
Leonardo da Vinci ( 1452-1519 )
Maximilian I  ( 1459-1519 )
Raffaello Sanzio da Urbino ( 1483-1520 )

Albrecht Dürer ( 1471-1528 )