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エーゲ海 キクラデス諸島の “偶然”について

ヘレニズム時代の大理石彫像のなかでも有名な『 ミロのヴィーナス 』や『 サモトラケの ニケ 』は、エーゲ海にある キクラデス諸島の パロス島で切り出された大理石を削って製作されたそうです。

キクラデス諸島は、ギリシャ神話のアポロンとアルテミスの生地と伝えられ「神聖な島」とされたデロス島と、その周りに島々が並んでいることから 「キクラデス ( 囲んでいる )」と呼ばれています。

このキクラデス諸島で 大理石材が彫像に用いられるようになったのは”偶然”とは言えないのかもしれません。それは、この地域の複雑な地質構造によってもたらされた結果だからです。

エーゲ海やその周辺の 複雑な地質構造をイメージするには、 ペロポネソス半島のコリントス地峡に開削された運河の掘削崖を見ることが 最も簡単な方法ではないでしょうか。

この コリントス運河では、上図のように 急傾斜した正断層が狭い間隔で何本もならんでいる状況を知ることができます。

そして、キクラデス諸島には このコリントス運河の掘削崖より 複雑な地質構造をした島がいくつもあります。

キクラデス諸島の地質図

このことにより、 キクラデス諸島には 大理石を採掘できるパロス島をはじめ、ナクソス島には コランダムの鉱山があり、ミロス島では 古くから黒曜石が採掘され、そして研磨材としての軽石が採れるテラ島 ( サントリーニ島 ) まであるのです。

Modern marble quarry on Naxos

Marble from the Isle of Paros in Ancient Greece

 Marathi,  Ancient Marble Quarry

さて、ここで 重要なことを確認させていただくと‥ パロス島や ナクソス島で採掘される大理石は 変成岩 ( 火成岩や堆積岩などの地層が地殻変動による熱や圧力を受けて再結晶化し、変化したもの。) に分類され、モース硬度は3~4であるとされています。

モース硬度とは 1822年に、ドイツの鉱物学者 フリードリッヒ・モースが「 二種類の石をこすり合わせて、どちらに傷がつくかで硬さを判断する」とした硬さの基準で、もっとも硬い石を 硬度10 とし、もっとも柔らかいものを 硬度 1という数値であらわします。

現在、地球上でもっとも硬い鉱物は モース硬度10であるダイヤモンドで、一番やわらかい鉱物は 硬度1の滑石であるとされており、参考までにあげれば 人間の爪の場合は 2.5ほどの硬度になるそうです。

なお モース硬度の「 硬さ 」は、割れにくい硬さ(靭性)ではなく「 引っかいた時の傷の付きにくさ 」を示すものなので、例えば 地球上にある天然物の中で最も硬いとされる 硬度10の ダイヤモンドでもハンマーで叩くと砕けます。大理石も同じように砕くことは可能ですが、そこは「 岩石 」である訳ですから 削るのは容易ではありません。

そこで、モース硬度が3~4の大理石にキズをつけたり削ったりするのに用いられたのが モース硬度5の 黒曜石 ( オブシディアン  /  Obsidian ) です。

ミノア文明の都市である クレタ島のイラクリオンで発見された、ミロス島から 紀元前3000〜2300頃に輸入され 使用された黒曜石製工具類の展示品

そして‥ モース硬度に着目すると、ナクソス島に コランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery ) の鉱山があることが 驚きをもたらすと思います。

Emery Mine   /  Naxos island Emery Mine   /  Naxos island

コランダム は酸化アルミニウム の結晶からなる鉱物で、鋼玉とも呼ばれています。 純粋な結晶は無色透明ですが、結晶に組みこまれる不純物イオンにより色がわかれるために、天然コランダム鉱石は 宝石として加工され ルビー、サファイアなどと呼び分けられています。 そして、コランダム鉱石は モース硬度 9 なのです。

つまり、ダイヤモンドについで高い硬度のため、素晴らしいことに他のほとんどの鉱物を削り取ることが出来ます。

また、磁鉄鉱、赤鉄鉱、スピネルなどが混ざる粒状のコランダムは エメリー ( Emery ) と呼ばれ、砂状や粉末状にして研磨材として重用されました。

なお、日本では エメリー ( Emery ) や、柘榴石 ( ガーネット  /  モース硬度 6.5~7.5 ) を粉末にした研磨材を総称して「金剛砂」とよんで使用していました。

ともあれ、キクラデス諸島では『 ミロのヴィーナス 』や、『 サモトラケの ニケ 』が製作されたヘレニズム時代より、更に 2800年程遡った時期には 黒曜石や コランダム、エメリーなどを用いて大理石を削って彫像を製作する技術が確立していたことが判っているのです。

これらは総称して『 キュクラデス文明 』( 紀元前3000年~前2300年頃 ) と呼ばれています。

そして、この文明は キクラデス諸島の島々で出土した多数の大理石偶像が その象徴の役割を果たしています。

スペドス型のスペドスとは ナクソス島にあるお墓に因んだ名称です。この像はお墓に因んだ名前をそのまま貰いスペドス型と言われているくらいですから、多くがお墓の中から出土しています。

現在のサントリーニ島は三日月形のティラ島と環状に並ぶ島々、そして、丸い内海の中にある島から成っています。しかし、元々のサントリーニ島は1つの島。それが海底火山の大噴火で島が分断され、巨大な噴火口・カルデラが現在の内海となりました。内海の真ん中にある島は噴火の名残。その大噴火が起きたのは紀元前17世紀の終わりころ、おそらく紀元前1628年ころとされています。その大噴火で火山灰に埋もれた街が島の南にあるアクロティリ遺跡です。

紀元前1628年頃、海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)により、地中のマグマが噴き出してできた空洞状の陸地が陥没してカルデラを形成し[4]、現在のような形状になった。 この爆発的噴火は、エーゲ海一帯に惨禍をもたらし[5]、プラトンの著作『ティマイオス』に端を発する、大西洋、すくなくとも
アクロティリは、紀元前1500年ころまではエーゲ海を中心としてとても栄えた国でしたが、紀元前1628年頃に起こった大噴火、それによって引き起こされた大地震と津波によって一瞬にして歴史の舞台から消えたとのことです。
ちなみにこの噴火によってカルデラ地形が形成されて現在のような島の地形になったそうです。
現在の遺跡は屋根が設けられ、遺跡の間を通路で移動しながら見学する形になっています。発掘の結果、アクロティリは紀元前1700年ころ大地震で街が一度破壊されたものの、その後、復興し、クレタ島と同じミノア文明の元で繁栄を謳歌していたこと、しかし、紀元前1628年ころの大噴火で人々が街を放棄したこと・・・が分かっています

サントリーニ島で有名なアクロティリ遺跡。紀元前1,500年頃の火山の大噴火によって埋もれてしまった街です

 

Marble was worked mainly with stone tools. Although no direct evidence is available for the toolkit of the Cycladic craftsman, modern research in combination with experimental archaeology has shown that most tools were probably made of emery. A piece of this heavy and dense stone – which abounds in Naxos – can be easily turned into a mallet (for shaping the figure) simply by making its edge pointed or sharp. Emery was also probably used as a drill (to carve and pierce specific anatomical details such as the eye, ear, navel, and loin cavities, or repair holes), as an engraving tool (for incised details) or as a surface polisher. Emery powder was very effective as an abrasive for the initial working of the marble.

Obsidian – widely available on Melos – and flint may have also been employed in marble carving. When shaped into blades, those materials can be used as engraving tools or even for erasing the traces of smoothing on the surface of the marble; in the form of small pointy flakes they become particularly effective drills. Finally, Theran pumice soaked in water is an excellent material for the final polishing of the surface, and the same is true for sand mixed with water. Bronze chisels could have been used for greater precision and speed in making the cut-outs on more complex figurines, such as the harpists, although their poor durability (due to the high copper-content) as well as the high value of metals in that period, probably made metal stone-working tools less common.

As we can deduce from the few unfinished figurines that have been discovered so far, the first step in the process was to roughly shape the raw piece of marble into a figure by the impact of a mallet. Emery powder was then used to abrade the surface until it obtained the desired shape and size. Once the desired shape was achieved, the surface was smoothed carefully before the fine work of carving the details started. At the end, the figurine was polished to a high degree that is still amazing. Traces of horizontal, vertical or diagonal smoothing are very often visible on the surface of marble figurines. Sometimes, we can see the marks left by the tool used to level the contours of the leg cleft on “canonical” figurines. Traces of repairs are also discernible in some examples.

The creation of a Cycladic figurine was based on strict rules and a detailed system of proportions, which required precise measurements and considerable skill in application. Therefore, it was most likely the work of specialized craftsmen, who probably passed on their knowledge to younger artisans only after the latter had spent a long period of time working as apprentices. Some scholars have attempted to identify individual “artists” or workshops by distinguishing groups of figurines with similar characteristics. Those “artists” (or workshops) have been conventionally named after the museum or the city which hosts characteristic works by them, after the excavator who brought them to light, or after the collector who possesses them (e.g. the Berlin Master, the Doumas Master, the Goulandris Master, etc.). Other scholars, however, reject these attributions as anachronistic and believe that the similarities reflect chronological or geographical proximity. One should bear in mind that the available evidence for the techniques employed in Cycladic marble-carving is very fragmentary and our knowledge stems almost exclusively from careful observations of the figurines themselves. So far, no workshop has been discovered in a Cycladic settlement and the organization of the production remains entirely unknown.

Direct evidence for the working of bronze in the Cyclades is limited but instructive. Remains of hearths and crucibles of the Early Cycladic III period have been found at Kastri on Syros, together with slags and stone moulds which show that metal smiths knew how to cast bronze and produced both cast and hammered objects. The spread of metallurgy in the Aegean during the third millennium BC gave impetus to crafts such as building, shipbuilding, carpentry, and the minor arts; at the same time, it promoted trade and contributed to the development of social stratification. Mainly, however, it brought important changes in the techniques of warfare. Bronze weapons become relatively common in the Cyclades in the later stages of the Early Cycladic II period and this seems to be related to the disturbances and upheavals that are observed in the Aegean during the transition to the Early Cycladic III period. According to one theory, this turmoil was due to conflicts between local populations for the control of sources of raw materials, such as copper, or access to networks trafficking metals that were more difficult to obtain, such as tin.

大理石は主に石器で作られました。キクラデスの職人のツールキットに直接的な証拠はありませんが、実験考古学と組み合わせた現代の研究は、ほとんどのツールがおそらくエメリーで作られていることを示しています。ナクソスに豊富にあるこの重くて密な石の一部は、端を尖らせたり鋭くしたりするだけで、簡単にマレットに変えることができます(図を形作るため)。エメリーは、おそらく、ドリル(目、耳、へそ、lo窩、修復穴などの特定の解剖学的詳細を彫って穴を開けるため)、彫刻ツール(切開された詳細用)、または表面研磨機としても使用されました。エメリーパウダーは、大理石の初期加工の研磨剤として非常に効果的でした。

黒曜石-メロスで広く入手可能-およびフリントは大理石彫刻でも使用された可能性があります。ブレードに成形すると、これらの材料は彫刻ツールとして、または大理石の表面の滑らかな痕跡を消すためにも使用できます。小さな尖ったフレークの形で、それらは特に効果的なドリルになります。最後に、水に浸したセラン軽石は、表面の最終研磨のための優れた材料であり、水と混合した砂にも同じことが当てはまります。青銅製のノミは、ハープ奏者などのより複雑な置物の切り抜きの精度と速度を向上させるために使用できましたが、耐久性が低く(銅含有量が高いため)、その中の金属の価値が高いおそらく、金属製の石工ツールはあまり一般的ではなかったでしょう。

これまでに発見された数個の未完成の置物から推測できるように、プロセスの最初のステップは、大理石の生の部分を木pieceの衝撃によっておおまかに形にすることでした。次に、エメリーパウダーを使用して、目的の形状とサイズが得られるまで表面を研磨しました。希望の形状が得られたら、細部を彫刻する細かい作業を開始する前に、表面を慎重に滑らかにしました。最後に、この置物は高度に磨かれましたが、それはまだ驚くべきことです。大理石の置物の表面には、水平、垂直、または斜めの平滑化の痕跡が非常に多く見られます。時には、「標準的な」人形の脚の裂け目の輪郭を水平にするために使用されるツールによって残されたマークを見ることができます。修理の痕跡もいくつかの例で識別できます。

キクラデスの置物の作成は、厳密なルールとプロポーションの詳細なシステムに基づいており、正確な測定と応用のかなりのスキルが必要でした。したがって、おそらく若い職人が見習いとして長い時間を費やした後で初めて若い職人に知識を伝えた専門職人の仕事である可能性が高いです。一部の学者は、同様の特性を持つ人形のグループを区別することにより、個々の「アーティスト」またはワークショップを特定しようとしました。それらの「アーティスト」(またはワークショップ)は、それらの特徴的な作品をホストする博物館または都市、それらを光らせた掘削機、またはそれらを所有するコレクター(ベルリンマスター、ドゥーマスマスター)にちなんで慣習的に名付けられました。 、Goulandrisマスターなど)。しかし、他の学者はこれらの属性を時代錯誤として拒否し、類似性は年代的または地理的近接性を反映していると信じています。キクラデス様式の大理石の彫刻で使用されている技術の利用可能な証拠は非常に断片的であり、私たちの知識はほとんど人形そのものの注意深い観察に由来することに留意する必要があります。これまでのところ、キクラデスの集落でワークショップは発見されておらず、生産の組織は完全に不明のままです。

キクラデス諸島での青銅の働きの直接的な証拠は限られていますが、有益です。シロスのカストリで、初期のキクラデス3世時代の炉床とるつぼの残骸が、金属スミスが青銅を鋳造する方法を知っており、鋳造品とハンマー加工品の両方を生産したことを示すスラグと石型とともに発見されました。紀元前3千年紀にエーゲ海に冶金学が広まったことにより、建築、造船、大工仕事、小美術などの工芸に弾みがつきました。同時に、貿易を促進し、社会階層化の発展に貢献しました。しかし、主に、戦争の技術に重要な変化をもたらしました。青銅の武器は、キクラデスII期前期の後半のキクラデス諸島で比較的一般的になり、これは、キクラデス紀前期III期への移行中にエーゲ海で観察される撹乱と激変に関連しているようです。ある理論によると、この混乱は、銅などの原材料の供給源を管理するための地元住民の間の衝突、またはスズなどの入手がより困難な金属を売買するネットワークへのアクセスによるものでした。

 

盛期ルネサンスに影響を与えた ヘレニズム時代の彫像について

『 サモトラケの ニケ 』製作年  :  紀元前200年~紀元前190年頃   /   パロス島産の大理石   H 244 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ミロのヴィーナス 』製作年 : 紀元前130年~紀元前100年頃  /  大理石 H 203 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ラオコーン群像 』製作年  :  紀元前42年から紀元前20年頃とする説など 複数の説があり不明  /  大理石  H 242 cm   /  ピオ・クレメンティーノ美術館 ( バチカン美術館 )

ヘレニズム時代とは、おおよそ アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年から、プトレマイオス王朝エジプトが ローマに併合された紀元前30年までの 300年程の期間を意味します。

●  Pythagoras ( BC.582-BC.496 )
●  Archimedes ( BC. ca.287-BC.212 )

この時代の彫刻の中で『 サモトラケの ニケ 』、『 ミロのヴィーナス 』、『 ラオコーン群像 』はどれも最高傑作とされています。しかし、この中でヴァイオリン製作者に影響を与えられたのは『 ラオコーン群像 』だけです。

■  Andrea Amati ( ca.1505-1577 )
1539年   Established a workshop in Cremona.
■  Antonio Amati ( 1540-1640 ),  Cremona
■  Gasparo di Bertolotti  “Gasparo da Salò”  ( ca.1540- ca.1609 ),   Brescia
■  Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ),  Cremona
■  Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 ),  Brescia
■  Nicolò Amati ( 1596-1684 ),  Cremona
■  Jacob Stainer ( 1617-1683 ),  Absam ( Tirol )
■  Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona
■  Giovanni Grancino ( 1637-1709 ),  Milan
■  Hendrik Jacobs ( 1639-1704 ),  Amsterdam
■  Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ),  Napoli
■  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ),  Bologna
■  Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 ),  Brescia
■  Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Cremona
■  Francesco Ruggieri ( ca.1645-1698 ),  Cremona
■  Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ),  Cremona

なぜなら『ラオコーン群像』は ヴァイオリン誕生の前夜である 盛期ルネサンスの 1506年に、コロッセオ近くのエスクイリーノの丘 ( ローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの東側 ) にあったブドウ畑から出土したからです。

この発掘に立ち会った ミケランジェロ ( Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1475-1564 ) は、『ラオコーン群像』の表現に強い影響を受けたとされています。また、他の芸術家たちにとっても大きな衝撃であったようで、イタリア・ルネサンス芸術はこの『ラオコーン群像』によって方向が変わったとさえ言われています。

他方である『 ミロのヴィーナス 』と『 サモトラケの ニケ 』は‥この時、 地上には存在していませんでした。『 ミロのヴィーナス 』は、1820年に オスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で 小作農夫 ヨルゴス・ケントロタスによって発見され、『 サモトラケの ニケ 』は 1863年に フランス領事らによる胴体部分の発見があり、それに続いて片翼の断片多数が見つかったことで 歴史に再登場しました。

私はこの事実を 興味深いと考えています。

ピエタ ( Pietà )

『 ピエタ ( Pietà )』製作年 : 1500年頃 / 大理石 H 174 cm、W 195 cm / Basilica di San Pietro, Vatican

聖母の顔には悲しみで乱された様子がない

キリストの肉体には苦悶の跡はない

聖母の帯に銘が刻まれている
「MICHELANGELUS BUONARROUTUS FIORENTINUS FACIEBAT」
( フィレンツェ人 ミケンランジェロ・ブオナローティがこれを作る。)

ミケランジェロは『 ピエタ 』において、マリアの悲しみ、キリストの無念さ、そしてそれを超えた人間の贖罪などを静謐に峻厳に表現したといわれています。

 

彫刻技術においての 優劣の見分け方

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2019-12-12          自由ヶ丘ヴァイオリン