18世紀の音楽ホール事情

私は 音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移る流れはヴァイオリンの改良を促進したと考えています。 その参考に当時の演奏会場の資料がほしかったのですが、さすがに1600年代のサロンや音楽ホールは ほとんど現存していないため 1700年代中頃に使用された音楽ホールの資料を 1985年に マイケル・フォーサイス氏( Michael Forsyth )が ” Buildings for Music “のタイトルで出版した書籍の翻訳版( 『 音楽のための建築 』1990年 長友宗重氏、別宮貞徳氏 共訳 / 鹿島出版会刊  )p.31 ~ p.49より引用させていただきたいと思います。

また引用のみでは分かりにくい可能性がありますので、私が 画像資料などを補足のためにつけ加えました。

それでは まず‥  18世紀のホールの大きさをイメージするために 比較対象として 東京オペラシティ コンサートホール( タケミツ メモリアル )の仕様表などをご覧ください。

東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - 1 L東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - A Lコンサートホール仕様

設計者 東京オペラシティ設計共同企業体 (株)NTTファシリティーズ・一級建築士事務所 (株)都市計画設計研究所 (株)TAK建築・都市計画研究所
音響設計協力 竹中技術研究所 音響コンサルタント レオ・ベラネク氏(コンサートホールのみ)
ホールサイズ 1階席:20.0m×41.1m(客席奥行 32.4m) 2階席:20.0m×47.15m 3階席:21.2m×47.15m
天井高 天井最長部まで27.6m ・平土間〜2階バルコニーまで 2.7m〜3.7m ・2階バルコニー 2.4m〜2.64m ・3階バルコニー 3.0m(平土間から12.6m)
天窓 自然光(不要であればシートで被う)
ホール客席数 1632席(車椅子席4席を含む) 1階席:974席 1〜12列フラット、13〜31列レベル差1m、1段 約5.5cm 2階席:バルコニー席数 330席、オルガン前席 26席(取り外し可能) 3階席:バルコニー席数 302席 座席表を見る
ステージ 間口 17.1m〜19.5m、奥行 9.0m、面積 162.6m2 ・素材 樺桜
張出舞台 1.9m張出(9m+1.9m=10.9m 奥行) 客席前列2列、63席減(1632-63=1569席)
残響 1.96秒(満席時)
NC値 20
内装材 ヨーロピアンオーク(壁面) *天然木。豊かな一次反射音(特に低音)を確保するため。
床気積 フローリング(楢) 15,500m3 (9.5m3/1人あたり)
楽屋 1階席:6室(A、B、C、D、E、F) A、Bにピアノ有り 2階席:4室[大楽屋 1、2(各50名程度)、G、H] Hにピアノ有り、アーティストロビー有り
音響室 調光室 ホール壁面にマイク、スピーカーのコネクター設置
ロビー 天井高 7.2m

東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - 2 L18世紀のコンサートホール Le2b927369601c4bf986397c7d82bdb3d

サントリーホール 概要
開場  1986年 10月 12日 ( 日 )   東京都港区赤坂  1-13-1
建築設計

佐野 正一 (株式会社安井建築設計事務所)
三宅 晋  (株式会社入江三宅設計事務所)
音響設計 永田 穂 (株式会社永田音響設計)
施工 鹿島建設株式会社

建築面積 2,909㎡
水平投影面積  1,925㎡
延べ面積 12,027平方メート、地上3階~地下2階
客席  2,006席 1階 858席/2階 1,148席
大ホール奥行 53.0m、幅  36.0m
舞台  250㎡、間口 21m/奥行 12m
天井までの高さ  3.5m ~  20.15m

The Esterhazy palace - Eisenstadt - B L

交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 ともいわれる フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (  Joseph Haydn,  1732-1809  ) は、1761年にエステルハージ家の副楽長となりアイゼンシュタットのエステルハージ居城とウィーンの宮殿で 活動しました。そして 1766年からは エステルハーザ城 (  Eszterháza  ) に移り1790年まで楽長として働きました。

また 1781年頃 ハイドンはモーツァルト (  Wolfgang Amadeus Mozart、1756-1791  ) と親しくなり、モーツァルトは1782年から1785年にかけて六つの弦楽四重奏曲( ハイドン・セット ) を 彼に献呈しています。

1790年にエステルハージ家のニコラウス侯爵が死去したために楽長を辞し、1791年と 1794年には ドイツ出身で1780年代初頭にロンドンに移り住んでいた ヴァイオリニストで 作曲家、そして指揮者で音楽興行師であった ヨハン・ペーター・ザーロモン (  Johann Peter Salomon,  1745-1815  ) の 勧めを受入れロンドン公演をおこない大成功をおさめています。

1990年  音楽のための建築  (  1985年マイケル・フォーサイス  ) p.31‥  『 ‥ 1791年から1792年、1794年から1795年にかけてのシーズンに、ここハノーヴァ・スクェア・ルーム ( 24.1m × 9.8m )でハイドンは、93番から101番までの “ザロモン交響曲( ロンドン交響曲 )”を指揮したのである。これらは特にこのコンサートホールのために書かれたもので、堂々たる成功をおさめた。

Hanover Square Rooms ( 1774-1900 ) - A L
中でも94番ト長調《驚愕》( 1791年 )と100番ト長調《軍隊》( 1794年 )が素晴らしかった。ザロモン自身は四重奏の専門家で、ハイドンは1793年に ハノーヴァ・スクェア・ルーム ( 24.1m × 9.8m )で演奏するザロモンのために作品71と74の弦楽四重奏曲を書いた。 室内ではなくコンサートホール用に四重奏曲を書いたのはこれが初めてで、ハイドンがその目的とする建物に書法を合わせていることがよくわかる。 オーストリアの貴族のコンサートや 私的な家庭音楽会のために書いたのどかな、親しみのある四重奏曲に比べて、オーケストラ的といってもいいような響がし、構成は雄大で、一段と力強く、また< 公的 >な性格が感じとれる。

コンサートホールは、1794年2月25日付け『 ジェネラル・イブニング・ポスト 』 の記事によると、縦横24.1mと9.7m、高さは書かれていない。しかし、当時の図面を見ると、チプリアーニの絵を飾ったヴォールト天井は、高さおよそ6.7ないし8.5mと推定される。少なくとも一方の壁には窓があり、ゲインズボロその他の絵がかかっている。オーケストラ席は、初めルームの東端だったのが、後に西端に変更された。1804年に古代音楽演奏会がキングズ・シアターからハノーヴァ・スクェアに移った時、ロイヤル・ボックスが3つ東の端につくられた ( 建物は 1848年までガッリーニから年1,000ポンドで借りていた )。ステージは円形劇場風に高く傾斜が急で、視線に、したがって〈 音線 〉にも邪魔が入らない。

Hanover Square Rooms ( 1774-1900 ) - B L
ほぼ180㎡の場所に定員800席だから、たいへんな混み方だったと思われる。1792年のハイドンのための慈善コンサートには、なんと「1,500人が入場した」といわれている。満員状態での音の吸収は相当なもので、中音域の残響時間は1秒足らず、特に低音のレスポンスが低かっただろう。その結果、オーケストラの響きは明瞭で透明だが、音響効果は、今日最上とと思われるものよりずっとドライだったに違いない。

しかし、当時は素晴らしいと考えられていたらしく、1793年6月29日の『 ベルリン音楽新聞 』には次のような読者の投稿が掲載されている。   ザロモンのコンサートが行われたルームは、ベルリンのシュタート・パリス ( Stadt Paris ) と較べて、奥行きは同じようなものだが、幅は広く、きれいに装飾され、ヴォールト天井である。ホールの音は筆舌に尽くしがたいほど美しい。 ホールが小さいだけに、さぞや大きな音に聞えたことだろう。 特にハイドンが《 ロンドン交響曲 》のために使った「 大 」オーケストラではそうだったにちがいない( 1791年から92年にかけててのシーズンには35人編成、翌シーズンにはさらにクラリネットが2本追加‥ 37人編成 ‥された )。間口が狭いから、オーケストラがフォルテッシモで演奏すると、どの席も壁側から強い反射音を受け、空間的な拡がりの感じは申し分なかっただろう( 第1章で述べた空間的拡がり感のこと。弱音の場合は、ほとんど直接音しか耳に届かないから、そうならない )。

Almacks or Willis's Rooms - 1 1765年 Almacks Assembly Rooms -

Almacks or Willis’s Rooms   /   1765年
18世紀も末になると、ほかにも多くのコンサート・ルームがロンドンで使われていた。前述のアルマックはウィリス・ルーム( Willis’s Rooms  /  25.0m × 12.2m,  305㎡ ) と名を改め、1776年にはトマス・サンドビー( Thoumas Sandby )設計のフリーメンソンズ・ホールが開場して、数年古代音楽アカデミーの使用するところとなった。

The Crown and Anchor Tavern in The Strand London - 1
The Crown and Anchor Tavern 古代音楽アカデミーは1726年に声楽アカデミーとして設立され1792年まで続いた出色の音楽家集団で、以前は、18世紀に人気のあったもうひとつのコンサート会場居酒屋 「 王冠といかり 」( The Crown and Anchor Tavern   /   24.7m × 11.0m  , 271㎡ )で演奏していた。1772年にフランシス・パスカリ( Francis Pasquali )なる音楽家が建てたトッテナム・ストリートのコンサート・ルームが、1785年に改装拡張されたが、それは、ジョージ3世が古代音楽コンサート( 古代音楽アカデミーから分かれたもの )のパトロンとなり、この団体がそこで定期演奏をするようになったからである。

トッテナム・ストリート・ルームは、世紀の変わり目には人気が衰え始め、1794年に古代音楽コンサートは前の年にできた新しい、素晴らしいコンサートホールに移った。これは、ロンドンのイタリア・オペラ上演劇場であるキングス・シアターが再建され、1792年に開場していたところへ、その東側( ヘイマーケット側 )に合体するような形でつくられたものである。建築者はミハエル・ノヴォシエルスキ( Michael Novosielski )。
18世紀のコンサートホール L

ハノーヴァ・スクェア・ルームよりはるかに今日のコンサートホールに近い。 ザロモンはコンサート会場をキングス・シアター・コンサートホール (  29.6m × 14.6m,  433㎡  )に移し、ハイドンは最後の3つの交響曲、102番から104番までをこのホールで演奏するために書いた( 103番変ホ長調《 太鼓連打 》には、美しいソロの部分があるが、おそらくオペラ・コンサート・オーケストラの首席奏者、かの有名なジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティのために書かれたのである )。 ハイドンがこれらの作品のために用いた大オーケストラは―――交響曲102番は55人編成、103番と104番は59人編成―――大きさに較べて割合残響の多いホールと相まって、たっぷりとした力強い音を響かせ、せいぜいメゾフォルテくらいの演奏でも壁面からの反射音が耳に達したことと思われる。

ハイドンがピアノからフォルテへの急激な飛躍を避けているのは、残響時間が長くてその効果が失われるからだろう。そのかわりに、たとえば102番冒頭のホルン、トランペット、弦のユニゾン( ハイドンがオーストリアに戻ってからは木管もこれに追加 )では、漸強、漸弱の記号を使って、ホール自体の音響に効果を委ねている。 その効果たるや、H.C.ロビンズ・ランドン( Robbins Landon)をしていわしめれば、「 うら寂しい、禁欲的な音 」に加うるに「茫漠たる空間、宇宙的孤独感を伴ったもの( おそらくは、それがハーシェルの大望遠鏡を通じて得たハイドンの永遠の観念 )」ということになる。

The Haydnsaal - Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt - A L
18世紀のヨーロッパ大陸では、公のコンサートに出かけるということはまだほとんど行われていなかった。上流階級の人たちは、裕福な好事家の私邸や数ある宮廷で開かれるなかばプライベートな音楽の集いに出るだけだったのである。宮廷の音楽施設の中でも贅を尽くしたもののひとつが、ヨゼフ・ハイドンのパトロン、エステルハージ家のそれだった。

1761年、ハイドンはオーストリア、アイゼンシュタットにあるエステルハージ居城(  Eisenstadt   )の副楽長に任命された。これは中世のとりでを、カルロ・マルティーノ・カルローネ と セバスティアーノ・バルトレットが 1663~1672年に宮殿に改造したものである。

The Esterhazy palace - Eisenstadt - 1 L
Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt 1766年 - 1 L

さらにハイドンは、ハンガリーのエステルハーザ城( Eszterháza  /  Fertőd  )に移り、そこに25年近くとどまった。 これらの居城のコンサートホールは、今でも一応昔のままの形で残っており、音響効果を直接体験できる点で、とりわけ興味がもたれる。

Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd Hungary - A Lハイドン アイゼンシュタット 大ホール ( ハイドン ザール ) 1760 L18世紀のコンサートホール LThe Haydnsaal - Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt - 3 Lアイゼンシュタットの大ホール( 今の呼び名ではハイドン・ザール )は、ハイドンが作曲の対象としたコンサートホールの中では最も大きく、楽々400人を収容できる。部屋は長方形で、天井は彩色した折上げ、側壁沿いに深いニッチが並んでいて、両端には円柱に支えられた狭いバルコニーがある。奥行38.0m、間口14.7m、高さは12.4mとなっている。

ハイドンは初めてここでコンサートを開くに当たって、もとの石の床の上に木の床を張るよう注文をつけた( 今日も残っている )。おそらく、床が多少振動するような感じがほしかったのと、もうひとつは、低音域の大きな残響を減らしたかったためだろう。それでもなお、中音域の残響時間は満員時で1.7秒、低音域は2.8秒にのぼるし、部屋がいっぱいでなければ( 当初はそういうことが多かった )さらに伸びて、まるで教会近くなる。( 20世紀には、これくらいの残響時間は、2,000~3,000席のホールでは珍しくない )。

ユルゲン・マイヤー( Jürgen Meyer )が指摘しているが、1761年から1765年の間にこのホールで演奏するために書かれた数多くの交響曲は、すべて、ここの〈 ライブな 〉音響を意識していることがはっきりわかる。ホールの大きさの割に残響時間が長いことと、狭い壁側からの反射音が強いこととが両々相まって、フォルテの全合奏では音楽が全堂にみなぎるような強烈な印象を与える。交響曲第6~8番コンチェルト・グロッソ様式では、コンチェルティーノ( 独奏 )が分かれていて〈 段階的強弱法 〉( Terrassendynamik )が使われており、合奏の強音が独奏部分の弱音とみごとな対照をなす。この時代のハイドンが使った小オーケストラの音は、交響曲13、31、39、72番では、ホルンを4本にすることで強化される。13番の出だしのホルンなど、残響が長くて、ほとんどオルガンのような響きがする。

ハイドンは1796年以降にもまたコンサート用にアイゼンシュタットを使った。ニコラウス1世の後を継いだニコラウス2世がエステルハーザを離れてウィーンに行き、夏の間だけ古い一族の居城で過すことにしたからである。最後の6曲のミサのうち5曲の初演はこの大ホールで行われた。弦楽四重奏曲は、同じ階にある美しい小さな部屋で演奏された。

Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd Hungary - A L

エステルハージ侯ニコラウス1世は、1762年に位を継いだあと、目もあやなロココ式の宮殿エステルハーザ城を建てた。その中には、大きなミュージック・ルーム、イタリア・オペラ用のオペラハウス( 1768年完成 )、マリオネット劇場( 1773年完成。洞窟のような仕上げで、壁やニッチには石や貝殻が貼ってある )、それに特別の音楽家の宿舎( 1768年 )もつくられていた。

この宿舎には外来のオペラ歌手や劇団員のほかにオーケストラのメンバーも泊まるのだが、外からの客があまりにも多いため、住み込みの楽士は、だいたいがウィーン出身なのに、妻の同伴を許されていなかった。実はこれがきっかけでハイドンはかの有名な《 告別 》交響曲を書いたのである。ここの大ミュージック・ルームで初演されたこの曲は、そろそろ楽士たちに休暇を与えていい頃ではないかと、ハイドンが侯爵にほのめかしたものだった。

1階のエントランスの部屋に置かれている時計 - 1 LPrince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd, Hungary.    (  エステルハーザのエントランス時計  )

エステルハーザのミュージック・ルームは、1766年に完成した。ハイドンがかかわりをもつホールの中ではいちばん小さく、15.5m × 10.3m × 9.2m しかない。

聴衆が200人ほどで 満員の時、残響時間は中音域で1.2秒、低音域で2.3秒である。ということは、アイゼンシュタットよりもずっと短いわけで、そのドライで澄んだ音は、今日のリサイタル・ホールの状況に匹敵する。ハイドンのオーケストラは、アイゼンシュタット時代と同じ大きさだったが、その音は全く異なり、ほとんど室内楽のような感じだったと想像される。

これまたマイヤーの見解だが、このルーム特有の音響は、ハイドンの作曲書法に反映されている。たとえば、交響曲57番の最終章ペルペトゥウム・モービレはプレスティッシモ( できる限り速く )と指定されているが、残響時間の長いルームではぼやけてしまうだろうし、67番の緩徐楽章の末尾で全弦楽器がコル・レニョ( 弓の木部を使う奏法 )で演奏するパッセージは、非常に音が小さいから、聴衆はよほどオーケストラに近く座れない限りはかばかしい印象を受けられない。

エステルハーザで書かれた交響曲の多くが2つの版で出ていることも重要な意味をもっている。ひとつは、野外を含め他の会場での演奏用にトランペットとティンパニーを使ったもの、もうひとつは、親近感のある音響を持つミュージック・ルーム用にこれらの楽器を抜いたものである。

Prince Nikolaus Esterházy - New palace constructed in Fertőd Hungary - 1 L130ヘクタール Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd, Hungary - A L

ロンドンのコンサートホールについて見たとおりで、大陸の公共コンサートホールも、宮殿のホールに較べて仰々しいところがはるかに少ない。ドイツに最初の公共コンサートホールが建てられたのは、ようやく1761年のこと。ハンブルグのコンツェルトザール・アウフ・デム・カンプで、ハンブルグは当時イギリスの影響を強く受けていた。このホールのことはほとんどわからないが、ごく簡素な建物だったと推定しなければなるまい。

Leipzig Gewandhaus concert room - 1 L
次なる重要な発展は、1781年、ライプツィヒのゲバントハウスに有名なコンサートホールが建てられたことだった。 ハンブルグと同じくライプツィヒも、長年、楽士を雇っていて、町や教会の祝日には音楽を演奏させ( トーマス教会でJ.S.バッハの作品を演奏したのはこういう楽士である )、時には公会堂の塔から音楽を流したこともあった。しかし、本来の公共コンサートは、ライプツィヒもほかほドイツの都市と同じく、コレギウム・ムジクム( 音楽学校 )、あるいは学生その他からなるアマチュアの音楽協会が先鞭をつけた。ライプツィヒには宮廷がなく、主として商業と大学の町で( ゲーテやフィヒテはここで教育を受けた )、活発な音楽伝統をもっていた。

1700年頃、コレギウム・ムジクムが2つ設立された。そのひとつの創立者が作曲者ゲオルク・フィリップ・テレマンで、彼のあとを追って J.S.バッハが校長になった。コンサートはコーヒーハウスで行われた―――イギリスの居酒屋コンサートと軌を一にする。 1743年に私的な音楽協会が結成され、フランクフルトに現存する類似のものと同じ名前で、グローセス・コンツェルト( 大コンサート )と呼ばれた。16人のメンバーは、だいたい町議会の楽士である。最初はメンバーの私邸でコンサートを開いていたが、やがてビュール川沿いの三白鳥亭に部屋を借りてそこへ移った。

ヨハン・フリードリッヒ・ライヒャルト( Johann Friedrich Reichardt )が1771年に、その部屋について「 大きさは並の居間ぐらい、一方に奏者のための木のやぐらが組まれ、反対側は高い木の桟敷で、観客ないし聴衆が長靴をはき、かつらを着けずにやってくる 」と述べている。 コンサートは木曜日に開かれ、冬は毎週、夏は隔週―――今でもそれは変わらない―――であった。 七年戦争でプロイセンがザクセンを侵略し、グローセス・コンツェルトの活動は中断した。理由はもうひとつあって、コンサート・ルームに隣接する三白鳥亭の一部が壊れたのだった。1762年に再開され、フルート奏者でバス歌手のヨアン・アダム・ヒラー( Johann Adam Hiller )が指揮者に指名された。

1766年にライプツィヒの劇場が設計され、それにコンサートホールも組み込まれていたので、もっと立派な会場を求める必要もいよいよ満たされるかと見えたのだが、結局コンサートホール抜きで建てられてしまった。 1780年、市長ミュラーは、市議会を説得して、ゲヴァントハウス、つまり「 織物商ホール 」の2階の図書室をコンサート・ルームに改造することに同意させた。設計者はライプツィヒの建築家ヨハン・フリードリッフ・カール・ダウテ( Johann Friedrich Carl Dauthe )で、その後まもなくライプツィヒのニコライ教会の内装を美しく模様替えしたことでも有名な人物である。

コンサートホールは1781年に完成した。 旧ゲヴァントハウスは( 「 旧 」と後に呼ばれるようになったのは、それに替えてつくられたノイエス[ 新 ] ・ゲヴァントハウスと区別するため )、1894年に取り壊されたが、その平面図、部分図を書き、構造も記録された。ライプツィヒし歴史博物館には、内部を印象深く描いた小さな水彩画が現在も残っている。

Leipzig Gewandhaus Concert hall - 2 L

ホールは両端が曲面をなす長方形で、23.0m × 11.5m × 7.4m 。壁は柱形とパネルの効果を出すように、初めは彩色されていた。天井は縁が折上げの平天井で、人物をまじえた空の景色のフレスコ画で飾られている。描いた人は、ライプツィヒ・デザイン絵画建築学院の校長アダム・フリードリッヒ・エーサー( Adam Friedrich Oeser )だった( ゲーテは彼の学生 )。

Leipzig Gewandhaus Concert hallb - 1 Lホールは座席数400( ただし、あとの章で述べるとおり、19世紀に収容能力がふやされた )。座席は壁側と平行に並べてあるので、聴衆は互いに向き合うことになる( この配置は、建物のある間終始変わらなかった )。そしてその両端は高いボックス席になっている。オーケストラの舞台は50ないし60人の奏者を載せることができ、床の約1/4を占めて、わずかに高くつくられ、前に手すりが設けてある。

旧ゲヴァントハウスは、1835年から1847年までメンデルスゾーンが指揮者だった間、音響の良さでとりわけその名をとどろかせていた。そして、今日にいたるコンサートホール設計の歴史の中でも、最高の位置に位する最初のホールという栄誉を担ってい
る。  ( 引用終了 )

この 初代ゲヴァントハウス 大ホールは 1842年の改修により1000席を超える座席数で運用され続け多くの演奏に寄与し、オーケストラが 新ゲヴァントハウス( 下写真 )に移った後の 1894年に役割を終え取り壊されたそうです。

Gewandhaus konzertsaal 1900年頃
新ゲヴァントハウス・コンサートホール 1900年頃

さて、最後に少し整理しておきたいと思います。

  • 1996年  Tokyo Opera City   C.H.  47.15m  × 21.2m  (  H27.6m  )
    1986年  Suntory Hall  ( 1,925㎡ ) 53.0m  × 36.0m  (  H 20.15m )1774年  Hanover Square R. ( 235㎡ ) 24.1m  ×  9.8m  (  H 8.5m  )
    1776年  Willis’s Rooms  (  305㎡  ) 25.0m  × 12.2m
    1772年  The Crown & Anchor  ( 271㎡ )   24.7m  × 11.0m
    1763年  Haydn Saal ( Eisenstadt )  38.0m  ×  14.7m  (  H 12.4m )
    1766年  Eszterháza (  Fertőd )  15.5m  ×  10.3m  (   H  9.2m  )
    1781年  Leipzig Gewandhaus   23.0m  ×  11.5m   (  H  7.4m  )
  • 1761年~1765年   Haydn Saal   ( Eisenstadt )       16編成
    1766年~1774年   Eszterháza  ( Fertőd  )    18編成
    1775年~1780年             22編成
    1781年~1784年             29編成
    1791年~1792年   Hanover Square Room     35編成
    1794年~1795年   Rooms,  London        37編成
    1795年                         Concert Hall           55編成
    1795年         King’s Theatre,  London   59編成

このように 1700年代後半のオーケストラの様相を交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 ともいわれる ハイドン (  Joseph Haydn,  1732-1809  ) でたどりながら、『 音が媒質である空気の疎密波であり、その空間がどういう反射や 減衰につながる条件を有するかが‥ 響きを決定する。』ことを考えあわせれば、私達にも理解できることが少なくないと思います。

現在、私が理解しているホールの特質は 天井、床もふくめた 壁と人間がいる位置の関係性( 距離・反射特性 )に尽きるということです。これは 客席での音場感はいうまでもないことで‥ 現代のホールは多目的のゆえに 直接音には頼りきれない構造であることが多いために 反射音は ステージ上の演奏者にとっても重要な情報となっており、それが 演奏のクオリティーにも大きな影響をあたえているからです。

結局、 私達は音楽史において現在も 試みの途上にいると言えるのではないでしょうか。歴史上はじめて市民のための音楽ホールとして 1781年に開場した ゲヴァントハウスの大ホールが およそ500席ほどで その多くの座席が中央を境に 両側の壁を背にして向かい合って座る設定ではじめられた段階から、室内楽やオペラ、交響曲 果ては教会音楽にまでに対応しようと多目的化が急激に進みリスクを取ったことで 音樂的な調和を妨げかねない空間がたくさん建設された現代の状況などにより私はそう感じます。

ただ‥ 私は 音楽空間の歴史の浅さにくらべて おそらく数千年におよぶ歴史を受け継ぎ音楽的な響きを創造する特殊な技術者として生まれた作曲家が 、多くの不都合な条件を克服し 深淵の淵を感じさせるような響きの時間・空間を出現させてくれたことには心から感謝しています。

また聴衆にとって18世紀のホールが理想的な音響空間でなかったとしても、音楽的な依り代として音楽ホールがはたした役割は大きかったという事実に私は 感慨を覚えます。

私はこのように音楽に関係した歴史を紐解くこと‥  たとえば ゲヴァントハウス管弦楽団を1835年から急逝した1847年まで 指揮していたメンデルスゾーン( 1809- 1847 )が、同じ建物に生まれた幼馴染であり 自らが指導する管弦楽団のコンサートマスターである ダヴィット( Ferdinand David, 1810-1873 )と共に 1844年 に あのヴァイオリン協奏曲( op.64 )を初演したというような事実に たとえようもない喜びを感じます。

 

ここまで概略として音楽ホールの歴史をたどってきましたが、最後に ご存じな方も多いように ゲヴァントハウスの後を引き継ぐようにオーストリア の首都ウィーンに『 ウィーン楽友協会大ホール』が建設されたことに触れておきたいと思います。

ウィーンで最初の本格的な音楽ホール建設は 1831年のことでした。しかし このホールは定員が700人と手狭でしたので、1860年代以降のウィーン改造の際に計画されたことにより 1870年にウィーン楽友協会の建物が竣工しました。

この建物にある ウィーン楽友協会大ホール ( Großer Saal グローサーザール )は  1,680席で シューボックス型と呼ばれる直方体の空間を持ち、板張りの床、格天井、バルコン、カリアティード( 女人像柱 ) 、そして床下、天井裏の空間により理想的な音響が得られているとされています。

ここでは‥  たとえば 1872年から1875年まで ブラームスが ウィーン・フィルハーモニー交響楽団の指揮をつとめるなど、音楽における歴史が数多く 生まれたことで私たちに記憶される事にもなりました。

それから140年以上経過していますが その名声は衰えることなく、結果として このホールは 各国で音楽ホールを建設する 場合に 必ずといってよい程 残響などの要素が参考とされるようになり現在に至っています。

私は このホールが現代の音楽ホールの原型そのものと信じていますので その存在に心より感謝しています。

 

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以上、長文にお付き合いいただきありがとうございました。

2016-7-21     Joseph Naomi Yokota