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エーゲ海 キクラデス諸島の”偶然”について

● 『 大理石 』を用いて表現されたもの

ヘレニズム時代( 紀元前323年頃~紀元前30年 )の大理石彫像のなかでも有名な『 ミロのヴィーナス 』や『 サモトラケの ニケ 』は、エーゲ海にある キクラデス諸島の パロス島で切り出された大理石を削って製作されたそうです。

キクラデス諸島は、ギリシャ神話のアポロンとアルテミスの生地と伝えられ「神聖な島」とされたデロス島と、その周りに島々が並んでいることから 「キクラデス ( 囲んでいる )」と呼ばれています。

このキクラデス諸島で 大理石材が彫像に用いられるようになったのは”偶然”とは言えないのかもしれません。それは、この地域の複雑な地質構造によってもたらされた結果‥ という捉えかたが出来るからです。

エーゲ海や その周辺の 複雑な地質構造をイメージするには、 ペロポネソス半島のコリントス地峡に開削された運河の掘削崖を見ることが 最も簡単な方法ではないでしょうか。

この コリントス運河では、上図のように 急傾斜した正断層が狭い間隔で何本もならんでいる状況を知ることができます。

そして、キクラデス諸島には このコリントス運河の掘削崖より 複雑な地質構造をした島がいくつもあります。

キクラデス諸島の地質図

このことにより、 キクラデス諸島には 大理石を採掘できるパロス島をはじめ、ナクソス島には コランダムエメリー鉱山があり、ミロス島では 古くから黒曜石が採掘され、そして仕上げ研磨材としての軽石が採れるテラ島 ( サントリーニ島 ) まであるのです。

Emery was also probably used as a drill, as an engraving tool or as a surface polisher. Emery powder was very effective as an abrasive for the initial working of the marble.

Theran pumice soaked in water is an excellent material for the final polishing of the surface, and the same is true for sand mixed with water.

Modern marble quarry on Naxos

Marble from the Isle of Paros in Ancient Greece

   Marathi,  Ancient Marble Quarry

さて、ここで 重要なことを確認させていただくと‥ パロス島や ナクソス島で採掘される大理石は 変成岩 ( 火成岩や堆積岩などの地層が地殻変動による熱や圧力を受けて再結晶化し、変化したもの。) に分類され、モース硬度は3~4であるとされています。

モース硬度とは 1822年に、ドイツの鉱物学者 フリードリッヒ・モースが「 二種類の石をこすり合わせて、どちらに傷がつくかで硬さを判断する」とした硬さの基準で、もっとも硬い石を 硬度10 とし、もっとも柔らかいものを 硬度 1という数値であらわします。

現在、地球上でもっとも硬い鉱物は モース硬度10 であるダイヤモンドで、最もやわらかい鉱物は 硬度1 の滑石であるとされており、参考までにあげれば 人間の爪の場合は 2.5ほどの硬度になるそうです。

なお モース硬度の「 硬さ 」は、割れにくい硬さ(靭性)ではなく「 引っかいた時の傷の付きにくさ 」を示すものなので、例えば 地球上にある天然物の中で最も硬いとされる ダイヤモンドでもハンマーで叩くと砕けます。大理石も同じように砕くことは可能ですが、そこは「 岩石 」である訳ですから 削るのは容易ではありません。

そこで、モース硬度が3~4の大理石にキズをつけたり削ったりするのに用いられたのが、旧石器時代から よく知られていた モース硬度5の 黒曜石 ( オブシディアン  /  Obsidian ) です。

ミノア文明の都市である クレタ島のイラクリオンで発見された、ミロス島から 紀元前3000〜2300頃に輸入され 使用された黒曜石製石器

そして‥ モース硬度に着目すると、パロス島と 狭い海峡をはさんで 8kmほどの距離で隣り合っているナクソス島に コランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery ) の鉱山があることが 驚きをもたらすと思います。

これらの鉱石は、大理石彫刻において”最高の働き手” として重要なのですが、それらも含めて必要なものが 同じ地域で入手できるというすばらしい “偶然”が キクラデス諸島には あったからです。

Emery Mine   /  Naxos island Emery Mine   /  Naxos island

因みに‥  近年ですが、ギリシャ地質学会は ナクソス島で採掘されたとされているコランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery )のなかに、サモス島で採掘された “Samian Emery” が 一定量 含まれている可能性があるとして、その検証を提言しています。

Emery deposit of Samos (  “Samian emery”  /  Geological Society of Greece )

しかし、同じエーゲ海で、ナクソス島から北東方向 100km 程に位置する サモス島も 古代の交易圏でしたので、キクラデス文明に寄与したという点での違いは ほとんど無いと思われます。

コランダム は比重が 4.0 で、酸化アルミニウム の結晶からなる鉱物です。そして 純粋な結晶は無色透明ですが、結晶に組みこまれる不純物イオンにより色がわかれるために 天然コランダム鉱石は 宝石として加工され、ほとんど同じ鉱物ですが ルビー、サファイアなどと呼び分けられています。

このように色彩的に多くのバリエーションを持つコランダム鉱石ですが、特記すべきは モース硬度が ” 9 “であることです。

つまり、この鉱石は ダイヤモンドについで高い硬度のため「 他のほとんどの鉱物 」を削り取ることが出来るのです。

また、エメリー鉱石は 比重が 3.75 ~ 4.31 の 鉄に近い質感の鉱石で、 コランダムに 磁鉄鉱、赤鉄鉱、スピネルなどの不純物が含まれたものです。このため エメリー鉱石も 極めて硬く ( モース硬度が 7~9 ) 、石器として使用されただけでなく 砂状や粉末状にして研磨材としても 重用されました。

Emery of Samos ( Geological Society of Greece )

なお、日本では エメリーや、柘榴石 ( ガーネット  /  モース硬度 6.5~7.5 ) を粉末にした研磨材をどちらも「金剛砂」と呼んで使用していました。

ともあれ、キクラデス諸島では『 ミロのヴィーナス 』や、『 サモトラケの ニケ 』が製作されたヘレニズム時代( 紀元前323年頃~紀元前30年 )より、更に 2800年程遡った時期に 黒曜石や コランダム鉱石、エメリーなどを用いて大理石を削って彫像を製作する技術は確立していました。

これらは総称して『 キクラデス文明 』( 紀元前3200年~紀元前2300年頃 ) と呼ばれています。

“Cycladic Idol”  from Amorgos,  ca.2700B.C.~2300 B.C.
Marble, High150cm ( Largest known example of cycladic sculpture ).  National Archaeological MuseumAthens .

そして、この文明では キクラデス諸島の島々で出土した数多くの『 キクラデス偶像 ( Cycladic Idol ) 』が その象徴としての役割を果たしています。

In 14 December 2010,  a marble female figure dated to circa 2400 B.C. and attributed to “The Schuster Master” was sold in New York ( Christie’s ) for $16,882,500 (  ¥1,410,701,700  ) , a world record for a Cycladic figure at auction.   High 29.2cm.

たとえば、高さが 30cm程である このキクラデス偶像は、2010年に開催されたクリスティーズのオークションにおいて、日本円換算で 14億1千万円で落札されており‥  私は、それを 本当に意味深いことであると思っています。

大理石偶像 ( Cycladic Idol ) の製作実験

ところで‥ このようなキクラデス偶像ですが、 肝心な事柄である『 なぜ製作されたのか?』が判明していません。このため現在でも、その出土状況なども含めて研究が続けられています。

なお、発掘された場所に関してですが、たとえば キクラデス偶像を分類するための名称のひとつが ナクソス島の埋葬遺跡である “Spedos” に因んだ “スペドス型” であるように、おもに墓地の遺跡から出土しているようですが、現在も発掘が行われているテラ島 ( サントリーニ島 ) のアクロティリ遺跡のように、火山灰などに埋まってしまった街区から 発掘されたという事例もあります。

The ancient buried city of Akrotiri, Thira ( Santorini ).

アクロティリ遺跡は 紀元前1628年頃の大噴火 ( ミノア噴火 ) によって埋もれてしまった街です。

このアクロティリ遺跡の発掘現場で、近年のことですが‥ 火山灰に埋まっていたキクラデス偶像が掘り出された時の様子をご覧ください。

現在の “Akrotiri Museum ( アクロティリ遺跡 )” は屋根が設けられ、遺跡の間にある通路を移動しながら見学できるようになっています。

この時の調査対象は、中央部にある箱状遺物の内部で、調査のはじめに箱のフタ部分が取り除かれました。

この箱状遺物の中には、火山灰に埋もれるように また箱が入っていました。

そして、慎重に内箱の中の火山灰を吹き飛ばしていくと、土砂の中から キクラデス偶像の頭部が見えてきました。

その後の発掘作業によって、埋まっていたキクラデス偶像の全容が確認できるまでになりました。

この箱状遺物の調査は ここまでで、今後の発掘方針が決まるまで 一旦 そのままで保存することが決定されました。

盗掘されるなど 様々な事情により、キクラデス偶像は出土状況が不明な場合が多い‥ という中で、この アクロティリ遺跡での出土事例は、『 キクラデス文明 』を解明するための重要な記録となったそうです。

因みに 下写真は 上記調査の後ですが、アクロティリ遺跡の近くのエリアで、同じように二重になった箱状遺物のなかから 別のタイプのキクラデス偶像が発掘された時のものです。

このように 箱状遺物からの出土事例が 複数あるという状況を、 私も興味深く感じています。

“Box situation”   :   The statuette was found in a clay box placed Russian-doll-style within another, It is the second statuette of its kind revealed boxed up at the site. Aegean city of Akrotiri.

現在までの研究で判明しているのは、キクラデス偶像は かなりの数量が出土していて、そのタイプは 紀元前2700年頃を境として 前の500年間後の400年間に 分けることが出来るということです。

それが、グロッタペロス ( 初期キクラデスⅠ   紀元前3200年~2700年頃 ) とケロスシロス ( 初期キクラデスⅡ  紀元前2700年~2300年頃 )です。

これらの分類名も、偶像が出土した重要な埋葬地から付けられています。なお、残念なことに、キクラデス初期の居住地は 地震や火山の噴火のために ほとんど発見されていないそうです。また、キクラデス偶像のほとんどは これらの期間だけで製作されたようです。

キクラデス偶像は おもに女性をモチーフとしており、表現手法としては 石の単純な加工により偶像としてのイメージを付与したものから、人体をリアルに表現したものまでありバリエーションは豊富でした。

また 科学的分析によると、大理石の表面は鉱物ベースの顔料( 青の場合はアズライト、赤の場合は辰砂 )で着色されていたようです。

● キクラデス偶像においての比率と、コンパスについて

このように 様々な知見を与えてくれる キクラデス偶像ですが、最も重要なことは、コンパスの使用が推測される‥ 比率 が用いられていることではないでしょうか。

言うまでもなく コンパスは文明の利器ですから、その使用は後世の歴史にとっても 深い意味をもちます。

しかし、問題はそれを用いたことを証明するほどの痕跡が残らないということです。

そこで コンパスの使用された状況証拠をもとめて 世界の文明史をさかのぼってみると‥

現在、最古の文明と考えられており 今も発掘作業がおこなわれている メソポタミア北部の ギョベクリ・テペの遺跡は 紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃にかけて建設され、そこから南東方向120km程にある テル・ハラフには ハラフ文化 ( 紀元前6000年~紀元前5300年頃 ) があったことが分かっています。

ハラフ式彩文土器 ( Halafian ware )

それらは、都市文明のはじまりとされる ウルク文化( 紀元前4000年~ 紀元前3100年 )や、同じころその南に建設されたウル ( Ur ) を都とした シュメール文明に影響を与えた可能性が 十分に考えられます。

“Tablet with pictographs”  Uruk period IV 3500 B.C.

“Tablet with pictographs”  Uruk,  ca. 3100 B.C.~2900 B.C.

ウルク文化期の紀元前 3700年頃には シュメール人によって楔形文字である ウルク古拙文字が発明され、それが次第に改良されて 紀元前2500年頃には シュメール文字として定着し、それらの文化は バビロニア ( ‎紀元前1830年頃~紀元前 1712年 ) に受け継がれ発展しました。

同じころ ( 紀元前3200年頃 ) エジプトでも ヒエログリフと呼ばれる文字体系が確立し、太陽暦が普及するとともに、メンフィスを都としてエジプト初期王朝時代 ( 紀元前3150年~紀元前2686年頃 ) が始まりました。そしてこの頃には 度量衡も 広範囲に伝わっていったようです。

‥‥  このように世界の文明史を追いながら コンパスの使用された状況証拠をもとめて検討した結果、私は 紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作されたと考えられている「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」が、コンパスを使用した 最古の状況証拠となるのでは‥ と考えるようになりました。

“Towie Ball” ( Celtic Carved Stone Ball,  ca.3200B.C.~2500 B.C. )
Found at Towie in Aberdeenshire, Scotland.  The ball has four knobs, three of them decorated with spirals or dots.

なお、石に装飾文様などが 巧みに彫り込んであるのは  紀元前1万2000年前~紀元前8000年頃の ギョベクリ・テペ遺跡を最古として世界各地で発見されていて‥ 同時期であげれば フランス、モルビアン湾の ガヴリニ島にある 紀元前3500年頃の遺跡などのように、大規模で且つ 芸術的な遺跡や遺物も少なくはありません。

“Gavrinis passage tomb”,  Cairn Gavrinis.
Gavrinis is a small island in the Gulf of Morbihan in Brittany, France.
At the time of construction in 3500 B.C. , the island was still connected with the mainland.

しかし「 スコットランドの 幾何学的に削られた石の球 」のように、 造形的特徴をなす多数のポイント同士が さまざまな対称性や 一定の比率 などの 幾何学的条件を満たしているものは稀有です。

これこそが コンパス ( Compass ) 、または ディバイダー ( Divider ) を使用した状況証拠と言えるのではないでしょうか。

   

Geometric Stone Spheres of Scotland stone ball found at Skara Brae ( around 3200 B.C. ~ 2500 B.C. )   National Museums Scotland

たとえば、これらの石球のひとつである上写真のものは スコットランドの首都 エディンバラ  ( Edinburgh ) にある “National Museums Scotland” に展示されていますが、これは 新石器時代であった紀元前3200年~紀元前2500年頃の集落遺跡 スカラ・ブレイ ( Skara Brae ) で発掘されたものです。

大きさに関しては、一部の例外を除いたほとんどの石球が 直径7cm程で、この出土品も含めて 綺麗な多面体が多く、その中には 4種類の 正多面体も確認されており 楕円形のものはわずかしかないそうです。

また、上写真の石球には 67個の突起がありますが、表面に彫り起こされた突起は 3個〜160個まで 多くのバリエーションがあります。それから、装飾がないものや 複雑な彫刻が施されたものも出土しているようです。

“Carved stone ball” ( classed as Neolithic )
Room 51,  British Museum

この写真は「 大英博物館 」の 51番展示室において公開されている石球のものです。ここには 30個以上の “Carved stone balls” が収蔵されています。            これらの石球は スコットランドだけでなく、イングランドなど各地で、およそ387個程が発見されています。因みに、これらの内  アバディーンシャー ( Aberdeenshire ) では 群を抜いて最も高い密集度 ( 169個 )で発見されたそうです。

“Geometric Stone Spheres of Scotland”

Ball from Kincardineshire, Found 1890. ( AN1927-2727 )

 

Ball from Fyvie, Found 1885. (  AN1927-2731 )

Ball from Auchterless, Found 1885. (  AN1927-2729 )
The Ashmolean’s collections

ところで、このように紀元前3200年~紀元前2500年頃に製作された 幾何学的な石球の製作に コンパスが使用されたとすると、コンパス自体の出土状況も気になるところです。

そこで 私も それに関してのリサーチを試み、共和制ローマ期 (  古代ローマでは 元老院と執政官が民会の決議により政治を行っていました。) である紀元前509年~紀元前27年頃に作られたコンパスや デバイダーまでは確認しました。

“Compass or divider” Roman, Bronze ( 191mm )

Ancient Roman Bronze Rare Architects Geometrical Compass, elegantly decorated and in fantastic condition still usable.

(  Reproduction  )

Compass excavated from “Pompeii”,  ca.89 B.C.~79 A.D.
Naples Museo Archeologico Nazionale 

それから 傍証になることを願い、コンパスより遙かに大きいために 出土事例が多い 古代ローマ時代の 刀剣であるグラディウスのなかに、金属製のコンパスが製作されたイメージを探してもみました。

グラディウス・ヒスパニエンシス型刀剣 ( Gladius hispaniensis ) は、ローマ軍が長期間にわたって使用した事から古代ローマ時代における剣の代名詞となっています。その名が示す通りイベリア系刀剣の製法や形状などを、ローマ軍でも導入したもので 短めの刀身と厚い刃が特徴とされています。

これがローマ軍に標準型刀剣として大量に導入されたのは “ハンニバル戦争”という別名がある第二次ポエニ戦争 ( 紀元前219年~紀元前201年 )の頃といわれています。そして、その性能が評価されたために 紀元前27年に古代ローマが 皇帝が治めるローマ帝国となっても 標準型刀剣として使い続けられました。

材質は、銑鉄と軟鉄が交ざった状態の合金鉄材が使用されており、鍛造により製造されたために 両方の優れた特性を得て、それ以前の同サイズの鉄剣と比べ破損し難く 切れ味も 格段に向上した刀剣であったと記されています。

因みに、古代ローマ帝国の グラディウスは刃渡 ( Blade length )が 40cm~68 cm 程で、柄まで含めた全長は 60cm~85 cm 、重量が 0.7kg~1.0kg 程だったそうです。

ヨーロッパにおいての青銅器時代のはじまりは、地中海地域では 紀元前3000年頃で、アルプス以北ではまず紀元前3000年~ 紀元前2000年頃にかけて銅器時代があり、移行期を含めた紀元前2300年~ 紀元前1800年頃にかけてが青銅器時代であったと言われています。

そして、紀元前2000年頃にヒッタイト ( 紀元前1680年頃~紀元前1190年頃 ) の都 ハットゥシャが在った アナトリア地方中部で誕生した冶金技術によって鉄器の使用が始まり、その担い手となったヒッタイト帝国が滅亡すると、多くの人々が移住せざるを得なかったため 結果として鋳鉄技術も他の地域に伝播することになりました。このため、紀元前1000年~紀元前800年頃には ヨーロッパ各地で 鉄器の製作が本格的におこなわれたとされています。

なお、イタリア半島では 紀元前700年~ 紀元前350年頃にかけて鉄器文化が栄えるようになったそうですが、その担い手は イベリア半島に移住し イベリア人と同化していたケルト系の技術者であったと考えられています。私見ですが‥ グラディウスを製造できる彼らにとって、コンパスを製作するのは 容易いことだったと考えられます。

Alfius Statius, “Funeral Monument”.

Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).

それから、コンパスは 建築や天文、船舶の航海術などにとって 重要な道具であったために、シンボルとして記念碑や、墓碑などにレリーフとして刻まれていることがあります。

その中でも、ローマ帝国の初代皇帝となった アウグストゥスに重用された 建築家の Alfius Statius の「 葬儀記念碑」は 彼がコンパスなどを使用していたことをはっきりと証ししています。

Roman architect Alfius Statius was a prominent Roman from the days of the early Empire ( at the time of the birth of Christ ).

さて、そこまでは良かったのですが‥  残念ながら 現時点では キクラデス偶像が製作された 紀元前3200年~ 紀元前2300年頃に コンパスが存在し、また 使用されていたという明らかな証拠は見つけられませんでした。

 

しかし、同時期に製作されたと考えられる「 スコットランドの幾何学的な石の球 」の製作にも 正確な測定と応用のスキルが必要であるように、 コンパスの使用無くして多くのキクラデス偶像の造形的特徴となっている 一定の比率が反映した偶像製作は難しいと思われます。

帰謬法的な想像力が必要ですが、大理石などで製作されたキクラデス偶像が多数出土したのは およそ 900年間に渡って一定の比率で製作する文化が 受け継がれたからではないでしょうか。

ともあれ‥  ここから キクラデス偶像の多く、特にスペドスタイプなどに見られる比率構成についてのお話をさせて下さい。

  

先程ふれましたように、キクラデス偶像は 紀元前2700年頃を基準とした区別が可能で、それはこの図のように全長比で「 3分割タイプ 」が 「 4分割タイプ 」に移行するほどの 違いであることが 出土した偶像で確認されています。“Canonical” figurines

また この時期の前後では、全長に対する幅の割合基準とする基準点が変更され、全長比で「 1/6 胴幅 」であったのが「 1/4 肩幅 」とされるようになったという学説もあります。


“Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ),  circa 2600B.C.~ 2400 B.C.

  “Cycladic Idol” ( Statuette of a woman ),  circa 2600B.C.~ 2400 B.C.
「 Bastis Master 」 Marble,  High 62.79cm
Metropolitan Museum of Art

 
Cycladic female figurine of the Plastiras variety.     /    Marble
Early CycladicⅠperiod ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )”Grotta-Pelos” group. From the cemetery of Glypha on Paros, grave 23.
National Archaeological Museum of Athens, inv. no. 4762.

因みに、「 3分割タイプ 」以前は初期に製作された”原型”の流れをくむ 「 2分割タイプ 」の “抽象形体型”が ありました。

  Cycladic female figurine,   Marble on Paros
Plastiras  “Violin shaped ”
Early Cycladic Ⅰ period ( ca.3200B.C. ~ 2800 B.C. )
National Archaeological Museum of Athens

その”抽象形体型”の最終期に製作されていたのが “ヴァイオリン”という通称で呼ばれる、このようなキクラデス偶像です。

私は このタイプが 「 首の付け根 」を 2分割のポイントとしていることを興味深いと思っています。 

“Cycladic type Idol”,  Excavated in Anatolia
「 Grotta pelos 」ca.3200 B.C. ~ 2800 B.C.

このように、キクラデス偶像は およそ900年間に渡って 多数製作されていますので、これらにおいて比率が重要であったことは 間違いないようです。 よって、アナトリア半島で出土した この”抽象形体型”であっても「 首の付け根 」が  2分割のポイントとなっているという推測が成り立つわけです。

● 『 プロポーション ( 比率、均衡 ) 』の 実際例

ここまでお話しさせていただいたように、キクラデス偶像からは 製作された時にそれぞれの部位間の比率が 強く意識されていたことが確認できます。

このように、頭の長さに対しての身長の割合などとして人体を捉えることを、古代ローマの頃からは「 人体プロポーション 」と呼ぶようになり、 その後も重要なものとして伝承されました。

それは この捉え方が、私たちに直感的なインスピレーションを与えてくれるからではないでしょうか。

“The illustration on The Pioneer plaque”,   NASA
The plaques show the nude figures of a human male and female along with several symbols that are designed to provide information about the origin of the spacecraft.

余談となりますが、人体プロポーションに関して、ある意味では 非常に象徴的な出来事が 48年程前にありました。

それは、人類史上はじめて太陽系外に 宇宙探査機を向かわせるおりに、探査機 パイオニア10号 ( 1972年 )、11号 ( 1973年 ) に「 人類からのメッセージ 」として この金属板 ( Pioneer plaque ) が取り付けられたのです。

つまり、この探査機は星間空間を漂う一種の”ボトルメール”の役割を持っていました。この計画は カール・セーガン ( Carl Edward Sagan 1934-1996 )、 フランク・ドレイク ( Frank Drake 1930 – )さん達の提案によったものだそうですが、私は この “Pioneer plaque” の表現を実に興味深いと思っています。

 
“Cycladic Idol” 、紀元前2600年~ 紀元前2400年頃
大理石材、高さ62.79cm
Metropolitan Museum of Art

このような人体プロポーションについての意識は、 日本の仏像彫刻などにも見つかります。たとえば、大仏師の運慶 ( 1150年頃 – 1224年没 )が制作の総指揮をした 奈良、東大寺南大門の金剛力士像は 上図のように 5頭身のプロポーションです。

おなじく、運慶が監修して1212年に制作された 国宝「 無著像 」は 5.8頭身で制作されており、天部の神である金剛力士と 4世紀のガンダーラに生きた高僧 ( 人間 )から菩薩となった無著との違いなど、表現対象の意味を踏まえたプロポーションが 選択されていると推測できます。

 

国宝 “無著菩薩”(  鎌倉時代、高さ 194.7cm )

そして、この少し後のイタリアで見ると‥ 建築家フィリッポ・ブルネレスキ ( Filippo Brunelleschi  1377-1446 ) とともに活躍したドナテルロ ( Donatello 1386-1466 )が、1440年頃に制作した “ダヴィデ像”は 5.9頭身と見てとれます。

“David” Donatello ( 1386-1466 ), Repubblica fiorentina、1440年頃

“David” Andrea del Verrocchio ( ca.1435-1488 )
Bronze 125cm 、1466年~1469年頃

また、ドナテルロのようにメディチ家の支援を受けながらフィレンツェで活躍し、レオナルド・ダ ・ヴィンチ ( 1452-1519 ) の師としても有名となった ヴェロッキオ ( ca.1435-1488 )が制作した “ダヴィデ像”は 6.4頭身になっています。

彼の工房では レオナルド・ダ ・ヴィンチのほかにも、ボッティチェリ、ペルジーノ、ギルランダイオ達も働きました。ちなみにペルジーノは ラファエロの師匠で、ギルランダイオはミケランジェロの師匠となりましたからイタリア・ルネサンスにヴェロッキオが大きく影響したことは間違いありません。

“Personification of a Virtue”  Antonio del Pollaiolo ( ca.1433-1498 ) テラコッタ,  1470年頃

そして、この当時 フィレンツェでヴェロッキオ工房と競合していたのが アントニオ・デル・ポッライオーロと 弟、ピエロ・デル・ポッライオーロの兄弟です。その兄弟工房で、兄であるアントニオ・デル・ポッライオーロが制作した「美徳の擬人化 」は 6.6頭身で製作されています。

“Giuditta” Antonio del Pollaiolo ( ca.1433-1498 ) Bronze,  1470年頃

また 同時期に彼が制作した、アッシリア王が派遣した将軍ホロフェルネスの首を刎ね ユダヤ人を危機から救った若く美しいユダヤ人女性「ユディト ( Giuditta )」のブロンズ像は 7.2頭身となっています。

“David”  Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni  ( 1475-1564 )
大理石、 高さ 5.17m、1504年

それから、その次の世代にあたる ミケランジェロの “ダビデ像”は 6.6頭身で製作されており、彼が選択したプロポーションは神による創造物を精細に再現した最も優れたものとの評価を受けたそうです。

こういった歴史研究により、古代から人々は 美の規範 ( カノン ) を 数学的比例関係の問題として理解し、彫刻、絵画、建築などにおいて理想的比率を追求したと説明されるようになりました。

これは端的にいえば、キクラデス偶像が 人体プロポーションについての意識を証ししている事と、その概念が 2000年以上前に ウィトルウィウス ( Vitruvius )という古代ローマの建築家がまとめた書物『 “De architectura” ( 建築について ) 』に説かれていたからです。

Vitruvius, “De architectura”,  Marcus Vitruvius Pollio ( circa 80B.C.~15B.C. ), Roman Republic
【  British Library manuscript Harley 2767  】  
Date :  1st quarter of the 9th century, Germany
Language :  Latin

残念ながら『 “De architectura” ( 建築について ) 』 の原本は すでに失われていますが、9世紀初頭に製作されたこの写本によって 結果としてその内容が後代まで伝えられ、その思潮はヨーロッパ世界に大きな影響をあたえました。

さらに、15世紀になるとこの写本 ( British Library manuscript Harley 2767 ) は、活版印刷 ( 1439年頃 )に成功していたヨハネス・グーテンベルク ( ca.1398~ 1468 )らによって復刻のための底本とされ、1450年頃からいくつかの復刻版が出されています。

これによって、建築家の ウィトルウィウス 紀元前30年~紀元前23年頃の時点で プロポーションの概念に相当する “Symmetria”と “Eurythmia” を、建築の6つの重要な起点のうちの 2つとしていた‥ ということや、彼が捉えたその法則性 などが確認できます。

 

その状況に呼応するように、15世紀後半からは『 “De architectura” ( 建築について ) 』に触発されたと考えられる人体の比例関係図や、それを検証したノートなども多数残されています。

また、イタリア、コモで 1521年に出版された  チェザーレ・チェザリアーノ ( Cesare di Lorenzo Cesariano 1475-1543 ) 復刻版からは、銅版画によるイラストが添付されて人気を集め、ラテン語版から イアリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語などにも翻訳されて出版されることとなり、 ヨーロッパ世界に普及したことも 残存書籍によりあきらかとなっています。

“De Architectura”,  Vitruvius.   by  Cesare di Lorenzo Cesariano ( 1475-1543 ),  printed in Como in 1521年刊
Vitruvius’ works were largely forgotten until 1414, when De architectura was “rediscovered” by the Florentine humanist Poggio Bracciolini in the library of Saint Gall Abbey.    Leon Battista Alberti published it in his seminal treatise on architecture, De re aedificatoria ( c. 1450 ).

この書物において、人体の数学的な比例関係を意味する “人体プロポーション” という概念が 説かれているために、後にこのような関係図は『 ウィトルウィウス的人体図 』と呼ばれるようになりました。

ウィトルウィウスの著作『 デ・アーキテクチュラ ( 建築について) 』( 第3巻 1章2節から3節 )

  1.     掌は指4本の幅と等しい
  2.     足の長さは掌の幅の4倍と等しい
  3.     肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい
  4.     2歩は肘から指先の長さの4倍と等しい
  5.     身長は肘から指先の長さの4倍と等しい( 掌の幅の24倍 )
  6.     腕を横に広げた長さは身長と等しい
  7.     髪の生え際から顎の先までの長さは身長の1/10と等しい
  8.     頭頂から顎の先までの長さは身長の1/8と等しい
  9.     首の付け根から髪の生え際までの長さは身長の1/6と等しい
  10.     肩幅は身長の1/4と等しい
  11.     胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4と等しい
  12.     肘から指先までの長さは身長の1/4と等しい
  13.     肘から脇までの長さは身長の1/8と等しい
  14.     手の長さは身長の1/8と等しい
  15.     顎から鼻までの長さは頭部の1/3と等しい
  16.     髪の生え際から眉までの長さは頭部の1/3と等しい
  17.     耳の長さは顔の1/3と等しい
  18.     足の長さは身長の1/6と等しい

この18個の項目に加えて『 人体の中心は宇宙の中心と同じである。人間が両手両脚を広げて仰向けに横たわり、へそを中心に円を描くと指先とつま先はその円に内接する。さらに円のみならず、この横たわった人体からは正方形を見いだすことも可能である。足裏から頭頂までの長さと、腕を真横に広げた長さは等しく、平面上に完璧な正方形を描くことが出来る。』という説明が添えられていました。

これが ウィトルウィウスが記したプロポーションの法則 ( “Canon of Proportions” ) です。

“Vitruvian Man”, illustration in the edition 
Cesare di Lorenzo Cesariano (1475-1543) , printed in Como in 1521.

この人体比率を、1521年の チェザーレ・チェザリアーノ版で底本に加えられたイラストではこのように表現していました。

『 ウィトルウィウス的人体図 』1485年~1490年頃 ( Leonardo da Vinci 1452-1519 )

そして、このように多数ある『 ウィトルウィウス的人体図 』の中で、チェザーレ・チェザリアーノ版が出版される少し前に レオナルド・ダ ・ヴィンチが描いたこのドローイングが歴史上で最も有名なものとなりました。

なお、このドローイングには鏡文字で 『 ウィトルウィウスの著作に従って描いた男性人体図の習作である。彼が提唱した理論を表現した。』と書かれています。

この『 ウィトルウィウス的人体図 』は、よく見ると 縦線や横線で分割線がいれられ、8頭身のプロポーションの他にそれぞれの部位間の比率が規定されていることから レオナルド・ダ ・ヴィンチがそれらに強い関心を持っていたことが端的に示されています。

そのこだわりに凄味を増させるのが、彼が 「 ウィトルウィウスのプロポーションの法則 」に次のような変更を加えていることです。

  1.   顎から額、髪の生え際までの長さは身長の1/10
  2.   広げた手の手首から中指の先までも身長の1/10
  3.   首、肩から髪の生え際までの長さは身長の1/6
  4.   胸の中心から頭頂までの長さは身長の1/4
  5.   顔の長さは、顎先から小鼻までの長さ、小鼻から眉までの長さ、眉から髪の生え際までが いずれも顔の長さの1/3
  6.   足の長さは身長の1/6
  7.   肘から指先まで、胸幅は身長の1/4

ここに至っては‥ 現代人の感覚から言えば『 そこまで こだわります‥?』という感がありますが、少なくともこの事から彼が 人体の比率関係に関して明確な見識を持っていたことが判ります。

私は、レオナルド・ダ ・ヴィンチ ( Leonardo da Vinci 1452-1519 ) が『 ウィトルウィウス的人体図 』にこのようにこだわったのは、彼がこの頃には既に人体解剖に立ち会い、人体を素描で記録する研究をはじめていたからではないか‥ と考えています。

彼が 最初に頭蓋骨などの素描をノートに記録したのは 1489年、37歳頃であることが確認されています。しかし、20歳の時にヴェロッキオを手伝って完成させた作品「キリストの洗礼」( 1472年~1475年 ) には、すでに解剖学に根ざした表現が見て取れるとも言われています。

このことから、ヴェロッキオとダヴィンチは、この頃解剖学についてある程度の素養を持っていたのではないかと推測されています。

また、ヴェロッキオの工房の近くには、彫刻家で画家のポッライオーロ兄弟の工房がありました。当時 この兄弟は 解剖を行なっていたため、ダヴィンチは彼らに解剖を教わったのではないか とする指摘もあります。

その レオナルド・ダ・ヴィンチ ( 1452-1519 ) は 当初は絵画の写実性を高めるために解剖をしていたと言われています。

しかし、その後 ミラノで解剖学者の Marcantonio della Torre と共に解剖を進めるうちに、人体そのものに興味を抱くようになり、芸術家としてではなく科学者として人体とその器官の素描を行うようになったようです。

彼は 1489年から このように‥ 解剖した人体の詳細な素描を描き始め、 それを 教皇レオ10世に禁止されるまで‥ およそ 20年間それをつづけ、30体近い死体を解剖して750枚ほどの素描を遺しました。

この時代に行われていた人体解剖の状況を調べてみると、他にも多くの実施例があったことがわかっていますが、知られているように 彼の緻密な解剖記録は “人体プロポーション” だけでなく医学的にも重要な研究資料となりました。

● アルブレヒト ・デューラーの登場

そして、これらの人体に関する比率などの研究成果は、最終的に レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交があったアルブレヒト ・デューラー ( Albrecht Dürer 1471-1528 ) が 1528年に出版した 4冊の研究書に集約され完成することとなりました。

“Human Proportions ( Menschlicher Proportion )”
Albrecht Dürer 1471-1528, Nuremberg,  1528年

アルブレヒト ・デューラー ( Albrecht Dürer 1471-1528 ) は1471年に、金細工職人でハンガリーからの移住者⦅ 1455年 ⦆であった同名のデューラー( 1427-1502 )の息子として、ニュルンベルクに生まれています。

『 父親、 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) の肖像画  』
( Portrait of Dürer’s Father at 70 ) 、1497年

『 母親の肖像画 』( Barbara Dürer ca. 1451–1514 )、by Albrecht Dürer (1471-1528 )、1490年

因みに、画家アルブレヒト ・デューラーの洗礼時の代父アントン・コーベルガー ( 1440-1513 ) は、金細工職人から ドイツで最も成功した印刷家、出版家となった人物でした。

彼は1470年に 出版社を創業し、1493年にミヒャエル・ヴォルゲムート工房の版画挿絵で「 ニュルンベルク年代記 」を出版して、大成功をおさめました。この時期に彼は ニュルンベルクやヴェネツィアなどに印刷所を構え、24台の印刷機と100名ほどの労働者を雇って印刷物を製作するとともに、ミラノ、パリ、リヨン、ウィーン、ブダペストなどに書店と代理店からなる販売網を構築しました。

“13歳の自画像” ( 紙にメタルポイント )
Albrecht Dürer (1471-1528 ) 1484年

このように金細工職人や 印刷関連の人々、そして画家や版画家などが身近に住むニュルンベルクにおいて、少年デューラーは 13歳頃にはすでに早熟な才能の片鱗をあらわし、1485年からは画家ミヒャエル・ヴォルゲムート ( 1434-1519 ) の徒弟となり1489年まで彼の工房で働きました。

“Portrait of Michael Wolgemut”  ( 板、テンペラ、油彩 )
by Albrecht Dürer,   1516年

すでに大画家としての名声を得ていたデューラーは、修業時代に世話になった恩師ミヒャエル・ヴォルゲムートの肖像を描きました。この肖像画には「1516年、師ヴォルゲムートを前にしてこれを描いた。ヴォルゲムートは当時82歳で、1519年まで生きた」という趣旨の銘文があります。絵の完成から3年後の1519年、恩師の死を悼んでこの言葉を画中に書き記したものと考えられています。

“22歳の自画像”、 Albrecht Dürer (1471-1528 )  1493年
銘文は「我が身に起こることは、天の思し召し」と書かれています。   

ところで‥ “自画像”という概念がなかった中世までは「自分の手で描かれた画家自身の絵」という表現がなされており、自画像という熟語はありませんでした。


「東方三博士の礼拝」に描き込まれたボッティチェリの自画像

たとえば初期ルネサンスを代表する画家 サンドロ・ボッティチェリ ( 1445-1510 ) の肖像として引用されるのは、新約聖書を主題とした「東方三博士の礼拝」( 1475年 ) の画面右端に立つ人物像です。 ラファエロやミケランジェロなども同様に、作品の登場人物に自身の顔を紛れ込ませて描いたことが知られています。

『 22歳の自画像 』はデューラーが最初に油彩で本格的に描いた自画像ですが、西洋美術史における初めての”自画像”でもあります。このことから、デューラーは “自画像”の創始者と呼ばれています。

自画像は、描き方の要素もそうですが さまざまな目的や背景が混在しやすいので読み解きは難しいですが、デューラーの 自画像においては「私とは誰か」という哲学的な問いかけが根底にあるのではないでしょうか。


“My Agnes”  ( Agnes Dürer née Frey  1475-1539 )
Drawing by Albrecht Dürer  1494年

Agnes Dürer was the daughter of the coppersmith Hans Frey and his wife Anna, a member of the patrician family Rummel.

デューラーは、1490年~1494年に まず北ヨーロッパで研鑽をつみ、1494年にニュルンベルクに戻ると、Agnes Frey ( 1475-1539 )と 結婚するとともに本格的な製作活動をはじめました。

そして、些かあわただしいですが 24歳のデューラーは 1495年~1996年には パドヴァとマントヴァを経てヴェネツィアに滞在しました。

“Agnès, in Dutch clothing”、Agnes Dürer née Frey ( 1475-1539 )
「 The wife of Albert Dürer  」1521年

 “Self Portrait ( 26歳 )”、 Albrecht Dürer (1471-1528 )    1498年

なお 特記すべきことは‥ デューラーはヴェネツィアで知り合った 画家ヤコポ・デ・バルバリ ( Jacopo de’ Barbari   ca.1460-1516 ) が 1500年にニュルンベルクを訪れたおりに、遠近法、解剖学、人体均衡論つまりプロポーション理論などを、彼から学んだと述べていることです。

デューラーは書簡などを多く残しており それらによって、彼が 芸術作品は 幾何学的な明確さを持ち、また 一定の比例理論に基づいていなければならないという確信を早い時期から持ったことが分かっています。そして、彼はこの頃から それらに関する研究をなお一層 積極的に行うようになりました。

● デューラーと 信仰について

ところで、彼は 28歳であったこの年にも 自画像を製作しました。これが、彼の人生で最後の自画像となりました。

“Self Portrait ( 28歳 )” ( 菩提樹材 Tilia sp.、油彩 67.1 x 48.9 cm  ) Albrecht Dürer (1471-1528 )  1500年
Alte Pinakothek in München    銘文は「それゆえ私、ニュルンベルク生まれのアルブレヒト・デューラーは 28の年に消えることのない色彩でもって自分自身を描いた。」と書かれています。

この自画像は 彼の強い信仰心を表明したものである可能性があります。顔の表現は伝統的なキリストの描き方‥ 左右対称なポーズでまっすぐにこちらを見つめ、茶色い髪は中央で分けられて肩にかかるように‥描かれています。つまり、画家が自らをキリストに重ねて表現したと見てとることができるのです。

デューラーが生きた時代に ヨーロッパ世界は 度重なる戦乱や迫害、ペストなど様々な困難に直面していました。

死と終末を思う緊迫感の中で 多くの人々が 敬虔な生き方のなかに救いをもとめました。これらの信仰活動は「 デヴォツィオ・モデルナ “Devotio moderna”(新しき信仰)」と呼ばれました。

その精神がもっともよく表されたのが、デューラーが生れる少し前に刊行され “聖書に次いで 2番目に多く出版された本” という呼称も持っている『イミタツィオ・クリスティ ( De imitatione Christi ) 』すなわち「 キリストにならいて 」という信心書です。


“The Imitation of Christ”  ( It was written in 1469 at the Carthusian monaste. )

この信心書には 黙想と祈りを通して神にいたる道が説かれ、 デヴォーションとして、信仰的な生活を歩むことが勧められています。そして、この概念は 当時のカトリック信徒に広く受け入れられ 『 祈り 』の根幹として用いられました。

( Devotionとは 「誓願により身を捧げる」を意味するラテン語 Devotio が語源で「神への信仰、敬虔」を意味しています。)

デューラーの『 1500年の自画像 』は、当初から物議をかもしたそうです。しかし、デューラーの生涯を検証すれば、キリストの似姿としての自画像は傲慢からではなく「 神は自らに似せて人間を創造し(旧約聖書の記述)、芸術の才能は神から授かったものである。」というような 彼の立ち位置が理解できるのではないでしょうか。

私は、デューラーが制作した『 1500年の自画像 』は、デヴォーションとして、神への感謝などを表明した作品であると思っています。

“Praying Hands”,   pen-and-ink drawing    1508年頃

ともあれ‥ デューラーは 31歳であった1502年に父親 Albrecht Dürer ( 1427-1502 ) を看取り、それが一段落した 1505年~1507年には 再びイタリアに滞在しました。

この滞在時には、レオナルド・ダ・ヴィンチの友人で比例理論の研究者として 1498年に『神聖比例論』( 1509年出版 )をまとめたルカ・パチョーリ ( Fra Luca Bartolomeo de Pacioli 1445-1517 ) にも教えを受けたようです。

また、彼は この頃 アレクサンドリアのエウクレイデス ( 紀元前330年頃から紀元前275年頃 ) が著した『 原論 ( ユークリッド原論 ) 』1505年刊ザンベルティ版を購入するとともに、ウィトルウィウスの『 “De architectura” ( 建築について ) 』や、アルベルティの『 建築論 』1485年刊の比例理論、そして ボエティウスやアウグスチヌスの音楽調和理論までも詳細に検討しています。

こうして、デューラーは 正確で美しい形態を構成するための数学理論、人体比率論や透視図法、立体幾何学等の理論を発展させたと考えられています。

“Albrecht Dürer’s House” in Nuremberg
Nuremberg Fachwerkhaus that was the home of Albrecht Dürer from 1509 to his death in 1528.

そしてこの後 ‥ おそらく1507年の秋には ニュルンベルクに戻って活動を続け、1509年には「 終の棲家 」となったこの家 ( Albrecht Dürer’s House ) を購入し、ここを拠点としてより一層充実した制作や研究をおこないました。

特に 1513年~1514年にかけては 銅版画の傑作である『騎士と死と悪魔』、『メランコリア Ⅰ( Melencolia I )』、『書斎の聖ヒエロニムス』など美術史で傑作とよばれる作品群を発表しています。

“Melencolia I”  1514年  Albrecht Dürer ( 1471-1528 ),  engraving 242mm×191mm      Albertina Museum in Vienna

また‥ 彼の信仰を考える上で意味深いと感じられるのは、デューラーは それらの活発な制作や研究活動をしていたこの時期に母親の最後を看取っていることです。

“63歳の母 ( Barbara Dürer  ca. 1451–1514 )”、( 紙に木炭、42.1×30.3cm、ベルリン国立美術館 )

デューラーは自分の母親について、次のように書いている。
「母が発病した上記の日から一年余り経ったある火曜日、即ちキリスト降誕より数えて‥の二時間前‥   “1514年5月17日の夜 “、わが信仰深き母バルバラ・デューラー夫人は “終油の秘跡”を受け、教皇の力で一切の苦痛と罪障から解き放たれて、キリスト者として世を去った。

彼女は予め私にも祝福を与え、私が罪障から守られてあるよう、極めて美しい教えを以て私に神の平安のあるよう願った。彼女はまた前もって聖ヨハネの祝福酒を求めてそれを飲んだ。母は死神をひどく恐れていたが、神の御前に行くことは怖くないといった。彼女はたいそう苦しんで死んだ。そして私は彼女が何か恐ろしいものを見たのに気付いた。何故なら彼女は、それまで、長らく何も言わないでいたのに、急に聖水を求めたからである。こうして彼女の目が霞んだ。

私はまた死神が彼女の心臓に二突き大きな打撃を加え、彼女が口と両目を閉じ、苦痛を以てこと切れるのを見た。私は母の前で祈祷文を朗誦した。その時私は口には表し得ないような苦しみを覚えた。神よ、彼女に恩寵を垂れ給え」

( アルブレヒト デューラー 著、「 デューラーの手紙 」前川誠郎氏訳 )

私は アルブレヒト・デューラーという人が記したことばを可能なかぎり検討してみましたが、その生きざまには ブレることのない敬虔な信仰心を感じました。


“Room for praying”,  inside the Albrecht Dürer House

● デューラーと “宗教改革”の関係

すでに歴史に刻まれているように、この16世紀初頭にヨーロッパ社会では大分裂が起こりました。この変革の波は ザクセン選帝侯フリードリヒ3世 ( Friedrich III. oder Friedrich der Weise von Sachsen 1463-1525 ) が デューラーのパトロンであったために彼をも直撃することになりました。

1496年4月、ザクセン選帝侯フリードリヒ三世 (1463-1525 )は、神聖ローマ帝国議会からの帰路 ニュルンベルクに数日滞在しました。”賢明公 ( der Weise )”と呼ばれた彼は、当時のドイツで 極めて高い教養と敬虔な信仰心を持つていることで知られていました。

また、熱心な美術愛好家でもあった公はこのニュルンベルク滞在時に 8歳年下の若き画家デューラーに肖像画を描かせました。この肖像画の制作が、フリードリヒ三世が亡くなった 1525年まで30年間続いたパトロン関係の端緒となりました。そして、次の依頼は ヴィッテンベルクにある選帝侯の居城内聖堂の祭壇画制作でした。

1423年、アスカニエル家の断絶で領有権はヴェッティン家に移ります。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世賢明公が宮廷をこの地に置いたことによってさらなる発展が約束されました。1502年には賢明公によってヴィッテンベルク大学が創設され、1508年にはマルティン・ルターが当時所属していたエアフルトのアウグスティヌス修道院の指示でこの大学にやってきて、1511年には完全にヴィッテンベルクに移籍します。こうしていよいよ宗教改革の本拠地として名を馳せる準備が整っていきました。

メインストリートの西の端には領主の城と付属する城内教会があります。この教会の北側中央の扉こそ、1517年にルターが95箇条の提題を掲示して宗教改革のきっかけとなったといわれているもの。当時この扉は木製で、大きな扉にはいろいろな文書や案内が貼り出され、討論したい教授や学生は論題を掲げて相手を募集したりして、大学の掲示板のように使われていたそうです。提題が実際に張り出されたかどうかは諸説ありますが、ルターに限らず当時の人にとっては討論の場を持つための普通のプロセスだったようです。内容を読んでみても、贖宥状の効力や教皇の権能についての自説を述べ討論を呼びかける普通の内容で、現代のしかも部外者の視点では破門になってしまうような感じではありませんでした。今回の旅では各地で開かれていたルター関係の展示の中に、ヨーロッパ各地に送られた提題パンフレットのオリジナルも見ることができました。

この教会は14世紀に城の付属チャペルとして建設され、全ての聖人に捧げられて「諸聖人の教会」という名前がつけられました。1489年から1509年にかけて、選帝侯フリードリヒ賢明公が城を新しく作り直した時に一緒に後期ゴシック様式で改築されています(聖別は1503年)。
その頃ヴィッテンベルク大学で道徳哲学を教える傍ら神学を学んでいたルターは、1512年10月にこの教会で神学博士の学位を授与され、同月に大学の神学部教授として任命されています。教会の再建を担当した建築家はコンラート・プフリューガーですが、内装担当にはティルマン・リーメンシュナイダーやアルプレヒト・デューラーやルーカス・クラーナッハも名を連ねる豪華布陣でした。

城内教会の前のメインストリートは、このあたりではシュロス通りというそのままの名前です。この通りを東に向かうとすぐにクラーナッハホフがあります。ルーカス・クラーナッハ(1472~1553)は、デューラーと並ぶ北方ルネサンスの巨匠で、1505年にフリードリッヒ賢明公の宮廷画家としてヴィッテンベルクに招かれ、工房を開きました。画家としてだけでなく薬局や印刷工房も経営して成功し、1519年から1549年までヴィッテンベルクの市長を3期(10年で一期)も務めた実業家・政治家で、典型的なルネッサンスの万能人です

クラーナッハホフは、1518年にクラーナッハが購入した当時ヴィッテンベルクで最大であった屋敷(中庭付き)です。彼はここにまず薬局を開き、次いで印刷所や工房も開きました。
印刷所といっても、単純に原稿を印刷するというより出版全体を取り仕切る独占的な権限を持っていて、出版社と新聞社と書籍の問屋を兼ねたような(もしかすると放送局も兼ねたような)ものでした。当時やっと普及してきた印刷術を活用し、大きな需要があったルターや宗教改革者たちの著作やビラやパンフレットを一手に出版・販売・頒布していました。
工房も絵画だけでなく教会や家庭の装飾品となる木彫りや金属工芸品・宝飾品、鎧や兜や盾や旗印などの武具装飾なども手掛けて、どれも大変な収入を得ていたようです。薬局は現在もクラーナッハ薬局という名前で営業しており(上の写真で自転車があるところの扉が薬局の入口で、右の写真は営業中の店内。クラーナッハの画が掛けてあります)、奥の建物にはクラーナッハ美術学校や中世スタイルの印刷工房、クラーナッハ・ホステルなどが入っています。中庭には画板を持ったクラーナッハの像が座って、自分の遺産を見守っているようです。

そこから何軒か行くともう市庁舎の建つマルクト広場です。広場に面した一等地にクラーナッハハウスがあります。ここは1512年に購入されたもので、結婚してすぐに家族で移り住んで工房を持ったということですが、すぐに手狭になって近くのクラーナッハホフを買い足しています。現在ではどちらも公共の施設として公開されており、クラーナッハハウスの方は彼の生涯や作品(レプリカ)の展示があります。

また、デューラーのパトロンと言えば‥  オーストリア大公マキシミリアン1世もそうでした。彼は1493年にハプスブルク家の家長となり、次いで1508年に神聖ローマ帝国の皇帝に選出された教養があり 芸術への関心も高い君主でした。

アルブレヒト・デューラーは1512年に皇帝マキシミリアン1世がニュルンベルクを訪れた際に初めて謁見し、3つの作品の注文を受けました。そして、後にこれらの注文を完成させた功績により 1515年に 彼は皇帝から年間100フロリンもの年俸を与えられました。

それから、デューラーは 1518年6月28日にマキシミリアン1世をアウグスブルクで開催された帝国議会の会期中にスケッチしています。そして、そのスケッチに「これは皇帝マキシミリアンである。彼をわたくしアルブレヒト・デューラーは、1518年の洗礼者ヨハネの祝日の後の月曜日にアウグスブルクの塔の中の小部屋で肖像に描いた」と書き込んでいます。

マキシミリアン1世はその翌年である、1519年1月12日に世を去りました。デューラーは1518年の素描をもとに木版肖像画、テンペラによる肖像画(ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館)、そしてこの油彩による肖像画を制作しました。

 

カール5世(Karl V., 1500年2月24日 – 1558年9月21日)神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 – 1556年

ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムス帝国議会に召喚し[21]。結果的にルターの主張を認めず、同調者達と共に法の保護を剥奪(帝国追放)した。ここで処罰とまではいかなくとも逮捕・拘束しておけばプロテスタントの興隆を食い止められただろうと後悔することになるが、若い皇帝は身の安全を保障した約束を破ることを良しとせず、スペインの統治・フランス王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。

ヘンリー8世と同盟して行った対フランス戦争では1525年にパヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世を捕虜とすることに成功し[22]、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた[23]。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄した[24]。そこで1528年、サン・ジョルジョ銀行から融資を受けて、再びの抗争に入った(この間にローマ劫掠事件も起こった)。1529年にあらためてフランスとの間に貴婦人の和約と称されるカンブレー講和条約を[25]、ローマ教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保したが、その引き換えにブルゴーニュ公領を手放した(ブルゴーニュ伯領・フランシュ=コンテ地域圏は保持)。1530年にはボローニャでイタリア王、ローマ皇帝としての正式な戴冠式を行った。ローマ教皇によって帝冠を受ける儀式はこれが最後になる。1524年に起きたドイツ農民戦争とシュマルカルデン同盟の成立に際しては手一杯だったカール5世は、弟のフェルディナントを代行としてドイツ地方における政務を委託している(フェルディナントは1531年にローマ王に即位[26])。

 

 

そもそも、ヨーロッパでは 1378年~1417年の間続いた『 大シスマ ( 教会大分裂 ) 』から本格化したカトリック教会の内部対立に、相次いだ戦争や疫病の問題も重なり、デューラーの時代には ほぼ収拾がつかない程までになっていたのです。

それは 1517年に、マルティン・ルター ( 1483-1546) が『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出し、宗教改革の口火を切ったことで完全に表面化しました。

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世 “賢明公” は、宮廷をヴィッテンベルクに置いていました。

1502年には賢明公によってヴィッテンベルク大学が創設され、1508年にはマルティン・ルターが当時所属していたエアフルトのアウグスティヌス修道院の指示でこの大学にやってきて、1511年には完全にヴィッテンベルクに移籍します。こうしていよいよ宗教改革の本拠地として名を馳せる準備が整っていきました。
この教会は14世紀に城の付属チャペルとして建設され、全ての聖人に捧げられて「諸聖人の教会」という名前がつけられました。1489年から1509年にかけて、選帝侯フリードリヒ賢明公が城を新しく作り直した時に一緒に後期ゴシック様式で改築されています(聖別は1503年)。
その頃ヴィッテンベルク大学で道徳哲学を教える傍ら神学を学んでいたルターは、1512年10月にこの教会で神学博士の学位を授与され、同月に大学の神学部教授として任命されています。教会の再建を担当した建築家はコンラート・プフリューガーですが、内装担当にはティルマン・リーメンシュナイダーやアルプレヒト・デューラーやルーカス・クラーナッハも名を連ねる豪華布陣でした。ルターが着任した頃は新築されたばかりで、第一級の美術品で飾られた壮麗な様子だったに違いありません。

フリードリヒは1525年に死去したが、その際カトリックからルター派に改宗するなど、最後までルターを支持した。一方で彼は文化的造詣も深く、彼のもとには学者や芸術家が集った。その一人がルカス・クラナハであった。

マルティン・ルターは これらのカトリック教会に対する抗議活動を理由に 1521年に ヴォルムスで異端を宣告されローマ教皇から 破門されました。そのために、彼は理解者であったザクセン選帝侯フリードリヒ3世により ヴァルトブルク城で 保護されることになりました。

ヴァルトブルク城に残るルターの部屋 ( Wartburg Lutherstube )

フリードリヒ3世の保護を受けた この期間に マルティン・ルター ( 1483-1546 ) は、この部屋で『新約聖書』をドイツ語に翻訳したと伝えられています。

この時、所用でネーデルラントのアントウェルペンを訪れていたデューラーは、ルターが暗殺されたらしいという知らせを聞いています。1521年5月のことでした。

彼は、その時の日記に「おお神よ、もしルターが死ねば、これから誰が聖なる福音をかくも明瞭に説いてくれるのか」と書いています。これは誤報であった。ヴォルムスの国会で異端を宣告された後、ルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒによって、ヴァルトブルク城にかくまわれたのだった。

1517年、ヴィッテンベルクで公にされたルターの主張は、瞬く間に神聖ローマ帝国全土に広がった。「95ヵ条の論題」はラテン語で書かれていたが、すぐにドイツ語に訳され、広く読まれたのである。ただ、当時の識字率は数パーセントと言われ、ルターの主張が広まる上では、チラシの宣伝画や短い文章、簡単なパンフレットが多大の影響力を持った。木版画も大量に刷られたが、グーテンベルクの活版印刷術改良から約半世紀、新たな情報メディアの威力が存分に発揮された。ルターによるドイツ語訳の『新約聖書』も、すぐに印刷されたのである。これらの印刷の多くは、ルターと親しかった画家クラナハの工房で行われた。

デューラー(1471〜1528)は、北方ルネサンスを代表する画家である。ニュルンベルクに生まれ、イタリア絵画とネーデルラント絵画を貪欲に学びながら、深い精神性を感じさせる、独自の世界を切り開いた。絵画、木版画、銅版画、素描など、膨大な数の作品を残している。画家としての地位を確立したのは、1498年の『黙示録木版画集』によってであった。また、有名な銅版画「メランコリアⅠ」、「書斎の聖ヒエロニムス」は、いずれも1514年に制作されている。植物や動物の微細な描写、13歳から断続的に描かれた自画像、人体比例の研究など、デュラーは複雑で多面的な人文主義者であった。

デューラーは、造形活動に打ち込みながら、ルターの思想をよく理解していた。1520年頃、デューラーはルターの小冊子を16冊持っていたという。ヴィッテンベルクの高官宛ての手紙には、ルターの肖像画を描きたいと書いている。(これは、なぜか実現しなかった。)一方で、デューラーは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のための仕事をしており、皇帝から年金も受けていた。1520年からのネーデルラント旅行は、新皇帝カール5世の戴冠式に出席し、併せて年金継続の確約を願うためであった。旅行中、彼はエラスムスに会い、その肖像をスケッチしている。(数年後に、人間の意志をめぐって、エラスムスとルターの間に亀裂が生じようとは、だれも思っていなかっただろう。)

デューラーは、1521年の7月ニュルンベルクに戻ったが、宗教改革をめぐる動きは、混沌としていた。1520年に出版された『キリスト者の自由』はよく読まれ(20数ページの小冊子であった)、ルターの福音主義は大きな広がりを見せていた。しかし、ルター隠棲中には、選帝侯の下での合法的な改革に飽き足らないグループが生まれた。農民戦争の指導者となるトーマス・ミュンツァーも、このグループであった。さらに、幼児洗礼を否定する再洗礼諸派が登場し、中世のドイツ神秘主義につながる派も生まれていた。デューラーの友人や弟子たちの中にも、再洗礼派的な動きがあった。一方、民衆による聖像破壊(イコノクラスム)も起こっていた。「信仰のみ」、「聖書のみ」の立場からは、聖像は不要なものとされたのである。ルターは、破壊活動は慎むよう民衆に呼びかけたが、聖母マリア崇拝などは否定した。ルター派の教会から、聖母像や聖母の聖遺物は撤去された。(聖像破壊が最も激しかったのは、ツヴィングリやカルヴァンが改革を行ったスイスであった。)聖像の破壊や撤去を、デューラーはどう受けとめていたのだろうか? 複雑な心境だったに違いない。デューラーは、多くの聖母像・聖母子像を描いていた。

1524年から25年にかけて、農民戦争の嵐が吹き荒れた。農民たちは、福音主義の下に、十分の一税を批判し農奴制の撤廃を求めていた。ルターとミュンツァーの間には激しい応酬があった。

「彼らのやることは悪魔のわざにほかならない。…彼らのなすところは、強盗、殺人、流血以外の何ものでもない。…もう忍耐も憐れみも必要ではない。いまは剣と怒りの時であって、恵みの時ではない。…刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。」(ルター「盗み殺す農民暴徒に対して」、渡辺茂訳)

「福音を説き神のみを怖れよと言いながら、同時に正義に逆らう統治者たちに服従せよと言うとは。君主たちの顧問[引用者註:ルターを指す]どもがやっているように、敵対する二人の主人に見事に兼ね仕えることができるとは、何とご立派なことか。」(ミュンツァー「まやかしの信仰のあからさまな暴露」、田中真造訳)

改革運動の激化と封建制の矛盾の顕在化の中で、すべての人が荒波にもまれていた。ニュルンベルク市参事会はルター派の立場を鮮明にし、デューラーの知人にも逮捕者が出ていた。デューラーは、ルターの農民非難のすべてを受け入れていたのだろうか? この頃デューラーは、黙示録的な大洪水の夢を見て、「夢の幻影」という水彩画を残している。分裂と対立の濁流の中で、デューラーは沈思していた。25年、農民たちは敗れ、ミュンツァーは斬首された。

1526年、デューラーは、大作「四人の使徒」をニュルンベルク市に贈った。死の1年半前のことである。絵の下には、デューラーによって選ばれた聖書の言葉が、書家によって書かれた。

「世のすべての支配者たちよ、この危険な時代にあたり、人の惑わしを神の御言葉と取らざるよう、慎みて意を用いよ。」(前川誠郎訳)

 

“The Four Apostles” ( 板、油彩 Each picture 204 × 74 ) 、1523年~1526年、Albrecht Dürer ( 1471-1528 )

暗い背景から浮き出すように、ほぼ線対称に配置された人物は、左よりヨハネ、ペテロ、パウロ、マルコですが、まず目を引くのは、ヨハネとマルコが身にまとう清かな衣擦れの音さえ聞こえてきそうな衣装の、赤と白の鮮やかさです。キリスト教において、赤は慈愛を、白は無垢を表現します。

また、沈思するヨハネとペテロ、眼光がするどいパウロ、マルコの、それぞれの表情も印象的で、静謐さと力強さの対比を見せています。

キリスト者であった デューラーは、ルターの熱心な支持者でもありました。『四人の使徒』というタイトルが付けられたこの絵の最下部には、ルターによる福音書のドイツ語訳から 使徒たちが人間の過ちと高慢を非難する「世の支配者たちよ。人間たちの言葉を神の御言葉と取り違えてはならぬ。」という戒めの言葉が描かれています。

 

「この作品に4人のルターを、すなわち聖書の人、思想家、指導者、そして闘士という4人のルターを見る」と言われるほど、宗教改革家ルターに傾倒したデューラーですが、彼は絵画を単なる美術品としてではなく、宗教的な思想を後世に伝えていくためのものとして考えていたふしがあります。

福音記者である4人の足許に書かれている新約聖書からの引用文は、偽予言者や偽善家の出現を警告するものであり、「敬神の人デューラー」の厳しい姿勢がうかがえます。

信仰の多角的な内面性を表現したこの作品は、宗教改革という時代が希求したものであったと言い換えることができるのかもしれません

ザクセン選帝侯フリードリヒ3世賢明公が宮廷をこの地に置いたことによってさらなる発展が約束されました。1502年には賢明公によってヴィッテンベルク大学が創設され、1508年にはマルティン・ルターが当時所属していたエアフルトのアウグスティヌス修道院の指示でこの大学にやってきて、1511年には完全にヴィッテンベルクに移籍します。こうしていよいよ宗教改革の本拠地として名を馳せる準備が整っていきました。

この教会は14世紀に城の付属チャペルとして建設され、全ての聖人に捧げられて「諸聖人の教会」という名前がつけられました。1489年から1509年にかけて、選帝侯フリードリヒ賢明公が城を新しく作り直した時に一緒に後期ゴシック様式で改築されています(聖別は1503年)。
その頃ヴィッテンベルク大学で道徳哲学を教える傍ら神学を学んでいたルターは、1512年10月にこの教会で神学博士の学位を授与され、同月に大学の神学部教授として任命されています。教会の再建を担当した建築家はコンラート・プフリューガーですが、内装担当にはティルマン・リーメンシュナイダーやアルプレヒト・デューラーやルーカス・クラーナッハも名を連ねる豪華布陣でした。ルターが着任した頃は新築されたばかりで、第一級の美術品で飾られた壮麗な様子だったに違いありません。

ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach der Ältere、1472年10月4日 クローナハ、オーバーフランケン – 1553年10月16日、ヴァイマル)彼が芸術家として最初に製作した絵画は1504年のものである。

ルターは修道士であったが、自身でおこなった宗教改革後、まさに新約聖書の発行後にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で26歳の元修道女と結婚している。1525年6月、41歳の時だ。

ルターとの親交は1511年頃にはすでにあったようだ。
祭壇画の制作も増えていた時期だが、肖像画の依頼も増えマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)自身の肖像画も多く残されている。
アルテピナコテークの所で、クラナッハとルターについてはちらっと触れたが、二人が親友であったのは間違いない。

1517年、当時ヨーロッパ最大の聖遺物を有していたヴィッテンベルク(Wittenberg)の教会。
ヴィッテンベルク大学神学教授であったルターはヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけ、宗教改革の口火を切った。
その後ルターは神聖ローマ帝国のヴォルムス帝国議会で異端として破門を受ける事になる。

マルティン・ルターが保護を求めたのがザクセン選帝侯である。
時のフリードリッヒ3世は彼をヴァルトブルク城(Wartburg Castle)内にかくまいルターはそこで聖書の翻訳活動をしたのである。
それが世に有名なルター翻訳の新約聖書刊行である。(1522年9月)

以下にはルターの新約聖書発刊に関する記録を記した。
1522年9月、ルターがラテン語からドイツ語に翻訳した「新約聖書」が大版で出版。(9月聖書)
同年テクストが改稿され挿絵も訂正。
1524年モーセ五書・歴史書・詩書
1526年ヨナ書、ハバクク書、
1528年ゼカリヤ書、イザヤ書1529年、新約聖書が基礎から校正され、1530年には最終的な編集。
1529年ソロモンの知恵
1530年ダニエル書、エゼキエル書の注釈付き
1531年詩篇が最終的な形で完成。

1522年9月に新約聖書が印刷されてから、テクストは度々改稿。また少しずつ内容が増えて加わり新約聖書だけでもどれだけの印刷を要したか。

星驚くなかれ。これらは全て独占で印刷されていた。
この新約聖書初版を印刷した会社こそが、ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)の起業した会社だったのである びっくり
1525年、クラナッハは宮廷に出入りする宝飾家クリスティァン・デーリングと共に印刷会社設立の許可をフリードリッヒ3世より取り付け、ルターの新約聖書の独占印刷権を獲得したと言うわけだ。

上に示したように続編も多数発行され、膨大な印刷を行った為にヴイッテンベルクの他の印刷会社は全て消え、そればかりか印刷でトップであたライプツィヒを抜いてヴイッテンベルクは出版の中心地になったと言う。

もともと事業家で製薬の会社なども持っていたクラナッハには、さらに莫大なお金が舞い込み、1528年の所得申告ではヴィッテンベルクを代表する金持ちになっていたそうだ。

1534年ルターは旧約聖書の出版も行うのであるが、クラナッハは1533年に会社を売却している。
先ほどクラナッハの黄金期と言ったのは地位も名声もお金も手に入れたと言う意味があったからである。

さらに加えるとクラナッハは1537年から3期(9年?) ヴイッテンベルクの市長を勤めている。

 

クラナッハが仕えたザクセン選帝侯3人
フリードリッヒ3世(Friedrich III)(1463年~1525年)(在位:1486年~1525年)
ヨハン(Johann)(1468年~1532年)(在位:1525年~1532年)
ヨハン・フリードリヒ(Johann Friedrich )(1503年~1554年)(在位:1532年~1547年)

城内教会の前のメインストリートは、このあたりではシュロス通りというそのままの名前です。この通りを東に向かうとすぐにクラーナッハホフがあります。ルーカス・クラーナッハ(1472~1553)は、デューラーと並ぶ北方ルネサンスの巨匠で、1505年にフリードリッヒ賢明公の宮廷画家としてヴィッテンベルクに招かれ、工房を開きました。画家としてだけでなく薬局や印刷工房も経営して成功し、1519年から1549年までヴィッテンベルクの市長を3期(10年で一期)も務めた実業家・政治家で、典型的なルネッサンスの万能人です。

クラーナッハホフは、1518年にクラーナッハが購入した当時ヴィッテンベルクで最大であった屋敷(中庭付き)です。彼はここにまず薬局を開き、次いで印刷所や工房も開きました。
印刷所といっても、単純に原稿を印刷するというより出版全体を取り仕切る独占的な権限を持っていて、出版社と新聞社と書籍の問屋を兼ねたような(もしかすると放送局も兼ねたような)ものでした。当時やっと普及してきた印刷術を活用し、大きな需要があったルターや宗教改革者たちの著作やビラやパンフレットを一手に出版・販売・頒布していました。
工房も絵画だけでなく教会や家庭の装飾品となる木彫りや金属工芸品・宝飾品、鎧や兜や盾や旗印などの武具装飾なども手掛けて、どれも大変な収入を得ていたようです。薬局は現在もクラーナッハ薬局という名前で営業しており(上の写真で自転車があるところの扉が薬局の入口で、右の写真は営業中の店内。クラーナッハの画が掛けてあります)、奥の建物にはクラーナッハ美術学校や中世スタイルの印刷工房、クラーナッハ・ホステルなどが入っています。中庭には画板を持ったクラーナッハの像が座って、自分の遺産を見守っているようです。

1508年以前に、彼はアルブレヒト・デューラーやハンス・ブルクマイアーらと競いながら、ヴィッテンベルクにあるCastle Churchの数多くの祭壇画を描いていた。

ヴィッテンベルクに工房を構え、当地の領主ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に御用絵師として仕えた[1]。主に宗教画で多数の作品を残したほか、同時代人の宗教改革者マルティン・ルターの友人であったため、彼とその家族の肖像画を多く残している[

マルティン・ルターの肖像 (1529年) ウフィツィ美術館

ルカス・クラナハ(父)は1505年にヴィッテンベルクの町にやってきて、その地に宮廷を置くザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の宮廷画家となった。この町はドイツ有数の大学都市であり、宗教改革の機運を醸成した地でもある。ここでクラナハは多くの学識ある人々と出会った。マルティン・ルター(1483-1546年)はその一人であり、1517年に有名な『95ヵ条の論題』を発表して宗教改革を始めた人物として知られている。クラナハはルターの親友となり生涯彼の肖像画を描き続けた。

ここに描かれているのはルターとその妻カタリナ・フォン・ボラ(1499-1552年)である。カタリナは貴族出身でシトー会の修道女であったが、ルターの思想に共鳴して1523年に8人の仲間とともに修道院を脱出した。修道院から逃げてヴィッテンベルクに到着した彼女はしばらくクラナハの家に居候し、その後1525年にルターと結婚した。カトリックでは修道女を含め聖職者の結婚は禁止されており、彼女との結婚もカトリック陣営からは非難されたが、二人の結婚生活は幸福であったという。クラナハは親友として二人の結婚立会人になり、また最初の子の代父(洗礼式で立ち会う役割の人)にもなり、家族ぐるみでの交際が続いた。

二人はお互いの方を向いて上半身像で青い背景の前に表されている。ルターは黒い服に身を包み、カタリナは白いシャツ、リボンのついた胸当て、毛皮の襟の付いた上着を着て、髪は黒いネットに包まれている。ルターとの親密な交際のおかげでクラナハは決してルターを美化して描かなかった。この絵でもルターは実物に忠実に、農民風のいささか粗野な風貌の人物として描かれている

ヴィーナス (1532年) シュテーデル美術館

デューラーのルターに寄せる期待は、彼の日記に確認できます。クラナッハは、新教のプロパガンダとして多くのルター肖像画を供給しました。新教への傾倒ゆえに、グリューネヴァルトは職を辞することになります。このように数え上げると、ドイツ・ルネサンスの巨匠たちは宗教改革に積極的に反応したかに思われますが、これは極めて一面的な見方と言わざるを得ません。

なぜなら、その同じ芸術家たちが1517年以後もカトリック教会とその支持者のために、依然として傑作を制作し続けたからです。今回はデューラーの銅版画《小枢機卿》、クラナッハがハレのドームの聖遺物収集のために果たした大きな役割、グリューネヴァルトの晩年の大作《聖エラスムスと聖マウリティウス》を採り上げてみます。すると、これらの傑作群の背後に、カトリック教会の大立者にして当代随一の芸術パトロン、アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクの存在が浮かび上がってくるでしょう。

 

Donatello  ( Donato di Niccolò di Betto Bardi  1386-1466 )
Verrocchio  ( Andrea del Verrocchio  ca.1435-1488 )
Martin Schongauer ( ca.1448-1491 )
Antonio Pollaiolo ( ca.1433-1498 )
Albrecht Dürer ( 1427-1502 )
Sandro Botticelli ( ca.1445-1510 )
Anton Koberger ( 1440-1513 )
Barbara Dürer ( ca.1451–1514 )
Giovanni Bellini ( ca.1430-1516 )
Michael Wolgemut ( 1434-1519 )
Leonardo da Vinci ( 1452-1519 )
Maximilian I  ( 1459-1519 )
Raffaello Sanzio da Urbino ( 1483-1520 )

Albrecht Dürer ( 1471-1528 ) 

 

オーストリア大公マキシミリアン1世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世とポルトガル王ドゥアルテ1世の娘エレオノーレの長子として1459年にウィーンで生まれた。彼は1493年にハプスブルク家の家長となり、次いで1508年に神聖ローマ帝国の皇帝に選出された。彼は教養ある君主であり、芸術への関心が高かった。

この肖像画の作者であるアルブレヒト・デューラーは1512年に皇帝マキシミリアン1世がニュルンベルクを訪れた際彼に初めて出会い、3つの作品の注文を受けた。大規模な木版画による『凱旋門』、『凱旋行列』、そして自信の祈祷書の欄外の装飾であった。これらの注文を完成させた功績によりデューラーは皇帝から1515年に年間100フロリンもの年俸を与えられた。

その後1518年6月28日にデューラーはマキシミリアン1世をアウグスブルクで開催された帝国議会の会期中にスケッチした。そのスケッチにデューラーは次のように書き込んでいる。「これは皇帝マキシミリアンである。彼をわたくしアルブレヒト・デューラーは、1518年の洗礼者ヨハネの祝日の後の月曜日にアウグスブルクの塔の中の小部屋で肖像に描いた」。このどちらかというと私的な雰囲気で描かれたスケッチでデューラーは59歳の君主の特徴をとらえている。

マキシミリアン1世はその翌年、1519年1月12日に世を去った。デューラーは1518年の素描をもとに木版肖像画、テンペラによる肖像画(ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館)、そしてこの油彩による肖像画を制作した。毛皮の表現などに入念さが見て取れるが、一方でスケッチに見られた人間性はいささか失われてしまっているように見える。

1520年7月から一年あまりの間、デューラーはネーデルラントを旅行しています。この旅の最大の目的は、1519年に亡くなった神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(図1)から交付されていた年額100グルデンの年金の継続を、皇位を継承するカール5世(図2)から認めて貰うことにありました。100グルデンは、当時宮廷に雇用された画家が一年間に支給された金額と同額でもあり、年金交付の有無はデューラーにとって決して無視できない事柄だったのです。

この旅行中にデューラーが書き綴った日記(註1)からみて、デューラーは事前にいろいろと関係諸方に手を打っていたようです。幸い、8月下旬にはカール5世の叔母であり、ネーデルラント総督でもあったマルガレーテ女公(通称、オーストリアのマルガレーテ、あるいはマルグリート・ドートリッシュ)(図3)から、カール5世に使者を送って、デューラーに年金交付が継続されるよう後押しをする旨の知らせがもたらされました(註2)。マルガレーテはマクシミリアン1世の娘で、兄フィリップ美公(図4)が早逝したこともあり、総督としてネーデルラントの政治を司る一方で、甥のカール5世の養育にも携わった女性でした。ですから彼女の後押しを得た以上は、年金交付の継続交渉はほぼ成功したも同然であったものと思われます。デューラーは感謝の印として、すぐさま携帯していた『銅版受難伝』(図5)(全16枚、1507-1513年)を使者に託したほか、後に手持ちの版画作品一式と羊皮紙上に描いた素描2点を贈っています。またデューラーは、マルガレーテ女公に仕える人々への気遣いも怠ることなく、マルガレーテの官僚や侍医、宮廷芸術家などと親しく交際しては、肖像を描いてやったり、版画を贈呈したりしています。こうした甲斐あって、11月4日付けでデューラーは新皇帝カール5世から、年金交付を認める確認状を与えられています(註3)。

ところで、デューラー自身も日記に、「女公は極めて友好的な態度を示された」と記してはいるのですが、マルガレーテのデューラーに対する態度は、なかなか複雑なものであったように思われます。というのも、後にデューラーが自らの絵画作品を献上したいという

希望を表明した折、彼女はこれを退けているのです。ネーデルラント滞在中デューラーは行く先々で、画家や彫刻家はもとより貴族や有力者から歓待され、その作品は大抵喜んで受け取られています。日記を読む限り、面と向かって作品の受け取りを拒否したのは、マルガレーテだけだったようです。デューラーの作品の受け取りを拒むとは、今日の我々にとっては、想像もつかない対応に思われます。それも、マルガレーテが芸術に無関心であったどころか、むしろ大変に造詣の深かった人物であっただけに、この拒否は、意外にも感じられます。一体なぜマルガレーテはデューラーからの寄贈の申し出を断ったのでしょうか? まず、当時にあっては抜きん出て優れた美術愛好家であった彼女の美術コレクションの概要に触れておきましょう。

2.オーストリアのマルガレーテ

ハプスブルク家は代々婚姻によって勢力の拡大を図ったことは広く知られていますが、マルガレーテもそれに翻弄された一人と言うことができるかもしれません(註4)。マクシミリアン1世とブルゴーニュ公女マリー(図6)との間の娘として1480年に生まれたマルガレーテは2歳で母を失った後、1483年にフランス王室の皇太子であった後のシャルル8世の婚約者としてロワール河畔のアンブローズ城で育ちますが、1493年にブリタニア王女アンとシャルルの結婚が整えられたために離縁され、祖父シャルル突進公(図7)が1477年に戦死して以来、祖母ヨークのマーガレット(図8)が居住していたメーヘレンに戻ります。1497年にはアラゴン=カスティーリヤ王国の王子ファンの許に嫁いだものの、僅か9ヶ月で夫と死別します。再びメーヘレンに戻った後、1501年にはさらにサヴォア公爵フィリベール2世(図9)と結婚しますが、1504年に夫君を狩猟中の事故により再び失うと、亡夫の菩提を弔うべくブール・ガン・ブレス近郊のブルーに修道院を建立し、隠棲を図りました。ところが、1506年にハプスブルク家の後継者たる兄フィリップ美公(1478-1506年)が亡くなってしまいます。途方に暮れた父帝マクシミリアン1世からネーデルラントの統治と、後のカール5世を含む亡き兄の子供たちの養育を任されたマルガレーテは、メーヘレンに戻りやがてネーデルラント総督に任命されて、当時の女性としては類稀な政治的手腕を発揮するとともに、甥や姪たちの帝王教育に専心する傍ら、アルプス以北にあっては稀な一大美術コレクションをメーヘレンのサヴォア宮殿内に築き上げました(註5)。マルガレーテには母親を介してブルゴーニュ公家の血が流れていたので、シャルル突進公の戦死によって絶えたブルゴーニュ公家の正統な末裔と言え、その文学的素養や芸術趣味も15世紀に文化的に隆盛を誇ったブルゴーニュ宮廷の伝統を引く高度なものだったのです。

 

。1520年~1521年にはネーデルラント アルブレヒト・デューラー ネーデルラント旅日記1520‐1521

エッチング(Etching)」

、14世紀頃から鎧や武具に装飾をほどこす方法として金属の腐触法が行われていました。鉄製の武具などの表面にワックスを塗り、針で掻き取り、そこに酸を擦り込み凹部をつくります。

この腐触法を版画に応用したものがエッチングです。1520年頃にネーデルランドのルーカス・ファン・ライデンが銅版でのエッチングを始め、銅版に適した描画用防触剤の開発や腐触液の研究がされ、銅版画に必要な基礎が確立しました。その後、ヘルクレス・セーヘルスは腐食法を駆使して様々な技法を試しています。

1521年、オランダを旅してマラリアにかかったデューラーは、それ以降の病気療養期に「比例理論」と題する本の執筆と出版に主として専念し、1523年に原稿の完成を見たのですが、執筆の過程で、この理論をより完全にする為には、もっと基礎的な数学的検討が必要だと考え、1524年から1525年にかけて、その研究を行い、完成すると直ちに、彼の工房でそれを印刷し、出版しました。

 

 

 

デューラーは奇妙な病気にかかっていた。間歇的に高熱に冒されるという病気で、以後デューラーはその後遺症のために、健康を著しく害した。結局この病気がデューラーにとって「死の病」となった。彼は1528年の4月6日に、57年の生涯を閉じたのである。

デューラーは、その生涯を通じてイタリア・ルネサンスの古典的な理想と、生まれ故郷であるドイツの自然主義を調和させることに尽力しました。

1528年人体均衡論四書」注解 アルブレヒト デューラー, Albrecht D¨urer北方ルネサンスの巨人が、人体表現において、美と数の理想的比例を発見し、それを体系化した画技と科学の集大成の書を世界で初めて全訳、翻刻。人体図版142図を収録し、美学、美術史学に加えて、人体プロポーションの観点から被服、デザイン、デッサン用の資料としても参照できる一冊。

「測定法教則」注解 Albrecht D¨urer , アルブレヒト デューラーアルブレヒト・デューラーの「測定法教則」(下村耕史 訳編、中央公論美術出版 2008年)です。

原本は、1525年にドイツで出版され、ピエロデッラフランチェスカの作品に基ずく遠近法や     表題は「線、平面、立体におけるコンパスと定規による測定法教則、理論を愛するすべての人の利用のために、アルブレヒト・デューラーの著した説明図付きの書。1525年印刷」となっていますが、長いので訳者が、「測定法教則」 にしたと思います。いえわゆる絵画・彫刻・建築を学ぶ人のための教科書で、その後ラテン語などに翻訳されヨーロッパ中に広まり大きな影響を与えました。

 

Albrecht. (1471-1528).
Underweysung der Messung,,,.
Nuemberg, 1525, First edition.
アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
計量法
ニュールンベルグ, 1525年, 初版.

絵画は数学にーとりわけ正確な形を決める為の幾何学、美しい形をととのえる為の比例理論に基かねばならないという確信を持ったことがあげられます。そのため、彼はイタリアへ行って学ぶことを決心し、1495年から1496年にかけてと、1505年から1507年にかけてとの2回、ヴェニスに滞在して勉強しました。二度目の滞在は、ダ・ヴィンチの友人で、会計学の始祖であり、芸術に於ける比例理論の研究者であったルカ・パチョーリの教えを受けるためであった事はほぼ確実です。彼はユークリッド幾何学(タキヌス版のユークッド「原論(1505年)」をこの頃買い求めています)、ウィトルウィウス「建築十書」やアルベルティの「建築十書」にあらわれる比例理論、ボエティウスやアウグスチヌスの音楽調和理論等を研究し、徐々に彼自身の、正確で美しい形態を構成する為の数学理論、人体比例論や透視図法、立体幾何学等を発展させて行きました。この頃の彼の研究ノートの断片がロンドン、ニュルンベルグやドレスデンに保存されています。
1521年、オランダを旅してマラリアにかかったデューラーは、それ以降の病気療養期に「比例理論」と題する本の執筆と出版に主として専念し、1523年に原稿の完成を見たのですが、執筆の過程で、この理論をより完全にする為には、もっと基礎的な数学的検討が必要だと考え、1524年から1525年にかけて、その研究を行い、完成すると直ちに、彼の工房でそれを印刷し、出版しました。これが本書です。この書物は4部から成り、第1部ではアルキメデスらせん、対数らせん、正弦らせん、コンコイド曲線やヘリックス等の各種平面曲線や円錐曲線等の作図法を述べ、第2部では、多角形の作図法とその建築装飾への応用、取り尽し法による円面積のウィトルウィウス的近似法、また円周率πを計算して、3.141 の値を与えています。第3部は四角錐、円筒、様々な種類の円柱等の立体を扱い、また日時計や天文観測用の機材の考察、文字のデザインと作図(レタリング)について述べ、第4部には、プラトン立体、アルキメデス立体、球、またそれ等を混合した立体、デリアン問題として知られる立方体の複製問題、さまざまの立体に光があたった時の影の作図法、透視図法の概要について記しています。
本書はデューラーの最初の出版であるばかりでなく、ドイツ人自身の手による最初の数学書の出版であり、内容の高度さと相まって、デューラーは画家としてばかりでなく数学者としての名声を獲得したのです。また、デューラーのこの仕事は、後の射影幾何学の発達の基礎をなしたのでした。

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1 遠近法の作図は立方体を例にして説明されています。左は、側面図と上面図、それを見る鑑賞者の目の位置と光源の位置が示されています。

2 それを使って描かれたパース図。

3 左は、鑑賞者と画面とパース図のと関係が示されています。鑑賞距離によるパース図内の奥行の変化がよく分かるイラストです。

4 最後に遠近法の器具を使って絵を描くイラストが載っています。左下の碁盤状の升目を使った方法は、アトリエラポルトでも採用しています。

デューラーの「測定法教則」は、今の私達から見ると絵の教則本とは言えない内容に思えますが、実は西洋の造形芸術の根底に「幾何学:Geometre」が存在することを示す貴重な文献です。
そして西洋の造形芸術に使われる「形」とは、幾何学的形がベースになっているのが理解できると思います。

例えば、セザンヌは「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という有名な言葉を残していますが、この本を読むと古くからある西洋絵画の「物の捉え方」の上に立っていたのが分かります。それは後のキュビズムやモンドリアンなどの抽象絵画にまで繋がる西洋の伝統的思考法とも言えるでしょう。

 

 

 

From Albrecht Dürer, Draughtsmen with Lute, in his Underweysung der Messung mit dem Zirkel und Richtscheyt. Nuremberg, 1525.

In the fifteenth century, Albrecht Durer invented this system for getting proportions right:

He set his eye to a point, so that his perception of the model did not change, and he set up a piece of class with a grid etched onto it that matched the grid on the paper.

建築家ブルネレスキの透視図法を線遠近法として理論化 ( 『絵画論』1435年 )したアルベルティを支持し、その普及に一役かったドナテルロ ( Donatello 1386-1466 ) が 1440年頃に制作した “ダヴィデ像”は 5.9頭身だと思います。

 

人間の割合に関する4冊の本[編集]

人間の割合に関する4冊の本のイラスト
人間の比率に関するデューラーの研究は、1528年の人間の比率に関する4冊の本(VierBüchervon Menschlicher Proportion)と呼ばれています。[39]最初の本は主に1512/13で構成され、1523年までに完成しました。体のすべての部分が全高の分数で表された、男性と女性の両方のフィギュアの5つの異なる構造タイプを示しています。デューラーは、これらの構成を、ヴィトゥルヴィウスと「生きている人200〜300人」の経験的観察の両方に基づいて[27]、自分の言葉で述べた。 2番目の本にはさらに8つのタイプが含まれており、分数ではなくアルベルティアンシステムに分解されています。デューラーはおそらく1525年のフランチェスコディジョルジョの「デハーモニカムンディトティウス」から学んだでしょう。3番目の本では、デューラーは図の比率が凸面鏡と凹面鏡の数学的シミュレーションを含め、変更できます。ここでデューラーは人間の人相も扱います。 4冊目の本は、運動理論に関するものです。

しかし、最後の本に追加されているのは、デューラーが1512年から1528年の間に取り組んだ美学に関する自己完結型のエッセイであり、ここで「理想的な美」に関する彼の理論について学びます。デューラーはアルベルティの客観的な美の概念を拒否し、多様性に基づく美の相対主義的な概念を提案しました。それにも関わらず、デューラーは真実は自然の中に隠されていると信じ、そのようなコードの基準を定義するのは難しいとはいえ、美しさを命じるルールがあると信じていました。 1512/13年の彼の3つの基準は、機能( ‘Nutz’)、素朴な承認( ‘Wohlgefallen’)、そして幸せな媒体( ‘Mittelmass’)でした。しかし、アルベルティやレオナルドとは異なり、デューラーは美の抽象的な概念だけでなく、芸術家がどのように美しい画像を作成できるかについても理解するのが最も困難でした。 1512年から1528年の最終草案までの間に、デューラーの信念は、人間の創造性を自発的または「選択的内向き合成」の概念に触発されたものとして理解することから発展しました。[27]言い換えれば、芸術家は美しいものを想像するために豊富な視覚的経験に基づいているということです。一人の芸術家のインスピレーションに対する能力に対するデューラーの信念は、彼は「1人の男性が1日に半分の紙の上にペンで何かをスケッチするか、小さな鉄でそれを小さな木片に切るかもしれない、そしてそれは、その作者が一年中最大限の勤勉さをもって努力する他人の作品よりも優れて芸術的であることが判明した。

Four Books on Human Proportion[edit]

Illustration from the Four Books on Human Proportion
Dürer’s work on human proportions is called the Four Books on Human Proportion (Vier Bücher von Menschlicher Proportion) of 1528.[39] The first book was mainly composed by 1512/13 and completed by 1523, showing five differently constructed types of both male and female figures, all parts of the body expressed in fractions of the total height. Dürer based these constructions on both Vitruvius and empirical observations of “two to three hundred living persons”,[27] in his own words. The second book includes eight further types, broken down not into fractions but an Albertian system, which Dürer probably learned from Francesco di Giorgio’s ‘De harmonica mundi totius’ of 1525. In the third book, Dürer gives principles by which the proportions of the figures can be modified, including the mathematical simulation of convex and concave mirrors; here Dürer also deals with human physiognomy. The fourth book is devoted to the theory of movement.

Appended to the last book, however, is a self-contained essay on aesthetics, which Dürer worked on between 1512 and 1528, and it is here that we learn of his theories concerning ‘ideal beauty’. Dürer rejected Alberti’s concept of an objective beauty, proposing a relativist notion of beauty based on variety. Nonetheless, Dürer still believed that truth was hidden within nature, and that there were rules which ordered beauty, even though he found it difficult to define the criteria for such a code. In 1512/13 his three criteria were function (‘Nutz’), naïve approval (‘Wohlgefallen’) and the happy medium (‘Mittelmass’). However, unlike Alberti and Leonardo, Dürer was most troubled by understanding not just the abstract notions of beauty but also as to how an artist can create beautiful images. Between 1512 and the final draft in 1528, Dürer’s belief developed from an understanding of human creativity as spontaneous or inspired to a concept of ‘selective inward synthesis’.[27] In other words, that an artist builds on a wealth of visual experiences in order to imagine beautiful things. Dürer’s belief in the abilities of a single artist over inspiration prompted him to assert that “one man may sketch something with his pen on half a sheet of paper in one day, or may cut it into a tiny piece of wood with his little iron, and it turns out to be better and more artistic than another’s work at which its author labours with the utmost diligence for a whole year”.[40]

 

特に中世の美術では絵画は写実性ではなく象徴性が重んじられ

 

少し話はそれますが ‥ 念のために 申し添えれば、プロポーションの概念は ウィトルウィウスの”発明”ではなく 古来より美の問題や、神とのかかわりで論じられてた思潮から生じたと考えられます。

ですから この概念は、少なくとも ウィトルウィウス ( circa 80B.C.~15B.C. )より500年ほど前の、「 数を世界の構成原理と考える 」ピタゴラス学派 ( Pythagoras 紀元前582年~紀元前496年 ) の時代に着想が得られたのかもしれません。

 

 

ウィトルウィウスの著作『建築論』は、アルベルティをはじめルネサンス期の建築家に大きな影響を与えた。『建築論』第3巻には、神殿建築は人体と同様に調和したものであるべきという記述があり、レオナルドと交流のあったフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの建築書(手稿)の中にもウィトルウィウス的人体図が描かれている[5]。

レオナルド以外にもウィトルウィウスの記述をもとにした作品を残した画家はいるが、今日、レオナルドの作品が最もよく知られている。

ルネサンス期 ( Renaissance =「再生、復活」)のウィトルウィウス的人体図としては以下のものが知られている。
チェーザレ・チェザリアーノの「建築論」- 建築理論家、1521年にウィトルウィウスの「建築論」を出版
アルブレヒト・デューラー の「人体均衡論四書 (Vier Bücher von menschlicher Proportion)」(1528年)- 画家、版画家
ピエトロ・ディ・ジャコモ・カッタネオ (en:Pietro di Giacomo Cataneo) (1554年)- 建築家

 

 

 

 

ミケランジェロのダビデ像は、人体に関するきわめて正確な知識にもとづいた芸術的規律に則って作られている。この規律のもとで、ダビデ像は神による創造物を精細に再現した最も優れた形態であるとみなされている。また、この規律に忠実であったミケランジェロは、人間の魂がその肉体の内に宿るように、彫刻作品のあるべき姿はその石塊の内にあらかじめ現れているものだという信念を抱いていたのである。この像は、人物像のポーズに関するコントラポスト(Contrapposto、主に彫刻において、左右非対称でありながら調和や均衡の取れた構図を表現する手法)の恰好の例でもある。

 

must be an inspiration of the gods.神々のインスピレーションでなければなりません。
Geometry in Our Environment “Sacred geometry,” or “spiritual geometry,” is the belief that numbers and patterns such as the divine ratio have sacred significance. Many mystical and spiritual practices begin with a fundamental belief in sacred geometry.
私たちの環境における幾何学 「神聖幾何学」または「霊的幾何学」は、神比などの数やパターンには神聖な意味があるという信念です。 多くの神秘的で精神的な実践は、神聖な幾何学に対する根本的な信念から始まります。

 

The creation of a Cycladic figurine was based on strict rules and a detailed system of proportions, which required precise measurements and considerable skill in application.

Many of these figures, especially those of the Spedos type, display a remarkable consistency in form and proportion that suggests they were planned with a compass.

黄金分割比に代表される建築や彫刻上の規範的比率も、人体プロポーションから導き出されたと考えられています。

 

ピタゴラス( Pythagoras 紀元前582年 – 紀元前496年

ヘラクレイトスの唱えた主な概念 ロゴス、流転

ヘラクレイトス( Ἡράκλειτος, Hērakleitos  紀元前540年頃 – 紀元前480年頃 )は、ギリシア人の哲学者

 

チャタル・ヒュユク
Çatalhöyük Neolithic Site of Çatalhöyük 新石器時代(6500年~5700)紀元前 焼成粘土や石  Çatalhöyük Research Project

 

盛期ルネサンスに影響を与えた ヘレニズム時代の彫像について

『 サモトラケの ニケ 』製作年  :  紀元前200年~紀元前190年頃   /   パロス島産の大理石   H 244 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ミロのヴィーナス 』製作年 : 紀元前130年~紀元前100年頃  /  大理石 H 203 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ラオコーン群像 』製作年  :  紀元前42年から紀元前20年頃とする説など 複数の説があり不明  /  大理石  H 242 cm   /  ピオ・クレメンティーノ美術館 ( バチカン美術館 )

ヘレニズム時代とは、おおよそ アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年から、プトレマイオス王朝エジプトが ローマに併合された紀元前30年までの 300年程の期間を意味します。

●  Pythagoras ( BC.582-BC.496 )
●  Archimedes ( BC. ca.287-BC.212 )

この時代の彫刻の中で『 サモトラケの ニケ 』、『 ミロのヴィーナス 』、『 ラオコーン群像 』はどれも最高傑作とされています。しかし、この中でヴァイオリン製作者に影響を与えられたのは『 ラオコーン群像 』だけです。

■  Andrea Amati ( ca.1505-1577 )
1539年   Established a workshop in Cremona.
■  Antonio Amati ( 1540-1640 ),  Cremona
■  Gasparo di Bertolotti  “Gasparo da Salò”  ( ca.1540- ca.1609 ),   Brescia
■  Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ),  Cremona
■  Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 ),  Brescia
■  Nicolò Amati ( 1596-1684 ),  Cremona
■  Jacob Stainer ( 1617-1683 ),  Absam ( Tirol )
■  Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona
■  Giovanni Grancino ( 1637-1709 ),  Milan
■  Hendrik Jacobs ( 1639-1704 ),  Amsterdam
■  Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ),  Napoli
■  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ),  Bologna
■  Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 ),  Brescia
■  Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Cremona
■  Francesco Ruggieri ( ca.1645-1698 ),  Cremona
■  Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ),  Cremona

なぜなら『ラオコーン群像』は ヴァイオリン誕生の前夜である 盛期ルネサンスの 1506年に、コロッセオ近くのエスクイリーノの丘 ( ローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの東側 ) にあったブドウ畑から出土したからです。

この発掘に立ち会った ミケランジェロ ( Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1475-1564 ) は、『ラオコーン群像』の表現に強い影響を受けたとされています。また、他の芸術家たちにとっても大きな衝撃であったようで、イタリア・ルネサンス芸術はこの『ラオコーン群像』によって方向が変わったとさえ言われています。

他方である『 ミロのヴィーナス 』と『 サモトラケの ニケ 』は‥この時、 地上には存在していませんでした。『 ミロのヴィーナス 』は、1820年に オスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で 小作農夫 ヨルゴス・ケントロタスによって発見され、『 サモトラケの ニケ 』は 1863年に フランス領事らによる胴体部分の発見があり、それに続いて片翼の断片多数が見つかったことで 歴史に再登場しました。

私はこの事実を 興味深いと考えています。

ピエタ ( Pietà )

『 ピエタ ( Pietà )』製作年 : 1500年頃 / 大理石 H 174 cm、W 195 cm / Basilica di San Pietro, Vatican

聖母の顔には悲しみで乱された様子がない

キリストの肉体には苦悶の跡はない

聖母の帯に銘が刻まれている
「MICHELANGELUS BUONARROUTUS FIORENTINUS FACIEBAT」
( フィレンツェ人 ミケンランジェロ・ブオナローティがこれを作る。)

ミケランジェロは『 ピエタ 』において、マリアの悲しみ、キリストの無念さ、そしてそれを超えた人間の贖罪などを静謐に峻厳に表現したといわれています。

 

彫刻技術においての 優劣の見分け方

現在、カスタムメイドのヴァイオリンを販売しています。

Germany violin  2012年製  ( 改作整備済 )

私は 弦楽器製作以外に、ヴァイオリンや チェロなどの整備や販売もやっています。そして 現在、2012年にドイツで製作されたヴァイオリンに バスバー交換など整備を加えて 性能を向上させたものを販売しています。

試奏していただければ、この ヴァイオリンの高いクオリティをすぐにご理解いただけると思います。試奏をご希望でしたら お気軽にご連絡ください。

なお、この ヴァイオリンの販売価格は ¥350,000- ( 税込み )です。よろしくお願いいたします。

 

 

この ヴァイオリンは、 本日 1月12日に ご縁があったお客様の手元に渡りました。ありがとうございました。

 

2019-12-12          自由ヶ丘ヴァイオリン