イエルク・デムス さんと 幸せな人々。

2010-12-23  7:47

         

このCDは 私のピアノの調律をお願いしている 田中英資さんからいただきました。  録音されたピアノの響きを聴くたびに、このCDをカバンから楽しそうに取りだした田中さんの笑顔と、お帰りになられてから早速 聴いてみた時の『 衝撃 』をありありと思い出します。

2001年4月14日のイエルク・デムスさんの演奏を録音したこのCDについてはプロデュースした田村彰啓さんの解説文が空気をよく伝えていますので下に引用させていただきます。

【 録音の虫 マエストロに肉迫 】  夜半電話が鳴る。 誰だ今頃? 調律師の田中さんから 「 デムスさんが録音してくれって連絡があったんだけど 」 「 何時? 」 「 明後日。デムスさんはグロトリアンで弾いたCDが1枚も無いので どうしても録音しておきたいとの依頼なんだ 」 「 あんな大物、準備が間に合わないよ 」 「 だから君に頼んで居るんだよ 」 「 録音したら僕がCDをリリースするライセンスが貰えるかな? 」 「 じゃあ、聞いてみるよ 」 … 数分後、「 録音がデムスさんのお眼鏡に敵えば契約しても良いとの回答だ 」 「 ならば、お引き受け致します 」 こんなチャンスは又と無い。 実は内心小躍りして喜んで居るのである。  専業メーカーでも録れない凄い録音をせねばと考え、録友の寺門氏に救援依頼。 「  明後日、一日絶対空けて 」 「 何処で誰録るの? 」 「 横浜のお寺で デムスさん 」 「 デムスってイエルク・デムス? 」 「 そう! ウィーン三羽ガラスのデムスさんだよ 」 「 ウソでしょう 」 「 ホントだってば 」 それからが大変、テラノホールのグロトリアンとブロードウッドをどう録るかで協議を重ね、無指向性マイクでワンポイントと決め最適の機材を考慮。 しかしデムス氏が何と言うかにも対応出来る機材も備え、本番前に何曲か録音し、本番の後でも録音するぞとのデムスさんの意向を受け、当日 午前9時には磯子にあるテラノホールで録音準備完了。 連弾をする 平賀寿子さんにグロトリアンを弾いて頂き、マイクのセッティングやレベル合わせを行ってデムスさんの到着を今や遅しと待ち受けた。  10時丁度に到着したデムスさんは お寺の庭に今を盛りと咲き乱れる花々を愛しげに眺め乍らしばし庭を散策した後、ニコニコしながら 「 ボンジュール 」 とホールに現れた。  先ず 田中さん御自慢の 1864年製 ジョン・ブロードウッドの前に座り、ポロ ポポーンと音を出された。 その音の何と軽やかなこと! さあ今日はこれでベートーヴェンの悲愴を聴き且つ、録音できるのかと思うと胸が高鳴る。するとデムスさんは すぐに立ち上がり今度はグロトリアンの前に座り、フレーズをいくつか弾くというより音が流れ出て来る様な感覚で弾き始めた。  ここで 今日連弾をされるデムスさんの16年来の御弟子さんの平賀さんに 録音担当の田村さん、寺門さんですと紹介される。 憧れのマエストロと感激の握手である。 あれ! 体は大きいのに、なんと手は私と同じ位の大きさ、それが真っ白でまるでマシュマロみたいに綺麗で柔らかいのには本当にビックリ! 私の手はシューベルトと同じ大きさなんだよとは後日の談。  やあやあ、それでどうやって捕まえるのかねと早速の御下問である。 ハイ、無指向性マイクを使いワンポイントで録らせて欲しいのですがと答えると、私も ワンポイントが最適だと考えている。 セッティングは任せるよ。 それで、マイクは何だ?   ホラ おいでなすった! 「 マイクは DPAの4041 です。」 「 それは ノイマンより良いのか?」 「 元々が ブリュウエル・アンド・ケアー社ですから 素晴らしい低雑音のマイクです。」 この B & K の発音が何としても通じ無い。 「 ショップスとは どうかね?」 となかなか蘊蓄が御深い。 よかったね、最高のを持ってきておいてと 寺門氏と二人で首をすくめた。  「 ハーイ、ミスター田中 」 と、田中氏が徹夜で仕上げた調律の検定。 二、三やりとりがあったが グロトリアンらしく良く仕上がった、とても気分が良いとの御言葉。 ペダルを踏む時に音がするから 何かマットを用意しなさいと細心の心配りである。  今から15分慣らし運転をするからその間は録音をしないようにと暫く演奏をされ、録音係、これから一番小さい音を出します と静かな静かなピアニッシモ。 今度は最大の音を出すから良くレベルを合わせて、但し リミッターは使わないこと と言う御注文である。 プリーズ と合図すると、来ましたグァーン!  グロトリアンの低音は雷鳴の如しと言われて居たが セミコンサートでもこの馬力、もう一度お願いします、グァーン。  ノイジーと怒鳴られる。 アレッ そんな、もう一度お願いします。 天井の方だ。  犯人ははるか高い天井の舞台照明用ランプの保護用の金網の共振だった。 50基もあるライトを全部降下させ、布テープを貼り付けてやっと騒音を退治。 このピアノでこんな音圧を発生させた人は過去に誰も居ないと 館長の御住職の弁。  「 では、録音を開始する。」 関係者は10人位居り、演奏会の前に演奏を聞けるものと舌なめずりして席に陣取って居たところ、おお ノイジーな輩よ皆出ていけ、さもなくば息をするなと、ホールから全員退去させられた。 準備が出来たらOKを出せで録音開始、3曲終わったところでツカツカと 我々のところにやってきて 「 今のを聞かせろ 」 ハイッとヘッドフォンを差し出すと 「 こいつを繋げ 」 なんと専用のオープンタイプのでっかいヘッドフォンをちゃんと御持参なのである。  3回程プレイバックを命じられ採点や如何にと緊張していると 「 良く録れて居る、とても気に入った音がする。 だからグロトリアンで 弾いてみたかったのだ。 お寺とグロトリアン、それに良い録音、 今私にインスピレーションが湧き上がってきた。 だから今日は演奏会のプログラムに関係なく、君がリリースするCD一枚分の曲目を演奏するから、 そのつもりで録音を頼む。」 という素晴らしい回答を下さった。 ここまでは オッカナイ先生だとひどく緊張していたが、ここで少し緊張が解けた。  3時の開場直前まで何曲も続けて緊迫の録音。 録音を一時中止したので ブロードウッドの悲愴は入るのですかと尋ねると、 演奏会で弾くことは弾くがそれをCDにすることは許可しないから録音はしなくて良いとの事。 ベートーヴェン狂の私には 正に悲愴な宣告である。 どうしてですかと尋ねると、ベートーヴェンが実際に使ったブロードウッドは初期のものでもっと小型のものだ、同時代の楽器でベートーヴェンの思想を再現するのは有意義な事と思うが、ここにあるブロードウッドは かなり後で作られたピアノで、現在のピアノに近いものではあるが シングルアクションであり、近代的な演奏法にはやや難点があるので、CDにして残すような演奏は困難だからという回答であった。  後日 私自身 所蔵のLPの中にベートーヴェンと同時代のブロードウッドをデムスさんが演奏しているものが見つかったが、なんとその古いピアノはデムスさんの所蔵になるもので、この他にも50台以上のクラシックピアノのコレクションがあり、おそらく 世界一であろうとの事である。 脱帽。

演奏会でのデムスさんは終始にこやかな笑みを浮かべて演奏され、2時間の演奏会が あれっ、もう終わってしまったと感じるくらいに過ぎてしまった。 満席の聴衆を終始圧倒し魅了し尽くす凄い演奏をされた。 演奏会の後、小一時間のマエストロを囲む会があったが、大勢の人とワイングラスを合わせ乍ら、後の演奏のためにと一滴もお飲みにならなかったのには感服の極みであった。   休む暇も無く 「 さっきのレコーディングを 聴き直すぞ 」 とお声がかかり、聴きながらストップ、プレイバック、スタートと克明にメモを採りながらチェックをされた。 時間はもう21時を廻っている。 再び録音開始。 マエストロはやや中天を見つめ、何やら心地良さげに何曲も弾き続けられた。 終わったのかと思われるような間が凄い。 モノクロームの写真を見るように無音が天空の白で始まり、そこから無限の階段のグラデーションが暗黒の口を開ける無限地獄の闇にまで連なる豪快な低音。 ピアノだけで オーケストラが演じられている、そんな心地で録音を続けた。  マエストロが録音の間にも絶えず 「 ノイジー 」 と雑音を気にされたのは、演奏の中で静寂が重要な役割を果たしていることを、重要視されているのが良く分かった。  「 寿子さーん 」 と 平賀さんを呼び 連弾曲の準備をされる。 デムスさんが高音側でペダルも操作し、平賀さんが低音側を受け持つ変わったスタイルである。  連弾の 音の密度はやはり凄い。 ピークメーターが一人の時のフォルテッシモよりはるかに跳ね上がる。   連弾は綿密な打ち合わせが続き、どんどん時間が過ぎる。  連弾が終わるともう24時25分。   マエストロが 「 連弾がうまく録れたか 」 と早速 得意のヘッドフォンでプレイバック、そして 「 ブラボー 」 と握手して下さった。 続いて、この大量のマスターテープをどこで編集するのかと訊かれた。 君達がやったら3日や4日では終わらない、 私が立ち会えば5時間で終わる、明日やるからスタジオを予約しろ、とのご託宣。  イヤハヤこの老大家の音に対する執念と熱意、尽きることを知らぬ 音楽への凄まじいエネルギーと気迫、 本当にマエストロと呼べるマエストロが目の前にいることを痛感せずにはいられなかった。

さすがに夜中にスタジオの手配は出来ず、 デムスさんの公演の合間を縫って5日後、 あの日持ちかえったマスターテープを克明にチェック。  編集の順番、時間が細かく書かれたデータ表を提示され、指示通りに編集作業を行うと、 23曲74分42秒のCDが本当に5時間かからずに出来上がった。 レベルのチェックも出来ているので 本当に5時間で終わるのだと思っていたところ、これから曲の頭出しのチェックをするとの事。 オペレーターが曲間は3秒にしてあります と答えると、 ノーノー 私の手を見ていろと言われ、 一曲目の余韻が消え次の曲を弾き出すタイミングの動作をして、この瞬間を捕らえろとおっしゃる。 つまりCDの全曲が演奏会の会場で聴くタイミングと同じにセッティングしようという心配りなのである。 このスタートがなかなか厳しく、 マエストロの思い通りのタイミングになるまで随分やり直しがあって時間がかかり、23時を過ぎたので その日はお開きとなった。 明後日、 聴き直しをやるからお前も来いと言われ、自分の家の再生装置での再生は今日もお預けになってしまった。 しかし こんな素晴らしい音楽家に直に会え、いろいろな経験をさせて貰える有り難いチャンスは又とはあるまいと 大感激である。  聴き直しの当日は例のヘッドフォンを御持参になり、74分余のCDを同じ姿勢のままでしっかりと聴かれ、 「 これで合格だ。 私はこれまでに75枚のCDをリリースして来ているが、今回は本当に良いCDが出来た。 日本に来た甲斐があったよ。 」 出来あがったらウィーンにも送れ、 私のルートでも販売しようと言われた。        (  以下、省略いたします。 )

録音解説

【 イエルク・デムスの名演を あるがままに捕らえた衝撃的な録音 】   高橋 和正

( 『 レコードのピアノの音 』 の項は省略させていただきます。 ) 『 このCDの録音の特徴 』

残念ながら録音当日は日程が合わず 私は参加できなかったが、日頃から気心の知れている オンゾウ・ラボ の田村彰啓氏が、 最近何度かコンビを組んだことのある 寺門邦夫氏と録音を担当して下さったのは幸いであった。  寺門氏が選んだ録音機材は、マイクロフォンに無指向性でダイアフラム径が24ミリと大きな B&K社のマイクユニットを使った、DPA 4041- T 、 ミキサー/マイクアンプには AETA社の MIX 2000 、録音機は DATに ソニー DTC 2000ES 、CD-R が ソニー CDR-W33 などである。 いずれもシンプルだが信頼性の高いものばかりで、氏は この組み合わせで事前に何度もテスト録音を行い本番に臨まれたそうだ。  注目のマイクセッティングは、 マイク間隔が70センチ程のワンポイントに近いペアーマイク一組だけというシンプルなもの、 ピアノからの距離は約3メートルと 私が考えていたより少しオフなセッティングである。 勿論 エフェクターや コンプレッサーなど一切使わず、一度セットしたらレベルすらいじらない 文字通りの一発勝負である。  無指向性マイクは 1ペアーだけで録音する手法はレコード会社では殆どやらない方法である。 理由は簡単、SNが悪くなるからだ。 しかし、くどくど述べたような問題を解決するには、これしかないという 寺門氏の考えは、私も全く賛成である。 あとで伺った話だが、録音は殆ど中断なしの連続演奏で行われたそうだ。  半世紀以上にも亙って世界中で演奏活動されてきた デムス氏は、 レコーディングの後には コンサートを控えているにも拘わらず録音のために目一杯の演奏を繰り広げ、コンサート終了後に 全曲プレイバックチェックされたのだそうだ。 70歳を過ぎた老大家のエネルギーには度肝を抜かれた。  もう一つ注目すべきことは、この録音に使われているピアノである。 ピアノと言えば だれもが頭に浮かべるのは シュタインウェイであり、ベーゼンドルファーだろうが、今回使われたのは グロトリアンの セミコンサートタイプである。 グロトリアンはシュタインウェイとは兄弟として誕生した素晴らしいピアノだが、もっとも ドイツ的な音色を持つと言われている。 営業的な立ち遅れの結果、知名度は今一だが、知る人ぞ知る存在なのである。  このピアノ、 セミコンサートタイプだがフルコンサートグランドを上回るサイズからは想像もできない重厚な低音と強靭で透明な中高域が鳴り響く。 調律の 田中英資氏が専属で丹念に調整し厳密な整音が施された結果、最高のコンディションが終始保たれたのも収穫である。 ( 『 エポックメイキングな仕上がり 』 の項は省略させていただきます。 )

このCDは25ページにわたり上記の文章などがあり、最後のページをひらくと次のように書かれていました。

このCDには曲目の解説はありません。 音楽は世界共通語といわれていますが、その反面 聴く人の心や体のコンディションによって解釈は変わってくる筈です。 その為には伝えられる音楽が、演奏者や演奏された楽器、ホールの響き等を正しく再現しなければその使命を果たせません! インスピレーションが沸いたぞ! と珠玉のような曲目を23曲も一気に弾いてくださった デムスさんの円熟の技と、彼が相性抜群と喜ばれた 銘器グロトリアンの凄まじいまでの音を全く補正を加える事無く、正に鮮度抜群のままでCDの形にまでする事が出来たと思っております。 お聞きいただいたご感想をお聞かせ下さい。   お買い上げ有り難う御座いました。

録音日       平成13年4月14日 会場         横浜テラノホール 録音         寺門邦夫 ピアノ        グロトリアン 1992年製 No.225 調律         田中英資 録音解説      高橋和正 フランス語通訳   平賀寿子 デザイン       田村嘉章 写真撮影      田村彰啓 プロデュース    田村彰啓 ⒫&© 2001  ONZOW Labo

録音使用機材 MIC            DPA 4041 – T AMP           TUBE  HMA 4000 DIX            AETA  MIX – 2000 DAT            SONY  DTC – 2000ES 機材提供 株式会社 ヘビームーン エクセル株式会社

マスタリング全監修    イエルク・デムス マスタリング         日本ビクター㈱ マスタリングセンター 野田浩司 CD製作           日本ビクター㈱ K2 レーザーカッティングシステム

技術の本質は 『 美しさ 』にあるという考えかたがありますが、 私もそうだと思います。 私はこのCDを聴く度に 「 本当に 『 音楽 』が好きな人が大勢いらっしゃるんだ … 。」と 思い起して、 楽しくなります。 ロジスティックな分野は普段目立ちませんが、そこに人の誠意や熱意がみえたときには、 なにか励まされるような気がするのです。 ありがとうございました。

田中英資さんのホームページです。 http://www1.odn.ne.jp/~cbz49420/web1.htm