ヴァイオリンの 『 パティーナ技術 』 についてのお話しです。

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オールド・ヴァイオリンの 制作技術のうちで 表板と裏板の「 へり 」の厚さの設定についてお話しいたします。 まず ピリオド楽器と言われる ヴァイオリンの画像で表板と裏板の「 へり 」の厚さをみてください。

Andrea Guarneri  ( 1626 – 1698 ) Cremona  1658 年 S

Pietro Giovanni Guarneri ” di Mantova ” ( 1655 – 1720 )  1704 年

Nicola Gagliano  ( c. 1675 – c. 1763 ) Napoli  c. 1725 年

Giovanni Battista Guadagnini  ( 1711 – 1786 ) Piacenza  c. 1745 年

Giuseppe ( 1726 – 1793 ) &  Antonio ( 1728 – 1805 ) Gagliano    Napoli   1754 年

さて これらの ” オールド・バイオリン ” と 現代型との間には表板と裏板の「 へり 」の厚さの設定だけでも大きな違いがあります。 この例として 現在はミラノの弦楽器製作者として有名な ガリンベルティ さんが1942 年 に製作したヴァイオリンの写真を下に引用させていただきました。

Ferdinando Garimberti  ( 1894 – 1982 )  Milano   1942 年

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ガリンベルティ さんは15 歳になる 1908 年に アントニアッチー兄弟  ( Riccardo Antoniazzi  1860 – 1913 , Romeo Antoniazzi  1862 – 1925 )の工房で修業を始めました。 アントニアッチー兄弟はクレモナの Giuseppe Ceruti  ( 1787 – 1860 )と Enrico Ceruti  ( 1803 – 1883 ) のもとで修業した父親 Gaetano Antoniazzi ( 1825 – 1897 )に学んだ弦楽器製作者兄弟です。
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その後 モンツィーノ MONZINO ( Founded 1750 ~ 1940 )と、ビジャッキ工房  Bisiach  laboratory ( Leandro Bisiach  1864 – 1946 ,  Carlo Bisiach 1892 – 1968 ,  Leandro Jr. &  Giacomo Bisiach  )で 経験をかさねました。そして 1963 年から 1966 年まで クレモナのバイオリン製作学校 (  the International School of Cremona )で弦楽器製作を指導しました。

ガリンベルティ さんはこの1942 年に製作したヴァイオリンの表板と裏板の「 へり 」の厚さ(  4.5 mm / maximum width   )になる前には、モダン・イタリー型を製作していました。

Carlo Antonio Testore  ( 1693 – 1765 )   Milano  c. 1740 年

これを理解するために オールド・ヴァイオリンから順番に整理してみると、上にあげた ミラノの名工 Carlo Antonio Testore ( 1693~1765 )が 1740 年頃制作したヴァイオリン( 表板アーチ 20.5 mm で、コーナーを除く 表板と裏板の「 へり 」の厚さは 2.6 ∼ 3.3 mm です。  )にみられるように エンド・ブロックの付近に “ 節 ” 状の起伏が彫り込まれています。 因みに このヴァイオリンのように ミディアム・ハイ・アーチの表板の場合は 響胴の動きをコントロールするために 起伏が強く作られている場合が多いようです。
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そして モダン・イタリーでは 下写真のプレッセンダーにみられるように 少しフラットぎみの表板 ( このプレッセンダーの表板アーチは15.8 mm 、コーナーを除く 表板と裏板の「 へり 」の厚さは 3.0 ∼ 3.5 mm です。)のヴァイオリンでは 「 へり 」 をふくめてわずかな起伏や厚さの差を利用して響胴の動きが整えてあります。

Giovanni Francesco Pressenda ( worked 1777 – 1854  ) Torino  1837 年

ガリンベルティ さんが1925 年に製作したヴァイオリンです。 (  表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.0 mm / maximum width です。) 表板と裏板の「 へり 」の厚さをプレッセンダーのヴァイオリンと比べてみてください。

Ferdinando Garimbert  ( 1894 – 1982 )  Milano   1925 年

 下の写真で分かると思いますが 5年ほど経った1930 年には裏板ブロック部の「 へり 」の厚さがふえます。 ただこの時期は表板側の設定は 1925 年に製作したヴァイオリンとそれほど変えた感じはしないと思います。 (  表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.0 mm / maximum width です。)

Ferdinando Garimbert  ( 1894 – 1982 )  Milano   1930 年

 ところがそれから12年後の 1942 年には( はじめの横から撮影した写真と同じヴァイオリンです。) その厚さの差が少なくなるとともに、表板と裏板の「 へり 」の全体の厚さが増やされています。(  表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.5 mm / maximum width です。)

Ferdinando Garimbert  ( 1894 – 1982 )  Milano   1942 年

ではここから、なぜ ガリンベルティ さんが1925 年、1930 年そして 1942年と表板と裏板の「 へり 」の全体の厚さが増やしたのかについて 私の推論を書かせていただきます。

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S 私はヴァイオリンの響胴は A.ブロックを含む表板、裏板の「 へり 」と側板部  と   B.共鳴振動板の役割をうけもつ表板、裏板とF字孔まわり の関係で バランスをとってあると考えています。  そして、このバランスがとれていない状態 ( 鳴らしたときのレスポンスが悪い状態 )で 鳴らすと歪みが表板に溜まり それが表板を変形させ『 逆反り変形 』が起こると考えています。 下の写真は ジエノヴァに展示されている有名な 『 カノン ( IL CANNONE ) 』です。 エンドピンのすぐ上の側板継ぎ目が V字型にすこし開くとともに、 エンドピン右側 15 mmほどの内側ブロックの境目に沿って 縦にヒビ割れが入っています。

このように真後ろから水平にしたヴァイオリンの響胴をみたときに 「 ハ 」の字型に変形するのを 弦楽器の世界では『 逆反り変形 』といいます。 下のヴァイオリン( a. ) もエンドピン部の側板ジョイント部が V字型に割れて『 逆反り変形 』しています。

 

この『 逆反り変形 』は第一段階がエンドピン側からみて「 ハ 」の字型の変形が生じ、第二段階が下のヴァイオリン( a. )の 真横からの写真のように やはり「 ハ 」の字型に変形してしまいます。

 

このような『 逆反り変形 』をした弦楽器のエンドピン部のV字型の割れは当然ブロックが割れたことで生じたものです。 そして表板の疲労が進行すると 下の( b. )のヴァイオリンの裏板にある Crack ① ~ ③ の割れのように 裏板が破損する段階まで至ります。

上写真( c. )のヴァイオリンのように ブロックの中央位置で割れたブロックをみると エンドピン・ホールやサドルを主原因と考えられる方がいらっしゃるようですが、あくまで破損の主原因は表板の疲労変形です。
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下に 1919 年という微妙な昔に製作されたチェロのブロック写真を参考にあげました。 表板側から発生したヒビ割れ( 長さ 39 mm )がエンドピン・ホールまであと 9 mm のところで止まっています。  それから もうひとつ重要なのが このチェロのブロックもそうですが表板の疲労変形による割れは Aから Bに向けて進行します。因みにこのチェロの A、 B間のブロック厚みは 30 mm+1.8 mmで、 A側は 1 mmほどひらいていますが B部分を外側からみても分かりません。

 

この例として先ほどの ( c. )のヴァイオリンブロックを上から撮影した画像を下におきました。 このヴァイオリン表板の疲労変形によるブロック割れも内側は 1.5 mmほどひらいていますが B部分を外側からみてもほとんど割れは見えません。

 

 

さてここまで説明させていただいた『 逆反り変形 』型の弦楽器の疲労破壊メカニズムを[ A. ]∼[ K. ] まで順に整理してみたいと思います。

[ A. ] バランスが不調和な ヴァイオリンを鳴らすことで  注)1 表板が疲労変形をします。
[ B. ] エンドブロックのテールピース側に割れが入り、少しずつ進行します。
[ C. ]  表板のアーチにもよりますが 割れがエンドピン・ホールを越えたタイミングで表板のエンドブロック左右のどちらか ( C、 D )の位置に【  私の経験では左の C 側にヒビが入る確率が 70% で、右側の Dの方が 30% くらいだと思います。これは響胴のいくつかの条件が関係しますがネックの方向の影響がもっとも大きいようです。 】 ヒビ割れがはいります。

[ ブロック右側( D )割れの実例 ]

[ ブロック左側( C )割れの実例 ]

[ D. ] エンド・ブロックのヒビ割れが裏板に到達しエンドピン上の側板ジョイント部( B )が外から見て分かるくらいの V字型ヒビ割れとして開いていくか、エンドブロック左右端にあたる側板部 ( C、 D )のどちらかにヒビが入ります。
[ E. ] これにより表板の支えがより不十分となり はじめに表板に入ったヒビ割れが進行するとともに、新たなヒビ割れが入ります。
[ F. ] これらの破損により膠( ニカワ )で接着してある エンド・ブロックと側板か、エンド・ブロックと表板の接着面が剥がれてきます。
[ G. ] ここまでの表板と エンド・ブロック、側板の破損によってエンド・ブロックと裏板の接合部に ヒビ割れが1~3本入ります。 これは前出のヴァイオリン( b. )の裏板にある Crack ① ~ ③の ヒビ割れ破損を参照して下さい。

注)1  当然ですが鳴らさないとこの疲労変形は起こりません。 因みに、アーチが高いタイプで レスポンスが悪くて遠鳴りしていないという条件がそろったヴァイオリンだと 『 疲労 』が蓄積しやすいようです。  オールド・ヴァイオリンによくある アーチが高いヴァイオリンは高性能な設計で、結果として『 アソビ 』が少なくしてあるためにバランスが不調和な状態で使用すれば短期間で 『 疲労 』が進行しやすいようです。 それと、アイロニーなことですが演奏能力が高ければ高いほど響胴を激しく動かしてしまうために分かりやすい結果がでてしまいます。 S S
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これにまつわるお話しとして 1903年から1926年まで ベルリンの音楽大学で教授をつとめて後世のバイオリン演奏に大きな影響をあたえた ハンガリー人のバイオリニスト カール・フレッシュ ( Carl Flesch  1873 ~ 1944 )さんが 1923年から1928年にかけて出版した 『 ヴァイオリン演奏の技法 』の翻訳版 佐々木庸一訳 音楽之友社刊( 絶版 )の 4 ページより参照のため引用させていただきます。
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【 … 特に温かい演奏会場で、ヴァイオリンに大変強い要求がなされる場合、ヴァイオリンが疲れたような、弱い響き方をすることがある。 このような場合には、絃の調子を一オクターヴ下げて、表板に対する絃の圧力を、二十四時間減少することを奨める。 こうして薄い板に対する大きい負荷が、一時的に取除かれたならば、楽器は改めて深い息をしたように思われ、今までにない新鮮な音をもって演奏者に報いるだろう。 】

[ H. ] ここまでに入った表板、エンド・ブロック、側板の割れが 時には『 パーン!』という音とともに一気に長くなったりしながら進行すると、下の( d. )のヴァイオリン裏板のように( 中央寄りの割れの長さは 28 cm です。)裏板側も一気にヒビ割れが伸びてしまうことがあります。

[ I. ] 不幸の連鎖ですが これらの疲労破損が進行するときに 魂柱が立つ位置の表板と裏板の空間( 高さ )が少しずつ狭く( 低く )なっていきます。 しかし魂柱は圧力が強くなってもほとんど縮まないので、結果として表板や裏板にめり込むかたちになります。 これを私は 『 慢性的自殺 』と呼んでいますが 緩慢なスピードで窪みが深くなっていきますので、初期から中期にかけては下の写真 e. ( チェロ )と f. ( ヴァイオリン )のように表板の割れにならない場合が多いので、楽器の外見を調べても発見できない場合が多いようです。

 

 

ヴァイオリンのアーチの条件などにもよりますが 表板の魂柱部の窪みは下写真のヴァイオリン f. のように魂柱横の厚さが 3.2 mm で、魂柱部の厚さは 1.9 mm になることすらあります。 ( 1.3 mm めり込んだようです。) この段階でも 魂柱割れ( Soundpost crack )は入っていません。

 

下の2枚の写真は 参考のために上のヴァイオリン f. の内側にサランラップを貼り 四角い木の台座に厚塗りした粘土状樹脂で 魂柱部の窪みの型をとったものです。 サランラップですこし不明確にはなりましたが直径 8 mm 程の窪みが凸型で確認できると思います。

表板の疲労変形が生じているヴァイオリンは ちょっとしたことで魂柱が倒れたりします。 下の型は別のヴァイオリンから同じくサランラップ越しにとったものですが、過去に調整を依頼された楽器屋さんが 魂柱を外に引っ張ったり、場所を変えてたてた跡が10ヶ所ほど残っていました。  あまりに頻繁に魂柱が倒れるのでかなりきつくいれたようでよく見るとサランラップ越しなのに表板のスジ状の年輪と直交するかたちで魂柱の断面にあった年輪のあとがクッキリ残っています。

 

 

さて、ここまでの説明をご理解いただけた方に 『 ヴァイオリニストの苦しみがわかる写真 』をご紹介します。  ご存じな方も多いでしょうが まず著名なヴァイオリニストである ヤッシャ・ハイフェッツ さん( 1901 ~ 1987 )が 1945 年に ニューヨークにある カーネギー・ホールで チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏する動画をごらんください。

http://www.youtube.com/watch?v=gwEbOoVIwak&search=violine

この 1945 年の演奏会で 45歳のハイフェッツ さん( 1901 ~ 1987 )が使用しているのが イタリア・クレモナの巨匠である ガルネリ・デル・ジェズ ( Bartolomeo Giuseppe Guarneri  1698 – 1744 )が 1742 年に制作したとされている ” ex David ” のニック・ネームをもつ ヴァイオリンです。 このヴァイオリンを彼は 1922 年に ベルリンとニューヨークで楽器商をやっていた Emil Herrmann さんから購入し最後まで保有し続けたそうです。  ところが このヴァイオリンは カーネギー・ホールでの演奏会からわずか5 年後の 1950 年には修理が必要となり、カリフォルニアのヴァイオリン工房( Benjamin Koodlack )で大修理をしています。

 

古いモノクロ写真ですが 表板の魂柱位置に魂柱がめり込んでついた深い窪み( Sound-post hollow )が写っています。 それから エンド・ブロックにはヒビ割れ ( Crack )が認められます。 ここまで私の話を読んでくださった方には、この2ヶ所の疲労破損の意味はご理解いただけると思います。 このヴァイオリンは満身創痍だったようです。

因みにこの不具合の原因の一つはバスバーであると私は考えています。 これは制作者の意図を解さない後世の人が バスバーをイレギュラーな場所に入れてしまったのがこの写真でも判断できるからです。 このヴァイオリンの胴長は 354.0 mm で ボディ・ストップが 198.5 mm となっており、2つのF字孔間は 42.5 mm  だそうです。 このバスバーの特徴は上の写真で ” Overhang ” と指摘した場所が下にあげた類似のバスバー写真のようになっていることです。

   

経験を積めば気がつくことですが、F字孔の上にかかるようにバスバーを入れると ヴァイオリンの響きのうち 「 高音域 」は少し騒がしくなり、「 中音域 」と「 低音域 」の楽音の輪郭が不鮮明となってしまいます。  このバスバーのもう一つの特徴は エンドピン側が明らかに長く、エンドブロックとバスバーの空間が狭くなっていることです。

このバスバーを入れた人は このゾーンを ” 強化 ” しようと思ったのかもしれませんが、私は このヴァイオリンを鳴らす演奏者は駒より自分側の表板の音を聴くのが難しかった可能性が高いと考えています。 注)2  私は 1995 年の1月発行 ” The Strad ” の 「 The Heifetz legacy 」 47ページ に掲載されたこの写真を目にした途端 『 あっ! 気のどくに …!』 と叫んでしまいました。 まあ、バスバーについては解説が長くなってしまいますので … また次回にお話ししようと思います。
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注)2 ヴァイオリンを演奏する方でしたら 『 左右のF字孔を中心として表板全体が発音し、眼を閉じてならすと自分の顔の前の空間に球体状の波源が出現しているような感じ … 。』とか 『 駒の手前側の表板は鳴っているけれど、駒より向こうが鳴っていない感じ …』というような表現は理解していただけると思います。 私は この時のハイフェッツさんのガルネリは 『 E線やA線を弾くと駒の向こうから音がでる感じで、高音域は少し騒がしく、中、低音域のレゾナンス音が少ない。』 と感じられた可能性が高いと考えています。

[ J. ] 魂柱部の窪みは ヴァイオリンの組み上げ作業で魂柱をいれる際など比較的早い段階で発見され、下の 1764 年のヴァイオリンのように修復が試みられます。

[ K. ]  ところが 『 疲労 』の原因がみつけられないと下のヴァイオリンの表板のように 最終段階で表板や裏板の魂柱位置が割れて ( Sound-post crack )しまいます。 悲しいことにこれは 何度修復しても 鳴りが鈍くなったと感じたときなどに調べてみると、再度 割れが見つかったりします。 これが 『 逆反り変形 』型の 疲労破壊の典型例です。

このヴァイオリンは魂柱位置のヒビ割れなどを直すためにはじめは 「 ベル・パッチ ( Chest Patch )」が入れられましたが 10 年ほど後にまた魂柱割れが開いたため 「 サウンドポスト・パッチ ( Soundpost Patch)」が再び入れられることになりました。

この他にも 『 逆反り変形 』型の 疲労破壊には、バスバーの付け根に歪みが集まり表板が割れてしまうものや、F字孔上下に ヒビ割れが入ってしまうものなどがあります。

 

さてヴァイオリンなどを演奏する方には 『 恐ろしい話 』 が続きましたが、 私は それこそが ガリンベルティ さんが表板と裏板の「 へり 」の厚さを増やした理由なのではないか …? と 考えています。  気付かれた方も多いでしょうが 冒頭にあげさせていただいた、ガリンベルティ さんが 1925 年に製作したヴァイオリンは(  表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.0 mm / maximum width です。)すでに『 逆反り変形 』が起こっています。

私は いくつかの状況証拠から  ガリンベルティ さん(  Ferdinando Garimbert   1894 – 1982   Milano )は この『 逆反り変形 』型の弦楽器の疲労破壊メカニズムを 『 強度不足による疲労破壊 』 と捉えていたと思っています。 この点を少し時間軸で整理してみます。

●    1908 年 15歳となったガリンベルティ さんはヴァイオリン製作者の修業を始めます。
    1914 年 第一次世界大戦がはじまり 1915 年5 月イタリアはオーストリアに宣戦布告するとともに戦争状態に突入します。
 1918 年10月 戦争とかさなったこの時期にスペイン風邪でヨーロッパで700万人以上が亡くなります。 この年の 11月に第一次大戦が終戦をむかえます。
 1919 年  6月 ベルサイユ講和条約が調印されたころ ウィーンで フランツ・トマスティークと オットー・インフェルドが創業と同時にスチール弦を発売します。 これはヴァイオリン用としては世界最初と言われています。 またこの時期に同じ 『 パテンティング 』技法により ドイツ・マルクノイキルヒェンの近くのエアルバッハで レンツナー社 ( Lenzner )が ゴールドブロカットE線 ( Goldbrokat )を発売します。 これらのE線はまたたく間に世界に広がり この 7、8年後には ヴァイオリンの1番線にスチール弦を張るのは常識になります。
 1921 年 ドイツではヒトラーが ナチスの党首となり、イタリアでは『 ファシスト大攻勢 』がはじまります。 これはイタリア・ファシスト党が社会主義者のボローニャ市長就任を妨害するために市庁舎を襲撃したことから始まりました。
 1922 年10月 イタリアのファシスタがナポリからローマに進軍し、国王エマヌエーレ3世が支持したことにより 『 ファシスト政権 』が成立し ムッソリーニには 「 独裁権 」が与えられます。
 1923 年 日本では 9月に関東大震災が発生しますが、イタリアでは 6月にシチリアのエトナ火山が大爆発をおこし大きな被害がでます。

 1925 年 先ほど私がガリンベルティ さん(  Ferdinando Garimbert   1894 – 1982  )が製作したヴァイオリンの例としてあげさせていただいた『 逆反り変形 』してしまう ヴァイオリン(  表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.0 mm / maximum width  )が製作されます。
 1926 年 イタリア・ファシスト党が一党独裁体制をつくりあげました。
 1928 年 弦楽器製作にとって意味深い記述をカール・フレッシュさん( Carl Flesch  1873 – 1944 )が 『 ヴァイオリン演奏の技法 / 1923 , 1928 年 』の中に残します。  それは 『 … 絃の調子を一オクターヴ下げて、表板に対する絃の圧力を、二十四時間減少することを奨める。 こうして薄い板に対する大きい負荷が、一時的に取除かれたならば、楽器は改めて深い息をしたように思われ、今までにない新鮮な音をもって演奏者に報いるだろう。 』 と書かれています。
 1929 年10月 NY株式市場大暴落「 暗黒の木曜日 」により世界恐慌がはじまります。

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 1930 年 同じく例としてあげたヴァイオリン(  表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.0 mm / maximum width )が製作されます。 ドイツでは 9月の国会選挙でナチスが 107議席( 95増 )を獲得し第2党に躍進しました。
 1931 年 5月 オーストリア中央銀行が破産し、国際金融恐慌が発生します。
   1933 年 1 月   ドイツでヒトラーが首相に就任し 2月には 「 戒厳令 」を発令します。
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   1934 年 6月   ムッソリーニと ヒトラーがベネチアで初めて会談します。
 1935 年 世界ではじめてナイロンの合成が成功しました。 これは アメリカ・デュポン社で ポリマーの研究を続け 1931年に合成ゴムの「 ネオプレン 」の開発に成功していたウォーレス・カロザース (  Wallace Hume Carothers  1896 ~ 1937  )によるものでした。 この偉業は彼の急死の翌年である 1938年にナイロン製品の発売開始に繋がりました。
   1936 年 3月 ムッソリーニ首相は イタリアの主要産業の国営化を断行します。 またスペインではフランコにより内乱が発生し 11月には ドイツ、イタリアはフランコ政権を承認します。
    1937 年 5月  この年の 4月にはスペイン共和国軍側のバスク自治政府がある ゲルニカを ドイツ空軍が爆撃する事件が発生しています。  そしてクレモナでは イタリア・ファシスト党をあげての後援をうけ 『 ストラディヴァリ没後200年祭 』が開催されます。 この 『 国威発揚運動 』である催しの実行委員長は ファシスト党の機関紙や新聞、雑誌など広報関係の責任者でイタリア・ファシスト政権のナンバー2だった ロベルト・ファリナッチ氏 ( 左写真 )でした。  現在 クレモナのヴァイオリン製作学校となっている建物 ( Palazzo Raimondi /  15th century )の前で撮影された ( 右写真 ) 皇太子 一行の写真が当時の雰囲気をつたえています。

    

下の写真は 1937 年 9月 6日にクレモナ訪問中の国王 ヴィツトリオ・エマヌエレ( 前列の左から2人目の小柄な男性 )と同行するロベルト・ファリナッチ氏 ( 国王の右側 )です。 この写真が撮影されてから19日後に ムッソリーニ首相は ロベルト・ファリナッチ氏の仲介により ドイツを初の公式訪問をし ヒトラーと会談をします。

     1938 年 2月 ドイツがオーストリアを併合。 5月にはヒトラーがムッソリーニを訪問し ドイツとイタリアの同盟を誓います。 そして ドイツに戻るとすぐ チェコ侵略作戦を指示します。( 10月、ズデーテン地方侵攻  )   S
  1939 年 4月 イタリアはアルバニアを併合し、5月 にはドイツ・イタリア軍事同盟を調印します。 そして 9月1日 ドイツ軍がポーランド侵攻を開始し、『 第二次世界大戦 』 がはじまります。
   1940 年 3月16日 ヒトラーと ムッソリーニが ブレンナー峠で会談し、ムッソリーニが大戦ではドイツ側に参加すると約束しました。 4月 ドイツ軍はノルウェーとデンマークに侵攻し 6月10日 イタリアは イギリス、フランスに宣戦布告します。
     1941 年 4月  ドイツ軍がギリシアと ユーゴに侵攻し、6月にはバルト海から黒海にわたる戦線でソ連にも300万人のドイツ軍が侵攻し 10月にはモスクワ攻撃を開始しました。 12月8日 日本軍は真珠湾攻撃を開始しました。

   

 1942 年 1月18日  ベルリンで 日、独、伊軍事協定が調印されます。 はじめにガリンベルティさん(  Ferdinando Garimbert   1894 – 1982   Milano )が製作したヴァイオリンの参考例の一つとしてあげた 「 へり 」が厚めのヴァイオリンはこの年 ( 1942 年ヴァイオリン、表板、裏板とも「 へり 」の厚さ 4.5 mm/ maximum width  )に製作されました。
 1943 年 7月10日 連合軍がシシリー島に上陸します。 7月25日 ムッソリーニ首相失脚、逮捕。 9月8日 イタリアは無条件降伏をしますが、 9月12日 ムッソリーニが ドイツ軍に救助され サロで共和政府樹立を宣言します。
 1944 年 1月14日 レニングラード戦線でソ連軍が大攻勢を開始し、 6月6日 ノルマンディ上陸作戦が決行されました。 そして、6月15日 米軍がサイパン島に上陸します。
 1945 年 4月27日 ベニト・ムッソリーニ ( Benit Mussolini  1883 – 1945 )がコモ湖畔でパルチザンに逮捕され、翌日銃殺されました。 そして、ベルリンでは 4月30日 アドルフ・ヒトラー ( Adolf Hitler 1889 – 1945 )が地下壕で自殺します。 こうして 5月7日 ドイツ軍は無条件降伏し、日本は 8月15日に無条件降伏をしました。
 1947年 2月10日 『 パリ平和条約 』が調印されます。 この時期に トマスティーク・インフェルド社を 1919年に ウィーンで創業しスチール弦で革命的な実績を達成していた フランツ・トマスティークと オットー・インフェルドさん達は 1935 年に開発されたナイロンを使用した弦の製造を画策して、スチール弦の成功で得られた資金をつぎ込み ナイロン弦の『 ドミナント弦 』を開発し発売しました。  この『 ドミナント弦 』は 瞬く間に ヴァイオリン弦のマーケットを席巻し世界標準に登りつめました。

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長くなりましたが ガリンベルティ さん(  Ferdinando Garimbert   1894 – 1982 Milano  )が生きた時代のうち40年間を書き出してみました。

この時代の ヴァイオリンに関わる象徴的な出来事をひとつ書いておきます。 1937 年にクレモナで開催された 『 ストラディヴァリ没後200年祭 』 の実行委員長だった ロベルト・ファリナッチ氏は イタリア・ファシスト党の中でも極右主義者として有名でした。
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1945年4月28日に銃殺された ムッソリーニ ( Benit Mussolini  1883 – 1945 )の亡骸は翌日、ミラノのロレッタ広場に吊るしてさらしものにされますが その右横には一緒に銃殺された愛人のクラーラ・ペタッチ ( Clara Petacci 1912 – 1945 )が吊るされ、左側にはムッソリーニと ヒトラーを結びつけ戦争に陥れたたとして ロベルト・ファリナッチ氏の亡骸がつるされました。 S
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この激動の厳しい時代に ガリンベルティ さんは そのミラノでヴァイオリンを作っていたのです。 さて、はじめの部分でヴァイオリンなどの『 疲労破壊 』についての私の推論を書きましたが、この検証はとても困難です。 最大の問題点は この『 疲労破壊 』は鳴らすことによって進行しますので、かなり長いあいだの弾き込みと経過観察が必要だということです。  これについては 私が27年間にわたって楽器を観察した経験のなかでは、下にあげさせていただいたチェロのケースが最も分かりやすいと思います。
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SSSSSSSSSSSSSSSGustav Franz Wurmer     ( 1994,  Stuttgart )

これは 1994 年にドイツ・シュツットガルトで製作されたチェロです。 私は その年に新品状態でアマチュア・オーケストラに所属するお客さんに販売しました。  この写真は それから 10 年程たった 2004 年に調整のために持ち込まれたときに私が撮影しました。

私が このチェロを入っていたハード・ケースから取り出すときにテールピース脇の表板を見ると下の写真にあるヒビ割れが ( 矢印①から②まで )目に入りました。  それで表板が割れたのがほかにおよんでいないかを確認するために、クルッと裏返してエンドブロックの裏板側をみました。

   そこには下の写真のように 裏板内部のブロックの付け根から 35∼40 mm ほどの ” フレッシュな割れ “が 二本入っていました。 これは 私が考える『 逆反り変形 』型の疲労破損で、確認できた ” 最短ケース ” となりました。

      このチェロの内部です。 上の写真のヒビ割れは下写真に写っているエンドブロックの両端からのびていました。

私の経験からの推測では 『 疲労破壊 』が裏板割れまで進行するまでは、通常の現代型の設定で ある期間それなりに弾き込んでも 30 年ほどかかるのではないかと考えています。 しかし その場合でも 『 疲労 』の蓄積によってかなり早い時期に目でみて判断できる 『 逆反り変形 』が 発生するようです。

ヴァイオリンなどを演奏する方が 「 外見 」でチェックするのは難しいのですが、 実は 『 逆反り変形 』による響胴の疲労は簡単に分ってしまいます。 さみしいお話しですが … ある日急にならなくなったり、音の立ち上がりが悪くなったりするからです。 その例として下に 1998 年に私が販売した ミラノで製作学校の先生をやられていた弦楽器製作者の工房作品のヴァイオリンをあげました。
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このヴァイオリンを販売した当時、私は自分なりの経験則で弦楽器のリスクの一つとして 『 販売して3ヶ月以内に再調整が必要になる弦楽器は、年に 2回の調整が必要になる … 。』 と考えていました。  そして、その時期に この新作イタリーとの出会いをよろこんで購入してくださったお客さんから電話が入りました。 新品でちょうど 3ヶ月鳴らしたところでした。  内容は 『 購入した時に音の出かたが ” 活きが良く ” 気に入って弾いていたら、今日か昨日か分りませんが急に鳴らなくなったので見てもらいたいんですが …。』でした。 それに私は即座に 『 はい、分かりました。 おそらくその場で 10 ~ 15分の調整で済むと思いますのでよってください。』 とお答えしました。
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このお電話の段階で 魂柱がゆるくなっている … と判断出来たからです。 そしてその場で対応策を考えました。 それは、おおよそ年に2回ゆるくなった魂柱を 『 引っ張る 』 か、表板をあけて原因を取り除くかの選択でした。 結局、数日後魂柱位置を外に出して 鳴りを戻してお渡ししたものの、それから1年の間に予想通り 2回鳴らなくなり2回とも魂柱位置を変更することでしのぎました。
Sそしてまた次の季節の変わり目に この イタリア・ミラノ で製作されたヴァイオリンが鳴らなくなった時 ついに原因を取り除く修理をすることにしました。 それは このヴァイオリンが製作されて 1年半後のことでした。

弦楽器を製作したり 修理した経験がある人は皆さんご存じですが、ヴァイオリンは魂柱をいれるときに 「 魂柱たて 」の感触で 魂柱が立つ部分の表板や裏板の疲労状態はおおよそ判断できます。  ですから 私が考えるように 『 逆反り疲労 』が進行して 魂柱がたっている表板や裏板の内側面がどんどん窪んでいくのは、表板をあける前にほぼ正確につかむことが出来ます。 このヴァイオリンの場合には 「 疲労 」が段階的に進むのがわずか 3ヶ月程の周期だったわけです。

因みにこのヴァイオリンの 『 逆反り疲労 』の主原因は 上写真に写っているバスバーの両端が強すぎて( 高すぎて )表板のアッパー・バーツ・ラインと ロワー・バーツ・ラインの動きを阻害したことが原因でした。 これはこの時バスバー両端をもっと動きやすいように調整して組み上げた後に 所有者の方が弾き続けても 急に鳴らなくなるようなことが起こらなくなり、一年を通して安定した状態で鳴り続けていることからも分かります。

場所取りなので写真は掲載しませんが、この新作イタリーの魂柱がたっている場所もしっかり窪んでいました。 この1998 年に ミラノの工房で製作されたヴァイオリンの魂柱部の窪みは 先ほどお話ししたようにサランラップを貼ったうえで粘土状樹脂で型取りして保存してありますが 『 たった 1年半でここまで窪むのか … 。』 と 見た方がショックを受けるほどです。 S                                                          SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS S S

私は 当時32歳になる ガリンベルティ さんが 後に『 逆反り変形 』 をすることとなる 1925 年製のヴァイオリンを調整しながら この問題解決に苦しんでいた … と推測しています。 私の経験でも 下の写真にあるように、魂柱位置にヒビ割れが入ったたため 「 サウンドポスト・パッチ ( Soundpost Patch)」が入れられ 仕上げられた修理部位に、再び魂柱の窪みが出来てしまったヴァイオリンなどを目にする度に ” 暗たんたる思い ” に捕らわれたものでした。

ここで 「 もしガリンベルティ さんが この『 逆反り変形 』に伴う『 疲労 』の原因が見つけられなかったとすると … 。」 を頭の中に置いて 、これからあげる写真で当時のヴァイオリン修復や調整例を3つ見てください。

 

先ほど年表のかたちでガリンベルティさんの人生を連ねましたが冒頭は   1908 年 15歳となったガリンベルティ さんはヴァイオリン製作者の修業を始めます。 … となっています。 偶然にも 上の写真であげたオールド・ヴァイオリンはその年に修復されたようです。 S
下に拡大写真を貼っておきましたので ご理解いただけると思いますが、内側の左上部には この大々的な修理が完成した日時を鉛筆で記録したと考えられる書き込みがあります。

それは 1908 年 11月 23日 と読めます。

弦楽器の修復をやっていると 時々このタイプの 『 修理 』を目にしますが、表板が割れただけの修復に過剰な補強が施されています。 参考のために書いておきますが、 F字孔の間に貼りつけられたシトカ・スプルースより ”赤み”が多く年輪が強い”針葉樹 ”で増やされた魂柱部の厚さは 5.2 mm でした。

この表板の修復担当者の考えは伝えられていないので、設定された厚さなどの状況証拠から推定すれば  『 このヴァイオリンの表板は強度不足で何本もヒビ割れが発生した … 。』 と判断したと考えられます。
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それからもう一つが この投稿記事の冒頭で ジエノヴァに展示されている有名な 『 カノン ( IL CANNONE ) 』の写真を引用させていただきましたが、 エンドピンのすぐ上の側板継ぎ目が V字型にすこし開くとともに、 エンドピン右側 15 mmほどの内側ブロックの境目に沿って 縦にヒビ割れが入っていて、私がお話しした 『 逆反り疲労 』が進行していると考えられます。 このヴァイオリンが開けて修復されたのは 1937 年のことでした。

 チェザーレ・カンディ氏 ( Cesare Candi  1869-1947 , Genova )が 1937 年に 『 カノン ( IL CANNONE ) 』の大修理を担当したのは 喧伝されているので有名です。
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下の写真は 1995 年に Comune di Genova との共同企画としてジェノヴァで出版された ” Paganini’s violin / Its history , sound and photographs ” Dynamic Srl / Genova より引用させていただきました。  それにしてもなぜ ジェノヴァ市が所有する楽器に直しただけの人の名札が貼られなくてはならないのか理解に苦しむ … 映像です。

このヴァイオリンは 1937 年以降はパガニーニ国際音楽コンクール優勝者などによって限られた時間だけ使用されたのは周知の事実です。 たとえばこの写真を引用させていただいた 『 カノン ( IL CANNONE ) 』の資料集についている サルヴァトーレ・アッカルドさん( Salvatore Accardo )が1995 年 3月 13日と14日の二日間だけで演奏し録音したCDは非常にめずらしいものです。

それなのにこのヴァイオリンが 『 逆反り変形 』するほど『 疲労 』しているのは 重大なことではないでしょうか?  私は これらのことから このヴァイオリンは 1937 年当時の修復技術をみるのには意味深い存在だと思います。

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Niccolo Paganini  (  1784   Genoa , Italy   –   May 1840  Nice , France  ) 1795     Alessandro Rolla ,   Parma 1828 – 08 – 10   Vienna 1833 –  11           Repaired   :    J.B. Vuillaume   ( Paris ) /  copy of the Guarneri , bought by Paganini for 500 francs.  → Camillo Sivori

1851 – 07 – 04     to the City of Genoa ( 1837 – 04 – 27  )
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さて3つめの例として19世紀末に製作されたヴァイオリンの画像を下にあげました。 あまり目立たない数量ですが、 私は 1880 年頃から 1950 年頃の間にヴァイオリンの『 側板の幅を削る調整  』をおこなっていた弦楽器工房がいくつもあったと考えています。 はじめから側板幅が狭い( 26 ~ 28 mm )ヴァイオリンは ” 個性 ” として考えればいいのですが、困ってしまうのが後から削られた楽器です。

このヴァイオリンの側板はエンドピン部分が 27.0 mm でネック部で 26.7 mm です。 私はこのヴァイオリンは製作されたときはエンドピン部分で 31.5 mm あったのを 後年に裏板をはがして側板を 4.5 mm 程削られ組み立てられたと考えています。  その根拠のひとつは エンドピンの位置です。 埋めて移動する前のエンドピン・ホールの中心からサドル側は 15.5 mm で裏板側が 11.5 mm と推測されます。 これだけでも ヴァイオリンのエンドピンの通常位置から考えると 『 ある疑念 』が頭に浮かびます。 そして 私が ” 決定的 ”と考えたのはエンドピン・ホールから内側に入っているライニングの状態を見た時でした。

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先ほど『 カノン ( IL CANNONE ) 』の内部写真をあげましたので確認していただけると分かりやすいのですが、側板上下に入れられるライニングは 通常同じ幅です。  このヴァイオリンに入っているライニングは 表板側が 7.0 ~ 7.5 mm で、裏板側が およそ 2.5 mm 程となっています。 これは、この当時でも 通常はヴァイオリン制作者が 選ばない設定なのです。 私は これらの事から弦楽器を製作したり修復する方にも 『 このヴァイオリンは裏板側が 4.5 mm 程削られた可能性が高い。』には同意していただけると思います。

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因みに、なぜ『 側板の幅を削る調整  』をおこなわれたかについては、私は明確な答えを持っていません。 ただヴァイオリンの側板をここまで狭くすると 『 甘い音色 』が得られます、しかし反面 『  キャリング・パワー 』がかなり 落ちます。
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これらのことから私は ハバネラ ( Habanera )の流行や タンゴの影響があったのではないかと推測しています。 セヴァスティアン・イラディエル ( 1809 – 1865 )が 1860 年頃に大流行させた ハバネラ 「 El Arreglito 」 は 1875 年に ビゼー ( 1838 – 1875 )が 「 カルメン 」で引用し再び有名になり 1887 年 にはサン・サーンス ( 1835 – 1921 )が「 ハバネラ 」を作曲し 1898 年には ラベルが「 スペイン狂詩曲 」の中でつかっています。 こうして 「 ハバネラ 」は スペインのイメージと共に定着していきますが、1900 年代になると アルゼンチン・タンゴたとえば オスヴァルド・プグリエーセ ( 1905 – 1995 )が1939 年に自身のタンゴ・バンドを創設し演奏活動をはじめたり 1944 年には アストル・ピアソラ ( Astor Piazzolla 1921 – 1992 )が本格的な 演奏活動で人気をあつめたことなどが ヴァイオリンの調整に影響したのではと考えているのです。
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ヴァイオリンでハバネラやタンゴを演奏するには鋭いスタッカートを多様しリズムを生みだします。 とくにタンゴでは第一拍のアウフタクトに深い「溜め」をおいたり、第一拍や第三拍に強烈なスタッカートをおきます。 1880 年頃から1950 年頃に、これらで刻んだ強靱なリズムのうえに ロマンティックな、時としてメランコリックな主旋律が泣くのが魅力で世界的な流行となりました。 私は『 側板の幅を削る調整  』をおこなわれたのが状況証拠で その時期と推測されるヴァイオリンを何台も目にしたのでこう考えているわけです。 ただ正確に言えば現在も『 側板の幅を削る調整がなぜ実施されたか?』については調査をつづけている最中です。
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S 私は 「 もしガリンベルティ さんが この『 逆反り変形 』に伴う『 疲労 』の原因が見つけられなかったとすると … 。」 と書きましたが 、当時のヴァイオリン修復や調整例を見たり、影響力の大きかったカール・フレッシュさん( 1873 – 1944 )が 1928 年の自著で 『 … 絃の調子を一オクターヴ下げて、表板に対する絃の圧力を、二十四時間減少することを奨める。 こうして薄い板に対する大きい負荷が、一時的に取除かれたならば、楽器は改めて深い息をしたように思われ … 』と記述しているように 『 オールド・ヴァイオリンは調弦のピッチが上がったことなどにより疲労しやすい。』と言うような認識が背景としてあったようです。
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とても残念なことですが、私は ガリンベルティ さんの一世代( One generation / およそ30年 )まえの 1880 年頃には 『 オールド・ヴァイオリンは板厚が薄いので強度不足で 割れたり、鳴りが悪くなってしまう。』 と本気で考えてしまった弦楽器製作者がふえてしまった … と思っています。 これは ヴァイオリンの胴長 ( ボディー・レングス / Body length  )のデータを調べれば 状況証拠となるでしょう。

一般にオールド・イタリアンといわれる 18世紀末までに製作されたヴァイオリンは一部の例外を除いてほとんどは裏板胴長 ( ボディー・レングス / Body length  )が 350 mm ~ 356 mmで製作されています。 もっと絞れば、このなかでも 352 mm ~ 353.5 mm が最も数が多いです。 ところが 19世紀には 360 mm 前後のラージ・サイズの ヴァイオリンが急激にふえていきます。
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この例としてフランスの リュポーと ヴィヨーム、そして イタリアからは プレッセンダーや ジュセッペ・チェルーティ 以降のモダン・イタリーのヴァイオリン製作者の裏板胴長 ( ボディー・レングス / Body length  )を 原寸大写真集の2000 年に出版された 「 LES TRESORS DE LA LUTHERIE FRANCAISE DU ⅩⅨ° 」 Sylvie Masson / Paris, France と 1998 年に J.B. ビヨーム生誕200年を記念して出版された 「 Jean – Baptiste Vuillaume 」 Stefan-Peter Greiner 、そして 1988 年に出版された 「 LIUTERIA ITALIANA MODERNA  dall’ OTTOCENTO al NOVECENTO 」 Ciro Moschella の4冊と 2001 年に出版された 「 Liuteria Italiana Ⅳ 1800 – 1950 」 Eric Blot より引用させていただきます。

François  Lupot  ( 1725 – 1804 )                                                                    365 mm

Nicolas  Lupot    (  1758 – 1824 )                                                                   359 mm SSSSSSSS
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1795 年頃                                  358 mm

Jean – Baptiste Vuillaume  ( 1798 – 1875  ) Nr.      32 – 1825 年              359 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.      63 – 1827 年              356 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.              1840 年               357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  1550 – 1842 年               357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  1637 – 1844 年               356 mm SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.               1845 年              357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  1694 – 1845 年               354 mm SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.               1845 年               357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  1778 –  1847 年               355 mm SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.               1850 年               355 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  1924  – 1852 年               357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2209  – 1856 年               357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.              1860 年頃                356 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2348  – 1862 年               356 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2517   – 1863 年                357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2611   – 1865 年                356 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2671   – 1867 年                356 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2771   – 1869 年                357 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSNr.  2809   – 1870 年                356 mm
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Giovanni Francesco Pressenda              (  1777 – 1854  ) 1826 年               356.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1829 年                 354.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1835 年                 355.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1837 年                 352.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1848 年                 355.0 mm

Alessandro  D’ EspineSSSSSSSSSSSS(  1782 – 1855  ) 1817 年              360.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS S1826 年                348.0 mm

Giuseppe  Ceruti SSSSSSSSSSSSSSSS(  1785 – 1860  )1825 年                353.5 mm
Raffaele  GaglianoSSSSSSSSSSSSSSS(  1790 ‐ 1857  ) &
Antonio  GaglianoSSSSSSSSSSSSSSS(  1791 – 1866   ) 1853 年                 360.0 mm
Giuseppe  Rocca   SSSSSSSSSSSSSSS(  1807 – 1865  ) 1845 ~ 50 年          354.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS    1864 年                  355.0 mm
Enrico  Ceruti                                          (  1808 – 1883  ) 1880 年                357.0 mm
Gaetano  Antoniazzi                                (  1825 – 1897  ) 1888 年               363.0 mm
Raffaele   Fiorini                                      ( 1828 – 1898  )  1873 年               360.0 mm
Antonio  Guadagnini                              ( 1831 – 1881  )   1861 年                 356.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1864 年                358.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1868 年                357.0 mm

Valentino de Zorzi                                  (  1837 – 1916  )  1906 年                    362.0 mm
Eugenio  Degani                                     (  1840 – 1915 )   1873 年                 360.0 mm

Riccardo  Antoniazzi                                 (  1853 ‐ 1912  ) 1910 年                 356.0 mm
Francesco  Guadagnini                             (  1863 – 1948  ) 1905 年                  358.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1926 年                357.0 mm
Paolo  Guadagnini                                     (   1908 – 1942  ) 1929 年               357.0 mm
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Romeo    Antoniazzi                                  (  1862 – 1925  ) 1921 年                 357.0 mm
Leandro  Bisiach                                        (  1864 – 1946  ) 1940 年                357.0 mm
Celeste  Farotti                                           (  1864 – 1928  ) 1910 年                361.0 mm
Cesare  Candi                                              ( 1869 – 1947  ) 1904 年                 357.5 mm
Paolo de Barbieri                                       (  1889 – 1964  ) 1928 年                 356.0 mm
Annibale  Fagnola                                     ( 1865 – 1939  ) 1920 ~ 25 年                 357.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1928 年                  356.0 mm
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1929 年                  355.0 mm
Carlo  Bisiach                                              ( 1892 – 1968  ) 1949 年                 357.0 mm
Marino  Capicchioni                                   ( 1895 – 1977  )  1950 年                 355.5 mm
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以上のような数列になりますが、私は19世紀以降に製作されたヴァイオリンが 18世紀までの名器の標準値の  350 mm ~ 356 mm ( 352 mm ~ 353.5 mm  )より遥かに大きいのは、表板や裏板の厚みを増やした結果 『 響き 』 が低音域を中心に失われてきたため それをカバーするための苦しい選択の結果ではなかったか … と考えています。 本来、弦楽器にとって響胴の大きさは ” 非常に重要な要素 ” … もっと踏み込んだ言い方をすれば ” その楽器の特質そのもの ” といえるもので、ある意味では 『 ヴァイオリンは19世紀に違う楽器に変化してしまった。 』とすら言いえると思います。
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私はガリンベルティ さん(  Ferdinando Garimbert   1894 – 1982   Milano )が ヴァイオリンの表板、裏板の ” へり ” の厚さを増やした事に着目して、 この『 逆反り変形 』型の弦楽器の疲労破壊メカニズムを 『 強度不足による疲労破壊 』 と考えていたのでは … と推測している趣旨のことを書きましたが、個人的には彼が置かれた時代状況を鑑みるとただ … ただ同情するばかりです。
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途中でお話ししましたように『 逆反り変形 』型の弦楽器の疲労破壊メカニズムの確認には長期間のヴァイオリンの弾き込みと 経過観察が不可欠ですが、第二次世界大戦が終わってしばらくした時期まで(  彼が60歳近くになるまで … ) ガリンベルティ さんにそのチャンスは なかったようだからです …。
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私は ガリンベルティ さんが製作家として著名になる前に それを観察する機会に恵まれたら 『 オールド・ヴァイオリンの短命説 ( 使用頻度にもよりますが300年から400年位で演奏会用として使えなくなる。)』が 誤りであることや、響胴のバランスの取りかたに辿りつけたはずだと考えています。
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さて本稿のテーマに私は 『 パティーナ技術  』 について… と書きました。 これは 私の造語で 弦楽器の振動のしかたをコントロールするために製作者が弦楽器を作る際に 『  オールド・ヴァイオリンなどにみられるように あたかも演奏に使用したことにより摩耗したり、キズしてしまったかのように削ったり、焼いたりした加工による調整技術  』 を指してそう呼んでいます。
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この説明のために下に横山進一さんが 1986年に学研より出版された ” The ClassicBowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の132 ページより 『 Signatured 』 チェロの写真を引用させて頂きました。 スミソニアン博物館に展示されているオールド・ヴァイオリンなどの楽器の中で、1915 年に アルゼンチン・ブエノスアイレスで製作されたこの 『 Signatured 』 は 1979年に亡くなったチェリスト、 エンニオ・ボロニーニ さん( Ennio Bolognini  1893  Buenos Aires – 1979 Las Vegas , U.S.A.  )が使用していた楽器ですが、 ある意味でひときわ異彩を放っています。

エンニオ・ボロニーニ さん( Ennio Bolognini  1893  Buenos Aires – 1979 Las Vegas , U.S.A.  )は30 歳の 1923 年に故郷のブエノス・アイレスを離れてアメリカに渡り、1929 年にはアメリカの市民権を得るとともに多才な活動を続けて ラスヴェガスで87 歳で亡くなられました。 彼は 23 歳のときに 52 歳となったイタリア系移民の弦楽器製作者のルイジ・ロヴァッティ さんに このチェロを製作してもらい終生このチェロを演奏し続けます。

【  Luigi Rovatti  1863 Pavia , Italy  – 1931 Buenos Aires  :   1880 年頃からジェノヴァで Enrico Rocca ( 1847 Turin – 1863 Genoa –  1915 )に学び 結婚した1884 年にトリノの展覧会で銅賞を受け、24 歳となる 1886 年にアルゼンチン ( Argentina )に移住しました。 1886 年 11月に彼らはブエノスアイレス(Buenos Aires)に着き 住居を構えました。
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移民としての苦労の末 36 歳となった1898年10月にブエノスアイレスで行われた国内展示会で、ルイジ・ロヴァッティ さんのヴァイオリンとチェロは金賞を受賞しました。 その後も 1910年には 100年祭工業博覧会で出展したヴァイオリンとチェロが金賞を受賞するなどで 製作者として知られた存在となります。 そしてルイジ・ロヴァッティ さんは 1931年1月に65歳でこの世を去りました。 彼が52 歳だった 1915 年に製作された『 Signatured 』 チェロは ボディ・レングスが 773.0 mm / UB 352.0 mm – CB 235.5 mm – LB 446.5 mm  Vibrating string length 702.0 mm  だそうです。  】
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19世紀になると弦楽器は過去に製作されたなかで突出して大きいものを参照として『 巨大化 』が進められました。 そのモダン・イタリーのなかでも ルイジ・ロヴァッティ さんのチェロの 773 mm はかなり大きいタイプですので時代を感じます。 この比較資料として18世紀までのチェロの ボディ・ストップと ボディ・レングスを書き出してみました。     1799年以前のチェロ

この『 Signatured 』 チェロは内部に 1915年製作のオリジナル・ラベルの他に手書きの献辞が書かれているそうです。 私は10年程前の夜中に 横山進一さんが 1986年に学研より出版された ” The ClassicBowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の172 ページで 英語の意訳文 【 原文はカステリャーノ ( castellano ) か エスパニョール ( español )だと思いますが、残念ながら私にはかいもく見当もつきませんのでご容赦ください。】 を改めて目にして ショックをうけました。

原文が  Te Niglior Violoncello del mondo.   Il mio padrone e Ennio Bolognini.   Cuando Studia e mi suona bene.  とされていて 英訳が ” Best Violoncello  of the world for my friend Ennio Bolognini.  When ( one )studies,  I sound good. ” で 和訳が   『 世界で最良のチェロ。 わが友エンニオ・ボロニーニのために。 練習を重ねれば、わが音色はよくなる。 』 と意訳されています。

ショックを受けたのは エンニオ・ボロニーニ氏が アルゼンチンに移住した カザルスさんのチェロの恩師に師事したこともあり、カザルスさんがこのチェロにサインを書きこむ写真を目にしたり、アメリカで録音・発売した彼のレコードでこの『 Signatured 』 チェロをレコード・ジャケットにしたものを見かけたりしましたので、はじめは私も 『 なんだ … このチェロ? 』 程度しか思わなかったのですが 気になって再度確認をした時のことでした。

 


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『 Signatured 』 チェロの製作者 ルイジ・ロヴァッティ さんは ( Luigi Rovatti  1863 Pavia , Italy  – 1886 Argentina  – 1931 Buenos Aires  ) 2002年に Eric Blot 氏が出版した ” Italian Violin Making in Argentina ” の 112ページから引用させていただいたように、通常は現代型のヴァイオリンなどを製作していました。

幸いなことに彼はヴァイオリンとチェロについてはそれなりの数量を製作したようで、その基本的な規格はイタリアのジェノヴァで Enrico Rocca ( 1847 Turin – 1863 Genoa –  1915 )に学んだものが踏襲されているのが確認できます。 信頼関係があり将来を嘱望される 23歳のチェリストのために 52 歳の1915年に製作した『 Signatured 』 チェロは本当に彼の渾身の作品だったようです。
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私は ルイジ・ロヴァッティ さんは ( Luigi Rovatti  1863 – 1886 Argentina  – 1931  )はこのチェロで Enrico Rocca ( 1847 Turin – 1863 Genoa –  1915 )さんの時代より古い名器が製作された時代の 『 技術 』を使ったと考えています。  その一つは 下にあげさせていただいた ニュルンベルグの Martin Leopold Widhalm が 1800年頃製作したとされる ヴァイオリンの表板右上にあるような焼いた針状の工具でスジ状にラインを入れその部分の動きをよくする調整技術です。
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下中央の写真は 1998年に Peter Biddulph さんがロンドンで出版した25本のデル・ジェズを実物大の写真(A3)で掲載した “ Giuseppe Guarneri del Gesu ” の1巻132ページより引用させていただきました。
私は このヴァイオリンの縦長のスジ状の線も 同じ技法でいれられていると考えています。
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そして下右側は Walter Hamman さんが1964年に出版した “ Italian violin makers ” の 132ページより引用させていただいたもので Tommaso Carcassi が 1786年にフィレンツェで制作したとされる ヴァイオリンの写真表板に“谷線“が写っています。  このTommaso Carcassi  の向かって右側の表板上部には膨らみが いくつかの“谷”と“尾根”の組み合わせで出来ているのが見えますし、右側下部にも“キズ”が付きにくい窪みの底である“谷線”に沿って焼いた針や釘状のものでつけられたと考えられる“焼痕”が 点々と続いています。 私はこれらの面の動きを考えたうえで、その調整のためにスジ状の加工もされていると考えています。
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今回 『 パティーナ技術  』で加工された例として 引用させていただいた 『 Signatured 』 チェロの場合は 縦長のスジ状に先に焼いて加工されたのが サインのアンダー・バーとしてより積極的に活用されて … その結果 サインが表板の全面に ” 書かれた ” ( よくみると同じ人物によったと考えられるサインが、焼けたコテ状の工具でいくつも刻まれています。)チェロの誕生に繋がったのではないか … と 私は10年程前の夜中に直感的に思ったというしだいです。   私は When ( one )studies,  I sound good. を ” 練習を重ねれば ” ではなく 『 名器に学べば、わが音色はよくなる。』 と 書いてあると思っています。
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この『 パティーナ技術  』が使われた好例を 1990年に Brescia で出版された ” Gasparo da Salò e la liuteria bresciana tra Rinascimento e Barocco ” Flavio Dassenno /  Ugo Ravasio の57ページより引用させていただきました。

   

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この『 パティーナ技術  』のヴァリエーションをもう少しみると、この『 Signatured 』 チェロの右肩へりの特徴 … 私はこちらがより重要だと思いますが 下のような オールド・チェロのへりにみられるように あたかも演奏に使用したことにより摩耗したり、キズしてしまったかのように削ったり、焼いたりした加工があります。

私は下の1915年の『 Signatured 』 チェロの右側上部へりは、上にあげた 1680 ~ 1700 年にかけてイタリアで製作されたチェロと類似していると考えています。

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私が最初に右肩の加工を『 パティーナ技術  』ではないか … と思ったのは 1997年に クレモナ最後の名工として知られている J.B.チェルーティ(1755-1817)の代表作だと考えられる 1791年にクレモナで制作された ”ex Havemann ” のニックネームを持っている名器を販売したときでした。
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これは1931年にニューヨークのウーリッツァー商会が出版した有名な ”ウーリッツァー・コレクション” で数多くのリスト掲載だけのガルネリ、ストラディヴァリウスが並ぶなかで著名制作者代表作として写真付きで掲載されている数台のひとつで、J.B.チェルーティの最良の楽器とされています。 左2枚の写真は “ex Havemann ” の細部を確認しやすいので Bein & Fushi inc. の鑑定書に添付されている写真をあげ、その右に私が撮影した 裏板写真をあげました。
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220年前の 1791年に製作されたことを意識したうえで 拡大図で ” 右肩 ” が 『 いつ? 』 この状態になったか … を考えてみてください。

Gasparo da Salo                        Girolamo Amati Ⅱ                Giovanni Battista Guadagnini
(  c. 1542 – c. 1609  )                   (  1649 – 1740  )                          (  1711 – 1786  ) SSSSSViola                                 Royal  Academy
SSBrescia   c. 1580                        Cremona    1671                            Piacenza  c. 1745

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Giovanni Francesco Pressenda              Giuseppe  Rocca                Giuseppe  Rocca
S( 1777 – 1854  )                            ( 1807 – 1865   )
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSWorked Pressenda workshop
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS1834 ~ 1838
STorino   c. 1840                         Torino 1845 ~ 50                        Torino   c. 1850

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表板ネック・ブロック右肩の ” へり ” を見るために 上に6台あげました。  私は これらは エンド・ブロック側の左右も興味深い状態になっていると思っています。 それからもう一ヶ所  『 裏板の中央付近のキズ 』の例を下にあげておきます。

             

18世紀末までの弦楽器では『 裏板の中央付近とバス・サイドのキズ 』や『 へりの針などの焼痕・削り跡 』がたやすく確認できるものが多いです。   この他にも例えば下にあげた 1795 年に ウィーンで製作されたヴァイオリンのように、驚くような高度な加工がされているものすらあります。

これは現在 『 ウィーン・フィルの弦楽器 』として有名な Wien ( Vienna  )の Johann Georg Thir ( c. 1738 – after 1781 )工房で 弟の Mathias Thir ( 1741 – 1806 )が表、裏板ともに一枚板で ( One-piece back and front. )製作したもので、下の写真でもみえると思いますが きちんと針痕が入って『 センター・バーツのバス・サイド ” へり ”  』には調整痕が深くつけられています。  私はこれだけでもすばらしい技術だとおもいますが、精査していて中央左 ( 魂柱側 )の 「 カール」と逆に ” 左下がり ” の二筋の 「 カール状の模様 」は 彫り込んだ後に着色したことに気がついた時には本当にショックをうけました。 この「 カール状の模様 」は 上の写真で右から2枚目で ” ミゾ ” の深さがわかると思いますが、非常に高度な 『 木伏技術 』 だとおもいます。

また下の写真のような ” フシ ” を 『 木組み技術 』として利用する製作者も多かったようです。

      

下の 17世紀半ばに製作された オールド・ヴァイオリンはこの ” 木組み技術 ” が使われています。         上の写真は 『 焼痕 』などの設定を私が計測したものです。 そして下の写真は これを参照して 私が製作した裏板です。 私は 18世紀までに数多くつくられたヴァイオリンなどの名器は こうして製作されたと考えています。

念のために表板の計測図も下左に例として2枚あげましたが、これらの設定を参照して製作すると下右の写真のようになります。

私は可能な限りの台数の弦楽器を調べた結果 、複雑な軸組みのバランスをとる最終調整に 『 パティーナ技術 』が取り入れられたと信じています。

今回は ここまでとさせていただきます。 ありがとうございました。

横田 直己