4. 写真撮影 ノ ススメ。

楽器表面の凹凸を見ましょう。

名器の“響”を持つ楽器を見分けるための3つめのチェツク・ポイントは 前ページにあるように 左F字孔の外側部の“固定端”のラインの加工がされているかを確認することです。 ここには表板を削るときに段差状に“節”が彫り込んであったり “針痕点”が並んでいたり “スジ状の焼痕”がはいっている可能性があります。注)1  こうした”節”が見えたら話は簡単なので4つめのチェツク・ポイントを挙げる前に 『 凹凸写真を撮ってみてはどうでしょうか?』のお話しをします。 ヴァイオリンの名器などに見られる“節”は楽器の表面をそっと撫でてもわかりますが 一番簡単なのがデジタルカメラで胴体の一部を光らせた写真を何枚も撮ることです。 考古学で古代の風化しかけた石に彫られたレリーフや 野外に放置されて彫られた文字が不鮮明な碑文を写真撮影するのに 石碑の真横から強い光をあてて凹凸を浮かび上がらせて撮る方法があります。 ヴァイオリンなどでも撮影用の光が表板の面にたいして真横から差し込むようにすると意外と簡単に“節”が写ったりします。

注)1  ここは“音波”つまり媒質である空気の“疎密波”がつくられる “波源”として楽器胴体の“共鳴音”(レゾナンス音)の中の高音域を担当するゾーンですので比較的見つけやすいと思います。 因みに私は「スピーカー」のように振動を“音波”に置きかえる場所を “変換点”(エネルギー変換点)と呼んでいます。

 

                

例として左の写真と同じヴァイオリンを 私の工房で撮影した右の写真とくらべてみてください。 このヴァイオリンは先程 “節“ を見ていただくのに使ったアンドレア・ガルネリです。 イタリア・クレモナの高価な名器ですから 専門のスタジオで資料写真として左の写真は撮影されました。注)1
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楽器写真の常識として表面の光っている場所は白くなって楽器が見えないゾーンになってしまうのでそれを避けるために四隅からライトをあてて撮影されています。 色調などをみるためには こうして撮影した写真も重要なのですが、このライティングでは“節”はほとんど見えません。 そこでヴァイオリンの凹凸が写るように撮影したのが右の写真です。 重要なことですから繰り返しますが 撮影時の光線が違うだけで同じヴァイオリンです。 右側の写真により楽器中央より上の起伏が見えるようになりました。 そうしてF字孔の辺りを“ 谷線 ”や“ 尾根線 “が “ 節 ”として表板表面を細かく分割しているのが見えると思います。 私はこういう画像で名器の” 響 ”を読み切ることをお勧めしています。

注)1  この写真は 東京・銀座の㈱日本弦楽器 佐藤輝彦さんにご協力いただきました。

 


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凹凸写真の2例目として“ ありがたい写真 ”を見ておいて下さい。

ここまでに何度かWalter Hammanが1964年に出版した “ Italian violin makers ” について触れましたが、私も本格的な弦楽器資料として最初に購入しました。 それは1984年の事でしたが それ以降時間を見つけては繰り返し眺める生活を続けていました。ある日 132ページのTommaso Carcassi が 1786年にフィレンツェで制作したヴァイオリンの写真に 表板、裏板ともに“ 谷線 “がはっきり写っている事に気が付きました。
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この写真はその表板部分です。 向かって右側の表板上部には膨らみが いくつかの“ 谷 ”と“ 尾根 ”の組み合わせで出来ているのが見えますし、右側下部にも“キズ ”が付きにくい窪みの底である“ 谷線 ”に沿って焼いた針や釘でつけられた“ 焼痕 ”が 点々と続いています。 ヴァイオリンの表板アーチの仕掛けが分かりやすい写真ですので 27年経っても時々ながめています。
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ハンマー・ブックにあるような完璧な写真はなかなか撮れません。
参考に私の工房で撮影した Lorenzo Carcassi( worked 1737–1775 )の 注)1 ヴァイオリン“ ex Steinberg ” 1757年の写真を2枚挙げておきます。 この楽器は 1920年頃から1960年代に ニューヨークやベルリンで ストラディヴァリや “デル・ジェズ”など多くの名器を販売した楽器商の Emil Hermannの コレクション・ブックの74ページに掲載されています。
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これは前のページの Tommasoと同じくハイ・アーチでつくられた名器です。 左右F字孔外側部に Lorenzoが“響”の調整で入れた 大胆な“焼痕”が彼の力量の高さを示しています。 またこの他の多数の“焼痕”や指板の左右の表板部( 特に左側 )に刻まれた“調整痕”が 私は『 すばらしい!』 と思います。

 

右側の写真では表板の“節”の調節のために針を焼いて入れられた“ピン痕”がかなりの数見られます。 それとテールピース部の表板にしっかり付けられた“焼痕”と サドルの左右の縁の“調整痕”に目を通しておいて下さい。
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注)1 Francesco Carcassi ( worked 1720-1740 )の息子として生まれ、生涯 フィレンツェの一緒の工房で 弦楽器の制作に励んだ Carcassi兄弟の Tommaso ( worked 1747-1789 ) と Lorenzoのヴァイオリンには多くの共通性がみられます。
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イタリア以外の弦楽器製作の名工といえば当然インスブルクの東側にある Hall in Tyrol の北よりの街 Absamですばらしい弦楽器を制作したJacob Stainer ( 1617-1683 )の名前がでてきます。 その技術を受け継ぎ ドイツ・ミッテンヴァルトを有名にしたのが Mattias Klotz ( 1656-1743 )です。 この写真のヴァイオリンは そのクロッツが独自のスタイルを確立した 1700年頃制作したと考えられます。 左側の写真を拡大すると テールピース横の ”節”が見られます。
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4つめのチェック・ポイントとして テールピース近辺の“節”を挙げます。 左側の写真ではテールピース右横に強い“尾根”が写っていて、その線上には 点の場所 8ヶ所に“焼痕”が入っています。 右側の撮影光線が違う写真で同じ場所を比較してみてください。

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ヴァイオリンの演奏で最初の重要な人物はアルカンジェロ・コレッリ Arcangelo Corelli( 1653-1713 )です。 彼は Bolognaから約40㎞ほど Ravenna方面に行った Fusignanoの出身で 13歳である1666年にボローニャに移り1670年には わずか17歳でアカデミア・フィルアルモニカに入る事を認められ、1675年にはローマの 聖ジョバンニ・ディ・フィオレンティーニ教会の主席ヴァイオリン奏者となり 演奏活動を終えた5年後の 1713年にローマで亡くなりました。そして、ご承知のように彼が作曲し厳選して残した“ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集 ”などのすばらしい音楽は今日でも演奏されています。 ボローニャはヴァイオリンの演奏でそうであったように、弦楽器製作でも重要な役割を果たしました。注)1

この街で楽器作りを栄させたのが Giovanniと Carloの Tononiです。この写真のヴァイオリンは Carlo Tononi( worked 1675 , Bologna.  1717-1730 Venezia )が 1705年に Bologna で制作したものです。 凹凸が把握しやすいように次に4枚の写真を並べます。 さきほど名器のチェツク・ポイントとして挙げたテールピース横のゾーンをご覧下さい。

注)1 弦楽器の“響”に大きな影響を与えたガット弦の製造については1664年の John Playfordの記述程度しか当時の状況を知るすべがありませんが、少なくとも1660年頃には“巻き線ガット弦“が ここで本格的に製造されていた様です。

 
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こうして撮影するとテールピース部右側に“ 尾根線 ”と “ 谷線 ”で意外と複雑に“ 節 ”が構成されているのが見えると思います。

4つめのチェツク・ポイントの テールピース近辺の “節”を見るために ミラノの名工 Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )が 1740年頃制作したヴァイオリンを挙げておきます。 この表板はアーチが 20.5mmです。  前出の Mattias Klotzが1700年頃作ったヴァイオリンもそうですが、膨らみがミディアム・ハイ・アーチくらいになると “ 節 ”が強く作られている場合が多いです。
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そして次ページのプレッセンダーのように 少しフラットぎみの表板だと縁をふくめてわずかな厚さの差で十分 “節”の設定ができるので 見分けるためには注意深さが必要になります。  因みに5つめのチェック・ポイントの欄に このカルロ・アントニオ・テストーレのヴァイオリン表板の正面全景があります。

 

 Giovanni Francesco Pressenda( worked 1777-1854 )が トリノで1837年に制作したヴァイオリンです。 この楽器の表板アーチは15.8mmです。 表板と裏板の縁の厚みをみるとブロックのところ( 表板は特に顎あて下部 )が薄く加工してその反対側の “ 節 ”が強めてあります。

 

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )のヴァイオリンです。  テールピースの左右に見える “ 調整痕 ”が見事です。
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チェロの表板凹凸写真です。 写真撮影の参考にあげました。
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ヴァイオリンなどの弦楽器の製作技術は18世紀後半にはヨーロッパ北方地域の都市コペンハーゲンまで伝わっていました。  この地域はリューベックを中心都市としたハンザ同盟の衰退がはじまった 1470年以降、事実上 カルマル同盟の下( 1397-1523 デンマークとノルウェー、スウェーデンの同盟  ) デンマーク王国の支配地域でした。
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しかし 1523年にスウェーデンが独立し、1626年にはドイツ“ 30年戦争 “に介入するも敗退、また1645年のスウェーデンとの戦争のあとは小国に転落し 1807年のナポレオン戦争にはフランス側として参戦し影響力をさらに落とし、1814年にはキール条約などでノルウェー支配がスウェーデンに移ると歴史の舞台の中央に戻ることはありませんでした。
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しかし音楽史の上ではいくつも興味深いことがありました。 たとえばドイツのバロック音楽の始祖であるハインリヒ・シュッツ( 1585-1672 )は1609年にヴェネチアで学んだのち 1617年から1656年までドレスデンの宮廷楽長でしたが、途中の1633年から35年にはデンマーク宮廷楽長を兼務するなど生涯のうち3度にわたりデンマーク宮廷楽団を指導しています。
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それからバッハに影響をあたえたブクステフーデ( 1637~1707 )はデンマークに生まれ1668年まで暮らし、その後亡くなる 1707年までリューベックの教会でオルガニストを務めたことが知られています。このようにデンマーク国王が音楽を庇後したことから多くの伝承があるのですが、困ったことに弦楽器製作に関しては 1752年にデンマークに生まれた ヨルト( Andreas Hansen Hjorth  1752~1834 )が1795年からコペンハーゲンで宮廷楽器制作者となったことぐらいしか記録がみあたりません。
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しかし、時々驚くほど優れた弦楽器が見つかります。 写真の楽器は KSH  Holm が 1791年にコペンハーゲンで制作したチェロの表板です。 制作者についてはそれ以外不詳ですが楽器としてのクオリティは名器レベルに達しています。