バイオリン弓などで使用される 『 馬毛 』 の お話し。

2010-12-27  3:10

私が「 考えられる最高レベル 」の毛替えをめざしたのは 初めて ウィーン・フィル ( WIENER  PHILHARMONIKER /  WIENER  STAATSOPER )の方達の毛替え依頼がはいった 1994年の 9月のことでした。それは ウィーン国立歌劇場の1ヶ月半におよぶ日本公演で来日したペーター・ゲッツェルさん( Peter Götzel )と パウル・グッゲンベルガーさん( Paul Guggenberger )からのものでした。( 上写真 )このとき私は「 必ずリピーターになっていただける毛替え 」を仕掛けました。 そして依頼された3本の弓は 当時の私の工房の毛替え定価通りに弓1本につき ¥5,800 いただき納品しました。その夜、彼らを紹介してくださった方からお電話をいただきました。『 彼らから ” あなたの毛替え代金は安すぎる! 弾いてすぐにわかった! ウィーンで付けている馬毛よりあきらかに良いのに、ウイーンの工房の修理代金の1/4以下しか請求されなかった! 追加でかまわないから請求してほしい!” との連絡を受けた …。』とのことでした。もちろん このお電話には「 私はその評価で十分です。ご心配をかけ恐縮ですが、今日の事とはいえ 既に精算が済んだ案件ですから追加請求は 出来ません。」という伝言をお願いしました。 これだけでも私は十分に幸せでしたが、このお電話を頂いてから1年後に まったく予想しなかった達成感を味わうことになりました。

1995年9月末に再び彼らから弓の毛替えの依頼がはいりました。今回は演奏旅行日程の都合で 10月3日 11:50 に 羽田空港の到着ゲートで毛替えの弓を私がお預かりして、翌日 10:00に 新高輪プリンスホテルで納品することになりました。そしてお約束したように羽田空港で前回と同じ弓を3本お預かりしたのですがその時に、ご両名ともに『 結局、再来日まで1年も経ってしまい 良い馬毛だったけど少し前に待ち切れずに ウィーンで毛替えをしてしまったんだ。でも、あなたの使用している馬毛がはるかにすばらしい品質なのでこの機会に また頼むよ!』と 話されていました。

私はお預かりしてまっすぐ羽田空港から自由が丘に戻り さっそく毛替えに取り掛かりました。その途端に『 あぁーっ!これは何だ!』、『 本当に 信じられない!』と大声で叫びました。

バイオリンの弓は麻糸でしっかり縛り松脂を火にかけ染み込ませ、切り口を焼けた工具で処理してある馬毛束の両端をスティック・ヘッド( Stick head )の穴とフロッグ( Frog  )の穴にそれぞれのプラッグ( Plug / 栓のような木片 )で固定すると共に、 毛が平たく整うようにフェルール( Ferrule / 金属製の半月リング )の隙間に ウェッジ( Wedge / 平たい楔形の木片 )を軽く打ち込んで 組み立てられています。私が大声をあげたのは 馬毛を取り外すためにスティック・ヘッド ( 弓先 )のプラッグを外した直後に 1年前に「 私、自身が縛った麻糸 」が 見えたからです。  プラッグとウェッジが3個ともウィーンで取り換えてあるのに 交換されたはずの「 私、自身が縛った馬毛 」が そのまま取り付けられていたのです。「 毛替えをしたと聞いたけど… ?」。

拡大鏡で詳細に調べた結論は お預かりした3本の内、2本の弓のプラッグとウェッジが新しい木片で作り直されていましたが 馬毛は 薬品で「 クリーニング 」した後に再び取りつけられたということでした。

翌日、新高輪プリンスホテルの部屋で弓をお渡しする時に もう一度事実確認をさせていただきました。悲しいことですが 間違いでは ありませんでした。ゲッツェルさんと グッゲンベルガーさんは本当に普段 毛替えを頼んでいる ウィーンの工房で いつものように毛替えを依頼し、いつものように日本円換算で2万円以上の「 毛替え修理代 」を支払われていたのです。事情がわかったので 私は このウィーンの工房の人が急にかわいそうに思えてきました。彼の工房で在庫している新品の馬毛より、毛替えを依頼された弓についている1年近く使用した馬毛が良かったということで苦肉の選択をした結果だったと判断できたからです。私が 使用した馬毛の良質さは完璧なのを理解していましたので、この話はそれでおしまいにしました。( 冒頭の写真はこの日に撮影しました。)

それから 1ヶ月後の 1995年11月8日に再来日したゲッツェルさんとグッゲンベルガーさんから別の弓の毛替えを依頼されました。そして 私はこの日 もうひとつの特別な相談をうけました。それは 『 バイオリニストにとって弓の毛替えは多忙なスケジュールの合間にすませたいので申し訳ないが ウィーンで同じ毛替えができるように 私の工房で在庫している馬毛を売って欲しい …。』 ということでした。私は馬毛販売はやっていませんので多少困惑しましたが … 結局、同意しました。

そこで 私はまず 「 馬毛は私が仕入れた原価で譲渡する。」ということをお伝えしました。次にあなた達の弓に使用した馬毛と同じものを希望するか?をお尋ねしました。もちろん答えは 「 同じ馬毛 」でした。それで私は翌日までに準備をすることを お約束しました。

そして帰宅するとまず「 必ずリピーターになっていただける毛替え作戦 」の説明のために 下の説明文を書きました。

 

” おしやれ ” でないので 馬毛譲渡の話がなければ お話しするつもりはなかったのですが 仕方がありませんでした。「 必ずリピーターになっていただける毛替え作戦 」はシンプルです。超高級カナダ産馬毛のなかでもハイ・コストのロング( この時は 108 cm と 102.5 cm を 使用しました。)・ブロンドを、超厳選 ( 私が弓1本分で2時間30分くらいで選別し 82.5 % を排除しクオリティの高い上位17.5  % を使用しました。)した馬毛をていねいに取りつけるだけでした。

代金受け渡しが煩雑にならないように 上の説明文では 1g = ¥200 としていますが、本当は3%の消費税込みが 1g = ¥213.2 で バイオリンの弓 1本分の馬毛原価は ¥8,528 でした。ほんとうに ” おしやれ ” でないので彼らには弓 1本分の馬毛が¥8,000 で 取り敢えずとして希望された弓10本分を ¥80,000 で譲渡しました。【  因みに2010年現在 同じ馬毛の原価は 1g = ¥409.5 ですから、同じ量を使用すれば 弓 1本分が原価で ¥16,380  ですね。 】

もう昔のお話しなので本当の数字をいうと 選別工程の2時間30分や預かりと納品の時間と駐車場代などの交通費、そして毛替えの工賃を計算すると、バイオリンの弓一本あたりで約2万円の赤字でした。金銭の収支はそうでしたがこの仕事で当時 34歳だった私にとっては たくさんの学びがありました。この ” プロジェクト ” のテーマは 「 自分の仕事が ワールド・スタンダードで戦えるかどうか?」 でした。… 結果として、ウィーンの同業者を イジメルことになりましたが 結果がでるまで 余裕 をかませるどころか、1年以上の期間 緊張して成り行きを見守っていました。

私の馬毛に対する見識が 「 ウィーン・フィルのレベルのヨーロッパの演奏家にみとめていただけるかどうか?」はそれくらい重要と考えていました。

話は少しさかのぼりますが 私はかなり以前から私は『 馬毛の長さの選別工程で馬毛が傷められているのでは … ?』 との疑念をもっていました。そして 1992年の夏にそれを検証することにしました。実は私の工房のお客さんに 日本中央競馬会 ( JRA )の 滋賀県栗東町にある「 栗東トレーニングセンター 」の獣医さん( チェロを弾かれています。)という頼りになる方がいらっしゃったのです。因みに「 栗東トレーニングセンター 」は一周2200mの訓練コースを持ち4000名の関係者が暮らすとともに、最大 2161頭の競走馬が収容できる巨大施設です。

私は そこの獣医さんからの情報で馬の種類はサラブレットですが白色や金色の尻尾を持つ廃馬はめずらしくないと聞いていたのです。このほかにも馬にとって毛色は遺伝的体質をみる大事な バロメーターだとうかがっていました。例えば サラブレットの約 25% は 栗毛 ( くりげ )です。そして ここまで割合はたかくありませんが 月毛 ( つきげ )や 白毛 ( しろげ )、佐目毛 ( さめげ )など14種類ほどにきちんと区別されているそうです。そして私達が「 白馬 」といっているのは 歳をとって白くなった 芦毛 ( あしげ、Grey )馬のことだそうです。 芦毛馬は 幼いころは灰色や黒もしくは母親と同じ毛色で 年齢を重ねるにつれ白くなっていくそうです。 因みに芦毛馬は毛は白くても肌の色は黒色で、すべての種類にごくわずかだけ生まれてくる 白毛 ( しろげ )馬は生まれた時からほぼ全身が真っ白で肌もピンク色をしているそうです。そして重要なのが芦毛馬はサラブレット全体の約 7% を占める事実です。もし「 栗東トレーニングセンター 」に1440頭のサラブレットがいるとそのなかの100頭くらいが芦毛馬だということです。そして残念な事実ですが サラブレットは 1年間で約8000頭が生産されていて ごく一部の例外を除いて怪我、病気、繁殖不向き、高齢はいうまでもなく、きびしいのはデビューしてすぐの成績不振などを理由に早ければ3~4歳の年齢で主に食用として「 廃馬 」処分がおこなわれています。この事実には … それにかかわる者として『 合掌 』したいと思います。

こうして ” あの夏 ” に わたしは 1頭の芦毛馬の ” 白い尻尾 “を、栗東町から クール宅急便で送っていただきました。 事前に獣医さんには尾てい骨のところから切除してそのまま送ってくださいとお願いしてありましたので、梱包をほどきダンボール箱のふた部分を開いて中のビニール袋を慎重にめくると薄手のダンボール紙で筒状に巻かれU字型に収められた端から尻尾の浅黒い皮膚と 赤黒い肉がみえました。実は 強がりをいいながらも少しは不安を感じていたのですが、ありがたいことに血液はきちんと抜く処置がおこなわれているのがすぐに分かり … ちょっとだけ ホッ!としました。支度をしていると 前々日にお世話になった獣医さんがお電話で 『 動物解剖の経験がない人には少しハードだと思いますが … 。』と心配そうにおっしゃっていた声が 私の頭のなかで遠い記憶のなかから響くようによみがえっていました。

恥ずかしながら私の不見識のために最初から想像していたのと違い『 そうだったのか … !』の連続でした。たとえば後にも先にも一度だけの経験ですので他の馬の尻尾がどうなっているのか知りませんが、私が馬毛をいただく処置をした芦毛馬の尻尾は想像したよりはるかに 太く長かったです。私のこころの期待はあっさり裏切られ …  太さが直径4cm弱のフランクフルト程で長さが 35cmくらいはありました。そして肝心の尻尾の毛は 弦楽器の弓で使えない42cm以下の短い毛がそこから細かく密集しながら放射状に生えていて 櫛など絶対つかえないほどからんでいました。 この状況に私は少し暗い気持ちで長い毛の割合を調べてみました。最終的に分かったのは42cm以下の馬毛が全体の 70% 位だという事実でした。

結局 午前11時くらいからはじめほとんど休み無しで夜、7時半ころまで馬毛の 仕分け作業を続けた結果は次の通りでした。 馬毛の長さが 73cm以上の 4/4サイズのバイオリン弓用が弓3本分、70~73cmセンチの チェロ弓用が 弓5本分 そして42~70cmセンチの分数弓用が弓8本分となりました。 あらためて馬毛がどれくらい引っかかりやすいかを体験した8時間半でした。とにかく、馬毛どうしがからまる事、からまる事 … 本当に四苦八苦しました。そうした苦労をして準備した日本産サラブレッド芦毛馬の馬毛を まず始めにチェロ弓に取り付け、松脂を塗ったときの感動はいまでもはっきり覚えています。弦楽器の弓用としてのクオリティーは 『 完璧!』 でした。こうして分数用もふくめて2ヶ月間で検証実験もかねて16本分全部を使用してみて次の毛替えの際に傷みかたなどを確認しました。バイオリン弓の方もチェロ弓の方もオールド・フレンチ弓を使用されている 演奏家の方達とアマ・オケのトップの数人にお願いしたのですが、1年から2年使用され続けました。( 最短の1年で交換した方は スタジオの仕事もこなすプロのアイリッシュ・フィドル奏者の方で、その次の月に都内のプロ・オーケストラのヴァイオリニスト、それから2ヶ月あいて … といった具合でした。 )そして分数弓にいたっては交換不要な状態が3年以上続き最後まで1本も交換できませんでした。日本産サラブレットの馬毛で学んだのは 『 なにも足さない。なにも引かない。 』 状態の良い馬毛はそうかんたんに減らないということでした。

一般に原毛商は産地を毛質の使い分けの目安としてあげます。それはまったく無意味なわけではありませんが本当に重要なのは、馬毛自体の健康度とクオリティーのみだと思います。 楽器関係の本によっては 『 カナダ産は強くて太く引っ掛かりが多く大きな音をさせやすい。しかしその反面柔らかくしなやかな音が得にくい。』 とか平然と書いてあったりしますが、弓の馬毛の本数を数えてみればわかるようにたかだか150本ぐらいのものなので、私がウィーン・フィルの人達の弓でやったように 『 揃える時に2時間半かけて82.5% を除去して …。』 までせずとも一本づつきちんと確認して荒れた馬毛はきちんとはじいて整えた適量の馬毛を取りつければ『 荒れた音で きめが細かい柔らかい音がしない 』などという経験をするなどありえない! … と 私は思っています。それでは馬毛のお話しはここまでとさせていただきます。 以上、ありがとうございました。