6. スクロール 左後頭部 。

ここまで表板部分でチェック・ポイントを挙げてきましたが 、ここからヘッド部分( スクロールと ペグボックス )のチェック方法に話しを進めたいと思います。 まず、私の工房で撮影した アンドレア・ガルネリの ヴァイオリン・スクロール画像で CRESCENT CUTと指摘した部分( 左側 )と反対側を比べてみてください。                                              

チェック・ポイントの6つめは 『 弦楽器のスクロールを人間の頭部に例えれば左後頭部がすり落としたように”三日月型”に削られているかどうか?』です。 私が “クレセント・カット” ( Crescent cut )と名付けた この削りは、制作者がヴァイオリン製作の最後の仕上げとして 弦を張り音を出しながら削りました。 オールド・ヴァイオリンには高い確率で入っています。 もちろん楽器の個体差はありますがオールド・ヴァイオリンでは反対側( 低音側 )と比べれば差は一目了然な場合がほとんどです。

参照のため写真家の横山進一さんが撮影し1986年に学研より出版された ”The Classic Bowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の27ページとより ストラディヴァリ  “ Parera ” のスクロールを引用させて頂きました。

 

ストラディヴァリのスクロールにあるクレセント・カットは 真横からは簡単に識別できますが左側の横山さんの写真にあるような真後ろのアングルでは目立たないように加工してあります。  右側の私が撮影したストラディヴァリのヴァイオリン・スクロールや前出のアンドレア・グアルネリのスクロールのように少し見上げる角度で写真を撮ると確認しやすいと思います。

同じく参考のために 写真家の横山進一さんが撮影し 1984年に学研より出版された ” Antonio Stradivari in Japan ” の15ページとより ストラディヴァリ  “ Sunrise ” のスクロールを引用させて頂きました。  この 1677年に製作され保存状態のよい有名な装飾入りヴァイオリンでも 控えめながらも はっきりと ”クレセント・カット ”が入っています。

上の写真も1986年に学研より出版された ” The Classic Bowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の 61ページより  Andrea Guarneri  1671年  violin のスクロールを引用させて頂きました。

これは 1988年に開催された 『 ウィ・ラブ・ストラディバリ 』の展覧会カタログの 39ページより 横山進一さんが撮影した 東京芸術大学蔵のストラディヴァリウス ” Park ” の写真です。 真後ろからスクロールを見ると 中心軸が右に曲がっているのが分かります。  さてここで ヴァイオリンなどの ”クレセント・カット” を 『 演奏するためのチューニングなどですり減った。』 などと思い込んでいる方がおいでのようなので 製作者が削った根拠をお話ししておきます。 注)1

 

 

2002年に ウィーンで出版された ” Masterpieces of Violin-Making  :  The Collection of Bowed Stringed Instruments of the Oesterreichische Nationalbank  ”  Rudolf  Hopfner  の 60ページに掲載された ウェルナー・ヒンクさんが使用しているストラディヴァリウスです。 この 1709年 ” ex Hammerle ” のスクロールは ①と書いてある一段目のエッジが 「 激しく“摩耗” 」しています。  ところが ②、③と番号をふった 二、三段目のエッジはほぼ最初の面取りそのままです。 注)2  もし チューニングでスクロールに触れたことが“摩耗”の原因だとしたら 「 この景色 」はあり得ません。注)3  ”クレセント・カット”は制作者が スクロールを後ろから見たときの右曲がりの中央軸の傾きをより「 強化 」するために手を加えたものです。

さてヴァイオリン族のなかでも ヴァイオリンと ビオラは 演奏者がスクロールに触れることがある訳ですが、チェロのスクロールは人が触れることは殆どありません。  ところがオールド・チェロの中には 制作者が 前出のストラディヴァリウスのヴァイオリン・スクロールと同じように 二、三段目はそのままで一段目を”激しく摩耗させた” チェロが存在します。 注)4

下の写真は 1997年に ヴェネチアの南西80㎞程の街 Lendinara で開催された展示会カタログ ” Domenico Montagnana – Lauter in Venetia ” Carlson Cacciatori Neumann & C. の 109ページに掲載されている 1742年に Domenico Montagnana が制作したチェロのヘッドです。 クレセント・カットの意味が解かりやすいので引用させていただきました。  十六、十七世紀にヴァイオリンやチェロを製作した人は イタリア語 Liutaio やフランス語 Luthierであるように リュート製作者でした。 つまり リュート 、シターン や テオルボ 、キタローネや ヴィオラ・ダ・ガンバ をよく知っている弦楽器製作者だったのです。 右側に1993年に ボローニャの博物館カタログとして出版された ” Strumenti Musicali Europei del Museo Civico Medievale di Bologna ” John Henry van der Meer の105ページに掲載してある十七世紀に製作されたと考えられる テオルボのヘッド写真をおきました。 後ろから見たときに中心軸が右側に曲がっていくのが特徴です。左右の写真を見比べれば同じ軸取りがしてあるのが理解していただけると思います。 下に資料映像をならべておきますが古楽器からヴァイオリン族まで胴体の中央軸線とネックの中心軸線ははじめから 『 く 』の字に組まれていました。

「 なぜ弦楽器の中心軸線がはじめから 『 く 』の字に組まれていたのか?」 の 答えは簡単です。 子供のゼンマイで動くおもちゃで 軸が 『 く 』の字の針金で先端の揺れが大きくなるように作られたものは見たことがありませんか?  チェロなどの低音担当の弦楽器だと大きいのでわりと見えやすいのですが、胴体の中心軸線とネックの中心軸線が 『 く 』の字に組まれている楽器の弦をはじきそれを上から見るとヘッドが大きな楕円運動をして揺れていて 残響が長く音色もやわらかいのが確認できます。  ところが胴体の中心軸線とネックの中心軸線が一直線の弦楽器の弦を弾くと音が詰まるようにして消えてしまいます。音の立ち上がりが遅く残響が短いだけでなく”音色”を生むのに大切な低い音域の”レゾナンス音”もほとんどしません。 注)5     チェック・ポイントの6つめの ”クレセント・カット”は中心軸線の 『 く 』の字のバランスを 音を出しながら調整した痕で、この削りを大きくするとヴァイオリンの低音域の”レゾナンス音”が増え音色がゆたかになるので古くから用いられました。 注)6

 

 

 

注)1  ”クレセント・カット”を摩耗と思い込んだ人の手で埋められた楽器をまれに見かけますが、もっとも有名なヴァイオリンはクレモナに展示されている1715年とされる ストラディヴァリウの ” Cremonese ” でしょう。すでに1972年にニューヨークで出版された ” Violin Iconography of Antonio Stradivari ” の453ページに”クレセント・カット”が埋められたスクロールが掲載されています。

注)2 ストラデイヴァリはこのヴァイオリンのほかにも 例えば ライナー・ホーネック さんが使用している1714年製のストラディヴァリウスなどもこの仕上げをしています。

注)3 ヴァイオリンをチューニングした経験がある方でしたら同じ意見でしょう。  もともとチューニングなどでスクロールは ほとんど摩耗しません。 放っておけば1900年に製作されたバイオリンが これから200年後にそれを完全に証明してくれるでしょう。  ここでは ひとつだけ 私がスクロールの二、三段目の”摩耗”で苦しんだ話をしておきます。  それは25年ほど前から調整や修理を担当している Nicola Gagliano ( 1675~1763 )が 1725年頃制作したすばらしいヴァイオリンの 『 スクロールのE線側二、三段目に接ぎ木があててあるのは 制作者本人の手によるものか後世の人の判断か?。』という設問でした。 それは2004年に Jost Thöne ” Italian & French Violin Makers vol. ”の26ページにある Nicola Gagliano の 1726年作ヴァイオリンの写真でやっと解決しました。 下に掲載した前者が私の工房で撮影したもので、後者が Jost Thöne 氏の原寸大写真集より引用したものです。

下図で赤く塗ってある二、三段目の上部の接ぎ木は 後世の人の手によるものです。 私が悩んだのは 『 制作者本人が接ぎ木がない状態 まで削ることがあり得るか?( スクロールの景色をここまで壊してまで“響”の調整をほんとうに実行するか? )』 ということでしたが 同じ加工をしたヴァイオリンが1726年に制作され現存していることから答えはあきらかでした。 Nicola Gagliano は ”仕事の鬼”だったようです。

 

注)4 私も プロのオーケストラで2列目に座っているチェリストから 『 演奏の最中に目の前のチェロのヘッドをいつも眺めているけど”激しくすり減った” 理由が何度考えてもまったく解からないんだけどどうして?』 と聞かられた時には 『 うぅーん…。』でしたが、同じような質問を何人かから受けて本腰をいれて調べました。 オールドのチェロは本当に現存する台数がすくないですから結構大変でした。

 

注)5 この差は楽器を作る人でしたら実験でたやすく確認できます。 私は 2005年3月に娘4人が使用していた弦を張ってある4/4、1/2、1/4、1/8のヴァイオリン・スクロールで 試奏と削りを交互に行い確認しました。 この日、実験に立ち会った5人ともショックを受けるほどすばらしい”響”の変化を経験できました。

 

 

注)6  古い時代の弦楽器資料を大量に調べましたが 八世紀に製作されたと考えられる東大寺・正倉院宝物の 「 螺鈿紫檀五絃琵琶 」ですら中央軸が 『 く 』の字型、つまり ” 非対称構造 ”となっているのを見るに至って … 作業を中止しました。