G.B. Guadagnini の ヴァイオリン ” ex Joachim ” の調整をしました。

2012-7-27

ヴァイオリン製作の歴史において J.B. ガダニーニ(  Giovanni Battista Guadagnini  1711 – 1786 )は重要です。彼は Lorenzo Guadagnini( 1685 – 1746 )の息子として ピアチェンツァ( Piacenza )に生まれました。そして父親とともにスペイン継承戦争( 1701 – 1714 )の後に オーストリア・ハプスブルク家が支配するクレモナ( Cremona )、 1749年頃にはミラノ( Milano )と仕事場を移しながらも弦楽器製作をつづけます。
私は J.B.ガダニーニがピアチェンツァで製作技術をみがいた後にクレモナやミラノでさらに研鑽をつんだことを興味深く思っています。


ピアチェンツァの東方 20㎞程しかはなれていないクレモナは 1509年にミラノ公国の属領となり、 1513年から 1524年がスペイン王国、ついで 1524年からの2年間フランス王の支配を受けました。
そして 1526年 から( アンドレア・アマティが弦楽器工房を設立したのは 1539年 といわれています。)『  スペイン継承戦争 』までの 『 174年間 』という長期間が スペイン王国領でした。クレモナが スペイン領からハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世( Karl VI 1685 – 1740 )が支配するオーストリアの領土となったのは、アンドレアの孫にあたるニコロ・アマティ( Nicolo Amati  1596 – 1684 )が亡くなって23年後のことでした。

『 スペイン継承戦争 』での クレモナは 1701年から1702年の『 クレモナの戦い 』でオーストリア軍に敗れるまでフランスが短期間支配したのちに 1707年にミラノまでの北イタリア やナポリなどをオーストリア軍が平定したことによりハプスブルク家の所領となります。この状況は 1713年の『 ユトレヒト条約 』などにより確定する事となりました。

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1713年の『 ユトレヒト条約 』によるヨーロッパの勢力図(  茶色はイギリス、青はフランス、黄色はスペイン、緑はオーストリア、橙はサヴォイア、深緑はブランデンブルク=プロイセン  )

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この時期の諸国間の勢力図は 1720年にサヴォイア公とハプスブルク家の間でスペイン継承戦争の際に獲得したシチリア島をオーストリアに割譲する代償としてサルデーニャ島をサヴォイア公国が領有することによりトリノを実質的な首都として サルデーニャ王国の成立を認めるなどの動きがありました。

そしてこの後の 1740年にオーストリアでカール6世( Karl VI 1685 – 1740 )が死去し 第4子を妊娠中の23歳となる長女マリア・テレジア( 1717 – 1780 )の皇位継承をみとめないプロイセンなどの周辺諸国が領土を分割しようと攻め込んだことにはじまるオーストリア継承戦争( 1740 – 1748 )が起こります。 それから 1756年にはマリア・テレジアはシュレージエンを奪還する目的で七年戦争( 1756 -1763 )をしかけます。

 

J.B. ガダニーニ( 1711 – 1786 )が生まれたピアチェンツァは 1545年に 教皇領からファルネーゼ家が興したパルマ及びピアチェンツァ公国の都であったそうです。しかし16世紀末に 公国の都をオッターヴィオ・ファルネーゼがパルマへ移したことでピアチェンツァからパルマへの移住が少なからずあったようです。
その後、ピアチェンツァとパルマの地域は
1732年から1859年までブルボン・パルマ家に支配されました。J.B. ガダニーニが生きた時代には公爵家はパルマに暮らし、スコッティ家、ランディ家、フォリアーニ家といった貴族が所有する大邸宅が、ピアチェンツァに建ち並んでいました。

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私はこのようなヨーロッパの状況が父親の死後 J.B. ガダニーニが ミラノから1758年から1762年にかけてパルマに移ったことの遠因だと思っています。私の個人的なイメージとしてはモーツァルト( 1756 – 1791 )の生涯と重なっています。

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J.B. ガダニーニはパルマでブルボン・パルマ家の宮廷弦楽器製作者の仕事をした後に 1770年頃にはトリノに移住し、ここで 1786年に75歳で死去します。トリノではJ.B. ガダニーニとコジモ・ディ・サラブーエ伯爵(  Cozio di Salabue 1755 – 1840 )との書面のやりとりが知られていますが 、それ以外の資料はごくわずかしか残っていない状況です。
この時期のヴァイオリン製作者でおなじく有名な ニコロ・ガリアーノ( Nicola Gagliano  1675 – 1763 )の場合も 長年にわたりナポリで製作を続けていたにもかかわらず 、やはり資料の多くが失われていて研究がなかなか進んでいません。

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私は J.B. ガダニーニの生涯について現在も正確に解明されていないのは彼が度重なる移動をしたためだけでなく当時のヨーロッパ社会の変化の影響がおおきいと考えています。
たとえば 1720年にサヴォイア公国からサルデーニャ王国の実質的な首都となっていたトリノが戦火にさらされた事があげられます。

 

サルデーニャ王国は J.B.ガダニーニが亡くなって間もない 1792年のフランス革命戦争に際しては、フランス革命政府からの反オーストリア同盟を拒否してオーストリア側で参戦しました。 しかし、まもなくフランス軍に征服されてしまい サヴォワとニースを奪われます。さらに一時はピエモンテ地方までを喪失してサルデーニャ島に拠点を移すまで追い込まれます。

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こういう状況を経た 1815年のナポレオン戦争の終結にともなうウィーン会議の決定によってサルデーニャ王国の失地回復が果たされました。また、この際にサルデーニャ王国にジェノヴァが併合されました。

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J.B.ガダニーニに関しての資料不足は 彼が製作したヴァイオリンなどの弦楽器の鑑定を困難にしています。 こういう状況のために弦楽器の専門家が重要な資料として使用しているのが 1949年にシカゴで出版された Ernest N. DORING 著の ” THE GUADAGNINI FAMILY OF VIOLIN MAKERS ”  です。

これは 代表的な J.B.ガダニーニの貴重な弦楽器写真が掲載されていて ガダニーニ一族を網羅する すばらしい研究書となっています。

今日、私の工房に整備のためにもちこまれたヴァイオリンは この本の250ページに写真が掲載されているトリノ時代の名器  ” ex Joachim ” でした。

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J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”

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J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”
私は 表板、裏板のへりの厚さの変化がすばらしいと思います。

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J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”

J.B. ガダニーニがトリノで製作したこのヴァイオリンは、1879年にブラームスのヴァイオリン協奏曲を初演したことで知られる歴史的な名ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(  Joseph Joachim  1831 – 1907 )が使用したものとされています。
まさに名器ですので 少し緊張しましたが 非常に興味深いつくりを確認でき、調整はとても充実感がありました。 所有者の方のお役にたてて 本当によかったと思いました。

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J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”
テールピースの右側の ” パティーナ加工 ” が意思的だと思います。

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J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”


J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”


J.B. GUADAGNINI   Violin  Turin 1775年  ” ex Joachim ”

ヘッド中央の ” 尾根線 ” のジグザグも興味深くながめました。

私は このヴァイオリンは J.B. ガダニーニのヴァイオリンのなかでも傑出した楽器だと思っています。 こういう潜在能力が高いヴァイオリンの調整は とても楽しいです‥‥。

N. YOKOTA

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