ヴァイオリンについてのお話しです。 ( Part 2 )


2013-11-10


ここで弦楽器の指板についてお話ししたいと思います。

言うまでもなく指板は弦楽器の響きにおおきな影響をあたえる部品です。その交換や調整は 担当する弦楽器専門家の腕のみせどころ‥だと 思います。 ところが そういう視線で観察すると 適切な判断がおこなわれたか疑問に感じることがよくあります。下写真の 2002年に都内のバイオリン工房で製作された指板もそうです。

プロのヴァイオリニストが使用するヴァイオリンに取り付けられたものですが‥ 悲しいことに演奏中に脱落してしまいました。取り付けられてから わずか 1年2ヶ月後のことでした。

このヴァイオリニストの方は指板交換は了承していましたが 指板裏の『 特殊加工 』については説明を受けていらっしゃいませんでした。他所の工房でおこなわれた事ですが‥ この状態でしたので 緊急修理を依頼された私は あたらしく指板を製作しなおしました。


この指板の全長は 268.0mmで 幅は 23.4mm – 41.8mmとしてあり、重さは 55.0gでした。 それにしても‥ 私は接着面の40%を” 溝 ” で捨ててしまうのは あまりにリスキーだと思います。

製作者に直接確認した訳ではありませんが、もちろん気持ちは理解できます。 冒頭に 参考例としてあげさせていただいた G.B.ガダニーニが 1757年に製作したといわれている指板のようにオールド・ヴァイオリンの一部ではネック部を中空構造にするために深い溝を彫り込んだものが使用されたからです。

これは 1929年から1936年までパルマの弦楽器製作学校で教師をつとめ、第二次大戦後の1959年から1973年までクレモナの弦楽器製作学校でも指導した ピエトロ・スガラボット( Pietro Sgarabotto  1903 – 1990 )氏が 1962年にクレモナで製作したヴァイオリンの指板です。


このヴァイオリンは50年前に製作された状態で保存されていたものですので指板とネックの接着部に2本のトンネル状のミゾが彫ってあるのはピエトロ・スガラボット氏(  1903 – 1990 )の考えによるものだと思います。 この設定にムリがあることは明らかで‥ このヴァイオリンの指板はすでにトンネルの間部分が奥まで剥がれていて脱落直前でした。

この写真でも指板裏がかなり彫り込んであるのがわかると思います。
そしてこの指板の規格は 全長が270mmで、幅が 23.4mm – 41.9mm でした。

ネックは指板にミゾを彫り中空とすることで程良くゆれます。また指板とネックの接着面にナイフで『 X網目状切り込み 』をいれるとその効果が増すようです。ただ‥ 剥がれない範囲で工夫するのが大切と私は考えます。

因みに音響的にすぐれたヴァイオリンの指板剥がれは下写真のようにネック中央部に発生することが多く、ネックの剛性が高い場合はネック駒側端部に生じることが多いようです。

( 『 剛性 』とは 応力に対しての変形しにくさを表したもので、 板厚の場合 厚くすると剛性は高くなると言います。また構造体の場合は立体的形状によっても剛性は変化します。当然ですが形状を複雑にすることで剛性は高くなります。断面が長方形の場合、部材の断面積が同じであれば、断面の高さをより大きくした方が剛性は高くなります。 )

関係者はよくご存じですが 弦楽器製作をはじめた初心者段階で実習規格として用いたサイズ‥ ヴァイオリン指板で例えれば 全長  270.0mm – 24.5mm – 42.0mm の裏側彫り込みが 125.0mmで スペース”が 9.0mm とか、ドイツの製作学校( Geigenbau-schule )での規格 270.0mm – 24.0mm – 43.0mm 裏側彫り込み 120.0mmで 中空溝( Hohlkehle )の長さは 140.0mmで “スペース”が 10.0mm( ネックまでは 14.0mm )といった規格が弦楽器業界で普及しています。

またこの他にも 英国の製作者規格 270.0 – 24.0 – 42.0 で 裏側彫り込み 128.0mm の”スペース”が 6.0mm、そしてアメリカの製作者規格 270.0 – 23.5 – 42.0 や、270.0 – 24.5 – 42.5 などが知られていますが、これらの規格で指板を製作した場合に新作の胴体とバランスがとれることがあったとしても、指板のゆれと” 対 “で共鳴胴が動く関係で オールド・ヴァイオリンには適合しない場合が多いようです。

そもそもヴァイオリンの指板を 270.0mmとだれが?いつ頃言いはじめたのでしょうか?
私も調べてみましたが 割りと最近‥ 少なくとも第二次世界大戦以降に広がった規格のようです。

 

私の場合にもはじめの10年程の期間は先にあげた指板規格の影響をうけました。
しかし自作ヴァイオリンを “オールド・バイオリン”の復元型としたために、 バロック期から現代曲までの演奏にたえられる指板長で、なお且つ重さを最小限にする必要がありましたので最初( op.1 )が 41.8g で次が 38.2g ‥という具合に” 最軽量指板 ” でヴァイオリンの製作を行ないました。

そして完成したヴァイオリンの響きを検討した結果 41.8g の指板を1年5ヶ月後に 56.5g に交換して、38.2g の指板は3ヶ月後に 58.0g に交換したのち‥ その1年後に再度 46.8g に交換する‥といった具合にヴァイオリン製作を進めることになりました。
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私はあご当てを含むオールド・ヴァイオリンの重さを 2タイプに別けるとすると  軽いタイプが  410 g ~ 450 g で 重いタイプが 450 g ~ 490 g と区別するのが適当と考えていて、自作ヴァイオリンは 410 g ~ 450 g タイプに仕上がるように設計していますので 指板設定もその仕様の響胴と調和するように模索することになりました。

私の自作ヴァイオリンに取り付けた 指板の重さと パーツ無し重量( 弦や駒、テールピース、ペグ、魂柱、エンドピンを はずしヴァイオリン本体だけの重量を計測しました。)と 指板がそれにしめる割合、それから ネック部重量 (  ネック+ナット+指板  )とパーツ無し重量にしめる割合は次のようなものでした。

41.3 g – 333.6 g ( 12.3 % )
46.2 g – 338.8 g ( 13.6 % )
56.5 g – 349.7 g ( 16.1 % ) – 119.2 g ( 34.0 % )
37.7 g – 305.0 g ( 12.3 % )
46.8 g – 312.0 g ( 15.0 % ) – 102.9 g ( 32.9 % )
53.0 g – 320.0 g ( 16.5 % )
58.0 g – 325.0 g ( 17.8 % ) – 135.5 g ( 41.6 % )
58.5 g – 305.0 g ( 19.1 % )
57.0 g – 318.0 g ( 17.9 % ) – 114.5 g ( 36.0 % )
60.0 g – 328.0 g ( 18.3 % ) – 119.4 g ( 36.4 % )
58.0 g – 332.0 g ( 17.4 % ) – 124.3 g ( 37.4 % )

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これらを製作した時期に 私は他のヴァイオリンを整備する際にも軽量タイプを積極的に取り入れましたが 下の写真にある 42.2g、44.8g、53.5g の指板のように不適合と判断して再度 交換したケースがありました。

また‥ 自作ヴァイオリンの研究を本格化させた時期までは下写真の継ぎネックのために切り落とした指板( 中段のネック付き )のように 全長 268.5mm – 23.2mm – 41.6mm で重さが 65.1g のような重いタイプを専ら製作していました。

指板込みのネック厚は 18.3mm – 21.0mm で‥ この規格のネックと指板設定は F字孔回りがよく振動しますので 残念ながら当時は『 良く鳴っている‥。』と誤解していました。

 

 

私事で恐縮ですが‥  転機は 2001年にヴァイオリニストの方のヴァイオリンに継ぎネックをしたことで訪れました。そのオールド・ヴァイオリンは 265.3mm – 22.3mm – 41.9mm で 指板込みネック厚が 17.0mm – 19.0mm の『 古き良き時代 』のネックと指板をもっていました。しかし響胴が激しく『 逆ぞリ変形 』をしており数年前から少しずつ鳴りが悪くなっていました。すでに長期間に渡ってこのヴァイオリンの整備を担当させていただいていた私は この問題を解決するために指板とネックを太いタイプに交換してネック角度をあげて 駒高 30.8mm を 33.0mmに変更することを提案し実行しました。

しかし‥ それは残念な結果につながりました。 そのためにこのヴァイオリンは東京で本人にお渡しして2日後にロンドンのヴァイオリン工房で3日間をかけて再整備をおこなうことになってしまいました。

ロンドンのヴァイオリン工房では 私が 270.0mm – 22.4mm – 42.0mm で ネックの厚さを 18.4mm – 20.6mm、駒高 33.0mmで組み上げたものを 元の規格の 265.3mm – 22.3mm – 41.9mm で 指板込みネック厚が 17.0mm – 19.0mmに削り駒をもとの 30.8mmで組み上げる修理がなされました。

ネック、指板、駒について私が変更した設定をもとに戻した訳ですが ヴァイオリンの響きは驚くほど改善しました。 これは私が継ぎネックをする際に このヴァイオリンのバスバーやブロック設定とネックが押す方向が合っていないのが鳴りが悪くなった原因と判断して胴体中央を向いていたネックを駒部F字孔間の中央に向けてネックを取り付けたのが幸いなことに有効だったからと私は思っています。( このヴァイオリンはオールド・ヴァイオリンによくあるように駒部F字孔間の中央が胴体中央より 2.0mmほど一番線側にずらして設定されていました。たとえば下の楽器のバランスのような感じです。)

 

このヴァイオリン修理の件ではヴァイオリニストの方にたいへんなご心配をおかけしましたので非常に申し訳ない気持ちをいまでも持っています。結果としてベストの状態にたどりつけましたので最終的には解決できましたが、このヴァイオリンを組み上げてからの6日間は私にとってきびしい教訓となりました。そして この時から私は 響胴の特性とネック、指板はつり合う必要があり 特にオールド・ヴァイオリンの響胴の場合は細い規格のネックが望ましいと考えるようになりました。
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この他に私はネックや指板について考える場合 1910年頃に ミラノで  レアンドロ・ビジャッキ(  Giuseppe Leandro Bisiach   1864 – 1945  )氏が製作したヴァイオリンに助けられています。 これは所有者の方が 23年程前に 当時 ‥ 一般的に認識されているレアンドロ・ビジャッキ作 ヴァイオリンの販売価格の2倍くらいの値段で購入されたものです。

すばらしい事に 1910年に ブリュッセルで開催された万国博覧会にイタリアから出品されゴールド・メダルを受賞した製作当初の状況がほぼそのまま保たれています。
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このヴァイオリンは 1910年のブリュッセル万国博覧会の写真と 2012年に私の工房で撮影した写真をつき合わせると 指板の左右表板の『  演奏キズ  』や 表板C型部センター・バウツ付近の『  弓の打撃痕  』や それ以外のへりについている『  キズ  』も製作時の加工によるもので、裏板やヘッドのニスが剥がれている『  景色  』も製作時に加工されたことが確認できます。
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ちなみにブリュッセル万国博覧会は 1910年 4月23日から 11月7日までベルギーの首都ブリュッセルで開催された国際博覧会で 会期中に 1300万人が来場したそうです。 この博覧会にイタリアから出品されたレアンドロ・ビジャッキ(  Leandro Bisiach  1864 – 1945  )が製作したヴァイオリンのラベルには 1910年にミラノで製作したと書かれています。 これはおそらく 4月からの万国博覧会出品のために前年にはあらかた完成していたヴァイオリンに このラベルを貼って仕上げたものと 私は推測しています。

私はこのヴァイオリンを 100年前の『  標準型  』として参考にしています。 ネックや指板などもとても興味深い設定です。

Giuseppe Leandro Bisiach (  1864 – 1945  )  /    violin   1910  Milano

表板 サイズ          351.0 mm  –  165.2 mm  –  107.6 mm  –  205.0 mm
アーチ 17.0 mm
裏板 サイズ          351.5 mm  –  165.7 mm  –  107.6 mm  –  204.6 mm
アーチ  16.6 mm
ネック長さ      129.0 mm
ストップ          192.5 mm
ネック高さ( 表板からトップ・エッジまで )E-side 6.2 mm :  G-side  6.5 mm
(  指板エッジまで  )                  E-side 10.1 mm  :  G-side 10.5 mm
ネック厚さ  17.0 mm –  20.2 mm
指板端の高さ(  表板から  )   17.9 mm
指板                23.1 mm –  42.3 mm –  266.5 mm
ナット(  1-4 スペース )     16.3 mm
サドル           34.5 mm( 7 – 20.5 – 7  )、H 5.0 mm( 1.0 )、D 5.5 mm
F字孔間       39.4 mm
F字孔長さ    L 68.5 mm  –  R 69.0 mm
ボタン           20.9 mm  –  H 12.3 mm
側板 Eサイド    N 28.2 mm  –  28.8 mm  –  C 29.4 mm  –  C 29.3 mm  –  29.4 mm
側板 Gサイド    N 28.3 mm  –  28.2 mm  –  C 29.2 mm  –  C 29.4 mm  –  29.4 mm
ヘッド      106.5 mm (  38.0 mm  –  68.5 mm  )
アイ      39.5 mm
ペグ・ホール位置  N-side 16.0 mm  – 14.0 mm – 23.5 mm – 13.0 mm
パーツ無し重量     374.0 g

 


こうして私は写真上段のネック規格 269.5mm – 21.6mm – 42.0mm の ネック厚さ 17.1mm – 19.2mm 、指板の重さ 50~61gを目安として自作ヴァイオリンを製作するようになりました。

さてここで 指板やネックを製作するときに重要な『 指板のゆれ 』を意識していただくために 16世紀半ばから18世紀半ばまでに盛んに製作されたオールド・ヴァイオリのネックと指板をみてください。

バロック期の指板幅はトレンドの見きわめが難しいですが 私は ナット側が 23.0 mm ~ 25.5 mm で指板端が 40.0 mm ~ 42.0 mm くらいを標準と考えています。 ちなみにクレモナのストラディヴァリの型紙は 指板長さ 213.0 mm で幅が 25.5 mm の 40.0 mm となっているようです。 下の写真は参考のために 1990年にヴェネチアで開催された  ” STRUMENTI MUSICALI DELL’ISTITUTO DELLA PIETA DI VENEZIA ” の展覧会カタログより引用させていただきました。


展示番号   No. 5      violin    1715年頃製作

ネック 長さ        126.0 mm
振動弦長         321.5 mm
指板端 高さ        11.0 mm
駒高さ            27.5 mm
指板 長さ         202.0 mm
指板 幅     24.0 – 40.0mm
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展示番号   No. 1      violin    1690年頃製作

ネック 長さ        137.0 mm
振動弦長         332.0 mm
指板端 高さ        16.5 mm
駒高さ            32.0 mm
指板 長さ         249.0 mm
指板 幅     21.7 – 42.0 mm

コレルリの時代にヴァイオリンは上の写真にあるようなネック部や指板設定で演奏に使用されていて、これは下写真のように モーツアルト(  Wolfgang Amadeus Mozart  1756 – 1791  )の時代まで続きました。

このほかの参考データとして 1998年に BRITISH VIOLIN MAKING ASSOCIATION が ロンドンで開催した “  400 YEARS OF VIOLIN & BOW MAKING IN THE BRITISH ISLES  /  The Catalogue of the 1998 Exhibition  ” の 403ページより 製作時の状況を留めていると考えられる10台のヴァイオリンの指板データを下にあげさせていただきます。

指板 長さ  :    幅
指板の長さをこの10台でみると 216.0 mm ~ 262.0 mm となっていて 平均 254.0 mm です。 私は ヴァイオリンの指板は初期に 213.0 mm ~ 215.0 mm くらいが製作され、それがすこしづつ変更されて 最終的に現代型の 268.0 mm ~ 270.0 mm にたどり着いたと思っています。

指板の幅については 上記の10台がナット側 22.0 mm ~ 26.3 mm で平均  23.7 mm で 駒側端が 38.6 mm ~ 44.0 mm の平均 41.9 mm です。 . . 19世紀になると ニコロ・パガニーニ ( Nicolo Paganini  1782 – 1840 )の活躍とともにネック部の角度が変更されたり、指板は 重い黒壇を積極的に使用する設定へと変化していく事となりました。

イタリア・ジェノヴァ 生まれの パガニーニは ナポレオンの妹のエリーザ・バチョッキ ( Elisa Baciocchi )が 1805年にトスカーナ大公妃として設けたルッカの宮廷における独奏者として演奏活動をはじめます。


1827年7月12日( 木曜日 )プログラム

そしてナポレオンが失脚するとパガニーニは独奏者としての活動をはじめました。彼は 1809年より北イタリアからはじめた演奏会の開催場所をイタリア全土にひろげ、1828年にはウィーンで成功させ ついでプラハそしてドイツ各地で開催した後の 1831年には 3月から4月にかけて有名なパリ・デビューを成功させ 5月にロンドンに渡り翌年にかけて イギリス、スコットランド、アイルランドでも大成功をおさめました。


1831年4月17日( 日曜日 )

彼の積極的な演奏活動は 1834年9月まで続けられ 多くの聴衆が鮮烈な印象を持つこととなりました。 パガニーニはこのヴィルトーソとしての演奏活動によって ” 近代バイオリン演奏技法 ” を完成させた人物として 記憶されました。

    

この時期に 上写真の ピエトロ・ジャコモ・ロジェーリ( Pietro Giacomo Rogeri  1675  – 1735 )が 1715年頃に ブレッシア( Brescia ) で製作したとされるヴァイオリンのように 数多くのヴァイオリンのネック部に改良が加えられバロック・ヴァイオリンのネック、指板設定から モダン・ヴァイオリン設定へと改変する流れが確立しました。

 

このネックと指板の近代化は オールド・ヴァイオリンのほとんどで実行されました。

たとえば下写真のヴァイオリン・ネックは 1900年代初頭に切り落とされて継ネックされたストラディヴァリウスのものです。 このヴァイオリンは ストラディバリウス ” Soil ” と呼ばれている 1714年に製作されたもので ユーディ・メニューイン(  Yehudi Menuhin  1916 – 1999  )さんが 1950年から1986年まで使用し その後はイツアーク・パールマンさん(  Itzhak Perlman 1945 –   )が使用しているので有名です。

これは現在クレモナの Stradivari Museum に展示してありますが、わずかな例外を除いてほとんどの名器のオリジナルネックは全部または一部が切り落とされ失われました。 このときに指板も同じ運命をたどりました。

http://musei.comune.cremona.it/PostCE-display-ceid-4.phtml

 

柳材 (  およその比重  :   ポプラ  0.4~0.45  /  ばっこ柳 0.4~0.55  /  しだれ柳 0.5~0.6  )

黒壇 (  およその比重  :   1.0~ 1.2    ) 楓材 (  およその比重  :   0.65~ 0.7  ) 象牙 (  およその比重  :   1.85~1.9   ) スプルース(  ヨーロピアン・スプルース ,  シトカ・スプルース ,  ジャーマン・スプルース  /   およその比重  :   0.35~0.45  )

この中で象牙が黒壇よりかなり重いことは 特記すべきことだと思います。 古楽器をながめると 象牙のこの特質がかなり意識されて部材や あるいは管楽器のように本体としてまで利用されていますので 検証してみると細やかな工夫が発見できるのではないでしょうか ‥ 。

Willow (  Specific gravity of approximately  :   poplar  0.4~0.45  /  S.bakko 0.4~0.55  / Weeping willow 0.5~0.6  ) Ebony (  Specific gravity of approximately  :   1.0~ 1.2    ) Maple (  Specific gravity of approximately   :  0.65~ 0.7  ) Ivory   (  Specific gravity of approximately  :   1.85~1.9   ) Spruce(  European spruce ,  Sitka spruce ,  German spruce  /   Specific gravity of approximately  :   0.35~0.45  )

 

このネックと指板の交換技術が普及した結果 ‥ 現代の弦楽器工房では 下の写真のようにネックの幅や厚さを変更する必要を感じた場合に オリジナル・ヘッドを保持して改変できるため継ネック(  Neckgraft  )が 多用されるようになりました。


継ネックで交換修理するために切り落とされたネック写真。

 

さて指板ですが‥ ヴァイオリンなどの指板を製作する場合の基本は『 回転運動などの揺れがスムーズにおこる設定になっているか?』です。

私は リュートやヴィオール族などの6本以上の多弦楽器から 4本弦のヴァイオリン族が生まれたのは響胴の共鳴音をふやすために 多弦楽器が陥りやすいアイロニカルな状態 ( 響胴の剛性を工夫しないと、弦の数が多いことで振動エナジーは増しますがみかけの剛性 注 1)が高くなってしまうため理想的な響きが発生しにくい状況となります。)を避けるための工夫からだったと考えています。

ヴァイオリンは 16世紀半ばの弦楽器製作者が 4本弦とすることで誕生しました。 これには『 開断面 』であるサウンド・ホールの工夫によって F字孔端が発生させる『 波 』が増やされ、それとともに『 ねじり 』の利用により 波源となる表板の振動板ゾーンに共鳴現象を呼び込む 『 ゆるみ 』を発生させるという‥ 響胴の変形しやすさの工夫が 決定的な役割をはたしたと 私は思っています。

ですから指板は 響胴の『 ねじり 』や『 ゆるみ 』をサポートする運動ができることが重要と考えます。 ためしてみれば分ることですが 指板がスムーズに回転運動や並進運動をした場合 ヴァイオリンの音色は良くなります。

 

注 1)『 みかけの剛性 』とは『 幾何剛性 』ともいわれていますが 部材に張力をくわえた状況で荷重を与えたときに変形が小さくなる現象をさします。加える張力が大きくなると変形が小さくなる( 剛性が高くなる )ため 弦楽器の場合は響胴のレゾナンス( 共鳴音 )が減ってしまいます。 . .

響胴の響きに対する指板の回転運動などの影響は 指板の規格だけではなく上写真のような響胴との角度などの位置関係や、下写真に書き込んであるように弦の張力差 注 2)などいくつもの条件の影響を受けていますので注意深い考察が必要です。

 

注 2) 現代においてヴァイオリンは高音側と低音側の大きな張力差を活用しています。これを下の写真のドミナントとゴールドブロカット0.26E線で見てみましょう。

上図に白文字で書き込んでありますが皆さんおなじみの トマスティーク・インフェルド社のヴァイオリン弦 ドミナントはその袋の開口部に設計張力が印刷されています。 それは G線 4.4㎏、D線4.1㎏、A線 5.5㎏ となっていてゴールドブロカット0.26 E線には表示がありませんが 約 7.5㎏といわれています。

これを『 ねじり 』の動きが見えやすいように低音弦と 高音弦の 2本ずつのグループとして考えると G線、D線側が 8.5㎏ で A線、E線側が 13.0㎏ ですのでヴァイオリン左右の張力差は 4.5㎏ であることがわかります。

もし上図のヴァイオリンにトマスティーク・インフェルド社の ヴィジョンのE線( 8.0㎏ )を張れば 張力差は 5.0㎏になり、ゴールドブロカット 0.27 E線( 約8.5㎏ )にすると 張力差は 5.5㎏ に達します。 私は ヴァイオリン・ショップで ドミナント、ゴールドブロカット 0.27 E線の組み合わせが多用されたのは この組み合わせがもつ『 ななめ力 』( 張力差 )によって生み出される ” 響き “が評価されたためだったと思っています。

 

現代は多種類の弦が発売されていますので ヴァイオリンと弦の相性として『 ねじり 』の動きの要素を知っていただくために 比較対象として張力の強い弦からトマスティーク・インフェルド社の ペーター・インフィールドの張力値をあげてみます。

ヴァイオリン弦のペーター・インフィールドは G線 4.7㎏、D線 4.8㎏、A線 5.5㎏、E線 8.3㎏ で 合計 23.3㎏の張力とされています。このセットをヴァイオリンに張ると 上図に書き込んだように G線、D線側が 9.5㎏ で A線、E線側が 13.8㎏ もの張力が得られますが 左右の張力差はドミナントより少ない 4.3㎏ となってしまいます。 この結果 ストロングな響きが生じ 音が明快になるヴァイオリンがある反面で、ヴァイオリンの構造と相性が悪い場合は 『 ねじり 』の動きが減ったことで バランスがくずれ‥ 例えば 中二本( D、A )の音がつまったり、ヒステリックな鳴り方をしてしまったりすることもあるようです。 私は ペーター・インフィールドは 弦の振動によってうまれる ” 音場感 ” が すばらしいので個人的には良い弦だと思いますが どの楽器でも‥ ではなく響胴との相性をよく考えて使用することにしています。

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ここまでお話ししましたように ヴァイオリンは響胴内部の空気が振動することで生じF字孔から拡がるあの響きを目的として誕生した弦楽器ですから 指板を製作する場合にも 響胴の特性を把握する必要があります。 私はこれを『  ニスのひび割れ  』などから分析しましたので 同じ手法を皆さんにもお勧めしています。

これは はじめて私がその視線でニスひびをながめた 1998年製 の 1/2 サイズ ヴァイオリンの写真です。

 

    

下のスケッチは このヴァイオリンのニスひび割れを資料として残すために私が 2005年に記録したものです。

【 ニスひび割れ記録図 】

私は こうした表板の『  ニスのひび割れ  』だけでなく 他の部分にはいった痕跡までよみあわせると 弦楽器の発音のしくみを証明する状況証拠となると考えています。
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上写真は 私の工房の顧客の方が 1970年に歯科大学のオーケストラに入る時に新品で購入された カール・ヘフナー社製のチェロを、 私の工房で 2006年に撮影したものです。

昔のカール・ヘフナー社製品は塗装が厚くその上に硬いという特徴をもっていました。 このチェロの塗装にも 土台の木材が弾きこみによって動いた痕がひび割れとして残っています。

その 黒いスジ状の 『 ニスのひび割れ 』は ネックを中央に 『 X 』 字型に入っているのが見えると思います。 これは弦の揺れによってネックが胴体をねじった痕跡です。

この楽器に限らずチェロも ヴァイオリンも胴体が ねじれながら振動して共鳴音が 豊かになるように設計されています。下に おなじタイプの 『 ニスのひび割れ 』の例として 私が販売した ミッテンバルトで  1997年 に製作されたチェロの写真をあげておきます。

当然ですがこの ” ねじり ” は 上下ブロック間の関係で発生していますので 反対側のロワーブロック側でも カウンター型の動きが発生します。 下のビオラのエンドピンホールからのニスひび割れは このために入りました。

これは先ほど参考のためにあげさせていただいた【 ニスひび割れ記録図 】の a. ゾーンの『  うろこ状  』ニスひび割れとおなじタイプのひびがはいった ビオラの側板写真です。

これらをヴァイオリンの響胴の動きの反映として捉えると、指板が回転運動や並進運動の合わさった揺れかたで 響胴と” 対 “として揺れるイメージを持ちやすいと思います。このイメージがあるとバロック型の指板が 全乾比重が 0.4くらいのスプルースを芯として外側におおよその比重が 1.1の黒壇を貼ることで激しい揺れを生じさせるしかけとなっていることがご理解いただけると思います。

     

私は 弦楽器の指板は このように駒側に突き出た側が回転するように揺れやすいことに加えて適度な『 手招き運動 』が可能で、なお且つ 指板の尾根部に適度な『 中央軸 』を保てる変形により響胴の響きをサポートする仕組みになっていたと考えています。

ここで 下左側の 1525年頃と 右側1607年の リラ・ダ・ブラッチオを見てください。 5本の演奏弦の左外にある2本は響胴の ” ネジレ ” を増やすために取り付けられていされたと私は考えています。ネックはもともと少し 側を向いていますが 2本の ” レゾナンス弦  ”  の張力をあげるとネックがより 側を向くことでヘッドがより激しく揺れます。これにより 響胴が出す低音域の明瞭感が増すと私は思っています。

                

 

さきほど参考にあげさせていただいた Jacob Stainer( 1617 – 1683 )のヴィオラ・ダ・ガンバ ( Bass Tenor )のネック角度をもう一度みてください。

私が ネックの下端がしっかり中央より 少し側を軸( 白線 )として圧力を加えるように 2.3度の角度だけ左回転してありアッパー・バーツのクロスバーも軸を意識して配置してあると解釈した楽器です。

 

そしてこの16世紀にイタリアで製作されたリュートのブロックも シュタイナーの ヴィオラ・ダ・ガンバと同じく ネックの下端 ( ライン )と垂直の軸( 白線 )が中央より左回転で2.3度 側に向いているようです。

 

下写真は前項でご紹介した Carlo Antonio Testore ( 1693 – 1765 )が 1740年頃製作した表板が一枚板のヴァイオリンです。 このヴァイオリンは ネツク部中央の の ” 針痕 “から 7個ある ” 針痕 ” をつなぐ白線をひくと年輪と並行した 左回り 1.6度 の『 軸線 』があらわれます。

このように一枚板で完成度の高いヴァイオリンを製作するには ” 木理( 材木の特性 )を把握する特別な能力 ” が必要となります。このため一般的にヴァイオリン族では表板に 二枚の板を接着し特性を整えたものが使用されています。これは木工の世界で ” 木伏技術 ” とよばれています。

オールド・ヴァイオリンなどでは この表板の継ぎ目( ジョイント)も『 最良のネジレ 』を意識して 設定されています。 この例として下に3つのタイプをあげました。

  

上左側に多数派の ” 左回り型( 反時計回り型 )” の例として Nicola Gagliano ( 1675 – 1763 )が 1725年頃製作したヴァイオリンをあげました。 これは 0.4度左回しで作られています。中央に ” 右回り型 ” として その息子であるガリアーノ兄弟( Giuseppe Gagliano 1726 – 1793 , Antonio Gagliano 1728 – 1805 )が 1754年に製作したヴァイオリン写真を置きました。 これはジョイントが右に0.6度回してあります。

そして その右側には ジョイントを中央より右側においた ” 完全非対称型 ” として Barak Norman 工房で 1700年頃に製作されたビオラをあげました。 これはジョイントを非対称に置いただけでなく 0.5度 左回しにしてあります。

さて、ここで究極の ” 木伏技術 ” の例を ご紹介したいと思います。 まず 1998年にロンドンで Peter Biddulph さんが出版した 25台のジュゼッペ・ガルネリ( 1698 – 1744 )の原寸大写真集 ” Giuseppe Guarneri del Gesu “の 161ページを参考資料として挙げさせていただきます。

タイトルが ” Dendrochronologies of Twenty-five Violins by Giuseppe Guarneri del Gesù “ Measurements and Analysis by Dr. Peter Klein となっています。 これは ピーター·クラインさんが 担当して25台の ガルネリ・デル・ジェスのヴァイオリン表板を年輪年代学により研究した結果が記載されているものです。


現代ではヴァイオリンを製作する場合‥ 材木のスプルースを上からみて放射状に切断して、 その板の外側どうしをジョイントすることで左右対称の木組みが なされているために表板の年輪は左右で違ったとしても数本以内で製作されています。

ところが ピーター·クラインさんのこの研究では、 これら25台のガルネリ・デル・ジェス( ロワー・バーツ部での左右の年輪合計は 131本から 260本です。)のうち 16台が ジョイントされた左右の年輪数が 10本以上( 10 ~ 63本 )も違うことが指摘されています。

これに ” 年輪年代学 ” の材木の時代考証をあわせて考えると ガルネリ・デル・ジェスは 積極的に ” 木理 ” を工夫した ” 木伏技術 ” によって左右が ” 非対称 ” の振動板を製作したと‥ 推測できると思います。

私も 表板がジョイントされたオールド・ヴァイオリンの年輪などを調べたことが何度もありますので あきらかに左右の材木が違う組み合わせで製作されたヴァイオリンなどを何台も知っています。 客観的に考えれば ” 一枚板 ” で『 柾目( まさめ )』だけでなく『 板目( いため )』の木取りをした弦楽器がいくつも残っているのですから なんの不思議もないはずですが、19世紀あたりからの ” 習わし “を学んだ 『 専門家 』には頭が痛い技術です。

私はジュゼッペ・ガルネリは ” 強いネジレ ” を生み出すためにピーター·クラインさんが指摘したように 表板に用いた左右の板は ” 木理 ” を考慮して別々の時期に伐採された木材をジョイントして準備した ” 疑似的な一枚板 ” を愛好していたと思っています。

 

もうひとつ ” 木伏技術 ” の好例を 1990年に Brescia で出版された ” Gasparo da Salò e la liuteria bresciana tra Rinascimento e Barocco ” Flavio Dassenno / Ugo Ravasio の57ページより引用させていただきました。

私は このチェロの表板の 『 焼キズ 』はガスパロ・ダ・サロ( c.1542 – c.1609 )さんが製作したときに ” 響き ” の調整で加工したものだと考えています。 特に斜めにいれられたスジ状の焼キズには スプルース材の特性をより複雑化して意図した ” 響き ” を実現しようという強い意志を感じます。 私はこれも最高レベルの 『 木伏技術 』のひとつだと思っています。


現在、ワシントンのスミソニアン博物館で 私とおなじことを考えた製作者が作ったチェロを見る事ができます。

上の写真はそのチェロを参考にさせていただくために 横山進一さんが 1986年に学研より出版された ” The ClassicBowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の132 ページより引用させていただきました。

スミソニアン博物館に展示されているオールド・ヴァイオリンなどの楽器の中で、1979年に亡くなったチェリスト、 エンニオ・ボロニーニ さん( Ennio Bolognini 1893 Buenos Aires – 1979 Las Vegas , U.S.A. )が使用していた この『 Signatured 』 チェロ は ひときわ異彩を放っています。

エンニオ・ボロニーニ さん( Ennio Bolognini 1893 Buenos Aires – 1979 Las Vegas , U.S.A. )は30 歳の 1923 年に故郷のブエノス・アイレスを離れてアメリカに渡り、1929 年にはアメリカの市民権を得るとともに多才な活動を続けて ラスヴェガスで87 歳で亡くなられました。 彼は 23 歳のときに 52 歳となったイタリア系移民の弦楽器製作者のルイジ・ロヴァッティ さんに このチェロを製作してもらい終生このチェロを演奏し続けます。

 

Luigi Rovatti 1863 Pavia , Italy – 1931 Buenos Aires

1880 年頃からジェノヴァで Enrico Rocca ( 1847 Turin – 1863 Genoa – 1915 )に学び 結婚した1884 年にトリノの展覧会で銅賞を受け、24 歳となる 1886 年にアルゼンチンに移住しました。 1886 年 11月に彼らはブエノスアイレスに着き 住居を構えました。

移民としての苦労の末 36 歳となった1898年10月にブエノスアイレスで行われた国内展示会で、ルイジ・ロヴァッティ さんのヴァイオリンとチェロは金賞を受賞しました。 その後も 1910年には 100年祭工業博覧会で出展したヴァイオリンとチェロが金賞を受賞するなどで 製作者として知られた存在となります。 そしてルイジ・ロヴァッティ さんは 1931年1月に65歳でこの世を去りました。
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私はこのチェロは ガスパロ・ダ・サロさんのチェロの『 木伏技術 』を参考に製作されたと考えています。『 Signatured 』の斜めのサインとガスパロ・ダ・サロさんのチェロのスジ状の焼キズをくらべてみてください。 『 Signatured 』 チェロの場合は 縦長のスジ状に先に焼いて加工されたのが サインのアンダー・バーとしてより積極的に活用されて ‥ その結果 サインが表板の全面に ” 書かれた “( よくみると同じ人物によったと考えられるサインが、焼けたコテ状の工具でいくつも刻まれています。)チェロの誕生に繋がったのではないか と私は考えています。

この 『 Signatured 』の中には次の書き込みがあるそうです。 Te Niglior Violoncello del mondo. Il mio padrone e Ennio Bolognini. Cuando Studia e mi suona bene.

( Best Violoncello of the world for my friend Ennio Bolognini. When ( one )studies, I sound good. )

私は When ( one )studies, I sound good. を『 名器に学べば、わが音色はよくなる。』 と 書いてあると思っています。

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それから 私は『 オールド・バイオリン 』の真贋をみるときには必ず裏板のセンター・バーツ上部の工具痕跡を確認します。 ここには下写真の アントニオ・ストラディバリが 1716年に製作したとされる ” Oppenheim “や、1719年製作の ” Rayssac “のような加工が加えられていることがあるからです。


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私は『 オールド・バイオリン 』にみられるこの工具痕跡は弦をはって響きを確かめる最終工程で施されたと考えています。 それは響胴の構造から考えて裏板中央側の剛性が高くしてあるアーチ部と中の空気を振動させるためにゆれることが必要なへり部分の駆動性の向上が目的と推測できるからです。


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この工具痕跡はクレモナのみではなく例えば上写真の ローマで弦楽器製作をおこなった Giulio Cesare GIGLI( worked at Rome, 1730 ~ 1762 )が 1740年に製作したヴァイオリンでも確認できますし、下写真のクレモナとブレシアで活躍した G. B. Rogeri  の製作したヴァイオリンでも確認できるものがいくつもあるように17世紀から18世紀にかけての弦楽器製作の名工によるヴァイオリンでは珍しくありません。

This photo you can see Rogeri’s slightly fuller arching, taking influence here from the Brescian school. This is unlike his teacher Nicolo Amati’s work, which contrastingly shows a wider channel and a more pinched arching. — Florian Leonhard Fine Violins

私の経験では この工具痕跡はアーチがへり部分ギリギリまでせまっているオールド弦楽器によく見られました。

https://www.facebook.com/#!/photo.php?fbid=618932694803400&set=a.326370747392931.88499.325883950774944&type=1&theater


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この 1692年製作のヴァイオリンは G. B. Rogeriが Bresciaに移る前の Cremona 時代のようですね。
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それから‥ 私は裏板を見るとき2枚剥ぎの場合はジョイントの角度と位置を確認することをおすすめします。
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オールド・ヴァイオリン 裏板の ジョイントの位置取りの参考例としてイギリス・王立音楽院コレクションの資料集として 2000年 に David Rattray さんが出版した ” Masterpieces of Italian Violin Making ( 1620 – 1850 )- Important Stringed Instruments from The Collection at The Royal Academy of Music  ” の 31 、 35 ページを引用させて頂きました。

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両方とも アンドレア・ガルネリ Andrea Guarneri ( 1626 – 1698 )が製作したもので 左側が 1665年の製作で 右側が1691年とされています。 この写真をよく見ると左側のヴァイオリンのジョイントは少し時計回りにしてあり、 右側は 反時計回りに位置取りがしてあることがわかります。

どこの国でも優れた木工職人は技術上の奥義( おうぎ )を問われると 『  それは木のくせを読み切り活かすことです。』と答えます。
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その参考例として私が思いだすのは ヴァイオリン奏者で ビオラの演奏でもよく知られるうえに指揮者としての活動も行っているピンカス・ズーカーマン( Pinchas Zukerman  1948 –  )さんが使用している上写真の胴長 416mm のビオラ裏板です。
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ニュルンベルグの Leopold Widhalm  ( 1722- 1786 ) が 1769年に製作したヴァイオリン裏板の木取りも見事です。


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私がこのように裏板の木取りを細かく確認するようになったのは  Giovanni Battista Ceruti ( 1755 – 1817 )  が 1791年にクレモナで製作したヴァイオリンとの出会いで衝撃を受けたからです。私にとってこれは非常に興味深い楽器でした。

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『 オールド・バイオリン 』が製作された時に‥ 裏板について言えば もともと樹木はネジレながら縦に成長しますので ” 木取り ” の段階で ” 木理 ” が慎重に検討されたようです。そしてジョイント加工によって木材に意図的なバランスを生じさせる ” 木伏技術 ” を用いるか、もうひとつの方法である 一枚板のくせを読み切って ” 木組み ” で調和させる技法を選択するかが選択されたと 私は思っています。

      

余談ですが‥ これらをヴァイオリンで観察するときに ジョイント型は意図的に組まれているのが容易に判断できますが 一枚板の場合は 年輪を目で追っても傾きが判然としないことが よくあります。 この一枚板のくせを読み切る助けとなるのが 裏板のひび割れです。

         

年輪や ” 杢( もく )” そして柾目方向の” 符( ふ )” などの 『  木理  』がわかりにくい 一枚板の裏板でも ひび割れが一筋入っているだけ木組みが判断しやすくなります。
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上左側は 横山進一さんが撮影し1986年に学研より出版された ”The Classic Bowed Stringed Instruments from the Smithsonian Institution ” の23ページより 1679年に制作されたストラディヴァリウス “ Parera ” の裏板写真を引用させて頂きました。 裏板は一枚板ですが 軸が 6.9度程 反時計まわりにしてあり、表板が 2.9度程 回転してあるので 表板と裏板の角度差は 4.0度 のようです。  このヴァイオリンは軸を大きく回転させた 好例なので覚えておいていただきたいと思います。

     

このストラディヴァリウスのように積極的な年輪の傾きがみえれば判断は簡単なのですが、残念ながらほとんどのオールド・ヴァイオリンはその右側の二枚の写真ような注意深い観察が必要な組み方がされています。 上中央の写真は Nicola Gagliano ( 1675 – 1763 )が 1725年頃製作したヴァイオリンの裏板ですが 、少し反時計回りにした上で 中央より向かって少し左側にジョイントが位置づけられています。 そして右側に同じようにほんの僅か反時計回りでジョイントを中央より左側 ( ボトムでガリアーノはジョイントがセンターライン右 1.2mmで 右側のオールドヴァイオリンはセンターライン左 3.4mmとなっています。)に設定されたヴァイオリン写真を並べました。

 

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この計測図の上中央の 『 c. 』 と接している縦線がセンターラインです。 その 3.8ミリ左にあるのがジョイントラインでボトムでこの幅は 3.2ミリとなります。 この裏板のネックブロック部の板厚がわかる写真をその下に並べました。

板厚にこれだけ差が付いていれば 『 動き方、震え方 』 に大きく影響があるのは当然ですね。 因みにカットされている部分は 左端の最薄部で 1.75ミリ、中央のジョイント部が 3.0ミリ そして右端が 2.75ミリです。 ジョイント部に 板厚を工夫して ” 節 “が設定されているのは他のオールド・ヴァイオリンでもよく見られます。
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このオールド・ヴァイオリンには 差しネックを残したと考えられるブロックが入っていました。 下採寸図にあるように 表板部は 半径16ミリにプラス 2ミリで 18.0ミリ厚で幅 32.0ミリ。 そして裏板側は 厚さが 21.5ミリ で 幅 28.0の 『 台形状 』ながら裏板ジョイントの ” 節 “に調和するように合せてあります。 ブロックの高さは 28.5ミリで 下から12ミリの位置に 目視ではなにが入っているのかわかりませんがピンらしい痕跡があります。

      

とにかくこれだけ ” 非対称 ” に設定すれば 確実に 『 ネジレ 』が見込める‥ という事はみなさんにご理解いただけると思います。


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さて、指板を製作するのに必要ですので‥ ここで私が弦楽器の研究から導いた オールド・ヴァイオリンの製作者が持っていた技術で『 失われた技術 ( Lost technology  )』 のひとつをお話ししたいと思います。

それは『 指板とネック そしてヘッドが 響胴の響きをサポートするために” 二重振り子的な運動 “ができるように設定する。』ということです。 私は魅力的な響きが発生するように当時の製作者はヴァイオリンの『 任意の点 』に関節のような役割をもたせたと考えています。

二重振り子の運動は下のグラフィックのようなカオス的運動です。


三重振り子のカオス的な運動 ( 1分49秒 )
http://www.youtube.com/embed/A1R_aQ-JHRY

関節がふえて‥たとえば七重振り子だと下のような運動となります。 私は このシュミレーション画像で オールド・ヴァイオリンの ネックとペグボックス、スクロールの揺れを思い浮かべます。

( 6分40秒 )http://youtu.be/XSuQYRRkRyQ

私は このような揺れをスムーズに生みだすために 19世紀の後半までは指板重心とネック端( a.)を合わせた上で『 任意の点 』に『 関節 』の役割をはたせるように工夫した弦楽器製作者が多かったと考えています。

 

私が『 オールド・バイオリン 』などのヘッドのゆれ易さのために選ばれた『 任意の点 』としてまず着目したのはヘッドとネックの接合部です。

これは この投稿のはじめに ” 非対称” のお話しのなかで例示させていただいた 若きオランダの画家ヤン・リーフェンスが 1625年頃制作した絵画が私にとって非常に印象的だったからです。


Gasparo da Salo  ( 1540 – 1609 )   Brescia ” Cetera “   1560年頃製作
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Jan Lievens  ( 1607 – 1674 )   ” The violin player ”  1625年頃製作された絵画抜粋
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William  Forster Ⅰ  ( c.1713 – 1801 )   England    1740年頃製作

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ヤン・リーフェンスがモチーフにしたヴァイオリンはヴァイオリンが誕生した時期に ガスパロ・ダ・サロが 1560年頃製作した シターン・ヘッドのペグボックス両壁のようにエッジが キリット仕上げられた作りから アンドレア・アマティ ( c.1505 – 1579 )が 1566年頃製作した ” The charles Ⅸ of France “ のようにエッジが丸いタイプとなる移行期に製作されたヴァイオリンと考えられます。

私は『 オールド・バイオリン 』の多くは上写真の William  Forster Ⅰ  ( c.1713 – 1801 ) が製作したヴァイオリンの ヘッドとネックの接合部に類似した設定になっていたと考えています。そして極端な場合には下写真のヴァイオリン・ヘッドくらいの工夫がされた弦楽器が多数存在したと推測します。

 

                            
Brescia school  Violin ca. 1630          at the National Music Museum


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個人的なことで恐縮ですが 私が実際にこの接合部の設定を記録しはじめたのは16年程前に 製作時のネックがそのまま残された ジロラモ・アマティⅡ( Girolamo Hieronymus Amati Ⅱ  1649 – 1740 )のヴァイオリンに出合ってからです。

このヴァイオリンは 1692年にクレモナでジロラモ・アマティⅡによって製作されたもので、継ぎネックがヒール側 ( Heel )であったおかげでヘッドとネックの接続部が製作時の幅と考えられる 22.6mmで保たれていました。

このようにヘッドとネック接合部がオリジナル状態でのこされた弦楽器は非常に貴重だと私は思います。ネック接合部のヘッド端をこのように薄く製作する技術は下写真のレアンドロ・ビシャッキの1910年製ヴァイオリンがあるように ‥ 20世紀初頭まで続いたようです。

因みに 私はこの部位の加工技術は 1930年頃までは継承されていたと思っています。それは私にとって 1902年頃にフランスで製作されたと考えられるヴァイオリンのネック折れ修理が衝撃的だったからです。

     

このヴァイオリンはジェローム・チボヴィーユ・ラミー( Jerome Thibouville Lamy 1833- 1902 )が設立した  J.T.L.社( Jérôme Thibouville-Lamy & C. ) のフランス東部 ミルクールにある楽器工場で 1/4サイズ( 267.0mm )の上級品として製作されました。

    

この J.T.L. ” Le Parisien ” シリーズは 1901年版カタログで 1/2と3/4サイズが登場し、1/4サイズは 翌年の 1902年版と1907年版に掲載されているのを私は確認しましたが 下にあげさせて戴いたように1912年版では すでに製造が中止されたのがわかります。

それから関連資料が少ないため断片的な情報による推測ですが 私が以前読んだ資料に1909年頃にミルクール工場で火災に伴う大幅改変があった記述を目にしましたので、この 1/4 サイズ( 267.0mm ) ” Le Parisien ” シリーズは 1902年から1909年の期間製作されたのではないかと個人的には 思っています。

1867年  J.T.L.カタログ  http://www.luthiers-mirecourt.com/thibouville1867_2.htm

1901年  J.T.L.カタログ  http://www.luthiers-mirecourt.com/thibouville1901_1.htm

1912年  J.T.L.カタログ http://www.luthiers-mirecourt.com/thibouville1912.htm

1919年  J.T.L.カタログ http://www.luthiers-mirecourt.com/thibouville1919.htm
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私がはじめてJ.T.L.ヴァイオリンのネック折れ破損事例を耳にしたのは 1986年のことでした。 それは 40歳代の弦楽器専門家の経験談としてで、彼はこのドリル穴に本当に驚いた‥ とおっしゃっていました。そして私の30年間の経験でも 3台ほど目にしたのみで ( ネック折れ 1、指板剥がれ 2 )、知人のヴァイオリン専門家に尋ねても一度も見た事が無い方もたくさんいらっしゃいます。

私はこれらのことから『 ヘッドとネックの接合部にドリル穴を空ける加工 』を J.T.L.社はそれほど実施していない可能性が高いと思っています。よって J.T.L.社製 1/4サイズ( 267.0mm )” Le Parisien ” シリーズ のドリル穴も 1902年の発売当初分のみに適用されたのではないかと推測します。

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因みに 1902年はジェローム・チボヴィーユ・ラミー( Jerome Thibouville Lamy 1833- 1902 )が亡くなった年で、その2年前にレジオンドヌール勲章を受賞するとともに パリ万博で金メダルをも受賞していた 共同経営者の M. Alfred Acoulon( Partner in the firm of Thibouville-Lamy at Mirecourt since 1914.  )が ヴァイオリンの研究を進めていた時期にあたります。Acoulon は 1910年のベルギー万博でも金メダルを獲得しました。

このヴァイオリンはこのような特殊加工を施されながらも 製作されてからネックとヘッドの接合部で折れるまで 90年以上にわたり破損なしで使用されました。  それにしてもドリル穴と首根っこのあいだの薄さはすさまじいと思います。まあ‥ いつ折れても不思議ではなかったくらいにきわどい加工技術ですが、ここまでしてでも ヴァイオリンの響を追及する姿勢にはただ‥ ただ敬服するばかりです。


さて‥ ヴァイオリンのお話しなのですが 私は 1800年代以降の弦楽器を理解するためには製作されたその時期の状況が念頭にあるのが望ましいと考えています。 長文になり恐縮ですが パガニーニ以降の時代状況をここからあげてみたいと思います。

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ジェローム・チボヴィーユ・ラミー( 1833- 1902 )が J.T.L.社を設立した 1867年頃のヨーロッパは 1848年のウィーン体制崩壊をうけて不安定化していました。 イタリアでは 1861年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア統一をおこない、プロイセンは 鉄血宰相ビスマルク( 1815 – 1898 )の指導のもとクルップ社の鉄鋼製品( 鉄道、大砲 )を背景として 1866年の普墺戦争に勝利して 1867年に北ドイツ連邦に拡大します。

そしてその後 の普仏戦争により 1871年には ワーグナーを擁護するとともにノイシュヴァンシュタイン城を建設させたルートヴィヒ2世( 1845 – 1886 )のバイエルン王国( Bavaria )やフランス領だったロレーヌ・アルザスを併合してドイツ帝国が成立しました。

また 1842年にアヘン戦争に勝利したヴィクトリア女王( 1819 – 1901 、在位 1837 – 1901 )のイギリスも植民地拡大をすすめ大英帝国を構築し繁栄します。 こうして帝国主義を国是としたヨーロッパ列強( ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア、ロシア )が世界地図を分割していったことで『 諸戦争を終わらせる戦争( War to end wars )』と言われた1914年の第一次世界大戦( 1914 – 1918 )が発生することになりました。

By
NAFTALI BENDAVID    2014 年 6 月 29 日 09:35 JST
Matt Lutton for The Wall Street Journal

「20世紀が始まった街角」               【サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)】

当地の博物館の外壁に掲げられた横断幕からオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェンディナント大公が堂々と前を見据えている。別の壁では取りつかれたような顔をしたガブリロ・プリンツィプが大きく目を見開いている。ちょうど100年前、プリンツィプはこの美術館の前の通りで大公を銃撃し、第1次世界大戦の引き金を引いた。

「20世紀が始まった街角」――。横断幕にはそう書かれている。

38口径の銃から発射された2発の銃弾は最新の兵器の誕生を許し、いくつもの帝国を倒し、米国を孤立主義から引きずり出した。さらに凄惨な次の大戦や大虐殺、冷戦による欧州の分断の種がまかれたのもこの時だった。

100年経った今も、第1次世界大戦の傷跡は消えずに残っている。暗殺現場に掲げられた横断幕は現地のオーストリア人やドイツ人から「不適切で忌まわしい」と猛烈な怒りを買った。フェンディナント大公とプリンツィプはエイブラハム・リンカーン大統領と、大統領を暗殺したウィルクス・ブースのようなものだ。しかし、横断幕はまだ取り外されていない。

問題はプリンツィプをどのように記憶にとどめるべきか、そして、彼は英雄なのか、それともテロリストなのか、という点だ。弱々しい19歳のセルビア人革命家プリンツィプは100年前の6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の支配に抗議する目的で大公を殺害した。欧州では、戦闘員と市民を合わせて約1500万人が犠牲となり、現代の幕開けとなった第1次世界大戦の記念式典の準備が4年がかりで進められている。その間、くすぶり続けた議論の1つがプリンツィプの評価をめぐる議論だった。

 

ガブリロ・プリンツィプ               Historical Archives Sarajevo/Associated Press

戦争勃発の責任はドイツにあるのか、第1次世界大戦は尊い戦いだったのか、それとも無意味だったのか――。欧州連合(EU)がナショナリズムが再燃する大陸を一つにまとめようと懸命な努力を続けるなか、ありとあらゆるテーマについて対立が生じている。第1次世界大戦をめぐる摩擦から見えてくるのは、一部の地域では過去はまだ生きているということだ。

暗殺がさほど珍しくなく、民主的に抗議する方法がほとんどなかった時代に専制君主に一撃を加えた理想主義者。多くのセルビア人はプリンツィプをそうとらえている。君主制を終わらせ、多民族の共和国を作ろうとした彼の価値観は現代の欧州人のそれに似ているのだという。

英国がドイツに宣戦布告してから100年目となる8月4日――この日を境に紛争は世界大戦と化した――が近付き、戦争の原因と意味を問う議論が再燃している。世間の注目はこれまでアドルフ・ヒトラーという悪人とホロコーストという恐怖を生んだ第2次世界大戦のほうに集中していた。勃発から100年という節目を迎えたことで、第1次世界大戦が再び注目されつつある。第1次世界大戦のほうが第2次世界大戦より重要とみる歴史家もいる。

第1次世界大戦は今でも欧州において強烈な存在感を放っている。フランスとベルギーでは何百もの小さな町に戦没者の名前を記した記念碑が保存されている。ドイツが初めて毒ガスを大規模に使用したベルギーの都市イーペルでは、毎晩午後8時になると、地元のラッパ隊が「ラストポスト(軍葬ラッパ)」を演奏している。1928年から続く伝統だ。

イーペルでは1914年の「クリスマス休戦」を記念するために年に1度、サッカーのトーナメント戦が行われる。当時、英国とドイツの兵士は武器を置いて、双方の塹壕(ざんごう)の間の中間地帯でサッカーをした。ブリュッセルの中心部には、1914年8月3日に前線に向けて兵士が出発した場所に記念のプラークが置かれている。この兵士の多くが死亡した。

ベルギー・フランドル地方の遺産と観光を管轄する当局のトップ、ヘールト・ブルジョア氏は「この地方の人間でなければ、3世代目、4世代目になってもなぜこのような習慣が残っているのか、想像できないかもしれない」と話す。「米国国内に4年間、他国に占領された地域があると想像してみてほしい。どれほどの影響があったか、見当もつかないだろう」

英国政府は国内の全世帯に対し、8月4日の午後11時に全ての照明を消すよう呼び掛けている。100年前のちょうどこの時間、英国は大戦に参戦した。当時のエドワード・グレイ外相の有名な言葉「欧州中の明かりが消えるだろう。われわれが生きている間に、その明かりが二度と灯ることはない」を記念するイベントだ。

英国は大戦で亡くなった英国連邦内の犠牲者の数と同じ88万8246本のセラミック製のポピーをロンドン塔に設置した。8月にはフランスとドイツの大統領がフランスのベルダンで会談する。両国は100年前にこの地で10カ月にわたって戦闘を繰り広げ、25万人を超える人が亡くなった。ベルギーのアントワープでは、100年前に包囲から逃れるために使われたポンツーンブリッジがベルギー政府によって再建されている。

欧州の戦場や墓地では観光客の急増が予想されている。カナダ人兵士ジョン・マックレア氏の詩「In Flanders Fields(フランドルの野にて)」に描かれたフランドル地方は2018年まで年間50万人の観光客が訪れると期待している。米国でも記念のイベントが計画されているが、同国が参戦したのは1917年だから、100年目を迎えるのはまだ先だ。

 

さまざまな記念行事が行われ、大戦を見直す新刊本がベストセラーになる中、かつての論争が再び息を吹き返しつつある。歴史家の中には、ドイツがセルビアと対立していたオーストリア=ハンガリー帝国を支持し、中立的な立場を取っていたベルギーに侵攻した結果、大戦が始まったとしてドイツの責任を指摘する向きもある。一方で、当時は欧州各国が軍事的にも外交的にも瀬戸際政策を展開していたため、責任は各国にあるとする見方もある。

ドイツでは政府が第1次世界大戦に関する博物館の展示や公開討論会、ウェブサイトを後援しているものの、他の国と比べると、大掛かりな記念式典は非常に少ない。メルケル首相は26日にイーペルで行われた記念式典にEU首脳とともに出席しており、これを含めてベルギーで2つの記念式典に出席する。

 

一部の歴史家は、ドイツ人が数十年にわたって第2次世界大戦の過ちに苦しみ続けており、第1次世界大戦に改めて目を向けたくないのかもしれないと指摘している。

ドイツのエッカルト・クンツ駐ベルギー大使はドイツが100年という節目を軽視しているとの見方を否定したが、今まで多くのドイツ人が第1次世界大戦にはあまり注目してこなかったことは認めている。

クンツ大使は「第1次世界大戦は第2次世界大戦、ホロコースト、欧州の分裂、ドイツの分裂の影に隠れていた」が、それも今では変わりつつあると述べた。

英国の指導者は戦争が悲劇的な過ちだったのか、それとも尊い戦いだったのかという問いをめぐって非難の応酬を繰り広げている。マイケル・ゴーブ教育相はデイリーメール紙に寄稿し、大戦を「誤った戦い、悲惨な過ちの連続」と表現する動きを批判した。ゴーブ氏は英国がドイツの「情け容赦ない」暴政に固い決意を持って立ち向かったと述べた。

一方、労働党の著名議員、トリストラム・ハント氏はゴーブ氏が政治的な目的のための100年目という節目を利用していると厳しく批判した。

 

フランツ・フェンディナント大公夫妻               Agence France-Presse/Getty Images

暗殺者プリンツィプをめぐる意見の対立はさらに激しい。プリンツィプと共謀者たちはオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア支配を終わらせることだけを考えていた。彼らは年老いた皇帝の後を継ぐとみられていたフランツ・フェルディナント大公のサラエボ訪問を予想して、セルビア内部からの支援を得て暗殺計画を企てた。

1914年6月28日、大公の車列がサラエボの町を進むと、共謀者の1人が手りゅう弾を投げつけた。大公には当たらなかったが、複数の随行者が負傷した。大公は入院した随行員を見舞うことにしたが、車が道を誤り、プリンツィプの目の前を走った。プリンツィプは大公と妻のゾフィーを狙って至近距離から銃を発射、2人を殺害した。

当時20歳になっていなかったプリンツィプは絞首刑を免れたが、数年後、服役中に死亡した。オーストリア=ハンガリー帝国は報復としてサラエボを攻撃、欧州各国は即座に敵味方に分かれた。新しい兵器の登場によって大戦ではかつてないほど多くの人が死んだ。

プリンツィプの亡骸はサラエボ郊外の、ビールの看板のすぐ隣にある小さな礼拝堂に安置されている。そこを訪れたときには、2つの枯れた花束とろうそく1本が供えられていた。

多くのセルビア人は、戦争を望んでいた欧州の列強はプリンツィプによる暗殺を言い訳に利用した上、今になっても自らの罪を隠そうと、暗殺が大戦の原因だったと強調していると考えている。一部には、プリンツィプをオーストリア=ハンガリー帝国の支配からスラブ人を解放しようとした英雄とみる人々もいる。

ボスニアにあるバンジャ・ルカ大学の歴史家、Zeljko Vujadinovic氏は「第1次世界大戦に関係した全ての国、特に修正主義的な願望を持つ国は、ガブリロ・プリンツィプを大量虐殺者や暗殺者、オサマ・ビン・ラディンと呼び、彼を非難する口実を探している」と語った。
( 以上、下記からの転載です。)http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304057704579653160707644406

この戦争の最終局面である 1917年にはアメリカまで参戦する事態となりました。アメリカは南北戦争( 1861 – 65 )を経て国力を拡大し 特にゴールドラッシュ以降はヨーロッパ各地から入国した移民が ‥ 例えば 1880 ~ 90年の10年間で520万人に達するといった状況で 1900年代初頭には当時世界最大の産業国であったイギリスに肩を並べるまでに成長していました。 不幸の連鎖という言葉が頭に浮かびますが‥ この参戦によって 1918年3月にデトロイトやサウスカロライナ州で最初の流行がはじまっていた『 スペイン風邪 』が世界中に広がりパンデミック( 大流行 )をまねくこととなり 感染者6億人、死者が4,000万人から 5,000万人といわれる状況にまでいたりました。

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さてここまではウィーン体制崩壊以降のヴァイオリンを取り巻く状況のうち 負の側面についてまとめてみましたが、この時期には産業革命の勝者である『 富豪 』が登場するなど経済の発展が続きヴァイオリンに対する強力な追い風も吹いていました。

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この例をアメリカでみてみましょう。 アメリカでは南北戦争の軍需景気もあり製鉄業、鉄道、駅舎・交通業、それと石油や電気関連のエネルギー産業などから大富豪が誕生します。

Old Manhattan  1929年

アメリカ富豪の総資産ランキングでは 1位のビル・ゲイツを除くと 2位ロックフェラー、3位カーネギー、4位ヴァンダービルトとこの産業革命当時の富豪たちが名を連ねています。

製鉄では スコットランドからの移民でのちに『 鉄鋼王 』とよばれたアンドリュー・カーネギー( Andrew Carnegie  1835 – 1919 )が最も有名です。彼は1860年代から 石油、電話、鉄道と新しい時代の中心産業に次々と投資しました。 そしてペンシルバニア州のピッツバーグに製鉄技術の向上により製造可能となっていた鋼鉄(スティール)を生産する大規模な製鉄所を設立します。 この工場での大量生産と鉄道での大量輸送はアメリカの産業発展に大きな役割をはたしました。なお‥ このカーネギー製鉄社は 1901年に『 金融王 』といわれた J.P.モルガンに 4億8000万ドルで売却され、これにフェデラル・スチール・カンパニー およびナショナル・スチール・カンパニーの2社が統合されUSスチール( 資本金の14億ドルは 当時のアメリカの国富の4%に相当しました。)が誕生しました。この年に USスチールは 1社でアメリカで生産されたすべての鋼の67%を生産しました。
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Carnegie Hall    1891年

Carnegie Hall

大富豪となったアンドリュー・カーネギーは 1891年にマンハッタンの7番街57丁目に『 音楽堂 』であるカーネギー・ホール ( Carnegie Hall )を建設します。ここではニューヨーク・フィルが リンカーン・センター内のフィルハーモニック・ホールへと拠点を移した1961年まで レジデンス・オーケストラを務めていました。そしてカーネギー・ホールのメインホール( 2804席 )では 1893年12月16日アントニン・ドヴォルザーク( Antonín Leopold Dvořák  1841 – 1904 )が作曲した交響曲第9番 作品95『 新世界より』がアントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニックで世界初演されるなど、中ホールであるザンケル・ホール( 599席 ) や 小ホールのウェイル・リサイタルホール( 268席 )も含めて アメリカの音楽文化の発展に大きく寄与しました。

アンドリュー・カーネギーは83歳の 1919年8月11日気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなりました。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付済みで 遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈されたそうです。

鉄道事業は南北戦争の際は軍需産業として拡大し、その後に石油や石炭などのエネルギーの輸送などにおいて大きな実績をつくりました。その中でも 蒸気船で起業しその後に事業を拡大して『  鉄道王 』と呼ばれたヴァンダービルトは、アメリカ陸軍の輸送にかかわる利権をもとにニューヨーク・セントラル鉄道( 現在でもニューヨークのグランド・セントラル駅はランド・マークとして有名です。)などの鉄道事業の一大帝国を築きました。 このコーネリアス・ヴァンダービルト( Cornelius Vanderbilt  1794 – 1877 )は 1873年に南北戦争による南部諸州の荒廃をたてなおすためにテネシー州ナッシュビルに現在では名門大学( Harvard of the South )となった『  ヴァンダービルト大学 』を設立するための資金として 100万ドルを寄付しました。 また 今日では『 金融王 』のイメージが強いモルガン家も15社の主要鉄道会社を支配していました。


Grand Central Terminal  New York City   1913年

ところで‥ 世界史ではヨーロッパの『 近代( modern history ) 』は 1789年のフランス革命勃発から第一次世界大戦の終結( 1918年 )までとし、それ以降を『 現代 』とくくる場合が多いようですが 建築文化はそれより30年近くあとの第二次世界大戦後に建てられた建物を” 現代建築 “とよび、それ以前を” モダニズム建築 “としています。

そして” モダニズム建築 “の前に ” 歴史主義建築 “がありました。この” 歴史主義建築 “の例をあげるとイギリスではゴシック・リヴァイヴァルの代表作として 1860年に国会議事堂( The Palace of Westminster )が建設され、フランスでは 1874年にパリ・オペラ座( Palais Garnier )がネオ・バロック様式で そしてドイツではこの時期ロマネスク・リヴァイヴァル建築であるノイシュバインシュタイン城が建設( 1869 ~ 1886年 )されました。

この頃‥ アメリカ合衆国は 歴史の浅い国という自覚があっただけに、ある意味でヨーロッパ以上に古典様式を理想と捉える風潮があったそうです。建国以来、イギリスのジョージアン様式が公共建築や住宅に好んで用いられる傾向がありましたが、それに加わるかたちでパリのフランス国立美術学校エコール・デ・ボザールで学んだ建築家達がヨーロッパ古典様式の流れを汲むアメリカン・ボザール( ボザール様式  )の建築様式の建物をいくつも建設しました。


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因みに 1913年に建設され現在も残るグランド・セントラル駅( Grand Central Terminal )は地下に44面67線の広大なプラットホームをもつマンハッタン最大のターミナル駅ですが、アメリカン・ボザールの建築物として今日でも有名です。

そしてアメリカン・ボザールの流行の後はモダニズム建築 への移行がはじまります。
これはイギリスで 1851年に建設されたクリスタルパレスや 1889年のエッフェル塔の建設などを契機として鉄・コンクリートといった新しい素材が使われるようになり、鉄橋、駅舎、博覧会施設、そして高層ビルの建設にそれらが適用されるようになり広まりました。

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建築におけるモダニズムの起源は英国のウィリアム・モリス( 1834 – 1896 )が中心となって1860年頃に提唱し1888年のアーツ&クラフツ展示協会の設立を契機として大きな美術運動へ発展していったアーツ・アンド・クラフツ運動( Arts and Crafts Movement )だとされています。

このウィリアム・モリスの思想はアール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動を生みだしました。
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特にドイツではドイツ工作連盟の活動が ペーター・ベーレンス( Peter Behrens  1868 – 1940 )の  AEGタービン工場( 1910年 )や 、ベーレンスのもとで学んだ ヴァルター・グロピウス( Walter Adolph Georg Gropius  1883 – 1969 )とアドルフ・マイヤー( 1881 – 1929 )の設計によって1911年から1913年にかけて建設され2011年に初期モダニズム建築の重要な例証としてユネスコの世界遺産リストに登録されたファグス靴型工場の建設につながりました。

またベーレンスの設計事務所にはこの時期に ミース・ファン・デル・ローエ( Ludwig Mies van der Rohe  1886 – 1969 )やル・コルビュジエ( Le Corbusier  1887 – 1965 / Charles-Edouard Jeanneret-Gris )など後の近代建築の大家達も勤めていました。

この後にワルター・グロピウスはドイツ語で「建築の家」を意味するバウハウス( Bauhaus 1919 – 1933 )の校長となりナチスにより1933年に閉校されるまでの学校として存続しえたわずか14年間で近代建築運動( Modern Movements in Architecture )に大きな影響を与えました。


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ウィリアム・モリス( 1834 – 1896 )が 英国ではじめた美術運動はフランスではアール・ヌーボーとして発展し 1900年のパリ万博で最高潮に達しました。1889年竣工のエッフェル塔に設置されたエスカレーターがシンボルとなったこの万博は 近代都市の象徴ともいえる地下鉄の完成とともに駅にはエクトール・ギマールがデザインした鉄工芸品が用いられ訪れた人々を驚かせました。

このようにアール・ヌーヴォーの作家たちにとってエポック的なイベントでしたので『アール・ヌーヴォーの万博 』と言われたりもします。実際にメディアが少なかった当時 パリ万博に出品することは大きな宣伝効果があり、例えばフランスのナンシーのエミール・ガレ( Charles Martin Émile Gallé  1846 – 1904 )や ニューヨークにティファニー社( Tiffany & Co. )を1853年に創業した チャールズ・ルイス・ティファニーの息子 ルイス・カムフォート・ティファニー( Louis Comfort Tiffany  1848 – 1933 )などは この万博で賞を取ったことで一躍 世界的名声を手にしました。

この頃アメリカではウィスコンシン州で生まれた グスタフ・スティックレー( Gustav Stcikley  1858 – 1942 )が 1989年頃のイギリス旅行の際に出合ったアーツ&クラフツ運動をアメリカ合衆国で啓蒙、普及させる活動を始めました。彼の活動は後に シカゴ派の建築家フランク・ロイド・ライト( Frank Lloyd Wright   1867 – 1959 )などにも大きな刺激をあたえたと言われています。


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フランスで流行したアール・ヌーボーは 1910年代後半から少しずつ新しい装飾スタイルへと変化していきます。そして ついには 1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会でトレンドとなります。 それにより この新しい装飾スタイルは博覧会(  Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels modernes )略称の”アール・デコ博 “から『 アール・デコ ( Art Déco ) 』と呼ばれ世界中の都市で同時代的に流行するとともに” 大衆に消費された装飾 “と表現されるほど普及しました。

そしてアメリカ合衆国においてもアール・デコは ニューヨークのクライスラー・ビル( 1930年竣工  / 319m )、エンパイア・ステート・ビルディング( 1931年竣工 / 443.2m )、ロックフェラー・センター( 1930 ~ 1939年竣工 / 1933年 GEビル / 335.99m )などの高層ビル群の設計や装飾にも取り入れられ一世を風靡することになりました。

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ヴァイオリンについてのお話しです。               (  Part 3 )

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