ヴァイオリンについてのお話しです。 ( Part 3 )


2013-10-30

私は 当時のアメリカ合衆国の状況をもう少し細かく理解するためにはランド・マークとなる高層ビル程わかり易くはないですが摩天楼の建設ラッシュの前駆段階で建設された大富豪の屋敷の数々を見ればいいと思っています。

例えば下の写真は『 鉄道王 』コーネリアス・ヴァンダービルトの嫡孫、コーネリアス・ヴァンダービルト2世( Cornelius Vanderbilt II 1843 – 1899 )の別邸です。

そして次の写真は1883年に竣工した彼がマンハッタンに建設したの最初の屋敷とその内部写真です。

  

そして下が 1925年頃にニューヨーク 5番街に建設された有名な彼の豪邸です。

コーネリアス・ヴァンダービルト2世( Cornelius Vanderbilt II 1843 – 1899 )は1885年に 鉄道財閥ヴァンダービルト家の当主である父 ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト( William Henry Vanderbilt  1821 – 1885 )が死去したことにより、7000万ドルの遺産を相続したほか ニューヨーク・セントラル鉄道の社主の地位を引き継ぎマンハッタン5番街に( ご存じな方も多いでしょうが 5番街の中央‥ プラザ・ホテルの右斜め前ですね。今のニューヨークでここに『 家 』を建てます? )建設した本邸と、はじめに挙げさせていただいたロードアイランド州 ニューポートに建てた別邸『 ブレーカーズ 』を行き来しながら暮らしたそうです。

下の写真は 1883年に竣工した、その弟 ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト( William Kissam Vanderbilt 1849 – 1920 )のニューヨーク5番街 660番地の本邸です。彼は1885年に父親の死去に伴い5500万ドルの遺産を相続し、1899年に兄のコーネリアス・ヴァンダービルト2世が亡くなると、ヴァンダービルト家の事実上の当主と見なされるようになりました。  そして 1903年に第一線から身をひくまで一族が支配するニューヨーク・セントラル鉄道の経営にあたりました。

ウィリアムの邸宅として有名なのは、1883年竣工のニューヨーク5番街660番地のこの本邸と ニューポートの別邸マーブル・ハウス( Marble House 1892年完成 )の二つで、いずれも建築家リチャード・モリス・ハントの設計だそうです。彼は1903年に銀行家の娘アン・ハリマン( Anne Harriman )と再婚しています。

 

それから石油・精油事業はドイツ系移民 ジョン・D・ロックフェラー( John Davison Rockefeller, Sr  1839 – 1937 )の独壇場でした。 彼は 1870年にスタンダード・オイル社を設立し、全米の精油、搬送、流通までを独占することで巨額の富を築きました。 1901年にはテキサスで油田が発見されガソリンの供給が安定したことにより1900年代のはじめには大衆自動車の時代が到来し、それがロックフェラーにさらなる莫大な富をもたらす事になりました。こうして彼はアメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となりました。

この時期の自動車関連の立役者は『 自動車王 』ヘンリー・フォードです。 彼は 1908年にT型フォードを発売しましたが、これは流れ作業による大量生産方式で自動車の価格を引き下げることに成功した先例となり これ以降の自動車生産は効率化がはかられ大量生産方式が普及することになり ガソリン需要を後押ししました。

ジョン・D・ロックフェラーは 1937年5月23日、98歳の誕生日の2カ月前にフロリダ州オーモンド・ビーチの自宅 で動脈硬化が原因で亡くなりました。 ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事には ” ロックフェラー氏が引退した時点でスタンダード・オイルや他の投資から蓄積した資産は15億ドルと推定されています。これは個人が自身の努力で蓄積したものとしては史上最大の富です。” と書かれていたそうです。


The Manhattan Bridge ( Constructed from 1901 to 1912 )  1909年

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アメリカではこうして産業の発展によって資産が生まれ、その運用によりウォール街が隆盛を極めることになりました。

19世紀末にはすでに巨大な金融財閥となっていたクーン・ローブ商会( Kuhn Loeb & Co. )は 1867年にソロモン・ローブ( Solomon Loeb  1828 – 1903 )と エイブラハム・クーン( Abraham Kuhn )が設立した銀行でした。

この一族の娘テレサと結婚し頭取に就任したのがプロイセンからのユダヤ人移民  注)1. ジェイコブ・シフ( Jacob Henry Schiff  1847 – 1920 )です。


注)1.   1783年に初代 マイアー・アムシェル・ロートシルト( Mayer Amschel Rothschild  1744 – 1812 )がフランクフルトにあったユダヤ人ゲットーのなかで一番間口が広い家『 グリューネス・シルト 』( 緑の盾 )を購入し、ここを拠点にロスチャイルド家を展開します。ジェイコブ・シフ( 1847 – 1920 )はこの家でアムシェル・マイヤー・ロスチャイルド( Amschel Mayer Freiherr von Rothschild  1773 – 1855 )の一家と暮らしていた一族のひとりでした。彼は 1865年に渡米しクーン・ローブ商会( Kuhn Loeb & Co. )に入社しました。 ジェイコブ・シフのニューヨークの住まいはマンハッタンの五番街 965番地だったそうです。  因みに‥ 1977年にクーン・ローブ商会( Kuhn Loeb & Co. )はリーマン・ブラザーズに統合されました。

クーン・ローブ商会はロスチャイルド家の米国代理人をつとめ、ロックフェラー家の資産の財務管理をすべて担当し‥ その投資はすべてクーン・ローブ商会の承認を受けなければならなくなっていたそうです。このクーン・ローブ商会の頭取としてジェイコブ・シフは ジョン・D・ロックフェラーのスタンダード・オイル社、エドワード・ヘンリー・ハリマン( Edward Henry Harriman  1848 – 1909 )のユニオン・パシフィック鉄道、サザン・パシフィック鉄道の両社、そしてアンドリュー・カーネギーの鉄鋼会社に融資をおこないながら巨大財閥に育成したといわれています。

1900年代にはいるとジェイコブ・シフ( 1847 – 1920 )は モルガン家、ビルド家、ドレクセル家という当時の三大有力者と提携し、ウォール街の銀行連合を形成します。 そして このウォール街の銀行連合はすぐに機能することとなりました。

日露戦争( 1904年2月8日 – 1905 年9月5日 ポーツマス条約により講和 )の際に外貨調達のために高橋是清( 外債発行団主席 )はアメリカに渡りましたが引き受け先がなく、すぐにロンドンに移り再び交渉を進めましたが 4月の段階でも 計画された第一回分 1000万ポンドのうち半分の引き受け手がみつからず苦慮していました。

この時 500万ポンド分をロンドンにいた ジェイコブ・シフがニューヨークの金融街を取りまとめる立場で、外債引き受けおよび追加融資を承認し1904年5月2日に仮調印をしたことにより大日本帝国の戦争準備がすすみました。彼は日露戦争後の1906年 日本政府に招聘され 3月25日に横浜に到着、そして 3月28日には皇居で その『 功績 』により明治天皇より最高勲章の勲一等旭日大綬章を贈られました。


The juilliard school building  1905年 5th Avenue and 12th Street, Manhattan

さてこの時期にアンドリュー・カーネギー(1835 – 1919 )と同じくアメリカ合衆国の音楽文化発展に寄与したいと考えたもう一人の大富豪が現れました。 彼は クーン・ローブ商会( Kuhn Loeb & Co. )の経営を 父親である創業者ソロモン・ローブ( Solomon Loeb  1828 – 1903 )から継承して、発展させたのち 1901年に引退したジェームズ・ローブ( James “Jimmy” Loeb  1867 – 1933 )その人でした。

ジェームズ・ローブは プロイセン出身のアメリカの指揮者 フランク・ダムロッシュ( Frank Damrosch  1859 – 1937 )の提案を受け入れ 1905年にマンハッタンに著名な音楽家を集め ジュリアード音楽院の前身となるニューヨーク芸術音楽学校( The Institute of Musical Art )を創設しました。

これは 1926年に、その2年前にオーガスタス・ジュリアードの遺産によって音楽家が無料で学ぶことができる大学院( The Graduate School )として創立された学校と合併して ジュリアード音楽院 ( The Juilliard School of Music )となり 多くの優秀な音楽家を育てました。

  
The Juilliard School

そして このジュリアード音楽院は 1969年に現在地のリンカーンセンターへ移転する際に名称をジュリアード学校( The Juilliard School )として 今もアメリカ合衆国の芸術活動をささえています。


リンカーン・センター( Lincoln Center for the Performing Arts ) 左手はニューヨーク・シティ・バレエ、中央がメトロポリタン・オペラ、右手がエイブリー・フィッシャー・ホールです。

この写真の1883年に竣工した最初のメトロポリタン歌劇場の建物はブロードウェイ39番街から40番街にかけて建てられていました。この建物は 1966年に現在のリンカーンセンターに移転するまで使用されました。 ここは1892年8月27日に火災に見舞われたために大規模な修復がおこなわれ、その後 70年以上にわたってアメリカを代表するオペラ劇場として上演が続けられました。

また、そのニューヨークではこの時期に市民の生活も一変していきました。彼らの生活はその服装ひとつとっても産業革命による変化‥  I. M. Singer & Co ( 1856年設立 )が たとえば 1860年だけでもニューヨーク新工場で 13,000台の自動裁縫機( ミシン )を製造、販売し、それにより 洋服の大量生産がおこなわれた事など‥ がはっきりと影響しました。それから 1882年には『 発明王 』トーマス・エジソンがローアー・マンハッタンに中央発電所を設立してマンハッタンに電灯がともるようになるなど それは多くの出来事がかさなった結果の劇的な変化でした。

そして『 大富豪 』とまではいかなくても資産形成に成功した富裕層の生活も変わっていきました。たとえば I.M. Singer & Co. をアイザック・メリット・シンガーと共同で創設したエドワード・C・クラーク( Edward C. Clark  1811 – 1882 )が 1884年にセントラル・パーク傍に建設したダコタ・ハウス( Dakota Apartments )をイメージしてみてください。

1980年12月8日に ダコタ・ハウス住んでいたジョン・レノン が射殺されてしまい、その事件のイメージがつよい高級集合住宅( コーポラティブハウス )ですが 設計はヘンリー・J・ハーデンバーフ( Henry Janeway Hardenbergh  1847 – 1918 )で、建設当時にマンハッタンでアパートメント形式の住宅としては 2番目に建てられたために いまでは貴重な歴史的建造物です。

建設時の総戸数は65で 、建設当初から館内に自家発電装置がありセントラルヒーティングが導入されているなどの画期的な設備をそなえた建物でした。 10階建のこの建物の一区画は『 大邸宅 』とくらべるまでもなく それほど広くありませんがスケール・メリットも十分あるためマンハッタンに住む富裕層の需要にかなった住まいだったようです。


                

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高級集合住宅( コーポラティブハウス )のほかにもシンガーミシンの社長だったエドワード・クラークが企画・出資して ヘンリー・J・ハーデンバーフが設計を担当する建物は もう一つセントラル・パークの東南の角に位置し 1907年竣工の プラザ・ホテル( The Plaza Hotel )も有名です。

現代ではこの建物の名前は 1985年9月に、ドル危機を恐れた先進 5カ国が協調的なドル安を図ることで合意した『 プラザ合意 』により歴史にきざまれました。これは アメリカの対日貿易赤字が顕著であったために 実質的に円高ドル安に誘導する内容だったそうです。このために発表の翌日にはドル・円レートは1ドル235円から約20円下落し、この 1年後には 150円台で取引されるようになりました。これは世界経済に大きな影響をあたえた経済事件でした。

このプラザホテルは 現在ニューヨーク市の歴史的建造物に指定されていますが、2008年以降は高級コンドミニアムが主体の構成とされホテル部分は大幅に削減されたそうです。 特にセントラルパークを望む北側部分に関しては、その多くがコンドミニアムに変更され分譲販売されたそうです。

私はこの豪壮なホテルや ダコタ・ハウス( Dakota Apartments )のように当時の空気を伝える建築に 1900年頃の ニューヨーク・マンハッタンの熱気を感じます。

 


Isaac Merritt Singer の肖像画( Edward Harrison May、1869年 )

産業革命期の大富豪の最後の事例としてミシンによって大成功したアメリカ合衆国の発明家で起業家のアイザック・メリット・シンガー( Isaac Merritt Singer 1811 – 1875 )を挙げさせていただきます。

彼は1859年にはニューヨーク・マンハッタンの五番街に大邸宅を構え大富豪の生活をはじめ パリ、ロンドンと移り住み、そして最後をイギリス・デヴォンの大邸宅で迎えました。彼はすくなくとも 5人の女性に24人の子供を産ませ 1875年7月23日に約1億4千万ドルの遺産を残して63歳で亡くなりました。

Oldway Mansion is set in 17 acres (69,000 m2) of gardens Oldway Mansion

私もはじめてこの邸宅の写真を見たときにヴェルサイユ宮殿あたりを参考にした複製の印象を受けました。しかし‥ さすが大富豪ですので階段正面にはジャック=ルイ・ダヴィッド( Jacques-Louis David  1748 – 1825 )が 1805 ~ 1807年に製作したルーブルの姉妹絵画 『 ナポレオンの戴冠式  “Couronnement de l’Emoereur et de l’Imperatrice ” 』( 縦6m21cm、横9m79cmメートル ) が飾られるほど贅が尽くされています。

アイザック・メリット・シンガー( 1811 – 1875 )は パリに住んでいた時期に 2作品あるダヴィッドの真作のうち彼自身が亡くなるまで所有していた方の作品( ボナパルト家の女性たちのうちナポレオンの妹,次女ポーリーヌが一人だけピンクの衣装を着たもの。)を購入していたのです。

  

この『 ナポレオンの戴冠式 』は階段の説明文にあるように1946年にフランス政府に販売され現在ヴェルサイユ宮殿の『 戴冠の間 』に飾られています。

At the top of the staircase is a reproduction of Jacques-Louis David’s painting ‘The Crowning of Josephine by Napoleon.’ The original, that used to hang here, was purchased by Paris Singer in the late 19th century, but sold to the French government in 1946. It is now displayed at the Palace of Versailles.

ヴェルサイユ宮殿 戴冠の間

私はこうしたことから『 ナポレオンの戴冠式 』を眺めると 産業革命の時代の大富豪の勢いが想像できるような気がします。

このイギリス・デヴォンにある大邸宅は 1904年に息子パリス・シンガーによって市に寄贈されました。そして‥ このシンガー家くらいの大富豪ともなると芸術家の支援は自然なことだったようです。

因みに パリス・シンガーは モダン・ダンスの創始者として舞台芸術の都であるロンドン、パリ、ドイツ、革命前の帝政ロシアそしてソビエトを駆け抜けたイサドラ・ダンカン( Isadora Duncan  1878 – 1927 )をパトロンとして支援したことが知られています。

 

また アイザック・メリット・シンガーの18番目の子 ウィナレッタ・シンガー( Winnaretta Singer,  Princess Edmond de Polignac  1865 – 1943 )はフランスにおいて多くの音楽家を援助したパトロンとして有名でした。

1893年にエドモン・ド・ポリニャックの妻となった後も彼女自身が音楽家、画家として優れた才能と広い教養を持っていたこともあり 1899年 にはラヴェルから『 亡き王女のためのパヴァーヌ 』を、1900年にはフォーレから 管弦楽組曲『 ペレアスとメリザンド 』の献呈を受け、1924年 はストラヴィンスキーからピアノソナタの 献呈を受けました。

また彼女からの委嘱によってもエリック・サティは 1918年の『 Socrate 』や 1920年 に作曲した劇付随音楽『 ソクラテス 』を、そして1922年 にはファリャが『 ペドロ親方の人形芝居 』、ストラヴィンスキーが『 狐 』を、それから1932年 にはプーランクが『 2台のピアノのための協奏曲 』と1938年 作曲の『 オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 』などが作曲されました。

このほか 彼女が住んだパリのポリニャック侯爵邸では 1908年1月2日に アルベニスが作曲したピアノ曲『 イベリア 』第3集や ストラヴィンスキーの曲など 何人もの作曲家の作品が初演されました。

 


パリに残る現在のポリニャック侯爵邸写真


パリのポリニャック侯爵邸エントランス写真

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   Winnaretta Singer  :  Princess Edmond de Polignac( 1865 – 1943 )  and  Prince Edmond de Polignac( 1834 – 1901 )


Le Palais Contarini-Polignac à Venise ヴェニスのポリニャック侯爵邸写真

 

16世紀の中頃誕生したヴァイオリンという弦楽器は17世紀から18世紀にかけて宮廷を中心として普及が進みました。しかし残念ながらそれを支えた『 宮廷音楽 』はフランス革命に代表されるヨーロッパの激動期にすっかり衰退してしまいました。

その状況のなかで19世紀初頭にはヴィオッティ( Giovanni Battista Viotti  1755 – 1824 )や 近代フランス・ベルギー楽派 が演奏指導法を確立し普及させ、パガニーニが 1828年のウィーン、プラハそしてドイツ各地につぎ 1831年のパリ、ロンドンと立て続けにヴィルトーソとして大成功をおさめたことに始まる『 ヴィルトーゾ・ブーム 』がそれを加速し、その状況に産業革命の潮流にのった『 富豪 』のサポートがはいるなどして 一般市民の間にもヴァイオリンがどんどん普及していきます。

有名な ” LIFE “のこの写真は William Vandivert 氏が ハンガリー・ブタペストで 1939年に撮影したものだそうです。

ハンガリーでは1925年頃から作曲家で民族音楽学者、哲学者として有名だったコダーイ・ゾルターン( Kodály Zoltán  1882 – 1967 )が 音楽教育における問題について研究を進めていました。

個人的なことで恐縮ですが 私にとってのコダーイは ハンガリー出身のチェロ奏者ヤーノシュ・シュタルケル( János Starker  1924 – 2013 )が 1948年にピリオド・レコード( Period Record , U.S.A. )において ピーター・バルトークが録音を担当し製作した『 無伴奏チェロソナタ 作品8 』( 1915年作曲 )注)2 、『 ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲  作品7 』( 1914年作曲 )そして『 チェロ・ソナタ へ短調  作品4 』( 1910年作曲 )の録音による印象が大きい作曲家ですが、彼は子供の頃にヴァイオリンの学習を始めるとともに聖歌隊で歌い‥ 1900年にブダペストのフランツ・リスト・アカデミーで音楽を学び始めたころに本格的な作曲活動を開始して有名になるとともに、その考え方はハンガリー内外を問わず音楽教育に重大な影響を与えたそうです。

そういうことで 1939年に撮影された” LIFE “の写真は 彼らの地道な教育活動の成果のように私には思えます。

注)2 チェロの低音側の2弦( C線とG線 )を通常よりも半音下げて調弦する( 4-H と 3- Fis )変則的調弦法( スコルダトゥーラ )を採用した3楽章構成の無伴奏作品です。使用される音域が5オクターヴにも及ぶ高度に技巧的な作品であると同時に、ハンガリーの民謡に基づいた旋律は豊かな情感に満ちています。

 

 

これらの状況により19世紀の半ばから20世紀初頭にかけて世界中でヴァイオリンを演奏する人達が増えていきました。 当然ですが ヴァイオリン演奏のためには楽器が必要ですからそれ以前とまったく違うレベルでヴァイオリンの売買が盛んにおこなわれました。ここで 1840年代以降のヴァイオリンを取り巻く状況をイメージしていただくために 独特の活動をしたオーレ・ブルと 彼の人生について少し触れておきたいと思います。

オーレ・ブル( Ole Borneman Bull  1810 – 1880 )は 19世紀のノルウェー・ベルゲン生まれのヴァイオリニストで実業家です。 アメリカとヨーロッパを股にかけて波瀾万丈の生涯を送ったために イプセンの戯曲『 ペール・ギュント 』の主人公のモデルであったと言われています。 彼は 1832年にパガニーニの演奏技術を知るエルンスト( Heinrich Wilhelm Ernst  1814 – 1865 )とパリで同室になりパガニーニ流の演奏様式の指導を受けたといわれています。

その後 オーレ・ブルはこの演奏技術の研究をすすめてヴィルトゥオーゾとして成功をおさめ、何千回も演奏会を行なったといわれています。

そして『 その名 』は彼の晩年に グリーグの存在により本格的に世界に広がっていきました。 エドヴァルド・グリーグ( Edvard Hagerup Grieg  1843 – 1907 )は スウェーデン統治下のノルウェーで生まれ 1905年のノルウェー独立を見届けたあとの 1907年にベルゲンで没した作曲家です。

オーレ・ブルは グリーグと遠戚関係がありました。彼は1858年の夏に 当時 15歳のエドヴァルド・グリーグと出逢い その才能を見出しました。 その直後にオーレ・ブルは 両親に息子をライプツィヒ音楽院に入学させて才能を伸ばしてやるように説得したと伝えられています。


グリーグはこれにより 1858年から3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学びました。

その後 コペンハーゲンで勉強を続けたあと1867年にオスロで指揮者に就任し結婚します。この年にノルウェーの劇作家 ヘンリック・イプセン( Henrik Johan Ibsen  1828 – 1906 )は 戯曲『 ペール・ギュント( Peer Gynt )』を発表しました。そしてこの後に これを劇音楽として上演することとなり 1874年にイプセンは 作曲家として名を上げつつあった同国人のグリーグに作曲を依頼し、完成したこの作品は 1876年のオスロの王立劇場で初演されます。

”  放蕩の限りを尽くした農家の息子ペールギュントが若者のとき妻を置き去るように旅にでて 長い旅の最後に歳をとり老女となった故郷で待ち続けたその″ 純情な女 ″ ソルヴェイの住む家にたどり着き、 彼女の胸にいだかれ子守唄に癒されながら永眠する … ”

詳細をご存じな方も多いでしょうが‥ かなり衝撃的なストーリーだと思います。 因みにオーレ・ブル( Ole Borneman Bull  1810 – 1880 )は 1836年にフランス人女性のアレクサンドリーヌ・フェリシー・ヴィルミノ( Alexandrine Félicie Villeminot  1818-1862 )と結婚して 6人の子供を儲けましたが ほとんどの子供が早世で、1862年にはアレクサンドリーヌも亡くなりました。 この時代に彼はノルウェー・ベルゲンの家にはまれに立ち寄る程度の『 風変わりな 』生活を続けていたようです。


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波乱に満ちた逸話が多いオーレ・ブル( 1810 – 1880 )に関しては 1832年にエルンスト( 1814 – 1865 )に演奏指導をうけてからたびたび訪れたアメリカ合衆国で大成功に恵まれた 1853年頃までの行動を調べるといくつか不可解に感じることが出てきます。

パガニーニ ( 1782 – 1840 )がヴィルトーソとしての演奏活動を休止したのが 1834年9月で、その時期に巻き起こっていた『 ヴィルトーソ・ブーム 』に乗ってオーレ・ブルは 1837年だけでもイングランドにおいて274回もの演奏会を開いたとされています。きっと それなりの収益はあげたと思います。

しかし‥ この時期に同じような演奏活動をしたヴァイオリニストは何人かいますが オーレ・ブルのように『 富豪 』となった事例を私は知りません。

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当時はパガニーニ( 1782 – 1840 )の唯一の弟子として知られるカミッロ・シヴォリ( Ernesto Camillo Sivori  1815 – 1894 )が 1827年から1864年までおよぶ長期の演奏旅行を続け 、たとえば 1846年にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のイングランド初演を行なっています。

それからベルギーのヴァイオリニストで作曲家、アンリ・ヴュータン( Henri François Joseph Vieuxtemps  1820 – 1881 )です。彼は 1829年に シャルル・ド・ベリオに連れられてパリに行き演奏会を成功させた神童で 1833年からドイツなどで演奏旅行をおこないシューポアやシューマンと親交を結ぶとともに、ベルリオーズやパガニーニさえも驚かせました。

そのかたわら 1835年から作曲の勉強をはじめ 1849年にサンクトペテルブルク、1850年にパリで自作の『 ヴァイオリン協奏曲 第1番 』( 1840年 作曲 )を演奏して大成功をおさめ、1871年にブリュッセル音楽院の教授として帰国するまで パリを拠点にペテルブルクやヨーロッパ各地、そしてアメリカ合衆国においても活躍しました。

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また、1832年にオーレ・ブル( 1810 – 1880 )にヴィルトーソ・テクニックの指導をした エルンスト( 1814 – 1865 )は 14歳だった1828年にパガニーニ( 1782 – 1840 )の演奏をはじめて聞いて超絶技巧のヴァイオリン演奏に目覚めて 苦心の末に彼の作品の再現に成功しました。その後にパガニーニを含む聴衆の前で『 ネル・コル・ピウ変奏曲 』を弾き‥ 作曲者であるパガニーニを吃驚させたと言われています。

エルンストは 1862年まで演奏活動や作曲を続け、現在も難曲として知られるヴァイオリン独奏曲『 フランツ・シューベルトの” 魔王 “による大奇想曲 』作品26や『 悲壮協奏曲 』作品23などを残しました。

 

それから 1879年にブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演をおこなったことで知られるヨーゼフ・ヨアヒム( Joseph Joachim  1831 – 1907 )は 12歳であった 1843年にライプツィヒでメンデルスゾーン( Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy  1809 – 1847 )に師事し、その年の8月にゲヴァントハウスで メンデルスゾーン、クララ・シューマン( Clara Josephine Wieck-Schumann  1819 – 1896 )らと共演した事でライプツィヒの聴衆の知るところとなりました。

そしてヨアヒム15歳の 1846年にはメンデルスゾーンに伴われて初めてロンドンで演奏し成功を収めました。彼は 1866年に王立音楽アカデミーの創設と指導のためにベルリンに招かれるまでライプツィヒとハノーヴァーを拠点に演奏活動をつづけました。ベルリンに移ってからはベルリン高等音楽学校の校長を務めるなど指導者としても人望と名声に恵まれ、レオポルト・アウアーやイェネー・フバイを育てたことで知られています。

 

  

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そしてパブロ・デ・サラサーテ( Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz  1844 – 1908 )です。

彼は 10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露したことで その援助を受けることとなり1724年製のストラディヴァリウスを与えられるとともに、 1856年からパリ音楽院で デルファン・アラール( Jean-Delphin Alard  1815 – 1888 )の指導を受けました。 それから 1860年代に入ると演奏家としての活動を始め 1865年にはサン=サーンスと演奏旅行をしたことで知られています。

因みに サン=サーンスはサラサーテに『 序奏とロンド・カプリチオーソ 』や『 ヴァイオリン協奏曲 第3番 』などを献呈しています。このほかにサラサーテは ラロの『 スペイン交響曲 』、ブルッフの『 ヴァイオリン協奏曲第2番 』、『 スコットランド幻想曲 』の初演と献呈をうけています。

A violin belonging to the Conservatory of Music in Madrid who carved in 1713 the most famous luthier of music history, Antonio Stradivari.


Un Stradivarius “protegido” se va de gira a Oxford

演奏に使用したヴァイオリンは 先にあげさせていただいた 1724年製のストラディヴァリウスのほかに晩年手に入れた1713年製ストラディヴァリウスの2台を使用したことで有名です。彼は1908年9月20日に 慢性気管支炎のため フランスのバスク地方である “ビアリッツ( Biarritz )”で亡くなっています。 享年64歳でした。

このように パガニーニが 1828年のウィーン、プラハそしてドイツ各地につぎ 1831年3月のパリ・デビュー成功と 5月のロンドンでも大成功をおさめたことに始まる『 ヴィルトーゾ・ブーム 』は 彼が 1834年9月に演奏活動を休止したのちも 次世代のヴィルトーゾを生みだし、ヴァイオリンを取り巻く熱気は20世紀前半まで続きました。

この時代に オーレ・ブルは演奏活動をおこない それなりの成功を収めた訳ですが‥ 彼は 最初の『 不可解な行動 』を 1830年代に取ります。なぜか ‥ 彼はパリで楽器商であるとともに弦楽器や弓の製作者だった ヴィヨーム( Jean-Baptiste Vuillaume  1798 – 1875 )に弟子入りしたのです。

J.B. ヴィヨームは 1828年頃にパリ(  46 Rue Croix des Petits-Champs, Paris  )に工房を設立し 1839年と 1844年の博覧会で金メダルを獲得したころから評価が上がり続け 1851年のロンドンで開催された 第1 回万国博覧会と 1855年のパリ万国博覧会でも金メダルを獲得するとともに この年にレジオン・ド・ヌール勲章も授与され成功の絶頂期を迎えました。

その彼は斬新なアイデアをも積極的に取り入れる性格だったようです。たとえば  1839年頃にパリでは写真スタジオを設立していた ダグロン(  René Prudent Patrice Dagron  1819 – 1900  )が 1852年にマイクロフォト写真( コロジオン・フィルム )をスタンホープレンズで拡大して見せる仕掛けを発案していました。

ヴィヨームは 1859年頃から1871年の普仏戦争まで この ダグロンと提携しヴァイオリン弓のフロッグのアイ部に空洞を設け 中にマイクロフォトを組み込み 手前にスタンホープレンズをセットして 反対側から光をいれると 写真があかるく拡大される仕掛けを施したヴァイオリン弓をプロデュースします。

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JEAN BAPTISTE VUILLAUME, A SILVER-MOUNTED VIOLIN BOW, PARIS, CIRCA 1860. The round stick stamped VUILLAUME A PARIS, the ebony frog fitted with a Stanhope picture lens surrounded in pearl, the silver and ebony adjuster, weight 58.5 grams

写真は ヴィヨーム自身が椅子に座ったものと 上の写真のポーズなど いくつかのバリエーションがありました。 またこの時期のヴィヨーム工房の弓は シャルレ・ペカット( Charles Peccatte )とピエール・シモン(  Pierre Simon )そして F.N. ボワラン ( François Nicolas Voirin )などが製作を担当したと言われています。

アンティークの世界では この仕掛けは『 スタンホープ 』と呼ばれます。ヴィクトリア中期にクリスタル素材のスタンホープレンズとマイクロフォト技術が開発されたことによって ピンの頭ほどのマイクロフォト写真に 宗教画などを撮って、それを拡大して見せる仕掛けが可能になったために1850年代から 1920年頃にかけて盛んに製作されました。 . . この時期に製作されたピクチャー・ボウは現代では とてもめずらしい弓になりました。 そもそも 私はこの加工がされた弓を J.B.ヴィヨーム工房製の楽弓以外で見た事がありませんので彼の独自アイデアだったと思っています。

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個人的にはロザリオなどに『 スタンホープ 』が組み込まれてマリア像が浮ぶものなどをみた事がありますがヴァイオリンなどの弓にJ.B.ヴィヨーム( Jean-Baptiste Vuillaume  1798 – 1875 )の肖像がはいっていても『  ‥???  』ただ首をかしげるだけで、強い自己顕示欲を感じ あまり良い感じはうけませんでした。

また J.B.ヴィヨームに関しては1933年11月にパガニーニ が使用していた 1742 年製のグァルネリ ・ デル ・ ジェズ 『 カノン 』 の修理を依頼された時にコピーを製作し、修理が仕上がった方と2台をならべて見せたらどちらが本物かわからなかったという逸話があります。

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私はこれはまったくの作り話しだと思っています。

Measurements   /    ” Cannon ”
A – Body stop        197.5
B – Distance between the upper eyes of the “f”-holes       40.5
C – Body length,  Back  :  Belly    354.0  :  354.75
D – Maximum width, upper bouts,  Back  :  Belly    168.0  :  169.0
E – Minimum width, C bouts,  Back  :  Belly      111.0  :  112.5
F – Maximum width, lower bouts,  Back  :  Belly    207.0  :  207.0
G – Width of ears      41.0
H – Total length of scroll         109.25

1998  Peter Biddulph  “Giuseppe Guarneri del Gesu”

Historical violin   /    ” Vuillaume – Sivori ”
A – Body stop        196.0
B – Distance between the upper eyes of the “f”-holes        41.9
C – Body length,    Back             357.0
D – Maximum width, upper bouts,   Back               171.0
E – Minimum width, C bouts,    Back                  111.1
F – Maximum width, lower bouts,  Back               209.0
G – Width of ears      41.6
H – Total length of scroll         106.6

All measurements are in mm, taken with calipers Comune di Genova  ( A cura del Settore Turismo e Promozione della Città )

In 1833, while in Paris, Paganini was forced to be separated for some time from his favorite violin, the Guarneri ‘del Gesù’, known as the Cannone since a delicate repair to the sounding board was necessary. The precious instrument was entrusted to Jean-Baptiste Vuillaume (1798-1875), a skillful violinmaker and friend of Paganini. Vuillaume not only repaired the Cannone perfectly, but he also made such a beautiful copy of it that an enthusiastic Paganini offered to buy it. Vuillaume gave the copy to the great violinist as a gift and symbol of his great affection for Paganini. Seven years later, in 1840, Paganini’s friend and lawyer, Luigi Guglielmo Germi proposed that the great virtuoso sell the violin made by Vuillaume to his pupil Camillo Sivori (1815-1894). Paganini agreed and told Germi to send 500 Francs earned from the sale to Vuillaume himself, declaring that he was sure the violinmaker would understand his desire to please a friend and an artist. Among the various precious instruments he owned, an Amati, a Stradivarius and a Bergonzi, Sivori preferred it and brought it everywhere with him in his long artistic travels. The fact that he had received the violin from Paganini was an understandable motive for the special attachment he felt and further indication of their artistic ties. Shortly after Sivori’s death in 1894, his heirs donated the violin to the City of Genoa. Since that time it has been kept at Palazzo Tursi together with the Cannone. Unlike the Cannone, the Sivori was left practically unused until the City, thanks to the sponsorship of Ansaldo S.p.A. in 1992, entrusted it to the violinmaker Renato Scrollavezza for restoration. As a result, the Sivori violin has been returned to contemporary concert activity. .
上記のサイズ表の右端がグァルネリ ・ デル ・ ジェズ の胴長( 裏板 )です。 この数字に象徴されるように ” Vuillaume – Sivori “の胴長 357.0mmは もともとグァルネリ ・ デル ・ ジェズ には該当するヴァイオリンが存在していません。ですから当然ながら『 完璧なコピー 』ではありませんでしたので、 専門家でなくても一見したときの印象が違うために間違えることはないと思います。
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J.B.ヴィヨームの『 実相 』にもっとも近いのは、このときの顛末をパガニーニ自身がイギリスに住む友人の法律家ルイージ・グリエルモ・ジェルミ( Luigi Guglielmo Germi )に宛てた手紙のなかに詳しく書かれている内容が示している‥ と私は考えています。
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これを1995年にジェノヴァの『 カノン 』の資料集として出版された ” PAGANINI’S VIOLIN   /  Its history, sound and photographs ” Edizioni Dynamic Srl, 1995 ( Dynamic Srl – Via Mura Chiappe 39, 16136 Genova, Italy )より引用させていただきます。
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P14 :  Paganini affectionately called it 《 my cannon violin / il mio cannone violino 》, because of its robust sound.  This characteristic was first brought to public attention by the reviewer of 《 Il Giornale delle due Sicilie 》, in an article commenting a concert perfor med by Paganini at Naples’s S. Carlo Theatre, in June 1819.He wrote : 《 Despite the fact that the Royal S. Carlo Theatre does not seem fit to enhance the sound of an instrument the beauty of which is lost in too vast a hall, the renowned artist has overwhelmed all the adversities inherent to the site.

Six years later, again in Naples, the Guarneri ran the risk of being damaged beyond restoration when Antonia Bianchi, who was then living with Paganini, in a scene of jealousy threw its case to the ground sending it to pieces; only the timely intervention of Paganini’s manservant, who tore it away from the furious lady, prevented its destruction. Describing the incident, the violinist concluded 《 And, quite miraculously,  I had it back safe, although somewhat affected.

In those years Paganini made his first fruitful contacts with Neapolitan luthiers, string manufacturers and bow-makers. To the latter he commissioned some bows to be built according to his own specific requirements, intending to sell them with the help of his friend and administrator, the Genoese Luigi Guglielmo Germi.

It is known that Nicolò took a keen interest in all aspects and intricacies of instrument making. The bow he used, and that he never replaced with any other kind, was by Tartini, bigger than a modern bow and with the horsehair running almost parallel to the stick. Regarding the strings he used, there is evidence that they were thinner than those then commonly employed, which enabled the 4th string to be tuned a major third above G, and, in Concerto No.1, all four strings to be tuned up a semitone, the original tonality being E flat and not D. – 中略 –

An unfortunate accident. Early restorations. Back to England, Paganini gave another series of concerts. There, in the Autumn of 1833, while on tour with the singers Charlotte Watoson and Miss Wells, the Guarneri had another accident, of which the violinist informed his friend Germi in a letter sent from Paris on the 17th of February 1834.

He wrote: « I do not recall whether I have already told you that, while I was on tour in England,  my English singers,  two damned young ladies,  gave my violin to the coachman ( upon boarding the coach that would take us to the theatre ),  instead of keeping in between their legs.  The case fell down and the instrument got damaged, thus I took in to a famous ( luthier ) for repair. Let us hope for the best ».

At the beginning of November 1833, when Paganini was temporarily back in Paris to have the Guarneri repaired by the luthier Vuillaume, he fell seriously ill.  In December he was feeling better and, writing to Germi, he revealed: « I have had enough of travelling and getting tired over concerts, I intend to quit for good playing  violin, my instrument must be worth about a million, would anybody be interested in buying it ».

This is a remarkable statement, for two reasons: first, because of Paganini’s outspoken intention to give up playing violin, probably expressed in a moment of pessimism brought about by his illness, but  corroborated by the fact that he asked Germi to send him a viola that the lowyer owned, for a series of concerts in London:  secondly, because of Paganini’s venal appreciation of his instrment.

Out of curiosity, in Genoa gold was then worth 3334 lire a kilo: with a million lire Paganini would have been able to buy three tons of it, whitch today would be worth about 3,700,000 US dollars.

Also this second repair was successful, and again Germi read about it in a letter from Paris, dated March the 9th, 1834: « The violin has been well repaired, but I have cut the middle finger of my left hand at the table, while slicing some Piacenza cheese: and it happened just the other night, when I had decided to start practising again to prepare for the concerts arranged in the mentioned cities. But fortunately it is not threatening to get infected and I trust it will heal with the only help of the plaster I have applied after bleeding it:  however, I will not be able to handle the violin before the concert ».

According to unverified testimonies, Paganini wanted to be present when Vuillaume repaired his instrument:  what is instead proven, is that on that occasion the Parisian luthier made an exact copy of the Guarneri, bought by Paganini for 500 francs. This copy was later given to Camillo Sivori who, in turn, donated it to the City of Genoa where it is still kept together with Paganini’s original. To be able to reach the bassbar and sound-post.  Vuillaume had to unglue the top and glue it back, substituting the old, probably half-crystallised glue with fresh one that would grant a higher cohesion with the sides.

Jean-Baptiste Vuillaume, whom Paganini called « famous » was thus the second luthier to be entrusted with the Guarneri for substantial work.  Since 1828 he had  operated a workshop in Paris, where, in addition to building instruments according to his own measurements, he had specialised in making copies of Guarneris and Stradivarius. In a letter to François Fetis, dated September 26th, 1834, Paganini recommended the use of the steel bows devised by Vuillaume, stating that « sont infiniement prèferables et bien supérieurs à ceux en bois »  ( they are infinitely preferable and much superior to the wooden ones ).  This sounds strange, considering that he himself never used one, remaining faithful to the old Tartinian bow defined « crude » by the same Vuillaume.

Paganini was almost excessively conscientious towards all more or less famous luthiers he got in touch with.  After Sawicki he met Lorentz Kunzel of Wrocklaw, to whom he wrote a letter-certificate in which he declared that his violins could compare with the best insturments of the Cremonese school for their « elegance of form »; and before putting his Guarneri in Vuillaume’s care, he signed a lettle sent to the Parisian luthier Lacoux ( 1832 ), saying more of less the same.  It is not improbable, howeve, that in order to avoid paying a luthier’s bill, Paganini offered in exchange to supply references, often overdone but nonetheless valuable because of his signature.

In 1834 the Guarneri turned 92 and Paganini 52.  Despite his predicted retirement, he kept performing, in England, France and Belgium, though not always with positive results. Scarcely over fifty, he had already started on the path of decline.  As a reaction he turned to trading in string instruments, putting to profit his knowledge of instrument making.   He bought valuable instruments such as Amatis, Guarneris and Stradivaris through an agent in Milan, the cellist Merighi, who was a member of the orchestra of Teatro alla Scala as well as a teacher at Milan’s Conservatory, and himself an expert.

The voice of Paganini’s « Cannon » was getting faint, as was his own voice, destined to be reduced to silence by the laryngophthisis from which he had long  been suffering.  When death caught him, in Nice in 1840, the Guarneri and a rich collection of string instruments by renowned luthiers, came into the hands of his son Achille.

 

1834 – 1835 In Paris Paganini asked Berlioz to compose a Concerto for viola and orchestra, but in the end rejected the finished work.  After a ture of Belgium, he went back to England, where he preformed in London and other cities.  At the end of June he travelled to Boulogne for a secret encounter with Charlotte Watoson, only to find her father insead: there ensued a scandal widely advertised by the local press.  Paganini returned to Italy, to take possession of a villa bought through his friend, the lawyer Germi, at Gajone, nere Parma.  He held concerts in Genoa, Piacenza and Parma, and was bestowed a specially struck gold medal by the Genoa administration.  In November 1835 Maria Luigia, the Duchess of Parma, asked him to be part of the Artistic Commission of the ducal theatre, for which Paganini prepared a regulations project.  In Parma he performed both as violinist and conductor. The Couret gave him wide powers and nominated him superintendent. He composed Barucabà . 60 variations  Op.14  MS 71.

1836 Due to opposition to the realisation of his projects,  Paganini disengaged himself from the appointment.  He travelled to Turin, for the documents neccessary to obtain the legitimation of his son, which he would later be granted by Carlo Alberto.

1837 After short stays in Nice and Marseilles for concerts, he went back to Genoa, where he wrote his final testament.  In of health and to series of setbacks and unfulfilled contracks, the business was destined to fail.

1838 Still in Paris, Paganini underwent therapy of different kinds, even trying homeopathy. He was nonetheless able to go to a concert of music by Berlioz, and in December donated the French musician 20.000 francs.

1839 Paganini travelled to Marseilles, where he was reached by the news that the Casino had gone bankrupt and that the Paris Court had sentenced him to pay a fine.  He tried hot-spring treatments at Balaruc and Vernet.  As he was in no condition to perform, he dedicated himself to trading in string instruments, a buisiness he had been carrying out for some time together with the cellist Vincenzo Merighi of Milan.  He appealed against the sentence of the Paris Court.

1840 He lost the appeal and was sentenced to pay a much higher fine than the one which had orginally been set.  After a short stay in Genoa, he moved to Nice, where his physical condition worsened beyond any possible remedy. He was by then totally voiceless, a consequence of the laryngophthisis of syphilitic orgin which had long been diagnosed to him.  He was able to communicate with his son only through written notes. Paganini died on the 27th of May.

Paganini left to posterity not only his violin and his mortal remains, but also and above all the fruit of forty years of artistic life: 6 Concertos and Variations for violin and orchestra, 3 string quartets and 15 quartets for strings and guitar, numerous sonatas for violin and guitar and for solo guitar, in addition to several other chamber works.

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J.B.ヴィヨーム( Jean-Baptiste Vuillaume  1798 – 1875 )の工房に出入りした後 、オーレ・ブルはたびたびアメリカ合衆国を訪れては金銭的な大成功をおさめます。そして 1853年には ペンシルベニア州に広大な土地( 11,144 acres = 約45km2)を 1万388ドルで購入して入植地を設けました。

この土地は4つの区域に分けられ ニュー・ベルゲン、その南10キロメートルに位置するオレアーナ、ニュー・ベルゲンより1マイル南に位置するニュー・ノルウェー、そしてヴァルハラと名付けられました。 オーレ・ブルは、ヴァルハラの最高地点を『 Nordjenskald 』と呼んでそこに城を建てようとしましたが結果として果たせませんでした。この開拓事業が間もなく頓挫すると彼は演奏活動に復帰したそうです。この時期にオーレ・ブルが 1836年に結婚しノルウェーに残したフランス人女性の妻( 1818-1862 )と6人の子供達(  6番目の Lucie Edvardine Bull は1846年の生まれで 最後の一人でしたが 1869年に死亡しました。)も全員亡くなりました。

こののちにオーレ・ブル( 1810 – 1880 )は 1868年にウィスコンシン州マディソンで演奏会の際に当時17歳だった富豪の材木商の娘セーラ・チャップマン・ソープ( Sara Chapman Thorp  1850 -1911 )と出逢います。彼は 1870年に再び訪米すると歳の差にもかかわらず求婚し、その年の 6月にノルウェーで密かに結婚してしまいます。 いろいろあったようですが‥ 彼らはこの年の終わりに マディソンで晴れて公に挙式を行ないました。このセーラ夫人とは 娘オレア( Olea Bull  1871 – 1911 )が生まれました。

オーレ・ブルの伝説はまだ続きます。 彼は 1872年には ノルウェー・ベルゲンの南に位置するリーショーエン島(  Lysøen Island,  Norway  )を購入しました。 そして建築家のコンラート・フレドリーク・フォン・デア・リッペを雇って島の邸宅を設計させました。


コメントは‥『 ‥‥‥。』です。

オーレ・ブルの『 不可解な行動 』の最後は 1880年のことでした。 彼は 病身を押してシカゴで引退公演を行なった後の 8月17日に癌のためにリーショーエン島の自邸で息を引き取ったそうです。 彼の葬列は、おそらくノルウェーの歴史に残る最大の見世物であったといわれています。遺言に基づき亡き骸を運ぶ船を 15隻の蒸気船と何百隻もの( 一説によると一千隻とされています。)小舟が船列を組み先導したのだそうです。

彼は アマティやガスパロ・ダ・サロ、グァルネリ、ストラディヴァリらの数々の優れたヴァイオリンやヴィオラを蒐集しました。この中には 1574年頃にガスパロ・ダ・サロがオーストリア大公フェルディナント2世のために製作したヴァイオリンの逸品も含まれていました。そしてこの内の グァルネリ・デル・ジェズはブル未亡人によってベルゲン国立楽器博物館に遺贈されました。

 


私は歴史研究者ではありませんのでオーレ・ブル( 1810 – 1880 )については専門の研究家によって事実の検証が なされることを待ち望んでいます。 しかし残念なことに現状はそうではありませんので 彼に関しての状況証拠から私の『 個人的な感想 』として言わせていただくと、オーレ・ブルは ” ヴィルトーソ”タイプの演奏をしたヴァイオリニストであるとともに、演奏会を通じて面識があったアメリカの富裕層にパリから運んだヴァイオリンを販売することで 資産形成に成功したノルウェー人だった‥ 私は そう思っています。

彼と協調関係にあったと考えられる J.B.ヴィヨーム( 1798 – 1875 )が 弦楽器の販売などで 1850年代には『 富豪 』として大成功するのと歩調をあわせるように、オーレ・ブル( 1810 – 1880 )も資産家となりノルウェー・ベルゲンの南に位置するリーショーエン島(  Lysøen Island,  Norway  )で 世を去ったとすると、同じノルウェーの劇作家 イプセン( 1828 – 1906 )が オーレ・ブルを 1867年に発表した戯曲『 ペール・ギュント( Peer Gynt )』のモデルとした話も 納得がいく気がします。

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さて話は変わりますが 先月から日本でも公開された 1922年頃のアメリカ・ニューヨークを舞台にした 2013年のアメリカ映画『 華麗なるギャツビー 』( 原題: The Great Gatsby )をご存じでしょうか?  バズ・ラーマンが監督・脚本を務め、レオナルド・ディカプリオ、トビー・マグワイア、キャリー・マリガン、ジョエル・エドガートン、アイラ・フィッシャー、ジェイソン・クラークが出演しています。

この有名な原作の『 グレート・ギャツビー( The Great Gatsby )』はアメリカの作家 F・スコット・フィッツジェラルド( Francis Scott Key Fitzgerald  1896 – 1940 )が執筆し1925年に出版された小説ですね。1922年のアメリカ。中西部出身のニック・キャラウェイはイェール大学を卒業後ほどなくして第一次世界大戦に従軍し、休戦ののち故郷を経て ニューヨーク郊外のロング・アイランドにある高級住宅地 ” ウェスト・エッグ “( グレート・ネック )へと引っ越してくる‥ 。

この映画はまさに1900年代初頭のアメリカでの富裕層の光と影をあつかっているので、ごらんになっていない方には一見をお奨めします。

http://www.youtube.com/watch?v=UCTPF4DivkA

LONG ISLAND

グレートネックはマンハッタンから列車で30分くらいのところにあります。 上の地図でいうと、左側にマンハッタンがあり 右に広がる大きな細長い場所が全て『 ロングアイランド 』と呼ばれる場所です。 アメリカで11番目に大きな島で大きさは東西に190kmです。 マンハッタンのグランドセントラルステーションから、グレーの線をたどり、そして一つ目の赤い路線にはいります。 そこから9個目の駅が『 グレートネック( ウェストエッグ )』で、その先のポートワシントン駅より先の岬部分 ( サンズポイントという地域 )が『 イーストエッグ 』です。 交通事故が起こるウィルソン自動車修理工場は『 灰の谷 』にある設定ですが‥ 小説では実際の灰の谷の場所よりも上のフラッシングにある設定になっています。 その場所は国道と鉄道の交差する場所です。 そして小説ではごみ処理場ですが、2013年の映画ではマンハッタンの繁栄のための電力や暖房で使い終わった石炭殻を処理する場所に変更されています。 ニューヨーク繁栄の裏の部分を描きたかったんでしょうか?

映画のなかでも このプラザ・ホテルでパーティを催すシーンが出てきます。 『 いかにも‥ 。』という感じで、よく作られていると思います。


これはプラザ・ホテルのシャンデリアです。


映画のシーンで、自宅の庭でポロの練習をしている『 大富豪 』であるデイジーの夫。

The Great Gatsby VFX

Tiffany and The Great Gatsby http://bit.ly/11wwlQn

 

恐縮ですが続きは下をクリックしてください。

ヴァイオリンについてのお話しです。               (  Part 4 )

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