ヴァイオリンについてのお話しです。 ( Part 4 )


2013-11-03


1880年頃にフランスで出版された服飾カタログ

Duquesne, Jacques. “L’exposition universelle 1900”
1900年のパリ万博の出品カタログから

第一次世界大戦( 1914 – 1918 )が終わったときには、戦場となったヨーロッパは疲弊していました。 そしてその時期に台頭してきたのがアメリカでした。 戦場にならなかった事も幸いして世界中の工場となり‥ とくに重工業が繁栄しました。

そして車はこの頃から一般人の層にも普及していきました。 またスポーツなども盛んになりました。 そして今まで家庭人としての立場にいた女性はその役目を終えて『 個性 』をもちだします。 女性がタバコを吸い始めたのもこの時代で、おなじく女性が 車に乗るようになったのもこの時代です。

実際に『 富裕層 』のなかの女性で『 自由 』が与えられ、ゴルフやテニスというスポーツを楽しむ人たちが出て来ます。 その状況で‥ たとえば車に女性が乗るようになるとオープンカーではない限り幅の広い帽子は邪魔になり、コルセットをはいたままでは運転できないことが判明しました。 スポーツも同様で仕事に出て行く女性の活動においても同様でした。

このように この時代の女性はアクティブになったために、そのファッションスタイルは『 大きく変わった 』のです。 この時代の風に乗ったフランスの女性ファッションデザイナーが『 ココ・シャネル 』がでした。 ココ・シャネル( Coco Chanel / Gabrielle Bonheur Chanel  1883 – 1971 )は 1910年にイギリス人青年実業家アーサー・カペルの援助によりパリのカンボン通り21番地に『 シャネル・モード 』という名で帽子専門店を開店します。

そして1913年にはパリのブルジョワ階級がこぞって休暇を過ごすリゾート地であるドーヴィルに2号店を開店し、1915年には フランス皇帝ナポレオン3世の皇后 ウジェニー・ド・モンティジョ( Eugénie de Montijo  1826 – 1920 )の館で有名な あの”ビアリッツ( Biarritz )”に『 メゾン・ド・クチュール 』をオープンするとともに 翌年にはコレクションを発表し大成功を収めました。

そして 1921年には本店をパリ・カンボン通り31番地に拡張して 前年に出会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された シャネル初の香水『 No.5 』、『 No.22 』を発表します。
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こうした彼女の事業展開は 1939年当時 4000人を抱える大企業として成長するまで続きました。そして 本当に波乱万丈の人生ですが この年にココ・シャネル( 1883 – 1971 )は 労働争議を発端として『 シャネル 』の一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖してファッション・デザイナーとして引退しました。

この後に彼女は 第二次世界大戦の嵐が過ぎ去った 1954年にスイスでの亡命生活を終えパリ・ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へカムバックを果たしました‥ 。彼女はまさに『 パイオニア 』でした。


1924 ~ 1930年撮影

ココ・シャネル( 1883 – 1971 )は 1924年から6年間のあいだ 第2代ウェストミンスター公爵( Duke of Westminster )ヒュー・リチャード・アーサー・グローヴナー ( 1879 – 1953 )と交際しました。
2013年のアメリカ映画『 華麗なるギャツビー 』( 原題: The Great Gatsby )にも登場しますがココ・シャネル( 1883 – 1971 )達が デザインしたつばの小さな帽子と、ジャージの生地のスーツを着こなし、煙草を吹かしたかと思えば‥ そのにおいを消す香水を着る 『 フラッパー 』とよばれた女性達に私は『 時代 』を感じます。

CHANEL 16424、1927年頃 ( 写真左 )/  CHANEL  1927年頃
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さて‥ アメリカ合衆国では 1890年の国勢調査で 初めて工業生産高が農業生産高を上回り、1913年には世界の工業生産の3分の1以上を占めるまでになりました。

これには先にも述べましたが 1840年から1920年までにヨーロッパを中心とする他の大陸から 3,700万人という前例の無いような移民がアメリカに渡り、結果として安い工場労働力を提供するかたちになったことが大きかったと思います。

そして工業の発展と人口の拡大は少なからぬ犠牲も発生させました。ほとんどのインディアン部族は小さな居留地に押し込められ、白人の農園主や牧場主がその土地を手に入れる‥ そういう事例がアメリカのあちらこちらで発生したり、工場における労働者の虐待は日常の情景となっていました。


また下写真にあるように『 児童労働 』の問題も1800年代後半から引きずったままで、なかなか改善されませんでした。

1900年代初頭は アメリカのいたる所で 上写真のように 例えば5歳や8歳の児童が新聞を路上で販売していたり、USスチールの企業城下町だったピッツバーグの石炭工場で撮影されたような情景も 決して特殊な事例ではありませんでした。

ここまで100年前のアメリカの状況を中心に列挙してきました。 この歴史話の最後としてベルギーで撮影された写真をあげておきたいと思います。私はヴァイオリンが普及していったこの時代には こういった写真も大きな影響をあたえたと思っています。

これは 9歳の息子にヴァイオリンの指導をする母親とその夫です。

彼女の名はエリザベート・ド・バヴィエール( 1876  – 1965 )ですね。 ベルギー国王アルベール1世の王妃で、レオポルド3世の母として歴史に名を残しています。 父はバイエルン公カール・テオドール、母はポルトガルの廃王ミゲル1世の娘マリア・ジョゼだそうです。

その名はオーストリア皇后エリーザベト( 1837 – 1898 )別名『シシィ( Sissi  )』の姪であるために彼女の名前を取って名付けられたそうです。バイエルンの生まれでルートヴィヒ2世( 1845 – 1886 )と同じくヴィッテルスバッハ家の一員です。

ソファーにすわっているベルギー国王アルベール1世( 1875 – 1934,  在位 1909 – 1934年 )は 即位してまだ半年ほどの 若々しいロイヤル・ファミリーです。


1830年に独立を宣言したベルギーは先王であるレオポルド2世( 在位 1865年 – 1909年 )が 1885年に中央アフリカのザイール川流域に私領地『 コンゴ自由国 』を1908年まで所有し莫大な富を得ました。1909年に先王は圧政批判を受けベルギー政府に譲渡しコンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地『ベルギー領コンゴ 』となりコンゴ民主共和国として独立する1960年まで続きました。

ウジェーヌ・イザイ( 1858 – 1931 )との親交で知られるアルベール1世の王妃エリザベートにヴァイオリンの指導をうけている息子は、後に第4代ベルギー国王 レオポルド3世( 1901 – 1983 、在位:1934年 – 1951年 )となります。

 

上写真は 1914年撮影だそうです。 彼の実名はレオポルド・フィリップ・シャルル・アルベール・マンラド・ユベールテュス・マリー・ミゲル( Léopold Philippe Charles Albert Meinrad Hubertus Marie Miguel )さすが『  王家 』という感じがします。

1900年代初頭のアメリカやヨーロッパで 産業革命の時流にのって経済的な成功をおさめた富裕層の家庭にとってこのロイヤル・ファミリーの写真は まさに『 理想 』としてみられたようです。

              

 

この時代に J.T.L.社( Jérôme Thibouville-Lamy & C. )は フランスでヴァイオリンを盛んに製造して販売します。

 

非常に残念なことですが ヴァイオリンの普及が進むことに繋がった これらの『 音楽ブーム 』は 1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒とした金融恐慌『 暗黒の木曜日( Black Thursday )』で失速し、1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレディ・アンシュタルト( 1855年にロスチャイルド男爵が設立しました。)の破綻やドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行の倒産によりドイツで金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し世界恐慌が発生したことで終焉をむかえます。

 

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私はオールド・ヴァイオリンはこの『 関節の役割 』をはたす『 任意の点 』が多数設定されているかどうかを確認することで正確な真贋の判断ができると考えています。

では‥ ここからチェロの指板を具体例として 製作工程をご説明したいと思います。


まず 指板のネック端にあたる部分に鉛筆でしるしをつけます。

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指板を取り付ける響胴の『 くせ( 剛性 )』を考え重心の位置を決めます。 18世紀に製作されたチェロの特性を持たせた私の自作チェロの場合は、さきほどのネック端のラインを『 重心( Center of gravity )』としています。


指板の黒壇は当然ながら自然素材ですから指板材の個体差がかなりあります。 そこで 下の写真のように『 重心( Center of gravity )』をもって指板を水平にして振ってみます。

 


こうして振ったときの指板のゆれ方の変化を読み取りながら、削り工程のプランを考えて 指板のゆれ特性を整えていきます。


指板材ははじめは厚いですから‥ かなり重いですね。 因みに このチェロ指板は 440.0g もありました。この荒削りのときに指板裏の彫り込みは 両側にあるへり部分より少し中央部が薄くなるように意識しながら丸刃などでしっかり彫り込みます。


そして、また振ってみます。そうすると裏の彫り込みによって揺れ方が変化するのが左手の感触で分かります。


ほどほどに窪みの中央部を削りこんでから また振ると 指板の両側へり部の重さが 『 V字状 』に感じられるようになります。 そこで両側へり部の彫り込みをすすめ 指板をゆらした時に『 中央の尾根部( Center line )』に重さがくるように軽くしていきます。


専門店で使用される市販の指板の裏側彫り込みの奥部にある『 基準線( Reference line )』は ネック端ラインよりかなり手前で、その間に『 スペース 』が設けられています。最初にご説明したように 指板を取り付ける響胴がゆれやすい特性があるようでしたら 少しずつ『 基準線( Reference line )』を移動して 『 スペース 』を減らしては‥ 振ったときに軽やかに指板がゆれるように作業をすすめていきます。逆に響胴が” 頑固 “なようでしたら 用心して適度に 『 スペース 』を残す方針で‥ その量を探っていきます。

そして適度な揺れが起るようになってきたと判断したら整形工程にはいっていきます。これは指板の駒側部が『 中央の尾根部( Center line )』を軸として 下写真の模型のようなイメージに曲がるように加工していく工程です。

これも指板を振ってみると判断は簡単で‥ 上写真の ⓐ部をまず削りそれから確認のために指板を揺らし そしてもう一方のⓑ部を彫り込み、また 揺らす手順で進めます。 ここは指板の両側へりのつけ根にあたるため それぞれのへり部の揺れをつかさどります。ですから削り込みを進めると 指板駒側ゾーンのヘリ部分のゆれが大きくなるのが 確認できます。


こうして指板裏の両側へり部分と付け根部を削ったら、また 尾根部裏側窪みの中央( Center line )を削る‥ といった具合で彫り込みをすすめながら 随時 ゆれ方を確認します。

これらの彫り込みによって 指板の駒側部センター・ラインに『 尾根状の変形 』が生じるようになると、揺らした際に 重さが『 中央の尾根部( Center line )』から指板重心付近にコンパクトにまとまって来た感じがすると思います。


指板をゆらした際の変形は 裏側彫り込み部中央をすこし薄くしたうえで、写真の『 円部 』を削ると割と簡単に生じます。


ここは先にお話しした『 関節部 』の役割をはたしますので 私は丸刃などでしっかり彫り込むことをお奨めいたします。


私はこれらの経験則によって『 ゆらした際に 中央尾根部の軸と重心部の狭いゾーンに重さがコンパクトに集まり、それでいて良く揺れる指板 』が良い響きを生みだすと考えています。


初めにお話しさせていただいたように 今回製作した自作チェロは 18世紀に製作されたオールド楽器の特性を取り込んでいますので 指板裏側部の彫り込みはネック端のラインを『 重心( Center of gravity )』として削りあげました。 この時点でこの指板の重さは 216.0g となりました。

指板のネック端部に『 関節的な自由度 』を設定する弦楽器製作者は現代でも少数ながら存在しています。 例えば下写真の Hans Weisshaar 氏はスクエアーに近い彫り込みの指板も製作しているようです。

ともかく 古( いにしえ )の弦楽器製作者はこれらの条件を十分把握してヴァイオリンを製作したようで‥ 当時のヴァイオリンをよく見ると下の写真のように指板先をV字型にカットしてあったり指板の厚みをG線側とE線側で変えることでゆれを誘導してあったり、バロック・ヴァイオリンの指板のように意図的にネック端部の指板を加工することで 指板のゆれが響胴に対して不要な応力をくわえないように工夫したあとを見ることが出来ます。

            

下写真の2台のガダニーニに取り付けられた指板は ネック端と裏側彫り込みとの間にスペースをもうけてあるようです。上段は裏側彫り込みを急激に深くしてあり( Steep slope )、下段の指板は 緩斜面( Gentle slope )として彫り込んであるのが分ります。

指板を削る見本として挙げさせていただいた自作チェロの指板はこれらを判断した結果 下写真の設定で仕上げました。これはネックに仮貼りの後に 表側のスロープを整形し、それから指板のゆれが細やかになるようにオイル仕上げ‥ 今回はリンシードとあと2種類を使用してみがきあげながらフィニッシュします。

ヴァイオリンなどの弦楽器専門家として指板をみるとき 響胴といかに調和させる工夫がされているかは必ずチェックしています。 この投稿のはじめに過去例としてあげさせていただいた 1年2ヶ月ほどで剥がれた指板は すこし頑固な胴体のドイツ製ヴァイオリンに取り付けられていました。 そのため接着面積が少なかった事もさることながら、どちらかといえば胴体のゆれと指板の特性が合わなかったことが早期の脱落につながったと私は思っています。

このタイプの指板は まれにですが オールド・ヴァイオリンとみごとに適合して何十年も剥がれないで使用されたケースを私は知っていますので その判断の誤りを残念に思います。

指板の設定では他にもだいじな事がいくつもありますが 、今回はここまでとさせていただきます。

ありがとうございました。

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