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“バイオリンの秘密 ” を生んだ 複雑な音響メカニズム

これは 中央下部に黎明期のヴァイオリンが描かれている カラヴァッジオ作の油彩画『 リュートを弾く若者 』です。現代では ヴァイオリンという楽器の初期の状態は こういった絵画などによる検証が重要となりました。

カラヴァッジオ リュート奏者 ( 1595年頃 ) - 1 L
Michelangelo Merisi da Caravaggio  1571-1610
” Suonatore di liuto”  1590年頃    エルミタージュ美術館

 

私は この絵画に描かれた ヴァイオリンのネックと指板の設定、ネック角度と駒の低さなどは、当然ですが響胴の規格に調和するように選ばれたと推測出来ますので 音響システムとして量的にとらえることを助けてくれると私は思っています。

さてバロック・ヴァイオリンではプレーンガット弦を用い、多くの場合A線を415Hz(バロック・ピッチ)あるいは392Hz(ベルサイユ・ピッチ)に調弦する。

さて‥ 私は ここまで ヴァイオリンを見分けるために、コーナー部分の左右の非対象性‥  特に A コーナーと B コーナーの面積差異に注意しながら観察することをお勧めしました。

ここはストラディヴァリが使用したと考えられている F字孔位置を設定するテンプレートでも重要な基準線として書き込まれています。

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) F - HOLE placement template G violin ( MS No 117 ) - 1 Lまた、このテンプレートにより 『 オールド・バイオリン 』における響胴の基本設定が ヴァイオリンの表板や裏板の輪郭ではなく側板のアウトラインによってコントロールされていたことを知ることが出来ます。

VIENNA micro-CT LAB - C L

私は 弦楽器を観察するときには、まず側板から表板や 裏板がオーバーハングした幅をおおよそ把握します。

それから表板や 裏板が正対するように ひっくり返して パフリング位置との関係をめやすに 真正面から裏板や 表板をながめ、非対称性を”一定の剛性比”として観察するようにしています。

 Antonio Stradivari 1720年 Ex Bavarian - J L
Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) violin 1699年 Auer - M L
また私は この時、表板と裏板の大きさ( 幅 )の差も大切な観察ポイントとしています。

Matteo Goffriller Venice 1710 (1659-1742 ) X-ray - A L
実際に厳密に計測してみれば分かることですが 『 オールド・バイオリン 』の左右の長さや 幅の差は およそ 1.0 ~ 2.0mmほどの場合が多く、板厚に関しては 0.1mm以下の違いまでが 音響システムとして利用されていると考えられます。

VIENNA micro-CT LAB - D L

ですから 表板や裏板の輪郭線をたよりに見分けようとされる方達の試みは、 このわずかな差を視きることが出来ないことで 確信を持って判断できないという状況に陥ってしまうのではないでしょうか。

また、2次元の画像でそうであった方が‥ 実際に現物を手にもって観察した場合には その上に 左右2つの眼球の視覚差異がかさなり、なおさら混乱が起こっていると 私は推測しています。

ところが‥ 私の場合もそうでしたが 音響上のしかけとして観察すると面白いほど弦楽器の見分けができるようになるようです。ここまで指摘させていただいた4つのコーナー部は関係性をもっている 言わば 4桁ないしは 8桁のパスワードの様なものと私は思っています。

ここまでその具体例としてコーナー部の非対象性‥  特に A コーナーと B コーナーの面積差異に気をつけて観察するのをおすすめしたのは この 4つのコーナー部の剛性バランスの選ばれ方で その弦楽器の製作者の 音響的技術力と その時代性が判断できるからです。

私が資料として手元においている都立高校の 物理 Ⅰにこういう趣旨のことが書かれています。

【  複雑に見える運動でも‥ 】
物体の”重心”は、その物体全体に広がっている質量の代表点です。物体の運動を考えとき 一見複雑に見える運動でも その重心の動きとしてとらえ観察すると、すべてに共通する一定の規則性が浮かび上がってくることがあります。これこそが力学の基礎的な概念を形づくる根源となるのです。

私は 『 オールド・バイオリン 』などの弦楽器を研究した結果、古典的技術に基づいたヴァイオリンは 4つのコーナーブロック部の内で  ひとつのコーナー部の剛性が意図的にさげられた設定とされている事に気がつきました。

私は これをヴァイオリンが鳴り続けられる‥ つまりゆれ続けられる工夫で、『 オールド・バイオリン 』の特質の一つだと考えるようになりました。

また、私は これらのヴァイオリンは演奏時には 弦の振動によって ねじりが加わることで 1:3 として分割され ヴァイオリン弦の振動によって “一対”でスムーズに ゆれ始められるように 非対称の形状が選ばれたと理解しています。

Andrea Amati ( c1505–1577 ) Violin ( 1555 ) - F L

ヴァイオリンの響胴のゆれは 表板側が駒部からで 裏板側は 鳴らす弦にもよりますが上下ブロックに近い Dライン辺りが折れ曲がり両側C字コーナー部が表板側にある F字孔にむけて倒れこむように揺れることからスタートする場合が多いと私は考えています。

因みに、この時にみられる響胴の動きは ティシュ・ペーパーの箱でA部とB部分を指で変形させることで再現できます。

下の写真のように 指でA部とB部に圧力をくわえると 同時にC部とD部が近づく動きをするので、それを横から見ると平行だったC部とD部が 『 ハの字形』に動いているのが確認できます。

実際のヴァイオリンでは 弦のゆれが C部とD部に力を加えるかたちとなり、その作用でA部とB部がゆれている訳です。

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ヴァイオリンを含めた多くの弦楽器は 下図のように指で押されて膨らんだ ティッシュペーパーの箱の表板中央ゾーンに駒をたてて 表板が膨らむ動きを E部とF部にふりわけて響胴が共鳴しやすいように変形していると私は考えています。

このときにA部とB部のそばの適当な位置にカッターなどで 6 ~ 7cm のまっすぐな切れ込みを二筋入れて指で圧力を加えてみてください。 指の圧力に対して『 閉断面 』と『 開断面 』では劇的な 違いがあることが理解していただけると思います。

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BOX-3-300x211

この駆動システムは実際のヴァイオリンの破損痕跡でも確認できます。

たとえば このヴァイオリンは製作されてから わずか12年後に バスバーの両側が完全に剥がれ、なお且つ指板下の表板ジョイント部が 140mm程( 表板全長 354mm )の長さにわたって剥がれていました。

ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - 2 L

ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - 3 L
ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - 4 L
ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - 5 L (2)
そして表板ジョイントの剥がれを撮影しようと私が表板をさわっていたら『 パキッ 』という音とともにバスバーが外れてしまいました。

ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - 6 L
そしてこの景色となった訳ですが、このようにバスバーがはずれたのは私の33年間の経験のなかで3例目の事例となりました。

ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - 7 L
これが脱落したバスバーをE線側から見たものでバスバー長さが 275.0mm 上下スペースがネックブロック側 39.0mmのエンドブロック側 40.0mmで厚さが写真向かって左のネック側端が 5.5mmで 駒部 6.4mmのエンドブロック側端が 5.8mmとなっています。

そしてバスバーの高さは駒部が 11.6mmで両端が 4.5mmとしてありました。
また F字孔間距離の最狭部は 39.8mmにしてあり、これに対しバスバーは 0.1mm内側に取り付けてありました。

ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 MONO - A L
このピグマリウス『 REBIRTH(リバース)』シリーズのヴァイオリンは魂柱( Soundpost )が立っていた部分が表板、裏板ともすでに窪みができていました。

ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - B L

Violin Sound post MONO - 1 L
ピグマリウス REBIRTH(リバース) 2001年製 2013年8月23日撮影 - C L
ヴァイオリンはバランスが合っていない状態で使用すると、疲労が進行し魂柱が立つ位置の表板と裏板の空間( 高さ )が少しずつ狭く( 低く )なっていきます。

しかし魂柱は圧力が強くなってもほとんど縮まないので、結果として表板や裏板にめり込むかたちになります。この破損につながる疲労の原因が  “つり合いの破れ” という現象です。

破損 - 2 L

この疲労破損がまねいた 最悪な事例です。

私が取り扱った事例ではないので推測ですが、疲労破損がすすみ表板や裏板に変形がおこり 上下ブロックの接着部などもゆるんだ状態だったところで、最後に楽器を落としてしまったのだと思います。

単純な原因でヴァイオリンが真っ二つに割れることはおこりませんので、これは言わば『 競合破損 』と言ったほうがいいかもしれません。

破損 - 1 L
ヴァイオリンを “強制振動楽器”と表現する方がいらっしゃるくらいで 弦をゆらすと思った以上に響胴は動きます。残念ながら、『 新品のヴァイオリンを買って間もないのに‥ 』という破損事例を 私もいくつか経験しました。

SUZUKI-1
たとえば バスバー剥がれの次の事例となりますが、この写真は 1992年5月に私の工房で撮影したものです。この1/2 サイズのヴァイオリン( SUZUKI VIOLIN No.280 )は 私が 1ヵ月前に新品で販売したものでした。

SUZUKI-2-231x300
このヴァイオリンは 新品で使い始めてわずかな期間しか経っていないのにバスバー剥がれによって鳴らすと すごいノイズ ( お子さんのお母さんもビックリするような 『 ダダダーッ!』という音がしました。)がしました。

当然ですが 私も持ち込まれた直後に修理が必要なことが分かりましたので、購入者のショックが深くならないように翌日に仕上げて納品するためにすぐに修理に入りました。このバスバーも 表板の動きにまったく合わない設定となっていました。

そして、このように バスバーが表板からはがれるプロセスが分かるのが下にあげさせていただいた写真です。

この Eugenio Degani (1842 – 1915) が 1910年に製作したとされるヴァイオリンの バスバー剥がれをごらんください。

Eugenio Degani (1842-1915) - 1 L上の2台のバスバーはがれと違って バスバーの先端部はまだ剥がれておらず 表板の幅広部にあたる位置だけが剥がれているのが分かります。

Eugenio Degani (1842-1915) - 2 LBOX-3-300x211

さて‥ 私はこの投稿を ヴァイオリンの見分け方のお話しをするために記述しています。その話のながれで響胴のゆれかたに ふれていますが ここで重要な事実を再確認しておこうと思います。

実際に『 オールド・バイオリン 』で達成されたことは独特の響きが生じるように、 響胴をすばやく 且つ、はげしく揺らし続けられる条件設定であったということです。

本物の弦楽器は 木工製の置物である箱状のものと違い 製作技術は

①  ゆれの初動がスムーズに生じる設定。
② 音高が明確で多様であること。

そのポイントとして 冒頭から例示させていただいたコーナー部の非対象性‥  特に A コーナーと B コーナーの面積差異を 私はヴァイオリンの音響システムの第二段階と捉えている関係で、まず響胴の 第一段階の動きについて説明いたしました。

弦の揺れによって生じさせていると 私は考えています。

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) violin 1699年 Auer - V L

そして 私は 第二段階で コーナー部 A,B,C,D が ねじれ始めると思っています。このとき 裏板コーナーA部が相対的に小さくするなど 剛性を低くしてあると、三角形 BCD が 一定の剛性を持ったまま 線分BDなどを折れ目として曲がると考えられます。

これは あくまで初動のイメージですが、私はヴァイオリンの響胴はF字孔端が弦の直接振動により内部の空気に疎密波を生じさせ( 一次振動 )、それがヴァイオリンの “駆動系”により表板の波源部にうまれたゆるみを共鳴振動させる( 二次振動 )仕掛けとなっていると考えています。

それを 単純モデルとして表現すると 静止状態では 四角形 ABCD の重心が点 G にあるととらえます。それが 響胴のねじりによって 点 A 部が他の剛性に負け、それにより 三角形 ABD が一時的に機能しなくなり 相対的に剛性を保った 三角形 BCD の重心点 H に重心が移動するというイメージとなります。

改訂版 高等学校 物理Ⅰ - 数研出版株式会社 平成23年12月印刷 - B L

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) violin 1699年 Auer - U L

表板につきましては 詳しくは これから先の投稿でふれようと思いますが、私は 裏板側 A コーナー部に剛性をさげる工夫がしてある場合には 表板のコーナー部では 裏板 B コーナー部にあたる 表板 Bass side – Lower corner に同じような工夫がしてある可能性が高いと思います。これを図にすると下のようなイメージとなります。

左図では 左側角が振動の起点となり奥の角がリレーションすることで「  ゆるみ 」が生まれます。また右図は対称型で 左側角の起点と手前の角がリレーションします。

 

私は 裏板の初動として ご説明した ねじりが 確実にすばやく起こるように工夫することで『 オールド・バイオリン 』などの弦楽器は すばやい音の立ち上がり( レスポンス )を確保していると考えています。これには “一定の剛性比”をふくむ 非対称性が重要となるのは言うまでもない事だと思います。

Half Size Violin 1998 - 2000 Varnish crack - B L
  Gasparo da Salò   /   Violoncello

では、ここで一台の 『 オールド・チェロ 』のコーナー部を見てみましょう。

Old cello reference - A L
この楽器は 表板 Bコーナー部( Bass side – Lower corner )に摩耗痕跡と面積差が認められます。

Old cello reference - C L
そうすると‥ 裏板 Aコーナー部はどうでしょうか?

Old cello reference - 2 L
一見したところ左右の面積比はおおきくないように見えます。
ところが 裏板 Aコーナー部をよく見てみると‥ 。

Old cello reference - 3 L
赤色で塗った 点 a.部と 点 b.部に 下の参考写真のような ” 復元加工”が施されていることが認められます。

Old cello - 5 L

私は このチェロも 表板 Bコーナー部と裏板 Aコーナー部にみられるように 響胴全てが 非対称設定で製作されたと 思います。
そう考えて検証すると このチェロのフォルムの歪みが意図されたと理解できるのではないでしょうか。

悲しいことですが、弦楽器を観察するときに踏まえてないといけないのが 19世紀初頭から この 1700年代に製作されたチェロのように 弦楽器工房で 非対称加工などが修復された事例が多数あるという事です。

現在では、弦楽器製作や修復の関係者で コーナー部は8か所とも全て 下の写真のように加工されていたと信じてしまっている人が過半数の状況となっていますので 、弦楽器を観察する場合には その程度が時代性を判断する状況証拠となりうるのではないかと私は思います。

Corner - 1 Lでは 恐縮ですが ここまでの説明を参考に現代のイタリア人製作者が『 オールド・チェロ 』を参考にして昨年製作した新作チェロと その見本で、コーナー部の特徴の差を観察してみてください。

Old cello reference - Contemporary Italian L
私は ヴァイオリンを観察し見分ける場合には “名のある楽器のイメージ”に頼るのではなく 音響システムの到達度や 温存度をヴァイオリンの評価基準とする事が大切と考えています。

 

 

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) 1726年 - B L
Antonio Stradivari ( ca.1644 – 1737 ),   Violin 1726年

Violin Corner block - G MONO L

The middle in the 17th century - F L

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) violin 1699年 Auer - AAntonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),   Violin 1699年 ” Auer ”

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) violin 1699年 Auer - F L

Antonio Stradivari ( c1644-1737 ) violin 1699年 Auer - C L

Violin back - C L

Antonio Stradivari violin 1715年 Giuseppe Tartini ( 1715-1770 ) - 1 LAntonio Stradivari,   Violin 1715  Cremona,  “The Lipinski”  .
( Giuseppe Tartini  1692 – 1770  )
Antonio Stradivari violin 1722年 de Chaponay - A LAntonio Stradivari,   Violin 1722  Cremona,  “”

Antonio Stradivari violin 1731年 1715年 1722年 - 1 LT
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弦楽器において非対象が 常識だった時代 について

ここでヴァイオリンなどの弦楽器における時代性について お話ししたいと思います。

私の別の投稿 [ ヴァイオリンと能面の類似性について ]でふれていますが、『 オールド・バイオリン 』を見分けるには おなじ時期に日本で製作された 能面を観察するのと おなじような視点が必要となってきます。

それは『 オールド・バイオリン 』などの弦楽器を理解するには、当時の弦楽器工房で “創作”と  “写し”が表裏一体としておこなわれたという事実に着目するということです。

Noh Masks - 1 L

Cremona Map - A L

■  Violin maker  ●  Violinist, Teacher, Composer  □  Bow maker

Pythagoras ( BC.582-BC.496 )
Archimedes
( BC.287-BC.212 )

1378 ~ 1417年  “Schisma” Roma : Avignon ( 1309-1377 )
1453年  Constantinopolis /  The Eastern Roman Empire ( 330-1453 ),  Extinction.

Christophorus Columbus ( 1451-1506 ),  1492年 Palos de la Frontera,España – San Salvador Island – 1493  Palos de la Frontera

Leonardo da Vinci ( 1452-1519 )
Vasco da Gama ( ca.1460-1524 ), 1497 Lisbon – Inldia – 1499 Lisbon 55 / 147

1517年  “95 Thesen” Martin Luther ( 1483-1546 )

1538年  Naval battle of Preveza / Turkish Empire
1543年  Nicolaus Copernicus ( 1473-1543 )

■  Andrea Amati ( ca.1505-1577 ) Cremona, Violin maker.
1539年   Established a workshop in Cremona.

Andrea Amati ( c1505–1577 ) violin - B L
Andrea Amati ( c1505–1577 ) violin - E LAndrea Amati ( c1505–1577 )  violin, Cremona   1555 ~ 1560年頃

私は現在得られる情報から判断して、この楽器が ヴァイオリンの完成型としては 最も初期に製作されたものと考えています。

また、クレモナ派において このヴァイオリンと共に重要となのが シャルル9世の 摂政カトリーヌ・ド・メデシスによってフランス宮廷で使用された楽器群だと思っています。

これらの楽器は この後 リシュリュー枢機卿が ルイ13世の宰相となった 1626年ころに 5パートからなる弦楽合奏団である『王様の24人ヴァイオリン隊 ( Les Vingt-quatre Violons du Roi )』の設立につながり、 ルイ14世が親政をはじめる 1761年ころまで この合奏団で用いられたとされています。

つまり これらの楽器達は、ヴァイオリンという楽器の黎明期の性能をさぐるときに 実際に演奏された音楽と連動させることで私たちに気づきを与えてくれる 生き証人なのです。

Catherine de Médicis ( 1519-1589 )
1533年  She married Henry II at the age of 14.

Charles Ⅸ de France ( 1550-1574 )
1561年  He was crowned the king of France.

それから ヴァイオリンにとって ” ガスパロ・ダ・サロ ”の愛称で呼ばれた ガスパーロ・ディ・ベルトロッティを 始祖とするブレシア派の弦楽器製作者も重要だと思います。

私は この ジョバンニ・パオロ・マッジーニが製作したとされる ヴァイオリンなどにみられる 彼らの能力の高さを心から尊敬しています。

■  Antonio Amati ( 1540-1640 ) Cremona, Violin maker.
■  Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ) Cremona, Violin maker.

“Gasparo da Salò”
■  Gasparo di Bertolotti ( ca.1540- ca.1609 )  Brescia, Violin maker.
■ 
Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 )  Brescia, Violin maker.

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – c1633 ) Brescia c1620 - 3
Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – ca.1633 ) Violin,  Brescia  1620年頃

Galileo Galilei ( 1564-1642 )
Johannes Kepler (1571-1630 )
Marin Mersenne  ( 1588-1648 )
René Descartes ( 1596-1650 )

 

●  Biagio Marini ( 1594-1663 ),  Brescia / 1615  Venezia ‘ Basilica di San Marco’ / 1620 Brescia / 1621 Parma / 1623 ~ 1649 Neuburg an der Donau / 1649 Milan / 1652 Ferrara / 1654 Milan / 1656 Vicenza  /  Venezia 1663  :   Violinist
Scordatura”,   “double and even triple stopping”,   “Tremolo”   

 

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■  Nicolò Amati ( 1596-1684 ) Cremona, Violin maker.
■ 
Andrea Guarneri ( 1626-1698 ) Cremona, Violin maker.
1654年  He founded the workshop in Casa Guarneri .

Otto von Guericke ( 1602-1686 )

●  Maurizio Cazzati ( 1618-1678 ), Luzzara / 1641 Ferrara, Bozzolo, Bergamo / 1657 ~ 1671 Bologna / 1671 Mantova

■  Jacob Stainer ( 1617-1683 ) Absam, Tirol.  Violin maker.

 

ca.1626 ~ ca.1761  ” Les Vingt-quatre Violons du Roi ” ( “The King’s 24 Violins” )  The Royal Palace in Paris  

Louis XIV ‘Roi-Soleil’ ( 1638 – ‘1643-1715’ ),  1661 ~ 1682  “Château de Versailles”

●  Jean-Baptiste Lully ( 1632-1687 ),  Firenze / 1646 France / 1652 The Royal Palace in Paris  / 1653 “Petits Violons” / 1661 French subject , 1661 ~ 1682 “Château de Versailles”  / 1685,1686,1687

●  Giovanni Battista Vitali ( 1632-1692 ),  Bologna / 1666 Accademia Filarmonica di Bologna / 1774 Modena  :   Violinist

■  Giovanni Grancino ( 1637 – 1709 ) Milan,  Violin maker.
■  Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ) Napoli,  Violin maker.
■  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ) Bologna, Violin maker.

Christiaan Huygens ( 1629-1695 )
Antonie van Leeuwenhoek ( 1632-1723 )
Robert Hooke ( 1635-1703 )
Isaac Newton ( 1642-1727 )

 

■  Antonio Stradivari ( c.1644-1737 ) Cremona,  Violin maker.
1680年 He founded the workshop in Casa Stradivari .

■  Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ) Cremona,  Violin maker.

Arp Schnitger ( 1648-1719 ),  active in Northern Europe, especially the Netherlands and Germany,  Pipe organ builder.

●  Heinrich Ignaz Franz von Biber ( 1644-1704 ), Bohemia / 1668  Zámek Kroměříž / 1671 Salzburg,  ca.1676 ” Rosenkranz-Sonaten ” ( Scordatura )  :   Violinist

●  Arcangelo Corelli ( 1653-1713 ), Fusignano / 1666 Bologna / 1675 Rome / 1681 München / 1685 Roma / 1689 Modena / 1708 Rome :   Violinist

●  Giuseppe Torelli ( 1658-1709 ), Verona / Bologna / 1684 Accademia Filarmonica di Bologna / 1697 ~ 1699 Fürstentum Ansbach / 1699 Wien / Bologna :   Violinist

 


 

■  Francesco Ruggieri ( 1655-1698 ) Cremona, Violin maker.
■  Pietro Giovanni Guarneri ( 1655-1720 ) Cremona / Mantua, Violin maker.

■  Matteo Goffriller ( 1659–1742 )  Venezia,  Violin maker.

●  Giacomo Antonio Perti ( 1661-1756 ),  Bologna / Parma / Venezia / 1690 ~ 1756 Bologna  :   Violinist

●  Tomaso Antonio Vitali ( 1663-1745 ), 1674 Modena :  Violinist

■  Carlo Giuseppe Testore ( c.1665-1716 )  Milan, Violin maker.
■  Filius Andrea Guarneri ( 1666-1744 ) Cremona, Violin maker.

■  Francesco Stradivari ( 1671-1743 ) Cremona,  Violin maker.
■  Omobono Stradivari ( 1679-1742 ) Cremona,  Violin maker.

■  Carlo Tononi ( c.1675-1730 ) Bologna / Venezia,  Violin maker.

●  Antonio Vivaldi ( 1678-1741 ), Venezia 1703 / 1740 Wien :   Violinist
● 
Pietro Castrucci ( 1679-1752 ),  Roma / 1715 London / 1750 Dublin :   Violinist

■  Carlo Bergonzi ( 1683-1747 ) Cremona,  Violin maker.
■  Domenico Montagnana ( 1686-1750 ) Venezia,  Violin maker.

Gottfried Silbermann ( 1683-1753 ) Saxony / Dresden, Pipe organ builder.
Zacharias Hildebrandt ( 1688-1757 ),  Pipe organ builder.

1687年  Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica

●  Johann Sebastian Bach ( 1685-1750 ), Eisenach / 1703 Weimar, Arnstadt / 1705.10 Lübeck 1706. 1 /  1707 Mühlhausen / 1708  Weimar / 1717 Köthen, 1721 Anna Magdalena Bach  / 1723 Leipzig

●  Giovanni Battista Somis ( 1686-1763 ),  Turin / 1731 Paris / Turin
:   Violinist
●  Francesco Geminiani ( 1687-1762 ), Lucca / 1711 Naples / 1714 London  :   Violinist

●  Francesco Maria Veracini ( 1690-1768 ), Firenze / 1711 Venezia / 1714 London / 1616 Venezia / 1723 Firenze / 1733 London / 1744 Firenze  :  Jacob Steiner violin  /   Violinist

■  Andrea Guarneri ( 1691-1706 )  Cremona,  Violin maker.

●  Giuseppe Tartini ( 1692-1770 ), Pirano / 1721 Padova, 1726 Violin School  :   Violinist

●  Pietro Locatelli ( 1695-1764 ), Bergamo / 1723 Mantua, Venezia, München, Dresden, Berlin, Frankfurt, Kassel / 1729  Amsterdam  :   Violinist

■  PietroⅡ Guarneri ( 1695-1762 )  Cremona / Venezia, Violin maker.  1718年  moved to Venezia

●  Jean-Marie Leclair ( 1697-1764 ), Lyon / Turin / 1723 Paris, ‘Palais des Tuileries’  / 1733 ~ 1737  ‘ Louis XV ( 1710 – ‘1715-1774’ ) / 1738 ~ 1743 Den Haag  / 1743 ~ 1764 Paris  :   Violinist

 

“Guarneri del Gesù”
■  Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 )  Cremona  :  Violin maker.  1722年頃  He is independent.

弦楽器製作流派である ”クレモナ派”の始祖  アンドレア・アマティ( Andrea Amati  ca.1505–1577 )  からヨーゼフ・グァルネリ( Bartolomeo Giuseppe Guarneri  1698-1744 )の活躍する時期までは、おおよそ 170年ほどです。

そののちに最後の”クレモナ派” J.B. チェルーティ( Giovanni Battista Ceruti  1755-1817 )が亡くなる 1817年までが 約100年、そして厳密な意味でイタリア最後の名工として トリノなどで 弦楽器製作をおこなった ヨーゼフ・アントニオ・ロッカ( Giuseppe Antonio Rocca 1807-1865 )の他界までがまた 50年程 でした 。

 

Giuseppe Guaneri Cremona c1730 Goldberg-Baron Vitta - A L“Guarneri del Gesù”  Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 )
Violin  ‘Goldberg-Baron Vitta’,  1730年頃

その ヨーゼフ・グァルネリが 1730年頃製作したとされる このヴァイオリンのコーナー部は挑戦的と 私は感じます。

Bartolomeo Giuseppe Guarneri - del Gesù ( 1698-1744 ) Violin Carrodus 1743年 - A L“Guarneri del Gesù”  Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 )     Violin  ‘Carrodus’,  1743年

 

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 ) Violin 1845-1850年頃 - C L
Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 )  Violin, Turin  1845 ~ 1850年頃

■  Camillo Camilli ( ca.1704-1754 ) Mantua,  Violin maker.

Carlo Tononi Bologna 1705 ( 1675 Bologna 1717-30 Venice ) - A L
Carlo Tononi  (  ca.1675 Bologna, 1717-30 Venice ) Violin,  Bologna  1705年

私は この楽器の左右のコーナー部に設けられた面積の差が 明解な設定とされていることをすばらしいと思っています。

このヴァイオリンが製作されたボローニャは ヴァイオリン演奏史のはじめに輝く アルカンジェロ・コレッリ ( Arcangelo Corelli 1653-1713 )が滞在していたことでも知られています。

彼は Bolognaから約40㎞ほど Ravenna方面に行った Fusignano の出身で 13歳である1666年にボローニャに移り1670年には わずか17歳でアカデミア・フィルアルモニカに入る事を認められ、1675年にはローマの 聖ジョバンニ・ディ・フィオレンティーニ教会の主席ヴァイオリン奏者となり 演奏活動を終えた5年後の 1713年にローマで亡くなりました。

ご承知のように彼が作曲し厳選して残した“ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集 ”などのすばらしい音楽は 今日でも演奏されています。 ボローニャはヴァイオリンの演奏でそうであったように、弦楽器製作でも重要な役割を果たしていました。

そして、この街で弦楽器製作者として有名になったのが  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 )と Carlo Tononi でした。

●  Giovanni Battista Martini ( 1706-1784 ), Bologna / 1758 Accademia Filarmonica di Bologna / 1774 “Saggio dl contrapunto”

●  Franz Xaver Richter ( 1709-1789 ), Moravia / 1740 ~ 1747 Kempten i.a. / 1747 Mannheim / 1769 ~ 1789  ‘Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg’  :  Violinist

●  Jean-Joseph de Mondonville ( 1711-1772 ), Narbonne / 1733 ~ 1772 Paris  :  Violinist

1701 ~ 1714年  War of the Spanish Succession
“France : Louis XIV ( 1638-1715 ) × Habsburg : Karl VI ( 1685-1740 )”

●  Cremona governance countries
España ( 1513 ~ 1524, 1526 ~ 1701 ) – France (  1701 ~ 1702 ) –  Republik Österreich / Habsburg  ( 1707 ~ 1848 )
●  Casa Savoia :  1713年 Regno di Sicilia – 1720年 Regno di Sardegna  / Torino – 1848年 The First War of Independence – 1859年 The Second War of Independence –  1866年 The Third War of Independence

■  Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ), 1711 Cremona / 1729 Parma / 1740 Piacenza / 1749 Milan / 1757 Cremona / 1759 Parma / 1771-1786 Turin, Violin maker.

■  Nicolò Gagliano ( active. ca.1730-1787 ) Napoli, Violin maker.
■  Lorenzo Storioni  ( 1744-1816 ) Cremona, Violin maker.
■  Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 ) Cremona, Violin maker.

●  Johann Wenzel Stamitz ( 1717-1757 ), Bohemian / Praha / 1741 Mannheim / 1754 ~ 1755 Paris / 1755 Mannheim :  Violinist

●  Leopold Mozart ( 1719-1787 ),  Augsburg / 1737 Salzburg / 1785 Wien, Salzburg :  Violinist
1751年  “Versuch einer gründlichen Violinschule”
– – – 
Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 )

●  Pietro Nardini ( 1722-1793 ), Fibiana / Livorno / Padova / 1762 Stuttgart / 1770 Firenze :   Violinist

●  Pierre Gaviniès ( 1728-1800 ),  Paris /  1744 “The Concert Spirituel”  / 1795 He became a professor at the newly-founded ‘Conservatoire de Paris ‘.  :   Violinist

●  Gaetano Pugnani ( 1731-1798 ), Torino / 1749 Roma / 1750 Torino / 1754 Paris, Nederland, London, Deutschland / 1763 Torino  / 1767 London / 1770 Torino / 1780 ~ 1782 Russia, 1782 Torino :  Violinist

Antonio Stradivari violin 1731年 Lady Jeanne - C LAntonio Stradivari ( ca.1644-1737 )  Violin,  1731年  Cremona
  ” Lady Jeanne “

 

Camillo Camilli ( c1704-1754 ) Violin Mantua 1750年頃 - A LCamillo Camilli ( ca.1704-1754 ) Violin,  Mantua  1750年頃

ボローニャから西北西方向に30㎞ほどのモデナ( Modena )を経て、そこから北に60㎞ほどゆくと マントヴァ( Mantua )があります。因みにこの街道は そのまま北上すれば ブレンネロ( Brennero )の峠を越えインスブルックから ミュンヘンへと至る重要な街道です。

このマントヴァは 1708年に スペイン継承戦争の敗北とマントヴァ公カルロ4世の死により公位が廃止されて ハプスブルク家に支配される事になりました。

このヴァイオリンが製作された時期には ピエトロ・ガルネリ(  “Pietro Guarneri di Mantova”  1655-1720 )の流れをくむ 弦楽器製作者が活躍していました。カミロ・カミリは そのマントヴァ派の 有名な弦楽器製作者です。

このヴァイオリンは コーナー部の左右の非対象性がはっきりと読み取れ、また表板と裏板が 強いアーチをもつ名器です。

● Luigi Rodolfo Boccherini ( 1743-1805 ), 1743 Lucca / 1757 Vienna  “The court employed” / 1761 Madrid / 1771 String Quintet Op. 11  No. 5 ( G 275 ) :   Italian cellist and composer 

Marie Antoinette ( 1755-1793.10.16 )
1770年  She married  Louis-Auguste ( 1754-1793.1.21 )  /  ” Louis XVI ( 1774 ) “  at the age of 14.
1793年  ” Louis XVI ” ( 1774 )  /  Louis-Auguste ( 1754-1793.1.21 )  

●  Johann Peter Salomon ( 1745-1815 ), Bonn / Prussia / ca.1780 London / 1791 ~ 1792, 1794 ~ 1795 Franz Joseph Haydn  :  Violinist

□  François-Xavier Tourte ( 1747-1835),  Paris :   Bow maker

●  Carl Stamitz ( 1745-1801 ), Mannheim / 1762 Mannheim palace orchestra / 1770 Paris / Praha, London  :  Violinist

●  Johann Anton Stamitz ( 1754 – ‥ ), Mannheim / 1770 Paris / 1782 ~ 1789 Versailles / ‘ 1798‥1809 Paris ‘  :   Violinist

■  Giovanni Battista Ceruti  ( 1755-1817 ) , Cremona  :  Violin maker.

●  Giovanni Battista Viotti ( 1755-1824 ), Fontanetto Po / Torino, Paris, Versailles, 1788 Paris, London, 1819-1821 Paris,  London :   Violinist

●  Federigo Fiorillo ( 1755-1823 ),  Braunschweig / 1780 Poland / 1783 Riga / Paris / 1788 London  He played the viola in Saloman’s quartet.  / 1873 Amsterdam, Paris

●  Wolfgang Amadeus Mozart ( 1756-1791 ), Salzburg / 1762 München, Wien / 1763 ~ 1766 Frankfurt, Paris, London / 1767 ~ 1769 Wien / 1769 ~ 1771 Milano, Bologna, Roma, Napoli / 1773, 1774 ~ 1775 Wien / 1777 München, Mannheim, Augsburg / 1778 Paris / 1779 Salzburg / 1781 München, Wien / 1783  Salzburg  / 1787 Praha, Wien / 1789 Berlin / 1790 Frankfurt / 1791 Wien, Praha, Wien

 

●  Bernhard Heinrich Romberg  ( 1767-1841 ),   “The Münster Court Orchestra” / 1790 Bonn  “The Court Orchestra” /  He lengthened the cello’s fingerboard and ‘Flattened’ the side under the C string  :   German cellist and composer 

●  Rodolphe Kreutzer ( 1766-1831 ), Versailles / 1803 Wien “Kreutzer Sonata ” Ludwig van Beethoven 1770-1827,  Paris 1795 ~ 1826 ‘Conservatoire de Paris’ –  1796年 Caprices – 1807 comprises 40 pieces – “42 Études ou Caprices”  / Genève, Swiss :   Violinist

●  Pierre Baillot ( 1771-1842 ),  Paris :   Violinist

●  Pierre Rode ( 1774-1830 ), Bordeaux / 1787 Paris /  1804 Saint Petersburg, Moscow / 1812 Wien ” Ludwig van Beethoven 1770-1827  Violinsonate Nr. 10 in G-Dur, Op. 96 ” / 1814 ~ 1819年  Berlin,  “24 capricci”  /  1830 Lot-et-Garonne :   Violinist

●  August Duranowski ( ca.1770-1834 ), Warsaw / Paris / 1790 Brussels / Strasbourg :   Violinist

●  Ignaz Schuppanzigh ( 1776-1830 ), Vienna /  He gave violin lessons to Beethoven, and they remained friends until Beethoven’s death.  :  “Schuppanzigh Quartet”  :   Violinist

■  Giovanni Francesco Pressenda ( 1777-1854 ),   Lequio Berria / Cremona / 1815 Torino,  1821 was able to open his own firm.    Violin maker.

●  François Antoine Habeneck ( 1781-1849 ), Charleville-Mézières / 1801 ‘Conservatoire de Paris’ / Paris  :  Violinist

●  Jacques Mazas ( 1782-1849 ), Lavaur / 1802 Paris / Bordeaux  :   Violinist

●  Niccolò Paganini ( 1782-1840 )
1802 ~ 1817年  ” 24 Caprices for Solo Violin ”  :   Violinist

●  Louis Spohr ( 1784-1859 ), Braunschweig / 1802 Saint Petersburg / 1804 Leipzig / 1805 ~ 1812 Gotha / 1813 ~ 1815 Wien /  1816,1817 Italiana / 1817 ~ 1819 ‘Oper Frankfurt’  / 1820 England / 1821 Paris / 1822 ~ 1859 Kassel :   Violinist
” Chin rest & Conductor’s stick “

●  French Revolution  1789 ~ 1793年
1791年  Metric system ( metre & kilogram )
Maximilien Robespierre ( 1758-1794 )

Giovanni Battista Ceruti ex Havemann 1791年 Cremona ( 1755-1817 ) 355-163-113-208 Wurlitzer collection 1931 - A LGiovanni Battista Ceruti  ( 1755-1817 )  Violin,  Cremona 1791年   “ex Havemann”  1931 Wurlitzer collection  

●  Joseph Böhm ( 1795-1876 ), Hungarian,  Pest  /  1819 ~ 1848 professor at the Vienna Conservatory,  His many students included Hubay, Joachim, Ernst,  Jakob Dont, Hellmesberger. Sr . :  Violinist

●  Georg Hellmesberger ( 1800-1873 ), Vienna / 1826 ~ 1833 ‘The Vienna Conservatory’ / His students were Joachim, Leopold Auer.  :  Violinist

●  Charles-Auguste de Bériot ( 1802-1870 ), Leuven / 1843  ‘Royal Conservatory of Brussels’ /  ‥ 1852. – 1858 – 1866 Brussels :   Violinist

■  Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 ),  Barbaresco / 1834 Turin,   It was during this time that he became acquainted with Luigi Tarisio, a violin dealer  / Rocca won prizes in his craft at a national arts and crafts exhibitions in 1844 and 1846.  / Enrico Rocca ( 1847-1915 ) / 1850 ~ 1865 Genova  :   Violin maker.

●  Auguste-Joseph Franchomme ( 1808-1884 ), 1831, 1833  Paris –  Frédéric Chopin,  In 1843 He acquired the Duport Stradivarius for the then-record sum of 22,000 French francs. He also owned the De Munck Stradivarius of 1730. Franchomme succeeded Norblin as the head professor of cello at the Paris Conservatory in 1846  :  French cellist and composer

●  Joseph Lambert Massart ( 1811-1892 ), Liège / 1829 Paris, 1843 ~ 1890 ‘The Conservatoire de Paris’  :  Violinist

●  Heinrich Wilhelm Ernst ( 1812-1865 ), Moravia / 1825 ‘The Vienna Conservatory’ /  1828 Niccolo Paganini visited Vienna. 1830 He played Paganini’s Nel cor pìù non mi sento. / 1865 Nice :   Violinist

  Risorgimento  ( 1815 ~ 1861 )

●  Jakob Dont ( 1815-1888 ), Vienna / 24 Etudes and Caprices :  Violinist

●  Henri Vieuxtemps ( 1820-1881 ),  Belgium / Liège , Brussels /  1829 Paris /  Brussels / 1833 Germany  /  1835 Wien / 1836 Paris / 1849  ~ 1851 Saint Petersburg / 1850 Paris / 1871  ‘Royal Conservatory of Brussels’ / Paris 1879 / Algeria :   Violinist

●  Joseph Joachim ( 1831-1907), Kittsee / 1833 Budapest / Wien / 1843 Leipzig / 1846 London / 1848  “Gewandhausorchester Leipzig ” / 1850 Weimar / 1852 Hannover  / 1866 ~ 1907 Berlin :   Violinist

●  Henryk Wieniawski ( 1835-1880 ), Lublin / 1843 ‘Conservatoire de Paris’ / 1874 ~ 1877 ‘Royal Conservatory of Brussels’ / Moscow :   Violinist

●  Pablo de Sarasate ( 1844-1908 ), Pamplona / 1854 Madrid / 1855 Paris / 1860 London, Paris, performing in Europe, North America, South America / 1864 Camille Saint-Saëns ‘Introduction et Rondo capriccioso en la mineur’   / 1878 Zigeunerweisen, 1883 Carmen Fantasy  / Biarritz 1908 :   Violinist

●  Leopold Auer ( 1845-1930 ),Veszprém  / Budapest, Wien / Hannover : Joachim / 1868 ~ 1917 Saint Petersburg  : St Petersburg Conservatory / 1918 America / 1824 The Curtis Institute of Music  :   Violinist

●  Eugène-Auguste Ysaÿe ( 1858-1931 ),  Liège / 1886 ‘Royal Conservatory of Brussels’  / 1918 Cincinnati  /  Brussels :   Violinist

●  Jenő Hubay ( 1858-1937 ),  Pest / Berlin / Paris / 1882 Brussels / 1886 Hungary, ‘Budapest Quartet’ / Hubay’s main pupils Joseph Szigeti.    Violinist

●  Lucien Capet ( 1873-1928 ), Paris / 1893 “Capet Quartet”  :   Violinist

●  Regno d’Italia ( 1861 ~ 1946 ) Last Casa Savoia : 1946年 UmbertoⅡ( 1904-1983 )

 

 

Nicolò Amati ( 1596–1684 ) violin 1669年 body L350 W201 - C LNicolò Amati ( 1596–1684 ),  Violin 1669年

Antonio e Girolamo Amati violin 1629年 - G LAntonio e Girolamo Amati,   Violin 1629年

Andrea Amati 1570年頃 ex Ross - D LAndrea Amati ( ca.1505-1577 ),  Violin 1570年頃  ” ex Ross ”
Leopold Widhalm ( 1722- 1786 ) 1769年 - A L
Leopold Widhalm  ( 1722- 1786 ),  Violin 1769年

 

 BALFOUR March 1903 - B L
BALFOUR March 1903 - A L
VOLLER BROTHERS violin 1900年頃 - A L

 VOLLER BROTHERS violin 1900年 - 1 L

 

 

■  William Voller ( 1854-1933 ), Guildford / London   : Violinist,  Violin Maker.

■  Alfred Voller ( 1856-1918 ),  Guildford / London /  Devon  :  Cellist,  Violin Maker.

■  Charles Voller ( 1865-1949 ), Guildford / London / Paignton, Devon  :  Violinist,  Violin Maker.

 

 

 

 

 

 

“オールド弦楽器”の 特徴について

弦楽器の最上の響きは・・  サウンド・ホールで変換された弦の振動と、響胴の ねじりによる「ゆるみ」から生じた共鳴 ( レゾナンス )によって生まれていると考えられます。

このために優れたオールド弦楽器は ねじりが生じやすいように工夫がしてあるようです。

この、ねじりに関しての条件設定は 響胴内部や素材特性のように簡単には判断できない範囲までおよんでいますが、外見上からも それに繋がる要素を見いだす事は可能です。

それが 非対称条件を観察する理由です。

Antonio Stradivari 1673年Harrell - Du Pre - Guttmann - C LAntonio Stradivari  1673,  Violoncello ” Harrell, Du Pre,  Guttmann ”

例えば チェロを観察する場合に、上図で A とした コーナー部に大きな摩耗が見られるようでしたら、それほど判断に迷う必要はないと思います。

それらが単純な摩耗ではなく 製作時に人為的な左右差として設定された可能性を見つければ済む訳ですから。

では、このストラディヴァリが 1673年に製作したチェロはどうでしょうか?

Giovanni Baptista Rogeri cello 1695年頃 - C L
また 、これは、ロジェーリ作とされていますが、コーナー部の左右差は どのように考えられますか。

Grancino cello made around 1690 cooper-collection - A LGiovanni Battista Grancino ( 1637-1709 ) Milan 1697年 - A L 次は 左右の面積差が見えやすい グランチーノと ストラディヴァリのチェロです。

Antonio Stradivari cello 1707年 Boni-Hegar - G L
そして、私自身が 摩耗説が誤りであることに気づく きっかけとなった『 オールド・チェロ 』を見てください 。

Old Italian Cello c1680 - 1700 ( F 734-348-230-432 B 735-349-225-430 stop 403 ff 100 ) - 1 LOld Italian Cello    1700年頃
( F 734-348-230-432,  B 735-349-225-430, stop 403 ff 100 )

また、有名な楽器で 参考例を挙げるとすると、エドゥアルド・ウルフソン( Eduard Wulfson 所有し、グートマン( Natalia Gutmanさんが使用している グァルネリ・デル・ジェスによる このチェロが 思い浮かびます。

Guarneri 'del Gesù' cello 1731年 - A L

” Guarneri del Gesù ”
Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 )
Violoncello  1731,  ” Natalia Gutman ”

私はこのチェロを 知らなかった8年ほど前に 共通の知人から ウルフソン( Eduard Wulfson 氏が グートマン( Natalia Gutman )さんたちと美術館のなかでトリオで演奏している DVDをいただき拝聴したのですが 、このチェロがもつ深い響きには衝撃をうけました。 

この グァルネリ・デル・ジェスのチェロでも 裏板高音側コーナーに施された摩耗加工を見ることが出来ます。

Guarneri 'del Gesù' cello 1731年 - C L

Guarneri ‘del Gesù’   Violoncello  1731,  ” Natalia Gutman ”

Bach :  Suite for solo cello No. 3 in C major
( Paris, Musée du Luxembourg,  2002/11/16 )
Natalia Gutman,Violoncelle

【Bach, Mozart, Schubert 】”La Société Stradivarius”
Yvietta Matison, Alto ( instrument )
Eduard Wulfson, Violin


それから、 Francesco Ruggieri が 1675年に製作したとされるチェロでも同じ景色を見ることができます。

Francesco Ruggieri cello 1675年 - A L

Francesco Ruggieri  ( ca.1645-1695 ),  Violoncello 1675年

確かに、チェロは A コーナーにひざを添えたり グリップしたりする際に触れることがあるので 摩耗痕跡は それにより生じたように思えます。

Joseph Thomas Klotz Violoncello piccolo Mittenwald 1794 ( 1743-1809 ) Sebastian 1696-1768 - C LJoseph Thomas Klotz  ( 1743-1809 )  Violoncello piccolo  Mittenwald 1794年

ところが 摩耗痕跡をよく見ていくと、それが不自然である事に気がつきます。

上のクロッツで これを見ると コーナーである A 部の塗装は多少はがれていますが、それよりも Q 部の方がもっと 剥がれています。問題なのは この Q 部に 演奏時にチェリストが 触れることは まず無いということです。

これは R 部についても言えますが、 実際にチェロの肩にはさわりますので 判断しにくいのですが、上のクロッツでいえば 摩耗したようになっているゾーンの中でも特に Q 部と S 部はアーチの不連続面の間にある谷状にくぼんだ部分ですから 自然な摩耗ではないことが分かります。

Giovanni Battista Genova ( warked ca.1740-ca.1770 )
Cello,  Turin  1770年頃

Nicolò Amati ( 1596-1684 )  Cello, “Herbert”  1677年

Girolamo Amati Ⅱ ( 1649ー1740 )  Cello,  “Ex Bonjour”  1690年

Carlo Ruggeri ( 1666–1713 )  Violoncello,   1706年

このように、演奏によって出来たとは思えない Q 部の摩耗痕跡は、オールド・チェロでは めずらしくはありません。

Guarneri del Gesù ( 1698-1744 )   Violin, “Enescu – Cathedral”  1725年頃

また、当然のことですが・・  この位置は オールドヴァイオリンでも意識されていることが確認できます。

Giuseppe Antonio Rocca ( 1807-1865 ) Violoncello 1850年 - D L
もし仮に、これらを 演奏や運搬による摩耗であるとすると、それなりの期間使用される必要があります。

とすると・・・『オールド』より使用された期間が短い『モダン』の弦楽器はどうなっているでしょうか。

170年程前のことですが、厳密な意味で最後の名工である ヨーゼフ・アントニオ・ロッカ( Giuseppe Antonio Rocca 1807-1865 )は、トリノで 弦楽器製作をおこなっていました。

彼の作品は、非対称条件に  摩耗痕跡の要素も取り込まれ あたかも”様式化”されたかのような工夫がなされています。

Giuseppe Antonio Rocca Torino 1850年頃 - A LGiuseppe Antonio Rocca( 1807-1865 ) Contrabass,   1850年頃

その端的な例が、彼が製作した摩耗や打撃痕跡があるコントラバスです。チェロと違ってコントラバスは A コーナーをグリップしませんので、これらの傷跡は 製作時の加工である状況証拠となっています。

Giuseppe Antonio Rocca Torino 1850年頃 - B L

Giuseppe Antonio Rocca( 1807-1865 ) Contrabass,  1850年頃

このように観察をしていくと『オールド弦楽器は、コーナー部などの 摩耗痕跡も駆使して 非対象( アシンメトリー )なバランスで製作されている。』と定義することが出来ます。

 

 

 

2016-10-22      Joseph Naomi Yokota

グスレという弦楽器について

Gusel - 1 L

グスレはバルカン半島地域(ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、クロアチアなど)に伝わる一本弦の弓奏楽器です。
楓材などの木をくり抜くように削り出して製作され、胴体部のくぼみを覆うように皮が張ってあり、ネック部やヘッド部はシンプルな形状のタイプや 馬や猛禽類の鳥などの彫刻がされているタイプなどがあります。

弦はネックから距離をおいて張られていて、音程を変える時はネックに弦を押さえ込まずに音程を変えるようになっています。
この楽器の伝統的な演奏者(guslar)は、英雄や歴史の物語・抒情詩を語るときに伴奏楽器として用いるそうです。


グスレは 54分20秒から出てきます。
( セルビア語:2010年にモンテネグロの村で撮影されたようです。前半は村の教会でのミサが入祭から聖体拝領までほぼすべてが記録されており、その後 集会所で奉献祭の食事会がおこなわれています。そして その終盤でグスレが登場します。)


クロアチアの独立記念日の祝いとして クロアチア共和国の首都ザグレブ(ヤルン)で 数千人の観客のまえでグスレが演奏されています。

Gusel - 2 L

私が このグスレという弓奏楽器に着目したのは 響かせるのが難しい 一本弦( 例外もあります。)という条件に加えて、 彫りおこしの響胴の関係から使用するためには “コツ” が必要と考えられたからです。

おなじ一本弦の弓奏楽器であっても 14世紀から18世紀半ばまでドイツなどを中心としたヨーロッパで流行した トロンバマリーナのように 響胴が板材で箱状となっていれば極端な “コツ”は必要なかったと 私は推測しています。

Canon Francis Galpin (1858-1945) - 1 L

Trumpet Marine Switzerland c1675-1750 - 1 L
Trumpet Marine Switzerland c1675-1750 - 3 L

Trumpet Marine Switzerland c1675-1750 - 4 L

 

このトロンバマリーナの駒部です。 この駒は ヴィヴラート・ブリッジと説明されています。
Trumpet Marine Switzerland c1675-1750 - 5 L

さて、グスレという楽器の特徴についてお話しすると、バルカン半島のそれぞれの地域で製作されるときに音響上の理由で 表皮部のサウンド・ホール( 一組型と二組型が基本です。)が選ばれ、また 響胴部の裏側中央に穴をあけるかどうかが考慮されているようです。

Gusel - 8 L

しかし最後は演奏者が 駒をどの位置にどの角度でたてるかが問われ、 その判断により 楽器の響きに極端な差が出ていると‥ 私は思っています。

Gusel - 7 L
そのいくつかの実例を下にあげたグスレ奏者( Guslar )の写真で ごらんください。

GUSLAR - 1 L

因みに さきほど 私が「  演奏者が使用するときの “コツ” 」 といったのは、ネックに対する 駒の角度と 位置を意味します。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

私は グスレという楽器は 左右の非対象性( アシンメトリー )が大きいタイプと、そうでないものに大別できると考えています。

そして非対象性が小さい楽器では『 ねじり 』の不足を補うために正中線に対して駒を極端に斜めにたてたり、響きを聴きながら 駒位置を微妙に左右にずらすことで 残響を保つ工夫をしながら演奏されていると私は推測しています。

一組型のサウンド・ホールをもつ グスレはこの工夫が 顕著です。

Gusel - 9 L

また、二組型の場合は表皮部のサウンド・ホールを 左右非対称とすることで『 ねじり 』の不足が補えるために、一組型よりも 駒の角度が正中線に直交するイメージに近い立てかたで演奏されていることが確認できると思います。

GUSLAR - 3 L私は 表皮部サウンド・ホールが 二組型で左右非対称タイプを このグスレ奏者の楽器のようなイメージとして捉えています。

the traditional Montenegrin gusle - B Lそれから この表皮部で駒がたてられた跡を見てください。

私は このグスレという弓奏楽器は バランスを変えないで連続使用をすると、演奏することで生まれるひずみにより 結局 響かなくなってしまうという特徴があると思っています。

ですから この駒跡にみられるようにグスレ奏者はこれを解決するために 駒位置と角度を時おり移動しながら使用しているはずと推測しています。
the traditional Montenegrin gusle - C L

 

私は グスレの専門ではありませんが 弦楽器がゆれ続ける条件について検証した結論として、これらの問題は 左右の非対象性( アシンメトリー )が大きいタイプでは生じにくいと考えています。

Gusel - 3 L
私はこの左右の非対象性( アシンメトリー )が弦楽器における古典的技術の特質だと考えています。

Gusel - 4 L

Gusel - 6 MONO L

たとえばルネサンス期の弦楽器で非対象性をみてください。
多くの部位で『 ねじり 』を生むために工夫されていることが解ります。
Gasparo da Salo - Cetera Brescia c 1560 ( c 1542-c 1609 ) L
Cittern by Gasparo da Salo ( c 1542 - c 1609 ) Brescia c 1570  L

これにより残響が確保され それにより独特の響きがうみだされていると 私は理解しています。

 

Cetera di anonimo - Ashmolean Museum L

Cittern c1600 English ( Length 616 - String length 340 ) National Music Museum - 1 L

Cittern c 1600 English ( Length 616 - String length 340 ) National Music Museum L

 

 

 

 

 

 

Bass viol  - 1    L

Hieronymus Brensius  -  Testudo theorbata  in Bologna    -  L

Hieronymus Brensius  -  Testudo theorbata  in Bologna   -  L
Ottavio Smidt    Liuto ( Tenore ) Parma 1612年  - 1     L
Magno Stegher  -  Gran liuto basso   Venezia 1607年  - 1     L

Magno Stegher  -  Gran liuto basso   Venezia 1607  - 1
Hieronymus Brensius  -  Testudo theorbata  in Bologna    - 1    L

私は “オールド・バイオリン”などの弦楽器も この左右の非対象性( アシンメトリー )が揺り籠となり 誕生につながったと考えています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
H F - Liuto tenore in Bologna - 1 L

この 弦楽器における古典的技術の特質といえる 左右の非対象性( アシンメトリー )は『螺鈿紫檀五弦琵琶』にもその要素を見いだす事ができます。

「螺鈿紫檀五絃琵琶」(長さ108㌢ 幅31㌢) - A L

この『螺鈿紫檀五弦琵琶』は知られているように 聖武天皇の崩御にともない 765年に光明皇后が天皇遺愛の品を 東大寺に献納したことにより北倉に収蔵され今日に至っています。

この校倉造りの倉庫には ほかにも 四弦琵琶,四弦阮咸(げんかん),七弦琴(きん),十二弦新羅琴,六弦和琴(わごん),大破した竪型ハープの箜篌(くご)があり,この他に箏に似た二十四弦瑟(しつ)の残欠などが残されているそうです。

この五弦の琵琶はインドが発祥とされ,中央アジア天山南路(西域北道)のほぼ中央で栄えたキジル(亀茲)国,現在のクチャ(庫車)を経由し,北魏に入り,唐を経由して日本にもたらされたとされています。

私はこの『螺鈿紫檀五弦琵琶』の画像に丁寧にコンパスをあててみたことにより、非対象性( アシンメトリー )が調和した見事なバランスで製作されていると理解しています。

ともあれ グスレという弓奏楽器を考察することで 響かせる条件をととのえるために『ねじり』が用いられていることが 皆さんに理解していただければ幸いだと私は思います。

これらの経験をするたびに 私は本当に弦楽器の世界は奥深いと感じます。

この投稿は以上といたします。

 

2016-8-04    Joseph Naomi Yokota

 

彫刻技術においての 優劣の見分け方

Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 )   Cello,  Brescia   the 1600s

私は ”オールド・ヴァイオリン” や、”オールド・チェロ” などの弦楽器で高度な彫刻技術を目にするたびに 本当に感動します。

そこで、そこにある豊かな世界を分かち合うために『 彫刻技術という視点から優劣を見分けることで その弦楽器を評価できます。』というお話しをしようと思いました。

そこで、先ずは「彫る」技術をヘレニズム時代の大理石像でイメージしてください。

● 盛期ルネサンスに影響を与えた ヘレニズム時代の彫像について
なお、これらの大理石彫像の本質について‥ 特に、比率についての意識を知りたい方には 下の投稿リンクをお勧めします。

● エーゲ海 キクラデス諸島の “偶然”について
(  長文で恐縮です。)

“De la statue”  1464年刊,  Leon Battista Alberti ( 1404-1472 )
『 デ・スタトゥア 』から復元された計測器

彫刻技術に関してさかのぼって調べてみると‥『 ルネサンス期に理想とされた”万能の人” 』と評されたアルベルティが、1464年に発表した『 彫刻論 』で、 彼が考案した計測器を使用することを提案しているのが目に留まります。

デフィニターまたはフィニトリウムとよばれ、回転する目盛り付きロッドが固定された円形ディスクをもち、そこから垂直錘が下がったものです。

これによって、極座標と軸座標の組み合わせで モデル上の任意のポイントが規定でき、現代のパンタグラフのようにモデルから大理石に移す事ができます。

“Measuring sculpture for reproduction”
Francesco Carradori(1747-1824),  Firenze  1802.

また、フィレンツェの彫刻家であったカラドーリが 1802年に出版した『 彫刻を学ぶ人のための基礎教育 』には、大理石彫刻のための計測方法や器具などが紹介されています。

“Measuring sculpture for reproduction”
Francesco Carradori (1747-1824),  Firenze  1802年

このように、彫刻家にとって対象物を計測することや 大理石を削ることは 昔から難問に等しいものでした。

しかし それでも‥ 私たちは、時代によって計測方法や 削り方の違いはありますが、残された彫像でわかるように モース硬度が 3~4 の「岩石」で作品を制作し続けてきたのです。

たとえば、下の動画では “Pointing machine” を計測に用いる彫刻技法による大理石彫刻が 紹介されています。

ポインティング・マシンは、その名前を イタリアのマキネッタ・ディ・プンタに由来しており、本質的には 任意の位置に設定して固定できる ポインティング・ニードルです。

この器具は、石膏、粘土、またはワックスの彫刻モデルを、木材や岩石に正確にコピーするための測定ツールとして使用されています。

発明者は フランスの彫刻家の ニコラス・マリー・ガトー ( 1751-1832 ) と 英国の彫刻家 ジョン・ベーコン ( 1740-1799 ) であるとされており、後にカノーヴァ ( Canova ) によって普及しました。

上の動画のように石膏モデルで 凹凸の基準点の位置と深さをニードル先端で取得し、その基準点を大理石に移します。エンピツの下に見えるのがニードルの先端です。大理石彫刻では、このように「 窪みの底 」として基準点を先に彫り込みます。

そして、座標となるそれらの基準点の印が消えないように凸部を削っていくのです。それから 最後の仕上げ段階の削りで 再度、くぼみ部を慎重に彫り込みます。

このように、素材としてはハードルが高い大理石彫刻ですらこの細やかさですから、木彫の分野においては 繊細さがより一層発揮されたのは当然といえるかも知れません。

たとえば‥『 北方ルネサンス 』と呼ばれていますが、ミケランジェロ ( 1475-1564 ) が活動していた頃に、ドイツで素晴らしい彫刻作品を作った ティルマン・リーメンシュナイダー( ca.1460-1531 ) の木像にそれを見ることができます。

『 Hl. Sebastian ( 聖セバスチャン ) 』 製作年 : 1515年頃  /  菩提樹 ( Tilia miqueliana ) シナノキ科
Tilman Riemenschneider ( ca.1460-1531 )

“Self-portrait” ( in the Predella of the Altar of Creglingen )   
Tilman Riemenschneider ( ca.1460-1531 )

この彫像に近いレリーフは、ティルマン・リーメンシュナイダーが 自らをモデルとしたと伝えられています。その彫刻技術を駆使した表現を、私は 本当にすばらしいと思っています。

そして、彼が亡くなった頃に開発された  ”オールド・ヴァイオリン” や、”オールド・チェロ” などを含めた木製弦楽器の場合も同じように細やかな工夫を見ることができます。

“Cittern”   possibly by Petrus Rautta, England,  1579年

“Cittern”   possibly by Petrus Rautta, England,  1579年

これを見分けるには『くぼみの彫り方 』を観察してください。

TT

 

 

 

 

この観点で上のヴァイオリン裏板画像をながめてみてください。
ヴァイオリンなどの観察のはじめは、『 どこが、どのように窪んでいるか ?』という点に着目し観察することが 見極める基本だと私は思います。

残念ながら ヴァイオリンなどの弦楽器において扁平にみえるものは未熟な人が製作した可能性が高いと 私は思っています。 木彫で使用する道具は考えないでもちいると‥ 出っ張ったところが削れます。これが単純化をまねき全体としてでこぼこが少ない扁平な印象の弦楽器の出現につながります。

 

 

 

 

まず参考のため2台のヴァイオリン裏板画像をごらんください。

この ヴァイオリンは 1620年頃 ブレシア( Brescia )で マッジーニ( Giovanni Paolo Maggini  1580 – c.1633 )  が   製作したものとされています。

Giovanni Paolo Maggini ( 1580 – c1633 ) Brescia 1620年頃 - A MONO

それから、もう一台は   Antonio Stradivari ( c.1644 – 1737 )が  1703年に製作されたとされているヴァイオリンで ” Alsager “と呼ばれているものです。

Antonio Stradivari violin 1703年 Alsager - B L
私は これらを観察するときに大切なのは 着目点としてなにを観察するかだと思います。

たとえば ヴァイオリンの演奏技術の優劣を判断したければ 音楽の特性から考えて一つの響きを『 音の始まり( 音の入 ) 』と『 音の終わり( 音の出 )』とに 意識的に聞き分ければ、十分に 優劣の判断ができると思います。

私は 上質な演奏は『 音の入 』を完全にコントロールできると達成できる可能性が高いと思っています。しかし、真の意味での音楽的に完成された演奏を達成するためには 『 音の出 』のコントロールが必要になって来ると考えています。

つまり演奏技術においては 演奏者が 『 音の入 』をコントロールするより、『 音の出 』( ” 音の始末”とも言います。)をコントロールするほうが はるかに難しいということを念頭において聴けば演奏技術としての優劣判断はほとんどの皆さんが 判断できると私は信じています。

ただし、これは『音楽的であるか』や、それが『ゆたかな音楽であるか』という観点ではありませんのでご理解のほどをお願いいたします。

 

さてヴァイオリンや チェロなどの木製品の場合です。
重要なのは 彫刻技術の能力は『くぼみを彫る技術 』に現われるということです。

この観点で上のヴァイオリン裏板画像をながめてみてください。
ヴァイオリンなどの観察のはじめは、『 どこが、どのように窪んでいるか ?』という点に着目し観察することが 見極める基本だと私は思います。

残念ながら ヴァイオリンなどの弦楽器において扁平にみえるものは未熟な人が製作した可能性が高いと 私は思っています。 木彫で使用する道具は考えないでもちいると‥ 出っ張ったところが削れます。これが単純化をまねき全体としてでこぼこが少ない扁平な印象の弦楽器の出現につながります。

5 Antonio Stradivari Schreiber - da Vinci 1712 ( c 1644-1737 )

そもそも弦楽器は あの響きがするように工夫されています。
たとえばこのストラディヴァリウスを用いた共鳴モードで裏板部の動きを観察してみてください。

409hz star0409hz 680hz star0680hz817hz star0817hz1690hz star1690hz

私は 多様な音色をもつヴァイオリンは その構成要素となる『 音の数 』を確保するために、複雑なゆれをするように作られていると考えています。

そのために”オールド・ヴァイオリン”などでは 薄板状に加工しても 立体的形状 によって剛性を高める技術として凹凸が『 木伏技術 』として用いられていると私は推測しています。

剛性 立体的形状 - 1 MONO L
この剛性を高める技術は めだちませんが たとえば 現代でも このコーヒー缶のように 用いられています。

さて、私たちは大量生産に適した 単純化されたフォルムをもつ工業製品にかこまれて生活していますので、ともすると 上に参考例としてあげさせていただいたヴァイオリンの裏板を見て 削りそこねた結果と思う方も多いと思います。

果たして それは事実でしょうか?

私は  ”オールド・ヴァイオリン”などを見る際は ”合目的性”ということを念頭に置き『 どこが、どのように窪んでいるか ?』という視線でそれを観察すると 本当に豊かな世界が見えて来ると信じています。

 

以上、ありがとうございました。

2016-7-21    Joseph Naomi Yokota

 

 

 

振動板について

 

1. 平面振動板

この平面振動についてはモーツァルトと同じ 1756年にドイツでうまれた物理学者 エルンスト・クラドニ( Ernst Chladni  1756年 – 1827年 )さんが 1787年に出版した音響学の著書  ” Entdeckungen ueber die Theorie des Klanges( 音響理論に関する発見 )” で発表した平面の振動を可視化する方法でつくられる “クラドニ図形 ” を意識するだけで十分だと思います。 これは振動している膜や板の上に砂を撒くと振動の” 節 “の部分に砂が集まりパターン( 模様 )が出来上がるものです。ご存じない方は次の動画をごらんください。

私は 弦楽器の響きが倍音特性にたよって説明されているのを耳にすると 少し心配になります。 それが重要なのは言うまでもありませんが ‥ 弦楽器は音色をゆたかにするために複数の波源が生じるように工夫されるなど、いくつかの条件の合わせ技でその響きが生みだされているからです。 私はこれらの技術の端緒は 古の弦楽器製作者の日常のなかにあったと考えています。 そこでその一例として皆さんに 硬貨を落としてしまったシーンをイメージしていただきたいと思います。 最初に百円硬貨でいきましょう。 さて‥ どういう音がするでしょう? そして次に五円硬貨を落としました。これはどうでしょうか? これらの音の差をご存じ無い場合は、恐縮ですが 下の動画を参考にしてください。 https://youtu.be/32QUhJjBsx8 この動画でも分かるように 百円硬貨は震え方の違いによりいくつかの振動モードがその響きを生みだしますが、それは主に”外側のへり”から発生しているようです。 ところが穴があいている五円硬貨は”外側のへり”に加えて “内側のへり”も 音を出しているのでそれぞれの振動モードが生みだす二つの音が同時に聞こえると思います。 私は こんなに単純な形状の違いでも 思った以上に明瞭な響きの差につながっている事実が大切と思っています。 https://youtu.be/_X72on6CSL0 https://youtu.be/6JeyiM0YNo4 https://youtu.be/osFBNLA7woY

 

『 オールド・ヴァイオリン 』の時代と 自然科学

さて ”オールド・ヴァイオリン”型の弦楽器は 16世紀前半に和声学の基礎となった機能和声が着目された頃に弦楽器工房で誕生し、パイプ・オルガンもそうであったように この時代の音楽的希求に応えて成長し続けました。 私は これらの状況を検討した結果 ” 弦楽器製作にとってルネサンス末期から 物理学などが急速に発展したことが とても重要な意味をもっていた。” という結論に達しました。

そのため 少し長くなりますが ここで 16世紀から18世紀末までの科学史の概略を列記しておきたいと思います。

Andrea Amati ( ca.1505-1577 ) Cremona, Violin maker.
1539年   Established a workshop in Cremona.

Antonio Amati ( 1540-1640 ) Cremona, Violin maker.
Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ) Cremona, Violin maker.

Catherine de Médicis ( 1519-1589 )
1533年  She married Henry II at the age of 14.

Charles Ⅸ de France ( 1550-1574 )
1561年  He was crowned the king of France.

16世紀の物理学で重要な役割をはたした人物の筆頭はイタリアの物理学者 ガリレオ・ガリレイ ( 1564-1642 )でしょう。

彼はギリシャの アルキメデス ( BC.287-BC.212 )の諸研究‥  たとえば研究書『 平面のつりあいについて 』で示された ”てこの原理 ”( 反比例の法則 )など 7個の原理 ( 公準 )と15個の命題  ( 代表的なものは「三角形の重心は 3中心線の交点である」というよく知られた命題  )、”浮体論”、”円周の求め方” などを オステリオ・リッチから学びました。

そして 1586年に フィレンツェの アカデミア・デル・ディシェーニョ( 学士院 )に 論文『 小天秤 』を、1587年には『 固体の重心について 』を提出し、1589年に ピサ大学の数学教授の仕事を得たと言われています。

この時期にドイツには 天文学者で数学者の ケプラー ( 1571-1630 )がいて 1609年と1619年には”ケプラーの法則”を発表しています。 ガリレオは 1632年の『 天文対話 』、ケプラーは 1596年の『 宇宙の神秘 』でコペルニクスを支持していましたので 宗教裁判の有罪判決( 1633年 )や 失職( 1598年 )の憂き目にあいました。

1600年には 1592年にピサ大学の職をガリレオと競った ブルーノ( 1548-1600 )が 宗教裁判によって火刑に処せられてしまう‥ そんな時代だったようです。

この頃フランスには メルセンヌ ( 1588-1648 ) がいました。 彼は神学者であるとともに 数学、物理学に加え哲学、そして音響学の理論研究をおこなっていました。1636年には 論文『 Harmonie universelle 』において 平均律を 2の12乗根の計算を用いて数学的に証明しました。また 弦楽器の音の高さについて 振動数と弦長、密度、張力によることを数学的に定式化しました。

メルセンヌは多くの科学者と親交をもっていたため、その交流活動が支持され 彼の没後である 1666年に”パリ科学アカデミー”が創設されることにつながったそうです。

デカルト図 - 1 L
また フランスでは 哲学者、数学者として高名な デカルト ( 1596-1650 ) が 活躍していました。”コギト・エルゴ・スム” の人ですね。デカルトは 慣性の法則や 運動量保存の法則を研究し、1637年には 平面上の直交座標系である”デカルト座標”を『方法序説』において発表し確立しました。

“Gasparo da Salò”
Gasparo di Bertolotti ( ca.1540- ca.1609 )  Brescia, Violin maker.

Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 )  Brescia, Violin maker.

Nicolò Amati ( 1596-1684 ) Cremona, Violin maker.

Andrea Guarneri ( 1626-1698 ) Cremona, Violin maker.
1654年  He founded the workshop in Casa Guarneri .

Jacob Stainer ( 1617-1683 ) Absam, Tirol.  Violin maker.

私は 17世紀前半のヨーロッパ世界はまだ中世の価値観に引きずられていたと認識しています。その象徴が 1633年の異端審問により アルチェトリに幽閉された ガリレオ・ガリレイ ( 1564-1642 ) です。彼は 1638年に両目を失明しても幽閉は解かれないままで 1642年に病没します。罪人として亡くなった彼はいかなる葬儀も墓標も不許可だったそうです。

さて‥ 歴史的な転換点については いろいろな考え方があるでしょうが、私はこれらの状況は 1654年におこなわれた『 マグデブルクの半球実験 』から大きく動き始めたと思っています。

ご存知の方も多いでしょうが、この 大気圧を示す実験 は 1654年に レーゲンスブルクにおいて 科学者でマグデブルク市長でもあった オットー・フォン・ゲーリケ ( 1602-1686 ) が 神聖ローマ皇帝フェルディナント三世 ( 1608-1657 ) 達の前で 16頭の馬を使いおこなった公開実験ですね。

彼は 1650年に真空ポンプを発明し、その後 銅製の半球状容器 ( 直径51cm )を二つ組み合わせ その内部の空気を排気し、それぞれを 8頭づつの馬に引っ張らせる実験を考案しました。これにより真空が物体をひきつけるのではなく 周辺の気体が物体に圧力をかけていることが証明されました。

特記すべきは‥ 彼は公開実験により この事実を先に公知化しておいて、最終的に論文を出版したのは 7年以上たった 1662年のことだったということです。この年にゲーリケが出版した『 真空についての、いわゆるマグデブルクの新実験 』では、彼が実験に用いた銅製容器には 2,787ポンド ( 約1,250kg )の大気圧がかかっていることを詳しく報告しています。

私は ゲーリケによるこれらの行動を「  政治家でもあった彼が中世を引きずった社会に対してネゴシエーションとして慎重に選択した結果である。」と思っています。


『 同期現象 』( 引き込み現象 )の実験

そしてこの時期に ルター派の国 オランダでは 数学者で物理学者、そして天文学者でもあった クリスティアーン・ホイヘンス ( 1629-1695 ) が活躍していました。

彼は 1655年に数学と法律専攻で ライデン大学を卒業し、そのあとで物理学の研究を始めます。この年に彼は 自作した口径57mm、焦点距離3.3m、50倍の望遠鏡で 土星の衛星タイタンを発見します。翌年の1656年には振り子時計を初めて製作するのに成功します。またこの後 『同期現象』( 引き込み現象 )を発見するなど 輝かしい成果をあげていきます。

1666年に フランス国王の ルイ十四世( 1638-1715 ) が パリに『フランス科学アカデミー』を創立した際に、最初のアカデミー会員 ( 21名のフランス人と1人のオランダ人 ) としてパリに招かれ、ナントの勅令が廃止される事となったため 1681年にパリを去りハーグに戻るまで フランスを拠点に活躍しました。

このパリ時代の 1675年には『 世界初の機械式時計 』の製作や『 空気望遠鏡 』の開発をおこないました。そして1678年に彼は 波動の波面形状を包絡面で説明する『ホイヘンスの原理』を発見し、これは 1690年に出版され広まっていきました。( この理論は最終的に 1836年に完成しました。)

それから、オランダではもう一人顕微鏡を使って微生物などを観察し ”微生物学の父”とも呼ばれることになる レーウェンフック ( Antonie van Leeuwenhoek, 1632-1723 ) が デルフトで活動していました。

彼は 1674年に池の水を観察し微生物を発見して以降 多くの新発見をおこないました。

トネリコ属の木質部 1676年
トネリコ属の木質部 1676年

私には、レーウェンフックが弦楽器にも直結する木質部などを顕微鏡で観察した事実がとても興味深く感じられます。なお 彼は生涯 500もの顕微鏡を作ったとされ、現在 彼の真作とされる顕微鏡は博物館に9個 ( このなかで最高の倍率は266倍とされています。)
残っているそうです。

さて 17世紀中期のヨーロッパ世界では イギリスの科学研究が最も活発でした。そして それが発展し 1660年には『権威に頼らず証拠 ( 実験、観測 )を持って事実を確定していく。』という近代自然科学の客観性を担保する目的で ロンドン王立協会 ( Royal Society )が 事実上の科学アカデミーとして設立されました。

レーウェンフック ( 1632-1723 )は 王立協会で 実験監督をしていたロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703 ) にデルフトの解剖学者とクリスティアーン・ホイヘンスの父親 ( Constantijn Huygens )とが 1673年に紹介状を送ったのち 継続的に王立協会に観察記録を送り続けました。そして これらの諸研究によりレーウェンフックは 1680年に ロンドン王立協会の会員となりました。

Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ) Cremona,  Violin maker.
1680年 He founded the workshop in Casa Stradivari .

Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ) Cremona,  Violin maker.

Arp Schnitger ( 1648-1719 ), active in Northern Europe, especially the Netherlands and Germany,  Pipe organ builder.

そしていよいよ‥ 近世を中世と断ち切る役割をはたした アイザック・ニュートン (  Isaac Newton, 1642-1727 ) がイギリスに誕生します。

この頃には‥   1543年にコペルニクス ( Nicolaus Copernicus, 1473-1543 ) が発表した地動説は、1619年にケプラー ( 1571-1630 )が 惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発表したことで力を得て、1627年には 地動説に基づいた ルドルフ表が完成したことで最終段階に入っていました。

ところで少し話はそれますが  17世紀にはヨーロッパの各地で ペストの流行が頻発しました。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけてペストが毎年 発生して 3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年、1619年、1631年、1638年、1662年、1668年 ( 最後の流行 )に流行があり大きな被害がでました。

ロンドンでは 1593年から1664年にかけて、そして 翌年の1665年と ペストが 5回も流行し 死者の合計はおよそ 15万6000人におよんだと言われています。

因みにクレモナも何度にもわたってペスト禍にみまわれ 1630年の大流行の際には アンドレア・アマティの息子で父の工房を引き継いでいた ジロラモ・アマティ( Girolamo Amati  1561 – 1630 )とその妻 そして 2人の娘が犠牲となり、アマティ工房は 34歳となっていた ニコロ・アマティ( Nicolo Amati  1596–1684 )が引き継いだといわれています。

そして アントニオ・ストラディヴァリ( Antonio Stradivari  ca.1644-1737 )もまた、 両親がペスト禍をさけてクレモナを離れていた期間に産まれたために 出生年などが判然としないという伝承があるそうです。

plague-skeletons

CNNから引用    「   “ 1665年に英ロンドンで大流行して年間7万5000人超を死亡させたのは、ペスト菌が引き起こす腺ペストだったことが、DNA鑑定を通じてこのほど初めて実証された。ロンドン考古学博物館などの研究チームが発表した。

この年の大流行では当時のロンドンの人口のほぼ 4分の1が死亡。ピークだった9月には1週間だけで8000人が死亡した。原因は腺ペストとする説が有力だったが、これまで確認はできていなかった。

しかしロンドン市内で地下鉄の延伸工事中に見つかった集団埋葬地を 2015年に発掘調査したところ、1665年の大流行で死亡したと思われる17世紀の遺骨42柱が見つかった。

研究チームがその遺骨から採取したDNAを調べた結果、腺ペストを引き起こすペスト菌のDNAと一致することをが判明。発掘調査を主導したロンドン考古学博物館の専門家ダン・ウォーカー氏は「1665年のペスト大流行の原因が初めて分かった」と解説している。”   」

1664年に”スカラー”となっていた ニュートンは、 1665年から翌年にかけてペスト禍を逃れて 故郷のウールスソープへ戻り 18ヶ月程の期間をすごします。回想録などでは 、25歳までの この期間にニュートンの三大業績は全てなされたと伝えられているようです。

ともあれ この後である 1687年7月5日に地動説は ニュートンが出版した 『自然哲学の数学的諸原理』( プリンピキア ) において発表された万有引力の法則でついに完成しました。

この プリンピキア の冒頭部分は質量、運動量、慣性、力などの定義にあてられていて、重さという概念のほかに質量という概念を導入したことが画期的とされ、万有引力の法則のほかに、運動方程式と ニュートン力学を普及させることに役立ちました。

これは『 ニュートンの揺りかご ( Newton’s cradle ) 』といわれる実演装置です。

ニュートン( 1642 – 1727 )が『 プリンキピア 』で公表した ニュートン力学のうち 運動量保存の法則と力学的エネルギー保存の法則 そして作用と反作用などが視認できることで知られています。

ニュートン力学は 物体を「 重心に全質量が集中し 大きさをもたな質点 」とみなし、その質点の運動に関する性質を法則化しつぎの運動の3法則を提唱しています。また、これらの法則は、質点とは見なせない物体(剛体、弾性体、流体などの連続体 )に対しても基礎となり得る考え方とされているようです。

第1法則 ( 慣性の法則 )質点は、力が作用しない限り、静止または等速直線運動する。

第2法則 ( ニュートンの運動方程式  )質点の加速度  {{\vec {a}}} は、そのとき質点に作用する力 {{\vec {F}}} に比例し、質点の質量 {m} に反比例する。

第3法則( 作用・反作用の法則  )二つの質点 1, 2 の間に相互に力が働くとき、質点 2 から質点 1 に作用する力  {{\vec {F}}_{{21}}} と、質点 1 から質点 2 に作用する力  {\vec {F}}_{{12}} は、大きさが等しく 逆向きである。

私は 1687年にニュートンが発表した このような『 古典力学 』の考え方は弦楽器製作にも十分影響をあたえたと信じています。

『オールド・ヴァイオリン』などの弦楽器は どうかすると”神話”のように語られますが‥ 1644年頃生まれたとされるストラディバリ( c.1644 – 1737 )と、1642年生まれの ニュートン( 1642 – 1727 )とほぼ同じ年齢であるという事実が持つ意味は深いと私は思います。

Giovanni Grancino ( 1637 – 1709 ) Milan,  Violin maker.

Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ) Napoli,  Violin maker.
Nicolò Gagliano ( active. ca.1730-1787 ) Napoli, Violin maker.

Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ) Bologna, Violin maker.
Matteo Goffriller ( 1659–1742 )  Venice,  Violin maker.

Francesco Ruggieri ( 1655-1698 ) Cremona, Violin maker.
Carlo Giuseppe Testore ( c.1665-1716 )  Milan, Violin maker.

Pietro Giovanni Guarneri ( 1655-1720 ) Cremona / Mantua, Violin maker.
Filius Andrea Guarneri ( 1666-1744 ) Cremona, Violin maker.

Francesco Stradivari ( 1671-1743 ) Cremona,  Violin maker.
Omobono Stradivari ( 1679-1742 ) Cremona,  Violin maker.
Carlo Bergonzi ( 1683-1747 ) Cremona,  Violin maker.

Carlo Tononi ( c.1675-1730 ) Bologna / Venice,  Violin maker.
Domenico Montagnana ( 1686-1750 ) Venice,  Violin maker.

Andrea Guarneri ( 1691-1706 ) Cremona, Violin maker.
PietroⅡ Guarneri ( 1695-1762 )Cremona, Violin maker.
1718年  moved to Venezia

“Guarneri del Gesù”
Bartolomeo Giuseppe Guarneri ( 1698-1744 ) Cremona, Violin maker.
1722年頃  He is independent.

Gottfried Silbermann ( 1683-1753 ) Saxony / Dresden, Pipe organ builder.
Zacharias Hildebrandt ( 1688-1757 ),  Pipe organ builder.

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 ) Cremona / 1729 Parma / 1740 Piacenza / 1749 Milan / 1757 Cremona / 1759 Parma / 1771-1786 Turin, Violin maker.

Lorenzo Storioni  ( 1744-1816 ) Cremona, Violin maker.
Giovanni Battista Ceruti ( 1755-1817 ) Cremona, Violin maker.

 

 

2016-7-20 Joseph Naomi Yokota

ピアノの弦 ( ミュージックワイヤー) の本数 について

● ピアノの弦 ( ミュージックワイヤー) の本数

Steinway D 9 Grand Grand     LSteinway  /   Concert grand piano “D 9’ Grand Grand” それから 私は ピアノの鍵盤と弦 ( ミュージックワイヤー)が基本としては一対一対応ではないことも重要だと考えます。たとえばこのスタインウェイ・コンサートグランドピアノのD型の場合 下の表にあるように88鍵盤のうち左端からの 8鍵だけは音響上の理由で 1鍵に弦が 1 本対応していますが、9鍵から13鍵は弦が2本で残り75鍵は 1鍵に弦が3本張られています。つまり、このピアノは 88鍵を操作することで243本の弦が響きのエネルギーを供給する仕掛けになっています。 hyou2 ピアノはベーゼンドルファ・インペリアルのように97鍵盤のものや、ブリュートナーのように高音部に4本の弦が張られているものもあります。そして弦長とピッチの設定も張力に影響しますから正確な数字はあげにくいですが 、一般的なピアノは 88鍵盤に対して200本以上の弦が張られ、弦1本あたりの張力は90kgほどのため 全体の張力は おおよそ 20t 位と私は思っています。 また 念のために申し上げれば 一般的なピアノは弦が折り返して張られていますので張る前は”2本”分が1本とも数えられますし 「総一本張り張弦方式」ピアノは折り返し無しで張られているなど多種多様です。これは私の専門ではありませんので 一般的なピアノの事例としていただくために 鎌倉にある株式会社 ピアノ工房SUGIURA さんのサイトへのリンクを貼らせていただきましたので参考にしてください。   ”オールド・ヴァイオリン”型の弦楽器を製作できなくなったのは それらが持つ『音の数』を十分に意識できなくなったことが最も大きな原因であると考えています。

18世紀の音楽ホール事情

私は 音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移る流れはヴァイオリンの改良を促進したと考えています。 その参考に当時の演奏会場の資料がほしかったのですが、さすがに1600年代のサロンや音楽ホールは ほとんど現存していないため 1700年代中頃に使用された音楽ホールの資料を 1985年に マイケル・フォーサイス氏( Michael Forsyth )が ” Buildings for Music “のタイトルで出版した書籍の翻訳版( 『 音楽のための建築 』1990年 長友宗重氏、別宮貞徳氏 共訳 / 鹿島出版会刊  )p.31 ~ p.49より引用させていただきたいと思います。

また引用のみでは分かりにくい可能性がありますので、私が 画像資料などを補足のためにつけ加えました。

それでは まず‥  18世紀のホールの大きさをイメージするために 比較対象として 東京オペラシティ コンサートホール( タケミツ メモリアル )の仕様表などをご覧ください。

東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - 1 L東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - A Lコンサートホール仕様

設計者 東京オペラシティ設計共同企業体 (株)NTTファシリティーズ・一級建築士事務所 (株)都市計画設計研究所 (株)TAK建築・都市計画研究所
音響設計協力 竹中技術研究所 音響コンサルタント レオ・ベラネク氏(コンサートホールのみ)
ホールサイズ 1階席:20.0m×41.1m(客席奥行 32.4m) 2階席:20.0m×47.15m 3階席:21.2m×47.15m
天井高 天井最長部まで27.6m ・平土間〜2階バルコニーまで 2.7m〜3.7m ・2階バルコニー 2.4m〜2.64m ・3階バルコニー 3.0m(平土間から12.6m)
天窓 自然光(不要であればシートで被う)
ホール客席数 1632席(車椅子席4席を含む) 1階席:974席 1〜12列フラット、13〜31列レベル差1m、1段 約5.5cm 2階席:バルコニー席数 330席、オルガン前席 26席(取り外し可能) 3階席:バルコニー席数 302席 座席表を見る
ステージ 間口 17.1m〜19.5m、奥行 9.0m、面積 162.6m2 ・素材 樺桜
張出舞台 1.9m張出(9m+1.9m=10.9m 奥行) 客席前列2列、63席減(1632-63=1569席)
残響 1.96秒(満席時)
NC値 20
内装材 ヨーロピアンオーク(壁面) *天然木。豊かな一次反射音(特に低音)を確保するため。
床気積 フローリング(楢) 15,500m3 (9.5m3/1人あたり)
楽屋 1階席:6室(A、B、C、D、E、F) A、Bにピアノ有り 2階席:4室[大楽屋 1、2(各50名程度)、G、H] Hにピアノ有り、アーティストロビー有り
音響室 調光室 ホール壁面にマイク、スピーカーのコネクター設置
ロビー 天井高 7.2m

東京オペラシティーオペラシティー コンサートホール 21.2m×47.15m ( 1階客席奥行 32.4m ) 天井最頂部まで 27.6m 満席時残響 1.9秒 - 2 L18世紀のコンサートホール Le2b927369601c4bf986397c7d82bdb3d

サントリーホール 概要
開場  1986年 10月 12日 ( 日 )   東京都港区赤坂  1-13-1
建築設計

佐野 正一 (株式会社安井建築設計事務所)
三宅 晋  (株式会社入江三宅設計事務所)
音響設計 永田 穂 (株式会社永田音響設計)
施工 鹿島建設株式会社

建築面積 2,909㎡
水平投影面積  1,925㎡
延べ面積 12,027平方メート、地上3階~地下2階
客席  2,006席 1階 858席/2階 1,148席
大ホール奥行 53.0m、幅  36.0m
舞台  250㎡、間口 21m/奥行 12m
天井までの高さ  3.5m ~  20.15m

The Esterhazy palace - Eisenstadt - B L

交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 ともいわれる フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (  Joseph Haydn,  1732-1809  ) は、1761年にエステルハージ家の副楽長となりアイゼンシュタットのエステルハージ居城とウィーンの宮殿で 活動しました。そして 1766年からは エステルハーザ城 (  Eszterháza  ) に移り1790年まで楽長として働きました。

また 1781年頃 ハイドンはモーツァルト (  Wolfgang Amadeus Mozart、1756-1791  ) と親しくなり、モーツァルトは1782年から1785年にかけて六つの弦楽四重奏曲( ハイドン・セット ) を 彼に献呈しています。

1790年にエステルハージ家のニコラウス侯爵が死去したために楽長を辞し、1791年と 1794年には ドイツ出身で1780年代初頭にロンドンに移り住んでいた ヴァイオリニストで 作曲家、そして指揮者で音楽興行師であった ヨハン・ペーター・ザーロモン (  Johann Peter Salomon,  1745-1815  ) の 勧めを受入れロンドン公演をおこない大成功をおさめています。

1990年刊  音楽のための建築  (  1985年マイケル・フォーサイス  ) p.31‥  『 ‥ 1791年から1792年、1794年から1795年にかけてのシーズンに、ここハノーヴァ・スクェア・ルーム ( 24.1m × 9.8m )でハイドンは、93番から101番までの “ザロモン交響曲( ロンドン交響曲 )”を指揮したのである。これらは特にこのコンサートホールのために書かれたもので、堂々たる成功をおさめた。

Hanover Square Rooms ( 1774-1900 ) - A L
中でも94番ト長調《驚愕》( 1791年 )と100番ト長調《軍隊》( 1794年 )が素晴らしかった。ザロモン自身は四重奏の専門家で、ハイドンは1793年に ハノーヴァ・スクェア・ルーム ( 24.1m × 9.8m )で演奏するザロモンのために作品71と74の弦楽四重奏曲を書いた。 室内ではなくコンサートホール用に四重奏曲を書いたのはこれが初めてで、ハイドンがその目的とする建物に書法を合わせていることがよくわかる。 オーストリアの貴族のコンサートや 私的な家庭音楽会のために書いたのどかな、親しみのある四重奏曲に比べて、オーケストラ的といってもいいような響がし、構成は雄大で、一段と力強く、また< 公的 >な性格が感じとれる。

コンサートホールは、1794年2月25日付け『 ジェネラル・イブニング・ポスト 』 の記事によると、縦横24.1mと9.7m、高さは書かれていない。しかし、当時の図面を見ると、チプリアーニの絵を飾ったヴォールト天井は、高さおよそ6.7ないし8.5mと推定される。少なくとも一方の壁には窓があり、ゲインズボロその他の絵がかかっている。オーケストラ席は、初めルームの東端だったのが、後に西端に変更された。1804年に古代音楽演奏会がキングズ・シアターからハノーヴァ・スクェアに移った時、ロイヤル・ボックスが3つ東の端につくられた ( 建物は 1848年までガッリーニから年1,000ポンドで借りていた )。ステージは円形劇場風に高く傾斜が急で、視線に、したがって〈 音線 〉にも邪魔が入らない。

Hanover Square Rooms ( 1774-1900 ) - B L
ほぼ180㎡の場所に定員800席だから、たいへんな混み方だったと思われる。1792年のハイドンのための慈善コンサートには、なんと「1,500人が入場した」といわれている。満員状態での音の吸収は相当なもので、中音域の残響時間は1秒足らず、特に低音のレスポンスが低かっただろう。その結果、オーケストラの響きは明瞭で透明だが、音響効果は、今日最上とと思われるものよりずっとドライだったに違いない。

しかし、当時は素晴らしいと考えられていたらしく、1793年6月29日の『 ベルリン音楽新聞 』には次のような読者の投稿が掲載されている。   ザロモンのコンサートが行われたルームは、ベルリンのシュタート・パリス ( Stadt Paris ) と較べて、奥行きは同じようなものだが、幅は広く、きれいに装飾され、ヴォールト天井である。ホールの音は筆舌に尽くしがたいほど美しい。 ホールが小さいだけに、さぞや大きな音に聞えたことだろう。 特にハイドンが《 ロンドン交響曲 》のために使った「 大 」オーケストラではそうだったにちがいない( 1791年から92年にかけててのシーズンには35人編成、翌シーズンにはさらにクラリネットが2本追加‥ 37人編成 ‥された )。間口が狭いから、オーケストラがフォルテッシモで演奏すると、どの席も壁側から強い反射音を受け、空間的な拡がりの感じは申し分なかっただろう( 第1章で述べた空間的拡がり感のこと。弱音の場合は、ほとんど直接音しか耳に届かないから、そうならない )。

Almacks or Willis's Rooms - 1 1765年 Almacks Assembly Rooms -

Almacks or Willis’s Rooms   /   1765年
18世紀も末になると、ほかにも多くのコンサート・ルームがロンドンで使われていた。前述のアルマックはウィリス・ルーム( Willis’s Rooms  /  25.0m × 12.2m,  305㎡ ) と名を改め、1776年にはトマス・サンドビー( Thoumas Sandby )設計のフリーメンソンズ・ホールが開場して、数年古代音楽アカデミーの使用するところとなった。

The Crown and Anchor Tavern in The Strand London - 1
The Crown and Anchor Tavern 古代音楽アカデミーは1726年に声楽アカデミーとして設立され1792年まで続いた出色の音楽家集団で、以前は、18世紀に人気のあったもうひとつのコンサート会場居酒屋 「 王冠といかり 」( The Crown and Anchor Tavern   /   24.7m × 11.0m  , 271㎡ )で演奏していた。1772年にフランシス・パスカリ( Francis Pasquali )なる音楽家が建てたトッテナム・ストリートのコンサート・ルームが、1785年に改装拡張されたが、それは、ジョージ3世が古代音楽コンサート( 古代音楽アカデミーから分かれたもの )のパトロンとなり、この団体がそこで定期演奏をするようになったからである。

トッテナム・ストリート・ルームは、世紀の変わり目には人気が衰え始め、1794年に古代音楽コンサートは前の年にできた新しい、素晴らしいコンサートホールに移った。これは、ロンドンのイタリア・オペラ上演劇場であるキングス・シアターが再建され、1792年に開場していたところへ、その東側( ヘイマーケット側 )に合体するような形でつくられたものである。建築者はミハエル・ノヴォシエルスキ( Michael Novosielski )。
18世紀のコンサートホール L

ハノーヴァ・スクェア・ルームよりはるかに今日のコンサートホールに近い。 ザロモンはコンサート会場をキングス・シアター・コンサートホール (  29.6m × 14.6m,  433㎡  )に移し、ハイドンは最後の3つの交響曲、102番から104番までをこのホールで演奏するために書いた( 103番変ホ長調《 太鼓連打 》には、美しいソロの部分があるが、おそらくオペラ・コンサート・オーケストラの首席奏者、かの有名なジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティのために書かれたのである )。 ハイドンがこれらの作品のために用いた大オーケストラは―――交響曲102番は55人編成、103番と104番は59人編成―――大きさに較べて割合残響の多いホールと相まって、たっぷりとした力強い音を響かせ、せいぜいメゾフォルテくらいの演奏でも壁面からの反射音が耳に達したことと思われる。

ハイドンがピアノからフォルテへの急激な飛躍を避けているのは、残響時間が長くてその効果が失われるからだろう。そのかわりに、たとえば102番冒頭のホルン、トランペット、弦のユニゾン( ハイドンがオーストリアに戻ってからは木管もこれに追加 )では、漸強、漸弱の記号を使って、ホール自体の音響に効果を委ねている。 その効果たるや、H.C.ロビンズ・ランドン( Robbins Landon)をしていわしめれば、「 うら寂しい、禁欲的な音 」に加うるに「茫漠たる空間、宇宙的孤独感を伴ったもの( おそらくは、それがハーシェルの大望遠鏡を通じて得たハイドンの永遠の観念 )」ということになる。

The Haydnsaal - Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt - A L
18世紀のヨーロッパ大陸では、公のコンサートに出かけるということはまだほとんど行われていなかった。上流階級の人たちは、裕福な好事家の私邸や数ある宮廷で開かれるなかばプライベートな音楽の集いに出るだけだったのである。宮廷の音楽施設の中でも贅を尽くしたもののひとつが、ヨゼフ・ハイドンのパトロン、エステルハージ家のそれだった。

1761年、ハイドンはオーストリア、アイゼンシュタットにあるエステルハージ居城(  Eisenstadt   )の副楽長に任命された。これは中世のとりでを、カルロ・マルティーノ・カルローネ と セバスティアーノ・バルトレットが 1663~1672年に宮殿に改造したものである。

The Esterhazy palace - Eisenstadt - 1 L
Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt 1766年 - 1 L

さらにハイドンは、ハンガリーのエステルハーザ城( Eszterháza  /  Fertőd  )に移り、そこに25年近くとどまった。 これらの居城のコンサートホールは、今でも一応昔のままの形で残っており、音響効果を直接体験できる点で、とりわけ興味がもたれる。

Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd Hungary - A Lハイドン アイゼンシュタット 大ホール ( ハイドン ザール ) 1760 L18世紀のコンサートホール LThe Haydnsaal - Haydn s first Esterházy music room - Eisenstadt - 3 Lアイゼンシュタットの大ホール( 今の呼び名ではハイドン・ザール )は、ハイドンが作曲の対象としたコンサートホールの中では最も大きく、楽々400人を収容できる。部屋は長方形で、天井は彩色した折上げ、側壁沿いに深いニッチが並んでいて、両端には円柱に支えられた狭いバルコニーがある。奥行38.0m、間口14.7m、高さは12.4mとなっている。

ハイドンは初めてここでコンサートを開くに当たって、もとの石の床の上に木の床を張るよう注文をつけた( 今日も残っている )。おそらく、床が多少振動するような感じがほしかったのと、もうひとつは、低音域の大きな残響を減らしたかったためだろう。それでもなお、中音域の残響時間は満員時で1.7秒、低音域は2.8秒にのぼるし、部屋がいっぱいでなければ( 当初はそういうことが多かった )さらに伸びて、まるで教会近くなる。( 20世紀には、これくらいの残響時間は、2,000~3,000席のホールでは珍しくない )。

ユルゲン・マイヤー( Jürgen Meyer )が指摘しているが、1761年から1765年の間にこのホールで演奏するために書かれた数多くの交響曲は、すべて、ここの〈 ライブな 〉音響を意識していることがはっきりわかる。ホールの大きさの割に残響時間が長いことと、狭い壁側からの反射音が強いこととが両々相まって、フォルテの全合奏では音楽が全堂にみなぎるような強烈な印象を与える。交響曲第6~8番コンチェルト・グロッソ様式では、コンチェルティーノ( 独奏 )が分かれていて〈 段階的強弱法 〉( Terrassendynamik )が使われており、合奏の強音が独奏部分の弱音とみごとな対照をなす。この時代のハイドンが使った小オーケストラの音は、交響曲13、31、39、72番では、ホルンを4本にすることで強化される。13番の出だしのホルンなど、残響が長くて、ほとんどオルガンのような響きがする。

ハイドンは1796年以降にもまたコンサート用にアイゼンシュタットを使った。ニコラウス1世の後を継いだニコラウス2世がエステルハーザを離れてウィーンに行き、夏の間だけ古い一族の居城で過すことにしたからである。最後の6曲のミサのうち5曲の初演はこの大ホールで行われた。弦楽四重奏曲は、同じ階にある美しい小さな部屋で演奏された。

Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd Hungary - A L

エステルハージ侯ニコラウス1世は、1762年に位を継いだあと、目もあやなロココ式の宮殿エステルハーザ城を建てた。その中には、大きなミュージック・ルーム、イタリア・オペラ用のオペラハウス( 1768年完成 )、マリオネット劇場( 1773年完成。洞窟のような仕上げで、壁やニッチには石や貝殻が貼ってある )、それに特別の音楽家の宿舎( 1768年 )もつくられていた。

この宿舎には外来のオペラ歌手や劇団員のほかにオーケストラのメンバーも泊まるのだが、外からの客があまりにも多いため、住み込みの楽士は、だいたいがウィーン出身なのに、妻の同伴を許されていなかった。実はこれがきっかけでハイドンはかの有名な《 告別 》交響曲を書いたのである。ここの大ミュージック・ルームで初演されたこの曲は、そろそろ楽士たちに休暇を与えていい頃ではないかと、ハイドンが侯爵にほのめかしたものだった。

1階のエントランスの部屋に置かれている時計 - 1 LPrince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd, Hungary.    (  エステルハーザのエントランス時計  )

エステルハーザのミュージック・ルームは、1766年に完成した。ハイドンがかかわりをもつホールの中ではいちばん小さく、15.5m × 10.3m × 9.2m しかない。

聴衆が200人ほどで 満員の時、残響時間は中音域で1.2秒、低音域で2.3秒である。ということは、アイゼンシュタットよりもずっと短いわけで、そのドライで澄んだ音は、今日のリサイタル・ホールの状況に匹敵する。ハイドンのオーケストラは、アイゼンシュタット時代と同じ大きさだったが、その音は全く異なり、ほとんど室内楽のような感じだったと想像される。

これまたマイヤーの見解だが、このルーム特有の音響は、ハイドンの作曲書法に反映されている。たとえば、交響曲57番の最終章ペルペトゥウム・モービレはプレスティッシモ( できる限り速く )と指定されているが、残響時間の長いルームではぼやけてしまうだろうし、67番の緩徐楽章の末尾で全弦楽器がコル・レニョ( 弓の木部を使う奏法 )で演奏するパッセージは、非常に音が小さいから、聴衆はよほどオーケストラに近く座れない限りはかばかしい印象を受けられない。

エステルハーザで書かれた交響曲の多くが2つの版で出ていることも重要な意味をもっている。ひとつは、野外を含め他の会場での演奏用にトランペットとティンパニーを使ったもの、もうひとつは、親近感のある音響を持つミュージック・ルーム用にこれらの楽器を抜いたものである。

Prince Nikolaus Esterházy - New palace constructed in Fertőd Hungary - 1 L130ヘクタール Prince Nikolaus Esterházy had a magnificent new palace constructed in Fertőd, Hungary - A L

ロンドンのコンサートホールについて見たとおりで、大陸の公共コンサートホールも、宮殿のホールに較べて仰々しいところがはるかに少ない。ドイツに最初の公共コンサートホールが建てられたのは、ようやく1761年のこと。ハンブルグのコンツェルトザール・アウフ・デム・カンプで、ハンブルグは当時イギリスの影響を強く受けていた。このホールのことはほとんどわからないが、ごく簡素な建物だったと推定しなければなるまい。

Leipzig Gewandhaus concert room - 1 L
次なる重要な発展は、1781年、ライプツィヒのゲバントハウスに有名なコンサートホールが建てられたことだった。 ハンブルグと同じくライプツィヒも、長年、楽士を雇っていて、町や教会の祝日には音楽を演奏させ( トーマス教会でJ.S.バッハの作品を演奏したのはこういう楽士である )、時には公会堂の塔から音楽を流したこともあった。しかし、本来の公共コンサートは、ライプツィヒもほかほドイツの都市と同じく、コレギウム・ムジクム( 音楽学校 )、あるいは学生その他からなるアマチュアの音楽協会が先鞭をつけた。ライプツィヒには宮廷がなく、主として商業と大学の町で( ゲーテやフィヒテはここで教育を受けた )、活発な音楽伝統をもっていた。

1700年頃、コレギウム・ムジクムが2つ設立された。そのひとつの創立者が作曲者ゲオルク・フィリップ・テレマンで、彼のあとを追って J.S.バッハが校長になった。コンサートはコーヒーハウスで行われた―――イギリスの居酒屋コンサートと軌を一にする。 1743年に私的な音楽協会が結成され、フランクフルトに現存する類似のものと同じ名前で、グローセス・コンツェルト( 大コンサート )と呼ばれた。16人のメンバーは、だいたい町議会の楽士である。最初はメンバーの私邸でコンサートを開いていたが、やがてビュール川沿いの三白鳥亭に部屋を借りてそこへ移った。

ヨハン・フリードリッヒ・ライヒャルト( Johann Friedrich Reichardt )が1771年に、その部屋について「 大きさは並の居間ぐらい、一方に奏者のための木のやぐらが組まれ、反対側は高い木の桟敷で、観客ないし聴衆が長靴をはき、かつらを着けずにやってくる 」と述べている。 コンサートは木曜日に開かれ、冬は毎週、夏は隔週―――今でもそれは変わらない―――であった。 七年戦争でプロイセンがザクセンを侵略し、グローセス・コンツェルトの活動は中断した。理由はもうひとつあって、コンサート・ルームに隣接する三白鳥亭の一部が壊れたのだった。1762年に再開され、フルート奏者でバス歌手のヨアン・アダム・ヒラー( Johann Adam Hiller )が指揮者に指名された。

1766年にライプツィヒの劇場が設計され、それにコンサートホールも組み込まれていたので、もっと立派な会場を求める必要もいよいよ満たされるかと見えたのだが、結局コンサートホール抜きで建てられてしまった。 1780年、市長ミュラーは、市議会を説得して、ゲヴァントハウス、つまり「 織物商ホール 」の2階の図書室をコンサート・ルームに改造することに同意させた。設計者はライプツィヒの建築家ヨハン・フリードリッフ・カール・ダウテ( Johann Friedrich Carl Dauthe )で、その後まもなくライプツィヒのニコライ教会の内装を美しく模様替えしたことでも有名な人物である。

コンサートホールは1781年に完成した。 旧ゲヴァントハウスは( 「 旧 」と後に呼ばれるようになったのは、それに替えてつくられたノイエス[ 新 ] ・ゲヴァントハウスと区別するため )、1894年に取り壊されたが、その平面図、部分図を書き、構造も記録された。ライプツィヒし歴史博物館には、内部を印象深く描いた小さな水彩画が現在も残っている。

Leipzig Gewandhaus Concert hall - 2 L

ホールは両端が曲面をなす長方形で、23.0m × 11.5m × 7.4m 。壁は柱形とパネルの効果を出すように、初めは彩色されていた。天井は縁が折上げの平天井で、人物をまじえた空の景色のフレスコ画で飾られている。描いた人は、ライプツィヒ・デザイン絵画建築学院の校長アダム・フリードリッヒ・エーサー( Adam Friedrich Oeser )だった( ゲーテは彼の学生 )。

Leipzig Gewandhaus Concert hallb - 1 Lホールは座席数400( ただし、あとの章で述べるとおり、19世紀に収容能力がふやされた )。座席は壁側と平行に並べてあるので、聴衆は互いに向き合うことになる( この配置は、建物のある間終始変わらなかった )。そしてその両端は高いボックス席になっている。オーケストラの舞台は50ないし60人の奏者を載せることができ、床の約1/4を占めて、わずかに高くつくられ、前に手すりが設けてある。

旧ゲヴァントハウスは、1835年から1847年までメンデルスゾーンが指揮者だった間、音響の良さでとりわけその名をとどろかせていた。そして、今日にいたるコンサートホール設計の歴史の中でも、最高の位置に位する最初のホールという栄誉を担ってい
る。  ( 引用終了 )

この 初代ゲヴァントハウス 大ホールは 1842年の改修により1000席を超える座席数で運用され続け多くの演奏に寄与し、オーケストラが 新ゲヴァントハウス( 下写真 )に移った後の 1894年に役割を終え取り壊されたそうです。

Gewandhaus konzertsaal 1900年頃
新ゲヴァントハウス・コンサートホール 1900年頃

さて、最後に少し整理しておきたいと思います。

  • 1996年  Tokyo Opera City   C.H.  47.15m  × 21.2m  (  H27.6m  )
    1986年  Suntory Hall  ( 1,925㎡ ) 53.0m  × 36.0m  (  H 20.15m )1774年  Hanover Square R. ( 235㎡ ) 24.1m  ×  9.8m  (  H 8.5m  )
    1776年  Willis’s Rooms  (  305㎡  ) 25.0m  × 12.2m
    1772年  The Crown & Anchor  ( 271㎡ )   24.7m  × 11.0m
    1763年  Haydn Saal ( Eisenstadt )  38.0m  ×  14.7m  (  H 12.4m )
    1766年  Eszterháza (  Fertőd )  15.5m  ×  10.3m  (   H  9.2m  )
    1781年  Leipzig Gewandhaus   23.0m  ×  11.5m   (  H  7.4m  )
  • 1761年~1765年   Haydn Saal   ( Eisenstadt )       16編成
    1766年~1774年   Eszterháza  ( Fertőd  )    18編成
    1775年~1780年             22編成
    1781年~1784年             29編成
    1791年~1792年   Hanover Square Room     35編成
    1794年~1795年   Rooms,  London        37編成
    1795年                         Concert Hall           55編成
    1795年         King’s Theatre,  London   59編成

このように 1700年代後半のオーケストラの様相を交響曲の父、弦楽四重奏曲の父 ともいわれる ハイドン (  Joseph Haydn,  1732-1809  ) でたどりながら、『 音が媒質である空気の疎密波であり、その空間がどういう反射や 減衰につながる条件を有するかが‥ 響きを決定する。』ことを考えあわせれば、私達にも理解できることが少なくないと思います。

現在、私が理解しているホールの特質は 天井、床もふくめた 壁と人間がいる位置の関係性( 距離・反射特性 )に尽きるということです。これは 客席での音場感はいうまでもないことで‥ 現代のホールは多目的のゆえに 直接音には頼りきれない構造であることが多いために 反射音は ステージ上の演奏者にとっても重要な情報となっており、それが 演奏のクオリティーにも大きな影響をあたえているからです。

結局、 私達は音楽史において現在も 試みの途上にいると言えるのではないでしょうか。歴史上はじめて市民のための音楽ホールとして 1781年に開場した ゲヴァントハウスの大ホールが およそ500席ほどで その多くの座席が中央を境に 両側の壁を背にして向かい合って座る設定ではじめられた段階から、室内楽やオペラ、交響曲 果ては教会音楽にまでに対応しようと多目的化が急激に進みリスクを取ったことで 音樂的な調和を妨げかねない空間がたくさん建設された現代の状況などにより私はそう感じます。

ただ‥ 私は 音楽空間の歴史の浅さにくらべて おそらく数千年におよぶ歴史を受け継ぎ音楽的な響きを創造する特殊な技術者として生まれた作曲家が 、多くの不都合な条件を克服し 深淵の淵を感じさせるような響きの時間・空間を出現させてくれたことには心から感謝しています。

また聴衆にとって18世紀のホールが理想的な音響空間でなかったとしても、音楽的な依り代として音楽ホールがはたした役割は大きかったという事実に私は 感慨を覚えます。

私はこのように音楽に関係した歴史を紐解くこと‥  たとえば ゲヴァントハウス管弦楽団を1835年から急逝した1847年まで 指揮していたメンデルスゾーン( 1809- 1847 )が、同じ建物に生まれた幼馴染であり 自らが指導する管弦楽団のコンサートマスターである ダヴィット( Ferdinand David, 1810-1873 )と共に 1844年 に あのヴァイオリン協奏曲( op.64 )を初演したというような事実に たとえようもない喜びを感じます。

ここまで概略として音楽ホールの歴史をたどってきましたが、最後に ご存じな方も多いように ゲヴァントハウスの後を引き継ぐようにオーストリア の首都ウィーンに『 ウィーン楽友協会大ホール』が建設されたことに触れておきたいと思います。

ウィーンで最初の本格的な音楽ホール建設は 1831年のことでした。しかし このホールは定員が700人と手狭でしたので、1860年代以降のウィーン改造の際に計画されたことにより 1870年にウィーン楽友協会の建物が竣工しました。

この建物にある ウィーン楽友協会大ホール ( Großer Saal グローサーザール )は  1,680席で シューボックス型と呼ばれる直方体の空間を持ち、板張りの床、格天井、バルコン、カリアティード( 女人像柱 ) 、そして床下、天井裏の空間により理想的な音響が得られているとされています。

ここでは‥  たとえば 1872年から1875年まで ブラームスが ウィーン・フィルハーモニー交響楽団の指揮をつとめるなど、音楽における歴史が数多く 生まれたことで私たちに記憶される事にもなりました。

それから140年以上経過していますが その名声は衰えることなく、結果として このホールは 各国で音楽ホールを建設する 場合に 必ずといってよい程 残響などの要素が参考とされるようになり現在に至っています。

私は このホールが現代の音楽ホールの原型そのものと信じていますので その存在に心より感謝しています。

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以上、長文にお付き合いいただきありがとうございました。

2016-7-21     Joseph Naomi Yokota