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“サドル割れ ( Saddle Crack )”の原因は 表板の変形です。

ヴァイオリンや チェロの表板下端に取り付けられたサドル付近の ひび割れを、弦楽器業界では『 サドル・クラック 』と言います。 この破損の原因が、サドル端の影響と考える方が多いからです。

なお、このサドル・クラックは ヴァイオリンより チェロに発生しやすい傾向が認められ、弦楽器製作者によっては その対策として、サドルの端に 1mm程の隙間を設けたり サドル両端の角切りを選択するなど 知恵をしぼっています。

しかし、それらはあまり役には立っていません。その典型を 下写真の、製作されてから3年程しか経っていない 新しいチェロに生じた ひび割れに見ることができます。

Rainer Leonhardt    Cello,  Mittenwald   2014年

このチェロには、製作時に サドル・クラックを予防するためと考えられる 厚さ2.9mm程の それなりに丈夫な補強材 ( 111.0 × 17.2 ) が、ボトムブロックとバスバーの間に 入れられていました。

ラベルでも分かるように この楽器は 2014年に ドイツで製作されたものですが、3年程で 鳴りが悪くなり サドル・クラックも長く伸びてしまったので、所有者の依頼により 私が 2017年に 割れを修理すると共に バスバーを入れ替えバランスを合わせる整備をしました。

写真のように割れの長さは 18cm 程もあり、この補強材が サドル・クラック対策に全く役立たなかったことが分かります。

Rainer Leonhardt    Cello,  Mittenwald   2014年 Rainer Leonhardt    Cello,  Mittenwald   2014年

これは その修理の際に撮影したものですが、魂柱が立てられていた表板には 既にダメージ窪みが出来ていました。

このように バランスが合っていない ヴァイオリンや チェロは、皆さんが想像する以上に『 あっという間に・・』表板が歪んで 鳴りが悪いだけでなく、そのまま使用するとサドル付近から 割れが入ったり、テールピース左側のバスバー下端にあたる表板が沈み込んで割れたりします。

例えば 下写真のチェロは 1994 年にドイツで製作されたもので、私は その年にアマチュア・オーケストラに所属する方に販売しました。

この写真は それから 10 年程たった 2004 年に調整のために持ち込まれた時のものです。 Gustav Franz Wurmer ( Stuttgart )   Cello,  1994年

このチェロには テールピース脇の バスバー下端部の表板に、すでに ヒビ割れが ( 矢印①から②まで ) 入っていました。

そこで私は 表板が割れたのがほかにおよんでいないかを確認するために、クルッと裏返してエンドブロックの裏板側をみました。

そこには下の写真のように 両方のエンドブロック端の位置に35∼40 mmほどの フレッシュな割れが入っていました。

もちろん、表板を外して修理しましたが、私にとっては これが 短期間で生じた響胴変形の典型事例となりました。

Rainer Leonhardt    Cello,  Mittenwald   2014年
Front  760 -345-243-440
Back  760-344-240-440

因みに、はじめに例示したチェロは解決策として この様に バスバーを入れ替えました。上が製作時に入れられたバスバーと補強のための裏打ちで、その下は 私が入れ替えた補強木片とバスバーです。

このように、表板の凹凸が少ない楽器は どうしても縦方向の強さが不足しがちですので、このチェロの 製作時バスバー ( 長さ 578mm 、高さ24.0mm ) より、私が入れたような( L 598mm – H 27.6mm ) 明快な強さがあるバスバーの方が バランスが調和しやすくなります。

Warped violin

それでは ここで「逆反り ( warp )」の メカニズムについて整理したいと思います。

弦楽器は、弦の張力を 6個のブロック*と側板*、 アーチなどの立体的形状( 不連続曲面 )*や それぞれの板厚*、バスバー*魂柱*などによって支えることに失敗すると、表板が 平らに変形して接着部が剥がれながら 響胴が歪んでゆくとともに‥

⦅  この写真の撮影後に “カノン”は 修理されています。⦆

ジェノヴァに展示されている “カノン”のように エンドブロック中央部や、側板のブロック端部が割れ、エンドピン位置にある側板の合わせ目がV字に開いて 変形が進行していきます。

そして、表板の変形により エンドブロックの割れが進行¹しながら サドルが はがれ²て起き上がり、側板内側と エンドブロックの接着部³も剥がれてしまい、エンドブロックが不安定*となり、その穴に差し込まれたエンドピンが テールピースに引きずられるように ブロックを傾けてしまいます。

Arthur Richardson ( 1882-1965 )  Cello,  Devon 1919 年

Arthur Richardson ( 1882-1965 )  Cello,  Devon 1919 年

下は エンドブロック割れなどが修復されたヴァイオリンです。中央部  C   エンドピン の傷は エンドピンの外縁部エッジが 食い込んだものです。

因みに、このヴァイオリンは痕跡をつきあわせると 最初のエンドピン穴は割れた A- B ライン上の中心と表示した位置で、二重に書いた円の 小円の直径6mmから 6.5mmで開けられていたと推測できます。

このように 表板の変形により生じた「逆反り ( warp )」は、最後に 裏板の割れを引き起こします。 その参考として 撮影時点で割れは修復済みの状態ですが、ストラディバリと ヨーゼフ・ガルネリが製作したヴァイオリンに入った割れ痕を赤線で書き込んでみました。

このように、ストラディバリウスや ガルネリ・デル・ジェスであっても響胴が 逆反り変形した場合には、最終的に‥ 例外なく裏板にひび割れが入ります。

現代では 弦楽器の不調や割れなどの破損を、板厚の不足や ”乾燥”などの影響と思う方が増えてしまいましたが‥ 破損のメカニズムを考えれば 実際に何が起こったかが判断することは 十分可能ではないでしょうか。

Aegidius Klotz ( 1733-1805 )  Violin,  Mittenwald  1790年頃

私は これらの不都合は、製作時やその後の”修復”により 板厚、ブロック、ネック、ヘッドなどの 応力バランス が合っていない状態が根本的な原因となっていると思っています。

なお、バランスが調和していない響胴にみられる変形の進行速度は、かなり早い段階‥ たとえば 弦を張ってから数時間後から 数日で、初期症状として レスポンスの遅さや 響きの劣化などから 推測出来ます。

また、変形が緩慢に進行している場合は F字孔に段差が発生しやすいので、私は その確認をおすすめしています。

Cello 1930年頃

   Cello 1930年頃

一般論として言えば、現在 製作されているチェロの表板厚などは 破損を心配して厚くされています。

持ったときに重たいと感じる・・ そのタイプは、多少なりとも演奏技術がある方が鳴らすと、早ければ半年ほどで 表板と側板、あるいは裏板と側板の貼り口や サドル接着部などが剝れてきます。

これは、過剰に厚くされた表板などの動きが悪く、その代りとして 部材どうしの接着部が動いてしまうからと考えられます。

表板変形による魂柱割れ ( サウンドポスト・クラック ) の例

最悪の場合ですが サドル割れが入る弦楽器は、バスバーのボトム側が「つり合いの破れ」を起こし陥没しやすく、その陥没部と対をなすゾーン ( バスバーの反対側 ) ・・・ 特に魂柱年輪に沿った軸に負担がかかり、駒の下を通る魂柱割れ ( Sound post crack ) に至ります。

非常に希な事例ですが、このヴァイオリンのように 響胴にそのような変形ストレスで小さな割れが複数箇所あり、接着部もあちらこちらで剥がれた状態で使用され、その上で 落下事故にあってしまったら 真っ二つになることさえあります。

これは、複数のひび割れが繋がった時の 最終段階としての見本のようなものだと 私は思っています。

ともあれ、”サドル割れ ( Saddle Crack )” が入った場合、表板の変形を 応力バランスを設定しなおすことで、解決することが大切であるということは 納得していただけたと思います。

 

 

2022-1-13      Joseph Naomi Yokota

比率で言えば、チェロの表板はヴァイオリンより薄くされています。

響胴が歪むことがあるのを念頭において オールド・チェロの表板 板厚を測ると、不思議に思えるほど薄く作られていることがわかります。

そこで その薄さを理解するために、チェロ表板の重さをいくつか並べてみます。

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )
Cello, “Teschenmache”  Milan 1757年

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )
Cello, “Teschenmacher”  Milan,  1757年

Front 717.0 – 339.3 – 247.1 – 420.9
Back 712.2 – 332.7 – 237 – 419
Stop 391.1mm
総重量 2584g

表板の重さ 319g ( アーチ 28.4mm )
裏板の重さ 464g ( アーチ 36.4mm )

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )
Cello,  “Ngeringa”  Piacenza,  1744年

Front 716.8 – 338.8 – 231.2 – 425.9
Back 716.6 – 340 – 228.7 – 423.3
Stop 391.0mm
総重量 2456g

表板の重さ 387g  ( アーチ 25.4mm )
裏板の重さ 482g  ( アーチ 30.9mm )

Giovanni Battista Guadagnini ( 1711-1786 )
Cello,   “Ngeringa”  Piacenza  1744年

例示した ガダニーニに限らず、 オールド・チェロの表板は 本当に薄く軽やかです。ですから、新作チェロでも オールド・チェロを参考にして製作されていれば当然そうなります。

たとえば 2015年に 私が製作したチェロの表板は 396g でした。


Joseph Naomi Yokota ( 1960 –  )   Cello,  2015年

Front  745.5 – 347.0 – 243.0 – 449.0
Back  741.0 – 356.5 – 239.5 – 448.0
Stop  404.0mm
総重量 2389.2g

表板の重さ 396g  ( アーチ 28.7mm )
裏板の重さ 548g  ( アーチ31.8mm )

しかし、 2014年のドイツ製で 響きが悪くなり ひび割れも入ってしまったので、2017年に 私が 割れの修理と バスバー交換をしたサドル・クラック対策がされたチェロの 表板重量は 535g でした。

Rainer Leonhardt     Cello,  Mittenwald   2014年


Rainer Leonhardt    Cello,  Mittenwald   2014年

因みに、これを製作した Rainer Leonhardt の 父親である Wilfried Leonhardt が 1995年に製作した表板の重量は 487g でした。

ですから、息子である Rainer Leonhardt の チェロ表板は、父親のものより 表板重量が 10パーセント増しとなっている訳です。

(左)  Wilfried Leonhardt   Cello,  Mittenwald  1995年  (  Front 752 – 347 – 239 – 434 )   487g  

(中)  Harald Bächle   Cello,  Hausen  1998年  ( Front 755 – 348 – 239 – 439 )   490g  

(右)  Rainer Leonhardt   Cello,  Mittenwald  2014年  ( Front  760 – 345 – 243 – 440 )   535g 

それからドイツ製チェロの参考例としてもう一台くわえると、エルランゲンの北方の街 Hausenで Harald Bächle が 1998年に製作したチェロの表板重量は 490g でした。

このように製作年代を縦断して比較すると、現在 製作されているチェロの表板厚は 破損を心配して増やされていて・・ 過剰気味であると考えることが出来ます。

Joseph Naomi Yokota ( 1960 –  )   Cello,  2022年

Joseph Naomi Yokota ( 1960 –  )   Cello,  2022年

ただし それについては、チェロを製作した経験がある方なら 少なからず共感は出来るはずです。例えば・・ 私が いま製作しているチェロ表板 ( 仮アーチ厚さ 40.0mm ) は、約2240g です。

まだ 外側を成形する工程なので 内側は平面なのですから 重たいのは当然なのですが、これを今から 380g 程になるまで 削っていきます。

まるで、高級日本酒である 純米大吟醸の『 精米歩合 ( 磨かれた酒造用白米と原料玄米の重量割合 ) 』 のようですね。

つまり 精米歩合17% と同様に、380g にするということは 83% ( 1860g ) の高級なヨーロピアン・スプルース材を タップリ時間をかけて削りながら捨てるわけです。

因みに、表板より高価な楓材の裏板は 現在、アーチ35.1mm 重量 約4000gで、完成時の目標値は 570g です。

チェロの表板や 裏板を薄くするのは、パフリングを象嵌してから外側アーチ部を完全に削り終わったあと 内側部の削り込みをする段階ですが、いつも 胃が痛くなるような作業となります。

つまり、薄くて軽い表板は それなりの確信がある製作者でなければ作れないのです。

弦楽器製作者にとって、ヤーガー・チェロ弦セット 57.0kg 、ラーセン・マグナコアーセット 60.4kg などの張力が通年どころか・・ 数十年間のあいだ 響胴にかかり続けたとしても、破損して使用不能になることは なんとしても避けたいというのが当然の心理です。

ですから、そう思って古い楽器を考察したときに オールド弦楽器の割れた痕跡は 製作者の恐怖心を増大させます。

では ここで その実例として、ストラディバリウスを見てください。

Antonio Stradivari (ca.1644-1737 )  Violoncello                        “Stauffer – ex Cristiani”   1700年

この有名なチェロは CTスキャンした画像があるので 表板の割れが一目瞭然で確認できます。 Antonio Stradivari (ca.1644-1737 )  Violoncello                        “Stauffer – ex Cristiani”   1700年

CTスキャン画像で見える この修理痕跡だけでも、弦楽器製作者にとっては なかなか恐ろしいものです。

なお、見やすいように 割れを赤線にして全体の破損状況と照らし合わせてみると、バスバーに沿った年輪の割れの様子などから、やはり この表板も平らに変形したことにより これらの破損が生じたと判断できます。

【  平らに変形したコントラバス表板の紙モデル 】

ところで、古の弦楽器製作者が このように薄くて軽い表板を採用できた、その『 勝算 』はどこにあったのでしょうか。

私は、弦楽器の立体的構造は ゴシックやロマネスクなどの教会建築でよく見られる 交差ヴォールトに、理解する糸口があると思っています。

この投稿の主題ですが、ドーム状で 開断面であるF字孔が対となっているヴァイオリンなどの表板は、交差ヴォールトで支えられたドーム建築のように、応力が掛かっても基礎部( 響胴のホリゾンタル面 ) と連なることで安定が守られるようになっていると考えられます。

もっと正確に言うと、ヴァイオリンや チェロの表板に 私は ・・ 薄くて軽い表板が壊れないために、駒が置かれる最上階部がドーム状となっている 多層構造のペンデンティブドーム としてのイメージを重ねています。

Nicola Gagliano ( 1675-1763 )   Violin,   Napoli   1737年

Nicola Gagliano ( 1675-1763 )   Violin,   Napoli   1737年

Old Italian Cello,  ca.1680 – 1700  ( F 734-348-230-432 B 735-349-225-430 stop 403 ff 100 )

Hendrik Jacobs (1639-1704)    Violin,  Amsterdam  1690年頃

Tommaso Carcassi ( Worked 1747-1789 ),  Firenze  1786年

そして、ペンデンティブドーム状の構造¹ に加えて、不連続曲面 によって強化² された表板は、弦の張力が 交差ヴォールト ( リブ・ヴォールト )³ のように、対角的なアーチであるリブの位置に誘導されて膨らみが支えられ、それに守られた表板のF字孔周りと、そのほかの最薄ゾーンが “腹”として あの豊かな響きを生み出していると思っています。

ですから、
① オールド・ヴァイオリンなどの 立体的形状をなす不連続曲面の組み合わせ。

② リブ・ヴォールトのように 対角的な位置に アーチ的な軸組を “節” として機能させる。この軸組上には弦の張力により幾何剛性がはたらく。

の ふたつが、”薄くて軽い表板”を 上質な振動板として働かせる重要な条件で、古の弦楽器製作者の『 勝算 』はそこにあったと推測しています。

Ksh Holm,  Cello  /  DENMARK, Copenhagen  1791年

Ksh Holm,  Cello  /  DENMARK, Copenhagen  1791年

Ksh Holm,  Cello  /  DENMARK, Copenhagen  1791年

なお、オールド弦楽器の立体的形状( 不連続曲面 )は、水平方向から光をあてて写真を撮影すれば 割と簡単に確認できます。

Andrea Guarneri ( 1626-1698 )   Violin,  Cremona   1658年

Andrea Guarneri ( 1626-1698 )   Violin,  Cremona   1658年

Hendrik Jacobs (1639-1704)    Violin,  Amsterdam   1690年頃

Andrea Guarneri ( 1626-1698  )   Violin,  Cremona  1686年

Carlo Antonio Testore ( 1693-1765 )    Violin,  Milan  1740年頃

最後に、弦楽器の表板が『なぜ薄いのか?』いう点について考えてみたいと思います。

まず、弦楽器の弦は “緩む” ことで波のような “運動”が可能となり、それが進行波、そして反射波となり振動を形成することを念頭に置いてください。

弦楽器の表板などの共鳴部も これと同じように “緩む”ことで “腹”の役割が可能になります。

つまり、どちらの場合も まったく緩まなかったら “腹”として機能出来ないという事です。

このように振動するのに “緩む”ことが重要であるとすれば、板状より膜状のものが より緩みやすい訳ですから、弦楽器の響胴は 膜鳴型が その源流にあったのではないかと推測できます。

現代では‥ 少数派となった膜鳴型の弦楽器は、長い歴史の末に 今でも 民族楽器としてチベット地方、バルカン半島地域、北欧、エチオピアなどの北東アフリカ地域、そしてアジア地域などで 製作され 演奏に用いられています。

” African Lyre ”

“Sgra-Snyan ( ダムニェン )”   Tibetan lute,   全長 752mm

しかし、このように伝承されたとは言え、これら膜鳴弦楽器には 限られた音楽にしか適応できないという弱点があります。

汎用性の低さは複数の要素によりますが、演奏を続けると 駒が立つ革部がのびてしまい歪みとなり、響きも失われてしまうという‥ 弦楽器としては致命的ともいえる特性も その原因のひとつとなっています。

この「対策」は 革を張り直すか、下写真の グスレ ( Gusle )のように 響き方をチェックして 駒を立てる位置や 角度を工夫するなどの方法しかありません。

これは、私が 駒の移動調整に気づくきっかけとなった写真です。
なめし革についた駒の痕跡と、縁部の弦端をつまんで移動した痕から演奏者の努力が想像できます。

それから、私は 膜鳴響胴の特質を ティンパニーの革張り替えとバランス調整 ( 18:05 位置 ) をしている この動画で理解することをお勧めしています。きっと、振動膜のバランスの意味についての 気づきがあると思います。

このような検証によって、私は 膜鳴弦楽器の弱点を解決しようとする試みの中からその発展型として「 針葉樹を薄い板状の振動板とした弦楽器」が 製作されるようになったと考えるようになりました。

その “大転換”は、 敦煌郊外にある 4世紀半ばから穿ち始められた 莫高窟 ( ばっこうくつ ) 壁画に琵琶などがいくつも描かれていることなどから考えると、少なくとも 3世紀以前であったと推測できます。

そして、これら壁画のモデルとされた琵琶などが存在したことにより、8世紀頃に 5弦琵琶の完成型と言える 東大寺正倉院の宝物「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」が製作されるに至ったと考えられます。

螺鈿紫檀五弦琵琶   700年 ~ 750年頃 ( 全長108.1cm、最大幅30.9cm )

螺鈿紫檀五弦琵琶が渡来した経緯は 不明のようですが、私は 奈良時代 ( 710年-794年 )に 多治比広成 ( たじひ の ひろなり :  大使 ) と、中臣名代 ( なかとみ の なしろ :  副使 ) が遣唐使として派遣された際に奈良にもたらされたと考えています。

そのころ 唐は 玄宗皇帝の治世‥ 後に「 開元の治」と呼ばれる繁栄の時代で、都の長安は空前の賑わいを見せ 文化は爛熟期を迎えていたそうです。

唐朝最大領域 660年頃
玄宗皇帝 ( 685-762 在位712年~756年 )「 開元の治 713-741 」

遣唐使出発 : 733年 (天平5年) 難波津を4隻で出港し、734年4月に唐朝( 618年-907年 ) の都 長安で 玄宗皇帝の謁見を受けます。
帰路 : 734年10月 4隻とも出港し、735年 多治比広成 ( たじひ の ひろなり) は平城京に帰着しました。

また、一緒に出港しながらも 難破して735年3月に長安に戻った 中臣名代 ( なかとみ の なしろ ) は、唐の援助を受け船を修復し 735年11月に再び出港して 736年8月 奈良に戻ります。

この時、聖武天皇( 701年-756年、在位 724年-749年 )による謁見に同行した「唐人三人、波斯人一人」のうち 唐楽の演奏家として知られていた 皇甫東朝 ( こうほ とうちょう )と、楽人とも 技術の伝授に当たった工匠ではないかとも言われている 波斯人 ( ペルシャ人 ) の 李密翳 (り みつえい ) は その後 位を授かり貴族となりました。

東大寺正倉院は 聖武太上天皇の七七忌 ( 756年6月21日 ) の際に、光明皇太后が 天皇遺愛の品 約650点などを東大寺の廬舎那仏に奉献したのが始まりで、その後も3度にわたって皇太后自身や 聖武天皇ゆかりの品が奉献されたことにより、その保管のために建設されたそうです。

この「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」の特質は 、膜鳴弦楽器と違い 振動部である表板が 針葉樹の薄板なので ”ねじり”で素速く“緩む” 状態を生じさせるために 徹底した非対称としてあるところだと思います。

例えば A部とB部 の差も そうですし、 ナットにあたる「乗絃」から上の揺れかたを左右する C部とD部 の角度の選び方も確信に満ちていると思われます。

この琵琶は、頸 ( けい = Neck ) から絃蔵を経て修復部も含めた海老尾までの全てが紫檀で作られており、裏板にあたる槽 ( そう ) も「直甲」といわれる一木の紫檀材だそうです。

また、表板である腹板 ( ふくばん )は ヤチダモ またはシオジ材が用いられ 非対称の「三枚接ぎ」で製作されています。そして、このような 非対称性は 螺鈿の形状や配置などにも 見ることができます。

その上、あたかも念を入れるように‥ 紫檀材で製作された 転手 ( 絃巻き = ペグ ) の配置も 海老尾の方から 左( P3 )・左( P4 )・右( P2 )・左( P5 )・右( P1 )の順で 強い非対称設定とされています。

そして 特記すべきことは、ルネサンス期の高度な弦楽器製作技術の略すべてが、8世紀前半に製作されたと考えられる この「 螺鈿紫檀五弦琵琶 」にも確認できるという事です。

●「螺鈿紫檀五弦琵琶」の “工具痕跡” が 意味することについて

“Cittern”   Petrus Rautta,  England  1579年

ともあれ、膜鳴型に始まる弦楽器においての これらの潮流から、ヴァイオリンや チェロが誕生したのは間違いない事実のようです。

このことを念頭に置き、この投稿のタイトルとした『 比率で言えば、チェロの表板はヴァイオリンより薄くされている。』について考えてみると、チェロという弦楽器が音域特性の上で ヴァイオリンよりも “緩む”ことが重要だったから・・・ と結論付けることができるようです。

以上、長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

2022-1-15      Joseph Naomi Yokota

新型コロナ禍の中ですので 注意を払ったうえで演奏会は開催されています。

新型コロナの影響で 2020年8月15日から一年後である今度の日曜日に延期されていた麻布学園OB+オーケストラ特別演奏会 2020→2021 は、何とか開演できることになりました。

このご時世では‥ 合唱付きということでハードルが高い ベートーヴェン交響曲第九番ですから、対策も難しく 直前までほんとうに開催できるのか危ぶまれていました。

本当に良かったと思います。

長女は今回は、麻布学園オーケストラOB家族会員としてビオラでのるそうです。

それから、9月3日(金曜日)には 四重奏で ハイドンとモーツァルトを演奏するのが決まっています。

なお、チケットは予約制ですので よろしくお願いいたします。

 

演奏会のご案内

来週の日曜日に娘達が、1941年1月15日にドイツ軍捕虜収容所 第27兵舎で 作曲者メシアン(1908-1992)らによって初演された「世の終わりのための四重奏曲」を演奏します。
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● 2020年12月27日(日曜日) 19:00開演
豊洲シビックセンターホール ( 東京都江東区豊洲2-2-18 )
全席自由 ¥3,000
18:30開場 https://www.angemusique.com/blank                                          よろしくお願いいたします。

” アートにエールを!” 東京プロジェクト

 “Ale for art!”  Tokyo project  /  September 10, 2020

私の娘も 昨日 エントリーしました。

0:03 シューベルトの子守歌

https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=3

1:24 ねんねんころりよ
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=84

2:12 五木の子守唄
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=132

2:54 Suo GAN ウェールズの民謡
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=175

4:58 コサックの子守歌
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=297

6:20 ゆりかごの歌
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=383

7:08 プロコフィエフ作曲 ヴァイオリン協奏曲第一番第一楽章より
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=428

7:53 シューマン作曲 トロイメライ
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=472

10:00 Hush,Little Baby
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=600

10:32 HeidschiBumbeidschi ハイジ ブンバイジ チロル州の民謡
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=632

11:28 Dobru noc おやすみ スロバキアの民謡
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=688

12:17 Rock-a-Bye Baby マザーグースより
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=737

12:58 ブラームスの子守歌
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=778

13:40 夢は窓辺を過ぎて ウクライナの民謡
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=818

15:03 ストラヴィンスキー作曲 組曲『火の鳥』1945年版より子守歌
https://youtu.be/3oNzQ0wystE?t=901

また このプロジェクトには、甥っ子のミュージカル俳優 神田恭兵 君達も参加しています。

よろしくお願いいたします。

 

 

2020 – 9 – 11  Joseph Naomi Yokota

 

アンサンブル・クラスの ご案内

初めて楽器を持ってから3年くらい。

音の鳴らし方も知らなかった頃と比べると教則本も2巻、3巻と進みレパートリーも増えてきた。ポジション移動、ビブラートといった技巧も一通りやってみた。ちょっと自信もついてくるけれど、まだまだピンとこない部分も沢山ある。でも、そろそろ憧れだったアンサンブルも参加していいのかな?と市民アンサンブルを調べてみたりして。

気にはなるけれど、合奏初心者の自分が入って上手くやっていけるかしら?と一歩踏み出す勇気が持てずにいる、そんな方。

趣味と思って習いはじめて、もう20年以上になる。

学生オケに参加して以来すっかりオーケストラの魅力の虜となり、今もアマオケで年2回の演奏会に向けて毎週稽古場に通う日々。たまにオケ仲間とカルテットを組むのも楽しいもの。

室内楽にはオーケストラとはまた違った喜びがあるけれど、誤魔化しの効かない難しさもあるなぁ。レッスンも受けてみたい気もするけれど、全員の日程を合わせて先生に打診をしてとなると意外と面倒かも...と思っているベテランさんも。

プロの演奏家と一緒に演奏する
アンサンブル教室

QSEミュージックアカデミーは音楽が好き、人生で1度はアンサンブルを組みたいと思っている、そんな大人向けのアンサンブル教室です。
一番の特徴は講師と一緒に演奏できること。講師が後ろでチェックしていてコメントを出す形式ではなく、全パートにメンバーとして配属されます。楽譜に書いてあることを忠実に実行するだけではなく、お互いの聴きあいと生徒さんの意見を大切にして〈それらを音楽として纏めるにはどうしたらよいのか〉を目の前で講師陣がやって見せることが肝心だと思っています。
プロの演奏の音を間近で聴きながら充実した経験を重ね、対等な立場で意見を交換して皆で一緒に成長しましょう!
メインである弦楽合奏の他に、希望される生徒さんには講師を交えた四重奏等のレッスンにも対応しており、現役の演奏家による生きたノウハウを学ぶことが可能です。
QSEミュージックアカデミーはアンサンブルの楽しさを一人一人が実感できる場所を目指しています!

 

【募集要項】

•オーディション等はありません、まずは無料体験にお越しください。見学も可能です。
•楽器を習い始め、合奏にチャレンジしてみたい方、楽器経験がありブランクがある方もお気軽にご参加ください。
•練習日時は、毎月1回、日曜日10時〜13時で行います。
•練習では、プロ講師が必ず一緒に演奏するので、安心して演奏に参加することができます。

参加資格

•弦楽アンサンブルで演奏してみたい方
•楽器を持っている方
(楽器の相談も承ります)
•楽器経験がある方※初心者は要相談

応募パート

•バイオリン
•ビオラ
•チェロ
•ピアノ

練習場所

•巣鴨のレンタルスタジオ
(スタジオフォー)アクセスはこちら

練習日程

•毎月1回、日曜日10時〜13時

参加費

•初回 入会費(年会費)5,000円、継続年会費1,000円
•練習毎5,000円(スタジオ代、楽譜代込み)
•コンサート代目安15,000円 ※参加自由

その他

•コンサートは年2回、夏、冬で1回ずつ実施する予定
(参加自由)

楽しいのは勿論、音楽で一番大事にしなければならない音作り、
基礎の技術や正しい音楽性、様々な点で上達できる事間違いなし!
まずは無料体験に是非お越しください。

以下のバナーから、アンサンブル公式ホームページにリンクできます。

“比率”に関する歴史考察

●  エーゲ海 ・ キクラデス諸島の “偶然”について

ヘレニズム時代( 紀元前323年頃紀元前30年 )に製作された大理石彫像のなかで、もっとも有名な有名な『 ミロのヴィーナス 』や『 サモトラケの ニケ 』は、エーゲ海にある キクラデス諸島の パロス島で切り出された大理石を削って製作されたそうです。

キクラデス諸島は、ギリシャ神話のアポロンとアルテミスの生地と伝えられ「神聖な島」とされたデロス島と、その周りに島々が並んでいることから 「キクラデス ( 囲んでいる )」と呼ばれています。

このキクラデス諸島で 大理石材が彫像に用いられるようになったのは”偶然”とは言えないのかもしれません。それは、この地域の複雑な地質構造によってもたらされた結果‥ という捉えかたが出来るからです。

エーゲ海や その周辺の 複雑な地質構造をイメージするには、 ペロポネソス半島のコリントス地峡に開削された運河の掘削崖を見ることが 最も簡単な方法です。

この コリントス運河では、上図のように 急傾斜した正断層が狭い間隔で何本もならんでいる状況を知ることができます。

そして、キクラデス諸島には このコリントス運河の掘削崖より 複雑な地質構造をした島がいくつもあります。

キクラデス諸島の地質図

このことにより、 キクラデス諸島には 大理石を採掘できるパロス島をはじめ、ナクソス島には コランダムエメリー鉱山があり、ミロス島では 古くから黒曜石が採掘され、そして仕上げ研磨材としての軽石が採れるテラ島 ( サントリーニ島 ) まであるのです。

Emery was also probably used as a drill, as an engraving tool or as a surface polisher. Emery powder was very effective as an abrasive for the initial working of the marble.

Theran pumice soaked in water is an excellent material for the final polishing of the surface, and the same is true for sand mixed with water.

Modern marble quarry on Naxos

Marble from the Isle of Paros in Ancient Greece

   Marathi,  Ancient Marble Quarry

パロス島や ナクソス島で採掘される大理石は 変成岩 ( 火成岩や堆積岩などの地層が地殻変動による熱や圧力を受けて再結晶化し、変化したもの。) に分類され、モース硬度は3~4であるとされています。

モース硬度とは 1822年に、ドイツの鉱物学者 フリードリッヒ・モースが「 二種類の石をこすり合わせて、どちらに傷がつくかで硬さを判断する」とした硬さの基準で、もっとも硬い石を 硬度10 とし、もっとも柔らかいものを 硬度 1という数値であらわします。

現在、地球上でもっとも硬い鉱物は モース硬度10 であるダイヤモンドで、最もやわらかい鉱物は 硬度1 の滑石であるとされており、参考までにあげれば 人間の爪の場合は 2.5ほどの硬度になるそうです。

なお モース硬度の「 硬さ 」は、割れにくい硬さ(靭性)ではなく「 引っかいた時の傷の付きにくさ 」を示すものなので、例えば 地球上にある天然物の中で最も硬いとされる ダイヤモンドでもハンマーで叩くと砕けます。大理石も同じように砕くことは可能ですが、そこは「 岩石 」である訳ですから 削るのは容易ではありません。

そこで、モース硬度が3~4の大理石にキズをつけたり削ったりするのに用いられたのが、旧石器時代から よく知られていた モース硬度5の 黒曜石 ( オブシディアン  /  Obsidian ) です。

ミノア文明の都市である クレタ島のイラクリオンで発見された、ミロス島から 紀元前3000〜2300頃に輸入され 使用された黒曜石製石器

そして‥ モース硬度に着目すると、パロス島と 狭い海峡をはさんで 8kmほどの距離で隣り合っているナクソス島に コランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery ) の鉱山があることが 驚きをもたらすと思います。

これらの鉱石は、大理石彫刻において”最高の働き手” として重要なのですが、それらも含めて必要なものが 同じ地域で入手できるというすばらしい “偶然”が キクラデス諸島には あったからです。

Emery Mine   /  Naxos island Emery Mine   /  Naxos island

因みに‥  近年ですが、ギリシャ地質学会は ナクソス島で採掘されたとされているコランダム ( Corundum ) や、エメリー ( Emery )のなかに、サモス島で採掘された “Samian Emery” が 一定量 含まれている可能性があるとして、その検証を提言しています。

Emery deposit of Samos (  “Samian emery”  /  Geological Society of Greece )

しかし、同じエーゲ海で、ナクソス島から北東方向 100km 程に位置する サモス島も 古代の交易圏でしたので、キクラデス文明に寄与したという点での違いは ほとんど無いと思われます。

コランダム は比重が 4.0 で、酸化アルミニウム の結晶からなる鉱物です。そして 純粋な結晶は無色透明ですが、結晶に組みこまれる不純物イオンにより色がわかれるために 天然コランダム鉱石は 宝石として加工され、ほとんど同じ鉱物ですが ルビー、サファイアなどと呼び分けられています。

このように色彩的に多くのバリエーションを持つコランダム鉱石ですが、特記すべきは モース硬度が ” 9 “であることです。

つまり、この鉱石は ダイヤモンドについで高い硬度のため「 他のほとんどの鉱物 」を削り取ることが出来るのです。

また、エメリー鉱石は 比重が 3.75 ~ 4.31 の 鉄に近い質感の鉱石で、 コランダムに 磁鉄鉱、赤鉄鉱、スピネルなどの不純物が含まれたものです。このため エメリー鉱石も 極めて硬く ( モース硬度が 7~9 ) 、石器として使用されただけでなく 砂状や粉末状にして研磨材としても 重用されました。

Emery of Samos ( Geological Society of Greece )

なお、日本では エメリーや、柘榴石 ( ガーネット  /  モース硬度 6.5~7.5 ) を粉末にした研磨材をどちらも「金剛砂」と呼んで使用していました。

 

ともあれ、ヘレニズム時代 ( 紀元前323年頃~紀元前30年 ) に キクラデス諸島において『 ミロのヴィーナス 』や、『 サモトラケの ニケ 』が製作されたということは、人間の営みを考えるときにとても興味深い事実だと思います。

そこで その源流を探ると、ヘレニズム時代より 更に 2800年程遡った時期に 黒曜石や コランダム鉱石、エメリーなどを用いて大理石を削って『 偶像 』が制作されていた‥ という事実にたどり着きます。

これらは総称して『 キクラデス文明 』( 紀元前3200年~紀元前2300年頃 ) と呼ばれています。

“Cycladic Idol”  from Amorgos,  ca.2700B.C.~2300 B.C.
Marble, High150cm ( Largest known example of cycladic sculpture ).  National Archaeological MuseumAthens .

この文明では キクラデス諸島の島々で出土した数多くの『 キクラデス偶像 ( Cycladic Idol ) 』が その象徴としての役割を果たしています。

In 14 December 2010,  a marble female figure dated to circa 2400 B.C. and attributed to “The Schuster Master” was sold in New York ( Christie’s ) for $16,882,500 (  ¥1,410,701,700  ) , a world record for a Cycladic figure at auction.   High 29.2cm.

たとえば、高さが 30cm程である このキクラデス偶像は、2010年に開催されたクリスティーズのオークションにおいて、日本円換算で 14億1千万円で落札されており‥  私は、それを 本当に意味深いことであると思っています。

大理石偶像 ( Cycladic Idol ) の製作実験

ところで‥ このようなキクラデス偶像ですが、 肝心な事柄である『 なぜ製作されたのか?』が判明していません。このため現在でも、その出土状況なども含めて研究が続けられています。

なお、発掘された場所に関してですが、たとえば キクラデス偶像を分類するための名称のひとつが ナクソス島の埋葬遺跡である “Spedos” に因んだ “スペドス型” であるように、おもに墓地の遺跡から出土しているようですが、現在も発掘が行われているテラ島 ( サントリーニ島 ) のアクロティリ遺跡のように、火山灰などに埋まってしまった街区から 発掘されたという事例もあります。

The ancient buried city of Akrotiri, Thira ( Santorini ).

アクロティリ遺跡は 紀元前1628年頃の大噴火 ( ミノア噴火 ) によって埋もれてしまった街です。

このアクロティリ遺跡の発掘現場で、近年のことですが‥ 火山灰に埋まっていたキクラデス偶像が掘り出された時の様子をご覧ください。

現在の “Akrotiri Museum ( アクロティリ遺跡 )” は屋根が設けられ、遺跡の間にある通路を移動しながら見学できるようになっています。

この時の調査対象は、中央部にある箱状遺物の内部で、調査のはじめに箱のフタ部分が取り除かれました。

この箱状遺物の中には、火山灰に埋もれるように また箱が入っていました。

そして、慎重に内箱の中の火山灰を吹き飛ばしていくと、土砂の中から キクラデス偶像の頭部が見えてきました。

その後の発掘作業によって、埋まっていたキクラデス偶像の全容が確認できるまでになりました。

この箱状遺物の調査は ここまでで、今後の発掘方針が決まるまで 一旦 そのままで保存することが決定されました。

盗掘されるなど 様々な事情により、キクラデス偶像は出土状況が不明な場合が多い‥ という中で、この アクロティリ遺跡での出土事例は、『 キクラデス文明 』を解明するための重要な記録となったそうです。

因みに 下写真は 上記調査の後ですが、アクロティリ遺跡の近くのエリアで、同じように二重になった箱状遺物のなかから 別のタイプのキクラデス偶像が発掘された時のものです。

このように 箱状遺物からの出土事例が 複数あるという状況を、 私も興味深く感じています。

“Box situation”   :   The statuette was found in a clay box placed Russian-doll-style within another, It is the second statuette of its kind revealed boxed up at the site. Aegean city of Akrotiri.

現在までの研究で判明しているのは、キクラデス偶像は かなりの数量が出土していて、そのタイプは 紀元前2700年頃を境として 前の500年間後の400年間に 分けることが出来るということです。

それが、グロッタペロス ( 初期キクラデスⅠ   紀元前3200年~2700年頃 ) とケロスシロス ( 初期キクラデスⅡ  紀元前2700年~2300年頃 )です。

これらの分類名も、偶像が出土した重要な埋葬地から付けられています。なお、残念なことに、キクラデス初期の居住地は 地震や火山の噴火のために ほとんど発見されていません。また、キクラデス偶像のほとんどは これらの期間だけで製作されたようです。

キクラデス偶像は おもに女性をモチーフとしており、表現手法としては 石の単純な加工により偶像としてのイメージを付与したものから、人体をリアルに表現したものまでありバリエーションが豊富でした。

また 科学的分析によると、大理石の表面は鉱物ベースの顔料( 青の場合はアズライト、赤の場合は辰砂 )で着色されていたようです。

さて‥ 長文となりますが、ここで このような遺物が 『 現在でも “重要”とされている 』本質的な要素について 触れておきたいと思います。

ヨーロッパを中心とした西洋の思想史を “ヘブライズム”と “ヘレニズム” とに整理し、この ふたつの思想が作り上げたのが 現在のヨーロッパ世界であるという考え方があります。

“ヘブライズム”と “ヘレニズム” はともに「人間の完成、あるいは救済」を究極目標としている点では共通していますが、その立ち位置はまったく異なっています。

ヘブライズム ( Hebraism )

西洋の精神史をかたちづくる伝統的思想で、約言すれば『 聖書 』に発する世界観であり、ひいてはキリスト教の世界観を意味しています。

これは、神との一致において 知よりも実践を重んじ、深刻な罪の意識をもち、自己克服によって平安を求める努力をする‥ “神への立ち返り” である『 回心 』を特徴とし、人が “一神教” の立ち位置で森羅万象と向き合い、神への感謝の内に生涯をいきることを理想としています。

その導き手となる『 旧約聖書 』は長い期間 ユダヤ人社会のなかで受け継がれてきましたが、口頭伝承以外は禁止されていたために ユダヤ教においては 『 旧約聖書 』を 「タナハ」=「聖書 」と呼ぶほかに「ミクラー」( Miqra )=「朗誦するもの」とも呼ばれているそうです。その口頭伝承が文字にされ、最終的にはヘブライ語( 一部にアラム語を含んでいます。 )の 聖典として、ユダヤ人はもとより異邦の民にも伝えられました。

このような伝承方法が採られたために『 旧約聖書 』が、いつ頃成立したのかなどの推測は ほぼ不可能なようです。まあ‥ そもそも、冒頭の『 創世記 』からはじまる モーセ五書などは 時代特定には 馴染みませんし、その必要性が全くないのは 皆さんがご存じのとおりだと思います。

しかし、その後に続く『 ヨシュア記 』や『 士師記 』からは、その記述に 具体的な事件がふえていき、”最後の士師”である サムエルのところから『 サムエル記 』に移りながら、イスラエル部族連合体が王制国家に移行した顛末が記されています。

このサムエルが サウルをユダ王国の初代国王に指名し、そのサウルが統一王国完成の途上で戦死したので、ダビデがユダ王国の第二代国王に就き、その後に領域を広げ エルサレムを王都と定めてイスラエル王国 ( イスラエル・ユダ連合王国 ) の礎を築いたとされています。

「イスラエル」とは ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが “神から与えられた名前” に因んでいますが、このイスラエル王国の建国あたりから 現在の歴史認識と符合する内容が多くなりますので ある程度の年代特定はできるようになります。

Graphical overview of Jerusalem’s historical periods

これによって、キリスト教がヨーロッパ世界に据えられるまでを見てみましょう。

現在でも諸説ありますが‥ まず はじめに、ユダ王国が建国されたのは 紀元前1021年頃と推測できます。そして、何度かの遷都のあとで エルサレムを王都として 紀元前1003年頃 にイスラエル王国 ( イスラエル・ユダ連合王国 ) は 成立したと考えられます。

盛期ルネサンスに影響を与えた ヘレニズム時代の彫像について

『 サモトラケの ニケ 』製作年  :  紀元前200年~紀元前190年頃   /   パロス島産の大理石   H 244 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ミロのヴィーナス 』製作年 : 紀元前130年~紀元前100年頃  /  大理石 H 203 cm  /  ルーヴル美術館所蔵

『 ラオコーン群像 』製作年  :  紀元前42年から紀元前20年頃とする説など 複数の説があり不明  /  大理石  H 242 cm   /  ピオ・クレメンティーノ美術館 ( バチカン美術館 )

ヘレニズム時代とは、おおよそ アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年から、プトレマイオス王朝エジプトが ローマに併合された紀元前30年までの 300年程の期間を意味します。

●  Pythagoras ( BC.582-BC.496 )
●  Archimedes ( BC. ca.287-BC.212 )

この時代の彫刻の中で『 サモトラケの ニケ 』、『 ミロのヴィーナス 』、『 ラオコーン群像 』はどれも最高傑作とされています。しかし、この中でヴァイオリン製作者に影響を与えられたのは『 ラオコーン群像 』だけです。

■  Andrea Amati ( ca.1505-1577 )
1539年   Established a workshop in Cremona.
■  Antonio Amati ( 1540-1640 ),  Cremona
■  Gasparo di Bertolotti  “Gasparo da Salò”  ( ca.1540- ca.1609 ),   Brescia
■  Girolamo AmatiⅠ( 1561-1630 ),  Cremona
■  Giovanni Paolo Maggini ( 1580- ca.1633 ),  Brescia
■  Nicolò Amati ( 1596-1684 ),  Cremona
■  Jacob Stainer ( 1617-1683 ),  Absam ( Tirol )
■  Andrea Guarneri ( 1626-1698 ),  Cremona
■  Giovanni Grancino ( 1637-1709 ),  Milan
■  Hendrik Jacobs ( 1639-1704 ),  Amsterdam
■  Alessandro Gagliano ( ca.1640–1730 ),  Napoli
■  Giovanni Tononi ( ca.1640-1713 ),  Bologna
■  Giovanni Baptista Rogeri ( ca.1642 – ca.1705 ),  Brescia
■  Antonio Stradivari ( ca.1644-1737 ),  Cremona
■  Francesco Ruggieri ( ca.1645-1698 ),  Cremona
■  Girolamo Amati Ⅱ ( 1649-1740 ),  Cremona

なぜなら『ラオコーン群像』は ヴァイオリン誕生の前夜である 盛期ルネサンスの 1506年に、コロッセオ近くのエスクイリーノの丘 ( ローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの東側 ) にあったブドウ畑から出土したからです。

この発掘に立ち会った ミケランジェロ ( Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1475-1564 ) は、『ラオコーン群像』の表現に強い影響を受けたとされています。また、他の芸術家たちにとっても大きな衝撃であったようで、イタリア・ルネサンス芸術はこの『ラオコーン群像』によって方向が変わったとさえ言われています。

他方である『 ミロのヴィーナス 』と『 サモトラケの ニケ 』は‥この時、 地上には存在していませんでした。『 ミロのヴィーナス 』は、1820年に オスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で 小作農夫 ヨルゴス・ケントロタスによって発見され、『 サモトラケの ニケ 』は 1863年に フランス領事らによる胴体部分の発見があり、それに続いて片翼の断片多数が見つかったことで 歴史に再登場しました。

私はこの事実を 興味深いと考えています。